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S.H@IGTのブログ

大阪府泉佐野市にある、ゲートタワーIGTクリニックの院長のブログ

「では始めまーす」、スピーカーから技師さんの声が聞こえる。

「息を吸って、止めてください」 澄んだ声がCTの機械から聞こえる。

この声の主はきっとこの世にいないようだけど、結構、私の好きな声だ

 

ベッドが音もなくスライドし、天井の景色は機械の陰に隠れる。

再びベッドが動き、始まった感がいっぱいだ。

 

「息を楽にしてください」素敵な声がして、あれ? もう終わった? と感じる間もなく、

「では、造影剤を注入しまーす」 技師さんの声だ。

 

右の二の腕の内側、腕の中で何かが波打ちながら流れている。

「あれれ・・?」と感じる間もなく、喉のあたりがなんだか熱いような、煙を吸ったような感覚、と同時に、頭の中に何かを注ぎ込んだよう!?

 

「息を吸って、とめてくださーい」、素敵な声がまた聞こえる。

 

次の瞬間、お臍の奥の背中側になんだか感じたことのない異物がすごい速度で通過の様子、「オット、ナンダこれは?」と驚く間もなく、骨盤のなか、お尻の穴の中まで暖かく、あそこの先までなんだか変かな?

ほぼ同時に、足の付け根からの先まで体の中を駆け抜けてゆく。

 

「楽にしてください」 またあの声だ。

ほんの数秒の出来事だった。

 

CTのベッドは音もなく動く。

気持ち悪いのかな? と思う気持ちもあるが、ボタンを押すほどのものでもない。

オー、体の中に何か重たいものが充満した気分だ。

 

1分も経過したころだろうか?

再びあの声がする、「息を吸って、止めてください」

ベッドが音もなく、滑らかにうごき、雲の天井がまた見える。

 

「楽にしてください」の声と共に、操作室の扉が開き、

「センセ、どうだった? だいじょうぶ?」

いつもの看護師さんの声だ。

心配してくれてありがとう、という気分、わかってもらえるかなあ?

 

私が仕事を始めた大阪府立成人病センターに大阪府で初めて全身用のCT装置が導入された。

患者さんには拷問のような息止めを30回以上お願いし、やっと30枚程度の画像が取れた。

検査の夕方、私の読影フィルムの棚に、フィルムの束が置かれる。

私は、患者さんの輪切りの像を、頭の中で何枚も重ねて肝臓や腎臓の形を想像した。

 

検査をおえて、服を着替えて、自分の診察机に座る。

先ほどの画像は、もうパソコンのモニターに映し出されている。

画像の数は数千枚に及ぶ。

もう頭の中で考える必要なんかない。

画像診断装置のアイコンをチョコッといじれば、たちどころに縦切り、横切り、斜め切りの写真がモニター上に現れ、あまつさえ動脈の立体画像も現れる。

 

もうCT装置は、我々の診療になくてはならぬありがたい機械だ。

それに加えてトリヨードベンゼンは、体の中を駆け巡りながら、立派に役目をはなし、きれいな立体画像になって、血管内治療のガイド役を果たしてくれている。

 

それに、最近は、カテーテルから腕の動脈やお腹の動脈に打ち込まれ、それはそれはきれいな画像になって、「ここに病気があるよ!」と無言で伝えてくれる。

 

トリヨードベンゼンに感謝!

 

今、私はトリヨードベンゼンが入っていた瓶に、私の作った球状塞栓物質に色をつけ、診察室の窓際に置いている。夕日が当たるとそれはそれはきれいな光を放つ。

高校の化学の勉強はなんだか面白かった気がする。

専門にしようかな、と思わなくはなかったが、底が深そうで自分の頭では大したことが出来そうにない気がして止めた。

そんなわけでトリヨードベンゼンと聞けば、どんな構造式の物質かは分かる。

ベンゼン環、誰でも見たことのあるはず、「カメの甲」と呼ばれている六角形で、三辺だけが二重線になっているあの図形である。

カメの頭と両後足の位置にヨード分子をくっつけるとこれがトリヨードベンゼンである。これだけだとかなりの毒性がありそうで水も溶けないので、カメの両方の前足としっぽの位置に、ジジグザグの水に溶ける分子をくっつけると、トリヨードベンゼンの毒が消え、水に溶けやすくなる。

かくしてヨード系の非イオン性造影剤が出来上がる。

 

この造影剤は私の仕事を支えてくれており、これがないといくら高級のCT装置を購入しても十分に役に立たず、いくら世界一の血管造影装置を設置しても、リース代を払うお金も生まれない。

 

つい最近、職員検診があった。

年に2度、血液検査やら尿検査やら心電図やら胸の単純写真やらがある。

 

「センセ、血液検査しといてくださーい」看護師の声がする。

患者さんに聞かれると「病気かなこの先生?」と思われ仕事に差し障るといけないので、

患者さんの途切れたときにさっと看護師さんに腕を出す。

 

ウチの看護師さんはみんな注射がうまいので、一番太い針でお願いする。

私も痛いのは嫌いで、かつマゾ的な感覚は持ち合わせていないので、もちろん細い針が好ましい。

でも今回、胸の単純写真がないので、自分の体の中を覗いてみたくなり、造影剤を使ってCTスキャンで首から足の付け根まで一挙に調べてもらうことにした。

 

私が所望した検査は、ダイナミックCTといって、体中の動脈がはっきり見える検査で、少しばかり動脈硬化症を気にし始めている私にはぴったりの検査だ。

そのためには、少しばかりドロドロのトリヨードベンゼンを、静脈に1秒間4ml程度の速度で総量100mlと少々、急速に入れなければならない。

このために、太い針が必要なのだ。

 

「センセーの採血、キンチョーするワ」、看護師さんは不安な一言を言いながら私の腕に駆血帯を巻く。

私は落ち着いた雰囲気を醸しながら、ゆっくりと目をつぶる。

痛くない・・・ 私はゆっくり目を開け、「ありがと」という。

この一言は私の心からの感謝の言葉である。

彼女の採血が痛いと、クリニックの評判が落ちるのだ。

 

10mlの採血をしてもらったが、さすがに針が太いだけあって、すぐに抜ける。

 

私は腕に太い留置針を残したまま、CT検査室に移動する。

 

飲水胃充満CT検査法といって、胃を膨らませて胃腸に病気がないか調べる方法がある。

私が考えたCT検査法であり、これを世に知らしむべしと考え、これをユーラシア大陸の東の果て、リスボンで開かれた国際学会で発表した。

その学会は、私の初めての国際学会発表で、前の晩、原稿を抱え、何度も何度も練習した。

 

それから幾星霜、国際学会も場数を踏むと随分と図太くなり、前の晩はぐっすり寝れるようになった。

 

そんなわけで、検査のテーブルに載る前に、水をたらふく飲む。

げっぷをすることがきれいな画像を得るためのコツなのだが、胃は随意筋ではないので、これは結構難しい。

 

さて、検査台に横たわる。

技師さんが、体がまっすぐかチェックする。

これが大事で、これを怠ると私のCT画像を見て看護師さんが、「センセの背中、曲がってる」とか言いかねない。

 

「ちょっと水、流しますね、」と看護師さんが言う。

腕の内側あたり、腕の中に少し冷たそうなものが、ぶるぶると流れるのを感じる。

痛くもなんともないので、あの太い針は静脈の中に入っているみたいだ。

 

「センセ、なんかあったらこのボタン押してね」 

丸い小さな装置を握らしてもらう。

試しに押すと、操作室で玄関のピンポーンの音がする。

 

「じゃあセンセ、始めるね、、」

CT検査室のドア-が閉まる。

 

眼を開けると、検査室の天井に、青い空にいくつもの雲が浮かんでいる。

なかなかやるね! この部屋設計した人、

 

続く、、、、

最近、私が診ている患者さんから「アインシュタインからの墓碑銘」という本を戴いた。

アインシュタインと親交のあった三宅速という外科医の物語である。

この先生は九州大学の外科を作り上げた教授であり、作者の比企寿美子さんは、三宅速先生のお孫さんに当たる。

 

三宅先生はヨーロッパから日本への船旅の中でアインシュタインと知り合い、ご夫妻は福岡にあった三宅速先生のご自宅を訪れたほど親しかったという。

その後も親交を重ねられたことが詳しく記録されている。

三宅速先生は、岡山の空襲で亡くなられ、このことを知ったアインシュタインが、ご家族に贈った言葉が徳島の穴吹の光泉寺にある三宅先生の墓碑に刻まれているという。

 

この本の中に、空襲の真っ只中、三宅先生を助けるべく焼夷弾の降り注ぐ街を駆け回った医学生が登場する。

この本の作者の従兄の螺良英郎という方である。

 

この名前を見たときに、私の体にフラッシュバックの電気が走り、本を閉じ眼を閉じてあの記憶を瞼に映した。

 

私が勝手に恩師だと思っている徳島大学の内科学の螺良教授は、ダンディで優しく新進気鋭の免疫学の研究者であるとともに、真の臨床医でもあった。

 

ポリクリという学生の臨床実習がある。

学生が螺良教授の外来診療の後ろに並び、診療の流れを学ぶ実習である。

学生にとっては学んだ医学の知識がどのように実際の臨床に役立つかを実感できるカリキュラムでもある。

 

患者さんは母親に連れられた高校生らしき見るからにおとなしそうな細身の男の子であった。

螺良先生の診察室の壁には彼の胸のレントゲン写真が掛けられている。

両側の肺には、まん丸い影がいくつも映っている。

学生が見ても肺の異常は明らかだ。

螺良先生は患者さんと一言二言話したあと、患者さんにズボンを下すように指示した。

学生たちは教授がいきなり何を言い出すのか大層驚いたものだ。

 

男の子は恥ずかしそうにズボンを下し、学生たちが目にしたのは、腫れあがった陰嚢であった。

螺良先生は静かに一言、「精巣腫瘍です、直ちに入院して化学治療をしましょう。」とはっきり二人に伝えられた。

なんとすごい医者なんだ、この先生は、、、

私はこの先この先生に追いつくことができるだろうか、、、

 

それ以後、私は螺良先生の免疫学の講義は一言一句決して聞き逃さなかった。

免疫学に興味を持ち、その難しさも同時に勉強した。

 

螺良先生から卒業後、私の教室で研究しないかとお勧めいただいたが、よほど頭がよくなければこの道ではやっていけないのではと不安だった。

大阪に帰らなければならない事情もあり、結局のところ放射線科を専攻した。

 

卒業後20年近く経ったころ、螺良先生は大阪で開かれた何かの研究会に招待され、間近に講義を拝聴できる機会があった。

講演の内容は記憶から遠くに失せてしまったが、私が螺良先生に師事していたら、今頃何をしているんだろうと想いを馳せた。

講演のあと挨拶させていただいたが、一介の学生だった私のことをよく覚えていると言って戴き、本当に嬉しく思ったと同時に、免疫学をこれから自分の仕事に生かしたいと心から思った。

 

螺良先生とのご縁であろうか、、 免疫学こそががん治療の柱であるべきと今も思い続けている。

 

そんな私と螺良先生とのご縁を、作者の比企寿美子さんにメールでお伝えした。

 

まもなく、比企寿美子さんから、「百年のチクタク」というご著書を送っていただいた。

この本には、三宅速先生から始まる家族とその周辺のお話が詳しく記されている。

 

いつか、2冊の本を携え、比企先生をお訪ねし、サインを戴きたいと夢見ている。

 

今年の夏には、徳島の光泉寺、三宅速先生のお墓にお参りに行くつもりでいる。

私のドイツ語の能力で、墓碑銘が読めるか甚だ心もとないが、この寺の和尚さんにも詳しいお話をお聞きしたいと思っている。