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農学ことはじめ・・・”農”がもたらすもの

こんばんは。
今回は、”農”によって何がもたらされるかを見てみましょう。

まず、何といっても「食物」です。
”農”によって生産される「食物」は、我々の活動エネルギーとなる「食物」を毎日、提供しています。
例えば、お米は、春に種まき、田植えをし、夏は、雑草や虫や鳥から稲を守り、秋には収穫となります。
このひとつの流れによって、食卓にご飯が並べられます。
他の野菜、果物についても、土作り、種まき、雑草や虫や鳥や動物から守り、そして収穫です。
最近は、過疎化が進む中で、猪が田畑を荒らすことが目立つようになっています。

「食物」を育てるためには、技術や知見や経験が必要です。
今は、技術指導員からだけでなく、農業関係の学校や研修などによって学ぶことのできる機会も増えています。
以前は、親や近所の人から教えてもらうことがほとんどだったと思います。

”農”によってもたさされる2番目は、”農”に取り組む人が生活の中で、自然を体感的に理解することです。
自然の中には、多様な音や色や空気・水の動きがあります。
都会における音や色とは違っていて、人間の知覚や本能を育む機会を提供しています。
このことは、”農”に取り組む人やその家族だけに留まるものではなりません。
近年は、農業体験会が各地で開催され、短期間ではありますが、自然から様々なことを子供たちが体感を通して学ぶ機会が提供されています。

”農”によってもたらされる3番目は、他の産業や学問への問題提起があります。
「食物」の加工、保存、運搬などの必要性から、様々な加工技術や流通網が構築されて来ました。
そのお陰で、遠く離れた生産地から、朝採った野菜が午後にはお店に並ぶなども可能になっています。
加工、保存の技術によって、昔ならば、腐らせてしまった野菜も、きちんと使われるようになっています。
”農”から他の産業や学問への問題提起は、今後も続くでしょうし、その問題解決のために、人間の英知が使われていきます。
ある意味、専門領域に分断されてしまった学問や産業が、”農”を中心にして複合的に融合していくのが次の時代ではないでしょうか。

他にも、”農”によってもたらされることは多種多様にあると思います。
どのようなものがあるか、是非、ご意見をください。
またご意見に対しても、私としても考えていきたいと思います。

農学ことはじめ

こんにちは。
農業のことを学べば学ぶほど、奥の深さを感じます。
最近思うのは、農業こそが、様々な産業を複合させる総合産業ではないかということです。

例えば、植物工場というのがあります。
太陽光や人工光を利用して、土は使わずに、水耕栽培で植物を育てる工場です。
そこでは、閉じられた中での栽培ですから、農薬を使わずに短期間で野菜(今は、レタスなどの葉物野菜が多いです)を栽培します。
1日当たりの生産が、1万株のレタスという工場もあります。
その植物工場の建設は、まさにプロジェクトです。
色んな専門分野の人が関わります。
建物や設備の図面を描く建築士、実際に建設する建設業の人たち、人工光の場合の照明メーカー、液体の肥料を提供するメーカー、温度を調整するための機器のメーカー、二酸化炭素を調整するための機器のメーカー、野菜の種を提供する種屋さん、野菜の発芽、発育のための施設を提供するメーカー、液体の肥料を循環させる機器のメーカーなど、他にも場所を探す不動産屋さん、様々な許認可を申請する人たちなど、かなりの関係者が関わります。

それに今までの農業にしても、実は、同じように、本当に多くの産業が関わってきています。
ふと視点を変えてみると、様々なことを研究する中で、物理学、生物学、数学、化学、経済学などに分化されてきた学問が、もしかしたら農学という中で集約的に考えられてもいいのではないかと感じるようになりました。
食を提供する農業の問題を解決していくことが、様々な社会の課題を解決していくことにつながるのではないかとも考えています。
まさに「農学ことはじめ」がキーワードになるのではないでしょうか。

みなさん、寒くなってきていますので、風邪などひかれませんように。
また思いついた時に、「農学ことはじめ」について、書きますので、時々、ブログをご覧ください。

どんな社会を目指すか

世界のどこかで紛争が起こり、多くの子供たちが毎日亡くなっています。
実際に戦地に行くことがない人が、戦争をするかどうかを決めます。
日本の景気も大企業は回復していますが、多くの中小企業に回復の兆しは見られません。
大企業に部品を納入している中小企業が、円高で、材料費が高騰しても
そのコストアップによる価格上昇を承認しない大企業も多いと聞きます。

解決できない課題はないと思いたい。じゃどうすれば良いのか。
こんな状況を友達と話す中で、じゃ、どんな(世界の)社会だったらいいのだろうかと考え
実現は難しいのはじゅうじゅう承知の上で、順不同で以下の列挙してみます。

1 笑顔にあふれた社会
2 貧富の差のない社会
3 誰もが平等に教育を受けられる社会
4 弱者を助ける社会
5 切磋琢磨する社会
6 事前溢れる社会
7 公害のない社会
8 人生を全うできる社会
  (自殺のない社会)
9 移動の自由のある社会
10 発言の自由な社会
11 競争はあるが、戦争のない社会
12 お互いを尊重しあえる社会
13 情報格差のない社会
14 病気のない社会
15 身分差別のない社会

こういった社会に一歩でも近づくために、ひとりひとりがどうしていけば良いのでしょうか。

水耕栽培

水耕栽培を始めてみました。
数日で発芽しました。

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脱フレームワーク(OFF FRAMEWORKかな?)

ふと考えたことです。


さまざまなことを考える際に、フレームワークが使われる。

フレームワークと使う利点のひとつに、誰もが、ものごとをまとめることができるということがあるだろう。

その一方で、そのフレームワークの外にある視点や発想には行き着かない。

特に、延長線上にないことを考える際には、フレームワークは邪魔をすることになる。

前例のないことに取り組むためには、脱フレームワークで臨むのが良い。

どうやったら脱フレームワークで臨むことができるかと言うと、かなり難しい。

なぜなら、受けた教育、経験したことから、その人なりのフレームワークができているからだ。

(こう考えること自体が、フレームワーク内でのことになる)


たぶん、脱フレームワークの状態というのは、ある種の「無」の気持ちで感じ、考えることかも知れない。

特に、今の日本の状況を見ると、脱フレームワークでの発想や情報発信(これも今までにない方法で)

が必要なのかも知れない。

私自身も明確な方法は分からない。


「ゼロベースの発想」という考えがあるではないかという意見もあるだろう。

ただ、ゼロベースから出発しても、フレームワークに道案内されて、あまり変わり映えしない答えが出てきそうに思う。


話は変わるが、グローバリズムとローカリズムが対立していると感じることがある。

資本主義の中で、グローバリズムが環境汚染、エネルギー危機、貧富の差の拡大を生み出している。

その反動として、民族主義、領土問題などが出てきている。

グローバリズムとローカリズムが対立するのではなく、融合できることを脱フレームワークで考えてみたい。