S.H@IGTのブログ

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大阪府泉佐野市にある、ゲートタワーIGTクリニックの院長のブログ

最近の医療画像技術はすごい。

特にCT検査はなぜにここまで見えるのか不思議でならない。

 

私が医者の仕事を始めたころに日本にCTスキャンが導入された。

初めは頭の検査しか行えず、スキャンに15分以上もかかり検査中に患者さんも医者も寝てしまうほどであった、

しかも画像は悪く、医者は心眼を開かなければならないほど検査の精度は低かった。

 

それから幾星霜、今では見ようと思えば頭のてっぺんから足の先まで見える。

検査時間だって短く、一回息を止めるだけでほとんどの部位が検査できる。

おまけに放射線被ばくはとても低くなった。

画像も真に綺麗で、あまつさえ縦横斜めからだって体を見ることができる。

造影剤を使えば、動脈の3D画像までできる。

 

そんなCTだから乳癌の血管内治療には大層役に立つ。

MRIの検査はもっとすごいことが分かるのだが、検査に時間がかかり、検査費用だってもっとかかる。

そんなわけで私のクリニックでは乳がんの血管内治療にはもっぱらCT検査を使っている。

 

私のクリニックは、マイクロカテーテルと言う細い細い管を乳癌の栄養動脈に入れて、そこから乳癌に抗がん剤を入れる。

病気の部分にだけ抗がん剤を注入するので、その量はわずかでも腫瘍の中にはいっぱい入り込む。

おまけに抗がん剤ががんの組織に留まるように動脈に蓋をする。

そんなわけで抗がん剤の量は少ないしその分副作用も少ない。

 

動脈に蓋をすると聞くと、普通の医者は「そんなことをしたら皮膚まで腐る」と余計な心配をするが、私が開発した球状の塞栓物質(https://ameblo.jp/igtc/entry-12525954481.html)を使えば皮膚の血流は保たれ、怖いことは起こらない。

 

但し、乳癌やリンパ節に血を送っている動脈全てを見つけ出すことができればという条件が付く。

乳癌の支配動脈を探すのに、医者の勘と思い込みに任せるとかなり当たり外れが出る。

この条件と問題をクリアーするにはCT検査、特に血管内治療の最中に血管の3D画像を得ることである。

3D立体画像なので、右左上下から眺めることで、もう誰にだってどの血管が乳癌に血液を送っているのかが分かる。

 

そこから先、血管を傷つけずに如何にマイクロカテーテルを目的の動脈に入れるかは、医者の腕になるので、私共は切磋琢磨を怠らない。

 

どんな薬を入れるかも知恵の出しどころだ。

保険の縛りはあるものの、薬の組み合わせや入れ方で、効きは随分と違う。

一方、ヘンな薬の使い方をすると、患者さんの悩みを増やしかねない。

 

私共の治療では兵糧攻めと呼ばれたりするが、皮膚まで干上がるようなことをすると、患者さんの新たな悩みなんかを作り出すことになる。

 

ことほど左様に一筋縄ではいかない治療だが、もうすることはありませんと言われて、苦しみ続ける乳がんの人がいたら、何とか私共の治療を見つけ出し、藁にもすがってほしい。

 

私共が使っている藁は、マイクロカテーテルと言う細い管で、スルスルと病気の近くまで入り込み、がんをやっつけるだけでなく、何とか昔の生活に戻れるようなおまじないを掛けてくれる。

 

私どもがもう手を出す必要がなくなり、CTスキャンで経過観察だけだが、もう20年間も長く長く外来に来ていただいている人もいる。

 

ある人は毎年、家族全員が映った年賀状をもう15年も送ってくれていて、外来で「もうお孫さんなん人になったん?」って尋ねたりしている。

お互い幸せな気分で一杯になる。

華岡青洲は世界で初めて全身麻酔を試みた医者である。

最初の患者は進行乳癌だったという。

彼の生まれた地は私のクリニックから見える和泉山脈の向こう側にある。

あれからもう220年も経っているのに、今も進行乳癌に悩む人たちは沢山いる。

 

医者の勧める乳癌の治療を受けず、そのうちに進行乳癌になり症状が出始め、何とかならないかと医者に診てもらったら、もう治療法はないと言われ、あまつさえ「ここまで放置したあんたが悪い」と余計なことを言われて途方に暮れている、そんな人は思いのほか多い。

 

標準治療の医者にしてみればそこまで放置したのは「ケシカラン」ことかもしれない。

でも皆それぞれに事情がある。

子育てに追われているのに、何週間、何か月も病院に通い続けれるのか、、、

面倒を見なければならない親がいるのに自分の治療に専念なんかできない、、、、、

他の病気を抱えているのに、、、、、

乳癌と言われて、恐ろしくて足がすくんで動けない、、、、、

治療の説明を受けたら嫌な話ばかり聞かされて、もういいやと投げやりに、、、、、

 

他にも人に言えない理由はたくさんあるだろう、、、、

 

そんな人たちが我々のクリニックに沢山来る。

「藁をもつかむ思いで来ました」、という人も来る。

そう言われて、「そうか、、私は藁だったのか、、、」と思ったりする。

 

藁は英語で言うとストローと言い、今ではプラスチックで作った細い管である。

そういえば私はストローのような細い管を使ってがんの治療をする医者である。

この管をカテーテルと言い、がんを栄養する動脈に入れて、薬やら血の流れを止める粉など注入し、がんを小さくする仕事をしている。

 

動脈に細い管を入れるだけなので、華岡先生の力を借りなくても済む。

がんの部分にだけしか抗がん剤を入れないので、副作用は少しだけで済む。

がんはほとんどの人のがんは小さくなるし、小さくなればいろいろな症状は良くなる。

 

乳癌は普通の組織に比べ血管が豊富なので血管造影では黒い塊として映る。

更に血管造影中にCTをとれば、CT画像ではっきりと正常乳腺と区別できる。

ほとんどの乳癌は何本もの動脈が腫瘍に血液を供給しているので、すべての動脈にカテーテルを入れて治療する。

時々、腕に行く血管から折り返してくる乳腺動脈があり、これを乳腺回旋動脈と呼ぶ。

この動脈を見つけて名前を付けたのは私で、ちょっとした自慢話である。

これらの動脈にストローを入れるのはさほど難しい仕事ではない。

 

がんは小さくても大きくても治療できるのだが、多くの人は最後に私の治療を求めて来るので結構大きくて厄介なことが多い。そこは私の仕事なので、分け隔てなく治療をするようにしている

 

なるべく人の生活を邪魔しない主義なので、入院はほんの数日にしている。

なので直ぐに家に帰って子供たちの世話ができるし、親の面倒だって見れる。

 

切ったり貼ったりする治療ではないので、さほど恐ろしい治療ではない。

 

実は私が行っている治療は他の施設では余り行われていない。

この治療は1975年に大阪の小山博記先生が世界で初めて系統的に実施された。

小山先生はその後、乳癌学会総会の会長までされている高名な乳腺外科医である。

でもいろいろな事情があって今も標準治療として認められていない。

あまつさえ、乳癌の治療ガイドラインでは行うべき治療ではない治療だと烙印を押されている。

 

そんな訳で同業者からはエビデンスがないと、よくお叱りを受けるが、華岡青洲だって世界で初めて全身麻酔を行い、いろいろな手術にこれを使い今に繋がっている。

 

もちろんエビデンスは大切だが、何よりも大切なのは、役に立つと判り人のためになると思う治療は、責任をもって行うことであり、それが医者の使命だと私は思っている。

 

患者さんが藁をもつかむ思いで来られて、私が本当に藁だったら申し訳ない。

藁ではなく救命胴衣をつかんで、一息ついていただきたいと願っている。

 

私のクリニックに治療を求めて来る人が、何とか日常生活をつづけながら、少しでも症状が良くなり、病気に命を奪われないようになればいいな、と願いながら毎日治療を続けている。

 

 

 

小学2年で静岡から大阪に引っ越し、慣れない大阪で言葉に悩んだことを思い出す。

2年の担当の先生から、この子は「変な子、素直な子じゃない」的な通知簿のコメントを戴いた。

少し大阪にも慣れ始めたのか、3年の担当の別所やそじ先生は、通知簿に「潜在能力あるみたい、特徴ある子」的なコメントをつけていただいた。

このコメントで、私はやる気が出て、何とか浜寺昭和小学校5年間を乗り切った気がする。

 

小学校の卒業の日、学年主任だった別所先生から、卒業の訓示があった。

別所先生は、当時南大阪で「はとぶえ」という小学生の作文や詩を掲載する冊子を毎月発行されていた名の知れた教諭であった。

 

訓示の内容は以下の通りである。

『君たちの世代は人数が多くて大変だ』

『何かになりたいなら競争に勝ち抜く必要がある、中学、高校ボッと過ごすな』

『大学は簡単には入れる思うな』

『就職は難しいぞ』

『男の子、結婚適齢期になったら、女の子の方が少ないぞ、心せよ』、

『会社勤めは、人を押し除けることだと思え』

『退職したら老人ホームをすぐ探せ』

『死ぬときには棺桶が不足するので、先に確保せよ』

要は競争社会に生きるべし、の訓話であった。

私は小学校を終えた時点で、人生は大変なんだと理解し、この訓示を頭にしみ込こませた。

 

中学校は一クラス50人で18クラスもあった。

校庭は生徒で溢れ、砂ぼこりがすごかった。

フォークダンスが体育の授業にあった時代で、ほとんどがお目当て女の子の手に触れる前に授業が終わってしまった。

 

高校は550人、上位100人の成績と名前が職員室の壁に張り出された。

私の名がそこに載ることはなく、私より頭のいい奴がいっぱいいる事実をこの目で確認した。

 

高校3年生の時、次のハードルは大学入試だったが、その先にあるのは就職競争だと教えられている。

医者になれば就職競争は少ないかも、と考え大学は医学部を選んだ。

だが、ことは簡単に運ぶはずはなく、案の定、入試に落ち、訓示のあったとおり1年間浪人をした。

 

次の年、受験した徳島大学は競争率11倍であった。

50人ほどの部屋で試験を受けたが、この中で合格は4人かと思うと、人生は競争だけでなく賭けみたいなもんだと、悟りを開いたりした。

 

大学1年の時、別所先生の訓示を思い出し、入試と同じ確率で同級の女子学生と仲良くなり、卒業まで良好な仲を保ち続け、結婚に競争原理は持ち込まなかった。

 

卒業後すぐに大阪大学で研修開始、高校の上位組が一発で受かった大学である。

どう考えてもボーとしてはいられない。

指導医に認めてもらおうと、必死で頑張ったようである。

競争の末、おかげで何とか講師の席まで得たのだが、故有って教授選に出なければならない羽目になった。

もちろん、これに敗れて市立泉佐野病院に転籍した。

 

放射線科の部長の席を与えられ、もう競争の真っ只中にはいない。

部長の役目は少しでも立派で役に立つ放射線科を運営すればよい。

 

でも、再び別所先生の訓示を思い出した。

公務員、60歳で退官である。

こんなに早く退職したら、老人ホーム入居権獲得競争に巻きこまれてしまうではないか。

これはイカンと考え、開業し今に至る。

 

私が開いたクリニックは、がんの血管内治療の有床診療所である。

特殊診療であったため設備にお金がかかり、何とか努力しない限り患者さんは来ない。

それに、治療成績が良くなければ、大病院での治療を止めてまで小さなクリニックでがん治療を受けたいと思う理由はない。

おまけに今は、海外からの患者さんも多く、海外の病院との競争にまで巻き込まれている。

何とか成績が良くなる治療法を研究し、高額医療機器を揃え、治療環境を整え、世界で一番のクリニックを作る競争を続けなければならない。

もう、私一人の努力やの能力だけでは如何ともし難い。

 

スタッフが40人もいるクリニックになった。

世代の違うスタッフに別所先生の訓示は、響くことはないだろう。

私はことあることに『人生は、冒険だ』と叫んでいるが、その続きで『競争すると道が開けて、何かを見つけることができるよ』と話してみたい。

 

まさに、別所先生の訓示通りの人生をここまで過ごしてきた気がする。

 

さて、これからである。

クリニックでは今も莫大な借金を抱えている。

さっさと仕事を辞めて、老人ホームを探すわけにはゆかない。

 

そんなわけで今も治療成績を上げるための競争の中にいる。

それに加え、なるべく歳をとらない競争にも加わりたいと思っている。

幸い関連する勉強も少し始めていたので、競争に勝ち抜く知恵が少しはありそうだ。

 

そんなこんなで、棺桶買占め競争だけには参加したくないので、この一点だけは別所先生の訓示には従わない積りでいる。