S.H@IGTのブログ

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大阪府泉佐野市にある、ゲートタワーIGTクリニックの院長のブログ

医学部の最終学年になるとポリクリと呼ばれる実地の臨床実習のプログラムがある。

なぜポリクリと呼ばれたのか謎であったが、チャットGTPで調べると「ポリクリニークとはドイツ語で「総合診療所」「外来診療所」を意味する言葉で、つまり、「ポリクリ」は「総合診療所」から転じて「医学部の臨床実習」を意味するようになった言葉なのです。

タチドコロに答えてくれた。

あの頃にこんな便利なものがあれば、もっと簡単に賢くなれたにと思うばかりである。

 

ポリクリで医学の事をどれだけ勉強したのか、もう全く記憶にない。

でも、さらに大事なことはいろいろと勉強し、今もこれを日々の仕事に生かしている。

 

皮膚科の教授は学生に人気の明るいスポーツマンであった。

初老の男性、足の裏に黒子が出来たと教授の外来を受診した。

『これがんやろか、先生?』と不安げに聞く患者に、

『これはがんなんかやない、、これはな、もっともっとたちが悪いやっちゃ』と教授は正確に正直に伝えた。  

みるみる顔色が悪くなり、絶望のどん底に落ち込んでゆく患者の表情が忘れられない。

私のクリニックでも似たような状況はいつも起こる。

このことを思い出しながら、患者さんにどう伝えようかと、今でも悩むことが多い。

 

産婦人科の教授外来であった。

明らかに夫婦の二人、なんだか二人とも元気がない、誰が見ても何か問題をかかえているようだ。

検査の後、教授が診察と検査の結果を知らせようとしている。

教授は入ってきた夫婦の二人に、「おめでとう、ご懐妊でーす!」と明るく透き通る声で伝えた。

明らかに肩を落としてうなだれる夫、その横で首をたれながら涙を流し始める妻・・

何か変だと気が付いた教授は、明らかに慌て、うろたえている。

私たち六人は、下を向きながら必死に笑い顔を見せないようにしなければならない。

焦った教授は、「検査は絶対確かではないこともありますよ、うん、間違うこともある・・・」

さらに私たち学生は、肩を震わせて笑わないように耐えなければならない。

人生にはいろいろとある。

これを教訓に、私の外来ではいつも、それとなく家族の関係など最優先事項として調べるようにしている。

泌尿器科、膀胱鏡は痛いらしい。

尿道を無理やり広げて鉛筆ぐらいの太さの膀胱鏡を通すのである。

痛いのは当たり前で、男は特に痛い、、らしい。

膀胱鏡検査を受けているおじいさん、ベテランの看護師さんが、横について、おじいさんのお腹と腕をさすりながら、「うん、うん、頑張ってね、あそこ痛いんやろ、分かっているよ、うん、うん・・」

顔をしかめながら悶絶するおじいさん、「チャウチャウ、そことチヤウ、〇〇〇や、〇〇〇が痛いんや!」

学生は6人とも、下を向いて笑うしかない。

なるべく言葉は正確に伝えた方がいい。

私は、足の付け根の血管から、細い管を動脈に入れるのが仕事であり、そこを局所麻酔するときは、『麻酔するからね、ちょっと痛いよ、ココ』、と『ココ』を押さえながら言うことにしている。

 

内科の螺良先生のポリクリであった。

母親に連れられた高校生らしき見るからにおとなしそうな細身の男の子が座っている。

診察室の壁には彼の胸のレントゲン写真が掛けられている。

両側の肺には、まん丸い影がいくつも映っている。

学生が見ても肺の異常は明らかだ。

螺良先生は患者さんと一言二言話したあと、患者さんにズボンを下すように指示した。

学生たちは教授がいきなり何を言い出すのか大層驚いたものだ。

男の子は恥ずかしそうにズボンを下し、学生たちが目にしたのは、腫れあがった陰嚢であった。

先生は静かに一言、「精巣腫瘍です、直ちに入院して化学治療をしましょう。」とはっきり二人に伝えられた。

胸の写真と患者を一目見ただけで、最終診断が下された。

私は今も私の技量がこの領域まで達しているのか自信がない。

 

医者の先生は患者さんだと、よく言われる。

私も日々経験を積みながら実にそう思う。

それに加えて、大先輩たちの実地の教えも、私には大切な教材である。

 

私も後輩たちに、伝えたいものが数限りなくある。

インドネシアのバリで開かれた学会に招待された。

バリ! まだ見ぬ天国を見たい一心で直ちにOKの返事をした。

 

バリ島の空港に着くと迎えがいて、直ちに学会場に連れていかれた。

そのまま学会で3時間しゃべりっぱなしの拷問にあい、地獄を見てしまった。

けれども地獄の鬼は、いずれも優しく友好的で、懇親会では踊りの輪まででき、一緒に踊る羽目になった。

浜辺にあるリゾートホテルがこの世の天国らしかったが、入り込むことは難しく、残念至極であった。

でも、アジアのにおいがいっぱいの長い歴史が刻まれた島を十分に堪能した。

でもでも、次は天国も見てみたいと心から思っている。

 

インドネシア行きのもう一つの目的は、ジャカルタの病院見学であった。

半年前、インドネシアの高名な医者が私のクリニックに来た。

彼はインドネシアの厚生大臣まで歴任し、今は軍人の病院の医師で肩には星が3つ輝いている。

私が聞いたことのない免疫治療を開発したらしく、興味本位で彼の病院の見学を決めた。

 

彼の病院はインドネシア軍の病院で、軍の車が空港まで迎えに来てくれた。

その車は、緑の回転灯を派手に回し、サイレンのような音を発しながら、高速道路のラインを自由にまたぎ、バス専用レーンを突っ走り、赤信号はなかったように走る。

 

到着した軍隊の病院は、とても立派でアジアの病院の雰囲気はほとんどない。

MRIの機械は4台もある。

血管造影装置は5部屋もある。

これらの装置を使い、ブレインクレンジングと称して頭の動脈、静脈の血の流れをよくする治療を行なっているという。

 

診察風景も見学させていただき、患者一人一人への説明も丁寧で、600人も彼治療を待っている。

治療を受けた患者さんに話も聞くことができ、こんなに頭がすっきりしたとテラワン先生に感謝している。

 

彼がコロナの予防治療として開発したという免疫治療も目から鱗である。

彼の免疫治療は樹状細胞療法の一種だが、がん治療だけでなくいろいろな病気に効くらしい。

西洋医学では難治性の多発性硬化症の少女が、私にこんなに上手に歩けるようになったと涙ながらに教えくれた。

 

見学のあと、突然若い医者向けに私たちが行っている治療の講義を頼まれた。

20人ほどの若い医者が集まってくれた。

私の話をききながら、彼らの眼がキラキラしているのが分かる。

私のクリニックに外国人の医者をサポートする財団がもうすぐできるので、必ず研修においでと何度も言ってしまった。

 

私もなるべく早くもう一度、テラワン先生を訪ねて二つの治療法をしっかり勉強するつもりだ。

 

インドネシアのどこかの島に魔術師がいて、患者のお腹に手を突っ込んでがんを引っ張り出すという。

次は、そんな魔術治療も見学して、技術を習得してこようかな?っと思っている。

 

アレックスは私の友達だ。

マレーシアのデカい私立病院の放射線科で私と同じような治療をしている。

早口の英語でしゃべりまくるが、何を言っているのか意味不明のことが多い。

中国系のマレーシア人なので、中国語も話す。

私の秘書は語学に堪能で、様々な種類の中国語と英語と日本語をしゃべるが、彼の中国語も英語も何を言っているのかよくわからないという。

だから、彼の英語がよく解らないのは私のせいではない。

 

アレックスは世界中に沢山の友達がいて、私はその末席に連なっている。

アレックスの生い立ちは良く分からない。

なんだか貧しい家に生まれたらしく、お金のない人の気持ちがよく分かるらしい。

道理で彼が発表する治療は、あまりお金の掛からない治療ばかりだ。

でも、最近プール付きの家を買ったらしく、プールを満たすのに水道代がかかって仕方がないと言っていた。

 

5年前、マレーシアで放射線科の大きな学会があり、アレックスが大会長であった。

世界中の有名どころが沢山集まり、学会は大成功であった。

私は彼から無理難題の発表をいくつも頼まれ、結構大変だったが、「お前のおかげでうまくいった」とベンチャラを言われ、苦労は霧散した。

 

学会の最終日、彼が閉会の宣言をした後、私にすぐには帰るなと言う。

来いと言われた場所は、学会場の前の公園がよく見える場所だ。

小さなテーブルを何人もが囲み、アレックスがいる。

テーブルの上には、ドリアンの山がある。

 

まずい!と感じた私は通り過ぎようとしたが、目ざとく私を見つけた彼は、こっちに来いと手招きをする。

 

仲間に合流した私は、ドリアンの食べ方、猫印のドリアンが美味しいこと等、色々教えられたが、それ以上はもう思い出したくない。

ドリアンの仲間には、現在アメリカの放射線学会長になっている美人の女医さんもいた。

昨年、アメリカで彼女に会った。

彼女とドリアンの話で盛り上がった後、彼のことをドリアン王子と呼ぶことにした。

 

今年の春、再びマレーシアに呼ばれた。

ドリアン王子に会う予定はなかったが、私が来ると判り昼飯を奢ると伝えてきた。

 

火鍋だという。

辛い物は得意ではない私は、生涯この手の料理は避けてきたが、手招きされては仕方がない。

ドリアン王子は、私のために何十種類のスパイス、薬味をドロドロに混ぜたソースを作ってくれた。

ドリアンより受け入れられる。

 

何とか火鍋パーティはやり過し、アレックス、楽しかったねと挨拶をした。

「これだけじゃないよ、せっかく大阪から来たんだから」、ドリアン王子は確かにそう言った。

 

やばい!と感じた私は、「お腹いっぱい」と言ったが、「こんないい機会は逃す手はない。

猫印が待っている」、と言う。

 

かくして私たちは、クアラルンプールの町はずれのテントの屋台のような所に連れてゆかれ、トゲトゲの機雷のような猫印のドリアンを分かち合った。

肝を据えた私が、たくさん食べると、そんなにうまいかと、2つ目、3つ目のドリアンが、目の前でパカンパカンと割られ、ドリアン腹になってしまった。

 

人に言わせると、2,3回食べると病みつきになるらしい。

でも、私は人の百倍一気に食べたので、もう食べる必要はない。

その日以来、私はアレックスのことを、ドリアンキングと呼んでいる。

 

近々、ドリアンキング、日本に来るらしい。

納豆を勧めたいところだが、そんなのチョロすぎると思っている。