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理事長@IGTのブログ

大阪府泉佐野市にあるIGTクリニックの理事長のブログ

華岡青洲は世界で初めて全身麻酔を試みた医者である。

最初の患者は進行乳癌だったという。

彼の生まれた地は私のクリニックから見える和泉山脈の向こう側にある。

あれからもう220年も経っているのに、今も進行乳癌に悩む人たちは沢山いる。

 

医者の勧める乳癌の治療を受けず、そのうちに進行乳癌になり症状が出始め、何とかならないかと医者に診てもらったら、もう治療法はないと言われ、あまつさえ「ここまで放置したあんたが悪い」と余計なことを言われて途方に暮れている、そんな人は思いのほか多い。

 

標準治療の医者にしてみればそこまで放置したのは「ケシカラン」ことかもしれない。

でも皆それぞれに事情がある。

子育てに追われているのに、何週間、何か月も病院に通い続けれるのか、、、

面倒を見なければならない親がいるのに自分の治療に専念なんかできない、、、、、

他の病気を抱えているのに、、、、、

乳癌と言われて、恐ろしくて足がすくんで動けない、、、、、

治療の説明を受けたら嫌な話ばかり聞かされて、もういいやと投げやりに、、、、、

 

他にも人に言えない理由はたくさんあるだろう、、、、

 

そんな人たちが我々のクリニックに沢山来る。

「藁をもつかむ思いで来ました」、という人も来る。

そう言われて、「そうか、、私は藁だったのか、、、」と思ったりする。

 

藁は英語で言うとストローと言い、今ではプラスチックで作った細い管である。

そういえば私はストローのような細い管を使ってがんの治療をする医者である。

この管をカテーテルと言い、がんを栄養する動脈に入れて、薬やら血の流れを止める粉など注入し、がんを小さくする仕事をしている。

 

動脈に細い管を入れるだけなので、華岡先生の力を借りなくても済む。

がんの部分にだけしか抗がん剤を入れないので、副作用は少しだけで済む。

がんはほとんどの人のがんは小さくなるし、小さくなればいろいろな症状は良くなる。

 

乳癌は普通の組織に比べ血管が豊富なので血管造影では黒い塊として映る。

更に血管造影中にCTをとれば、CT画像ではっきりと正常乳腺と区別できる。

ほとんどの乳癌は何本もの動脈が腫瘍に血液を供給しているので、すべての動脈にカテーテルを入れて治療する。

時々、腕に行く血管から折り返してくる乳腺動脈があり、これを乳腺回旋動脈と呼ぶ。

この動脈を見つけて名前を付けたのは私で、ちょっとした自慢話である。

これらの動脈にストローを入れるのはさほど難しい仕事ではない。

 

がんは小さくても大きくても治療できるのだが、多くの人は最後に私の治療を求めて来るので結構大きくて厄介なことが多い。そこは私の仕事なので、分け隔てなく治療をするようにしている

 

なるべく人の生活を邪魔しない主義なので、入院はほんの数日にしている。

なので直ぐに家に帰って子供たちの世話ができるし、親の面倒だって見れる。

 

切ったり貼ったりする治療ではないので、さほど恐ろしい治療ではない。

 

実は私が行っている治療は他の施設では余り行われていない。

この治療は1975年に大阪の小山博記先生が世界で初めて系統的に実施された。

小山先生はその後、乳癌学会総会の会長までされている高名な乳腺外科医である。

でもいろいろな事情があって今も標準治療として認められていない。

あまつさえ、乳癌の治療ガイドラインでは行うべき治療ではない治療だと烙印を押されている。

 

そんな訳で同業者からはエビデンスがないと、よくお叱りを受けるが、華岡青洲だって世界で初めて全身麻酔を行い、いろいろな手術にこれを使い今に繋がっている。

 

もちろんエビデンスは大切だが、何よりも大切なのは、役に立つと判り人のためになると思う治療は、責任をもって行うことであり、それが医者の使命だと私は思っている。

 

患者さんが藁をもつかむ思いで来られて、私が本当に藁だったら申し訳ない。

藁ではなく救命胴衣をつかんで、一息ついていただきたいと願っている。

 

私のクリニックに治療を求めて来る人が、何とか日常生活をつづけながら、少しでも症状が良くなり、病気に命を奪われないようになればいいな、と願いながら毎日治療を続けている。

 

 

 

小学2年で静岡から大阪に引っ越し、慣れない大阪で言葉に悩んだことを思い出す。

2年の担当の先生から、この子は「変な子、素直な子じゃない」的な通知簿のコメントを戴いた。

少し大阪にも慣れ始めたのか、3年の担当の別所やそじ先生は、通知簿に「潜在能力あるみたい、特徴ある子」的なコメントをつけていただいた。

このコメントで、私はやる気が出て、何とか浜寺昭和小学校5年間を乗り切った気がする。

 

小学校の卒業の日、学年主任だった別所先生から、卒業の訓示があった。

別所先生は、当時南大阪で「はとぶえ」という小学生の作文や詩を掲載する冊子を毎月発行されていた名の知れた教諭であった。

 

訓示の内容は以下の通りである。

『君たちの世代は人数が多くて大変だ』

『何かになりたいなら競争に勝ち抜く必要がある、中学、高校ボッと過ごすな』

『大学は簡単には入れる思うな』

『就職は難しいぞ』

『男の子、結婚適齢期になったら、女の子の方が少ないぞ、心せよ』、

『会社勤めは、人を押し除けることだと思え』

『退職したら老人ホームをすぐ探せ』

『死ぬときには棺桶が不足するので、先に確保せよ』

要は競争社会に生きるべし、の訓話であった。

私は小学校を終えた時点で、人生は大変なんだと理解し、この訓示を頭にしみ込こませた。

 

中学校は一クラス50人で18クラスもあった。

校庭は生徒で溢れ、砂ぼこりがすごかった。

フォークダンスが体育の授業にあった時代で、ほとんどがお目当て女の子の手に触れる前に授業が終わってしまった。

 

高校は550人、上位100人の成績と名前が職員室の壁に張り出された。

私の名がそこに載ることはなく、私より頭のいい奴がいっぱいいる事実をこの目で確認した。

 

高校3年生の時、次のハードルは大学入試だったが、その先にあるのは就職競争だと教えられている。

医者になれば就職競争は少ないかも、と考え大学は医学部を選んだ。

だが、ことは簡単に運ぶはずはなく、案の定、入試に落ち、訓示のあったとおり1年間浪人をした。

 

次の年、受験した徳島大学は競争率11倍であった。

50人ほどの部屋で試験を受けたが、この中で合格は4人かと思うと、人生は競争だけでなく賭けみたいなもんだと、悟りを開いたりした。

 

大学1年の時、別所先生の訓示を思い出し、入試と同じ確率で同級の女子学生と仲良くなり、卒業まで良好な仲を保ち続け、結婚に競争原理は持ち込まなかった。

 

卒業後すぐに大阪大学で研修開始、高校の上位組が一発で受かった大学である。

どう考えてもボーとしてはいられない。

指導医に認めてもらおうと、必死で頑張ったようである。

競争の末、おかげで何とか講師の席まで得たのだが、故有って教授選に出なければならない羽目になった。

もちろん、これに敗れて市立泉佐野病院に転籍した。

 

放射線科の部長の席を与えられ、もう競争の真っ只中にはいない。

部長の役目は少しでも立派で役に立つ放射線科を運営すればよい。

 

でも、再び別所先生の訓示を思い出した。

公務員、60歳で退官である。

こんなに早く退職したら、老人ホーム入居権獲得競争に巻きこまれてしまうではないか。

これはイカンと考え、開業し今に至る。

 

私が開いたクリニックは、がんの血管内治療の有床診療所である。

特殊診療であったため設備にお金がかかり、何とか努力しない限り患者さんは来ない。

それに、治療成績が良くなければ、大病院での治療を止めてまで小さなクリニックでがん治療を受けたいと思う理由はない。

おまけに今は、海外からの患者さんも多く、海外の病院との競争にまで巻き込まれている。

何とか成績が良くなる治療法を研究し、高額医療機器を揃え、治療環境を整え、世界で一番のクリニックを作る競争を続けなければならない。

もう、私一人の努力やの能力だけでは如何ともし難い。

 

スタッフが40人もいるクリニックになった。

世代の違うスタッフに別所先生の訓示は、響くことはないだろう。

私はことあることに『人生は、冒険だ』と叫んでいるが、その続きで『競争すると道が開けて、何かを見つけることができるよ』と話してみたい。

 

まさに、別所先生の訓示通りの人生をここまで過ごしてきた気がする。

 

さて、これからである。

クリニックでは今も莫大な借金を抱えている。

さっさと仕事を辞めて、老人ホームを探すわけにはゆかない。

 

そんなわけで今も治療成績を上げるための競争の中にいる。

それに加え、なるべく歳をとらない競争にも加わりたいと思っている。

幸い関連する勉強も少し始めていたので、競争に勝ち抜く知恵が少しはありそうだ。

 

そんなこんなで、棺桶買占め競争だけには参加したくないので、この一点だけは別所先生の訓示には従わない積りでいる。

 

 

医学部の最終学年になるとポリクリと呼ばれる実地の臨床実習のプログラムがある。

なぜポリクリと呼ばれたのか謎であったが、チャットGTPで調べると「ポリクリニークとはドイツ語で「総合診療所」「外来診療所」を意味する言葉で、つまり、「ポリクリ」は「総合診療所」から転じて「医学部の臨床実習」を意味するようになった言葉なのです。

タチドコロに答えてくれた。

あの頃にこんな便利なものがあれば、もっと簡単に賢くなれたにと思うばかりである。

 

ポリクリで医学の事をどれだけ勉強したのか、もう全く記憶にない。

でも、さらに大事なことはいろいろと勉強し、今もこれを日々の仕事に生かしている。

 

皮膚科の教授は学生に人気の明るいスポーツマンであった。

初老の男性、足の裏に黒子が出来たと教授の外来を受診した。

『これがんやろか、先生?』と不安げに聞く患者に、

『これはがんなんかやない、、これはな、もっともっとたちが悪いやっちゃ』と教授は正確に正直に伝えた。  

みるみる顔色が悪くなり、絶望のどん底に落ち込んでゆく患者の表情が忘れられない。

私のクリニックでも似たような状況はいつも起こる。

このことを思い出しながら、患者さんにどう伝えようかと、今でも悩むことが多い。

 

産婦人科の教授外来であった。

明らかに夫婦の二人、なんだか二人とも元気がない、誰が見ても何か問題をかかえているようだ。

検査の後、教授が診察と検査の結果を知らせようとしている。

教授は入ってきた夫婦の二人に、「おめでとう、ご懐妊でーす!」と明るく透き通る声で伝えた。

明らかに肩を落としてうなだれる夫、その横で首をたれながら涙を流し始める妻・・

何か変だと気が付いた教授は、明らかに慌て、うろたえている。

私たち六人は、下を向きながら必死に笑い顔を見せないようにしなければならない。

焦った教授は、「検査は絶対確かではないこともありますよ、うん、間違うこともある・・・」

さらに私たち学生は、肩を震わせて笑わないように耐えなければならない。

人生にはいろいろとある。

これを教訓に、私の外来ではいつも、それとなく家族の関係など最優先事項として調べるようにしている。

泌尿器科、膀胱鏡は痛いらしい。

尿道を無理やり広げて鉛筆ぐらいの太さの膀胱鏡を通すのである。

痛いのは当たり前で、男は特に痛い、、らしい。

膀胱鏡検査を受けているおじいさん、ベテランの看護師さんが、横について、おじいさんのお腹と腕をさすりながら、「うん、うん、頑張ってね、あそこ痛いんやろ、分かっているよ、うん、うん・・」

顔をしかめながら悶絶するおじいさん、「チャウチャウ、そことチヤウ、〇〇〇や、〇〇〇が痛いんや!」

学生は6人とも、下を向いて笑うしかない。

なるべく言葉は正確に伝えた方がいい。

私は、足の付け根の血管から、細い管を動脈に入れるのが仕事であり、そこを局所麻酔するときは、『麻酔するからね、ちょっと痛いよ、ココ』、と『ココ』を押さえながら言うことにしている。

 

内科の螺良先生のポリクリであった。

母親に連れられた高校生らしき見るからにおとなしそうな細身の男の子が座っている。

診察室の壁には彼の胸のレントゲン写真が掛けられている。

両側の肺には、まん丸い影がいくつも映っている。

学生が見ても肺の異常は明らかだ。

螺良先生は患者さんと一言二言話したあと、患者さんにズボンを下すように指示した。

学生たちは教授がいきなり何を言い出すのか大層驚いたものだ。

男の子は恥ずかしそうにズボンを下し、学生たちが目にしたのは、腫れあがった陰嚢であった。

先生は静かに一言、「精巣腫瘍です、直ちに入院して化学治療をしましょう。」とはっきり二人に伝えられた。

胸の写真と患者を一目見ただけで、最終診断が下された。

私は今も私の技量がこの領域まで達しているのか自信がない。

 

医者の先生は患者さんだと、よく言われる。

私も日々経験を積みながら実にそう思う。

それに加えて、大先輩たちの実地の教えも、私には大切な教材である。

 

私も後輩たちに、伝えたいものが数限りなくある。