それは愛された証拠ですか?愛されなかった証拠ですか?

 

愛されなかった証拠を

 

愛された証拠と思えた時、世界が変わる。

 

 

 

心屋認定講師、いがぐりこです。

 

 

 

子供の頃

 

散らかった部屋の汚いテーブルに置いてあった、500円玉

 

 

 

母が、男の人のところから

 

着替えを取りにうちに帰って来た時に、

 

まるで「ついで」のように

 

テーブルに置いていった500円玉。

 

 

 

 

子供の私は、その500玉を握りしめて

 

近所の商店に、食料を買いに行く。

 

 

 

次、母はいつ帰ってくるのか?

 

それまで、食料をつなぎとめておかなければいけない。

 

痩せていた私は、生きるのに必死だった。

 

 

 

 

 

わたしは大人になってもずっと、

 

母が置いていったその 500円玉 の出来事を

 

「自分が愛されなかった証拠」として、握りしめていた。

 

 

 

 

大人になっても、私はこのことをずっと恨んでいた。

 

 

 

「バカにしてんのか!

 

500円ごときで、いったい何が買えると思ってんのか。 

 

1週間分の食料は、とても買えないだろう。

 

 

当時は時代が時代だったから見過ごされていたけど、

 

これが今なら、育児放棄で虐待だ。

 

 

500円?バカにしてんのか。嫌味か。

 

それとも罪滅ぼしの500円か?

 

汚らわしい。

 

 

メスの臭いのする、あんな女が置いていった500円玉。

 

汚らわしい。」

 

 

 

 

そう、ずっと思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3年前、母が

 

外傷性のくも膜下出血により、救急搬送される事故があった

 

 

 

 

入院中、

 

母は、高次脳機能障害の中の

「注意障害」「遂行機能障害」という後遺症がでていると、診断された。

 

 

 


身体的には動けるし、


話すことは達者。

わたしより、ずっとずっと、おしゃべり。




けど、二つのことを同時にやろうとすると、


混乱して、どちらかが抜け落ちる。


食べ物の封を開ける時、


乱暴にあけたら、こぼれてしまう…等の予測が、


状況によって(他の事に気を取られて)できない時がある。

 

 

 

だから、頻繁に粗相をする。

 

 

 

どうやら、母の世界の中では

 

「原因」と「結果」がうまく結びつかないらしい。

 

 

健常者から見たら

 

ありえないような突拍子もない行動を取る時がある。

 

 

 

 

 

 

この3年前、母が救急搬送されて

 

病院の先生から高次脳機能障害の説明を受けた時、

 

わたしは

 

もしかしたら、あの時、母に悪意はなかったの「かもな」。

 

初めて、そう思えた。

 

 

 

 


考えたら、


母は今回の脳挫傷以前から、こんなモンだった気がする。
 

 

 

 

もっとずっと前。

 

私が小学3年の時に

 

母がバイク事故で頭を打ったときから、

 

母には、すでにこの症状があった。

 

 

 

 

 

今思えば、

母は家事ができず

皿のない家で汚部屋だったのも、

お金の管理ができなかったのも、

散らかった部屋に500円玉がポツンと置いてあったのも、



母に悪意があったわけではなく、

もともと、この症状だったのではないか??

 

「原因」と「結果」が、うまく結びついていなかったからじゃないか?



ふと、そんな気がした。



 


あの時、500円玉を置いて出かけた母。



もしかしたら、母は、


私を粗末に扱おうとしたわけではなく、

私がどうでもよかったわけでもなく、



ただ単純に、

目の前のこと(好きな男)に心奪われて、

その他の「こうしたら、結果、こうなる」という

先の予測が、極度に苦手で

 

出来なかっただけだったのではないか。




自分が出かけた後、

 

500円で娘が何日生活できるかが、

 

予測できなかっただけじゃないだろうか。

 


 

初めて、そんな気がした出来事だった。

 

 

 

この時から、


「散らかった部屋の汚いテーブルに置いてあった 500円玉 の出来事」は
 

 

私の中で、

 

 

母が、高次脳機能障害で

 

『先の予測ができない』という症状の中においても

 

忘れずなんとか必死に表現しようとた

 

私への愛だったのではないか。

 

 

 

 

そんな

 

「もしかしたら私は、愛されていたの・・・かも・・・な?」

 

という証拠(のような)出来事になった。

 

 

 

 

これを、認めるのは、

 

やっぱり、悔しいし、苦しいし、勇気がいる。

 

 

 

 

愛されなかった証拠を、愛された証拠と受け取るのは

 

ものすごく、くやしい。

 

 

 

 

拗ねているのをやめて素直になるのには、勇気がいる。

 

 

 

今まで、親をずっと恨んで

 

それを糧に生きて来たからね。

 

 

 

 

 

でも、それを認めたら、

 

人生がぐるんと変わる。

 

世界が変わる。

 

 

 

 

わたしは、母の救急搬送の事故がきっかけだったけど、

 

気づきのために、

 

何かでっかいことをやったわけじゃない。

 

 

 

 

何が変わったかと言えば、

 

愛されなかった証拠を

 

愛された証拠と思っただけである。

 

 

 

 

実際にはまだ、疑っている部分もある。

 

まだ、憎んでいる部分もある。

 

全部を、愛された証拠と信じているわけではない。

 

 

 

でも、その部分は、まだ今は、そのままでいい。

 

 

 

 

 

「もしかしたら私は、愛されていたの・・・かも・・・な?」

 

 

一部、そう思えるだけで、世界が変わることがある。

 

見える世界が変わる。

 

それだけでも、じゅうぶん、変わる。

 

 

 

 

 

 

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今日は、東京五反田にて、

 

心屋塾上級ワークショップ1日目を開催しました。

 

 

 

今日の1日が、

 

「もしかしたら私は、愛されていたの・・・かも・・・な?」

 

そう思うきっかけになってもらえたら、うれしい。

 

 

 

 

心屋塾上級ワークショップ

 

明日も、続きます。

 

みんな、おやすみなさい。

 

 

 

 

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アシスタントの

 

心理カウンセラーかずぅ と 植森ふみちゃん(ふーみん)

 

ありがとう。

 

 


 

 

 

 

 

心屋塾上級ワークショップ、

 

次回は 8月24日(土)〜8月25日(日)を予定しています。

 

場所は、同じくここ

 

東京五反田ジャージコバセミナールームです。

 

 

 

家に帰って落ち着いて準備が整ったら、受付開始します。

 

 

 

 

 

 

====おまけ1=======

 

 

 

 

誰かのペンケースに、

 

不思議な「ふせん」が入ってた・・・。ポーン!!

 

 

 

 

 

セミナールームの持ち主のコバさん。

 

似てる(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

====おまけ2=======

 

 

1日目終了後、夕ご飯で焼肉へ。

 

 

 

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いっぱいおしゃべりして、いっぱい食べた〜!!!