脇本城(続日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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今回から脇本城(続日本100名城)の

紹介です。脇本城は安東氏三城(檜山城・

脇本城・湊城)のひとつです。

2022年4月28日に訪問しました。

 

下図現在地の所です。

城の入口にある脇本城跡碑です。

鳥居の石段を上がると菅原神社

です。

 

現在地にある案内板です。

 

脇本城の現在地解説板です。

 

脇本城跡の案内板です。

日本海に突き出すようにそびえる

標高100mの丘陵地に位置し、

その丘陵地の広さは、家臣の屋敷

も入れて150haもあります。

 

 

歴史

 

『保暦間記』によると、城主の安東氏は

安藤五郎が鎌倉時代初期に津軽地方で、

蝦夷対応に当たったのが始めだそうです。

おそらく奥州藤原氏征伐の後に、津軽の

管理を任されたのでしょう。鎌倉時代末

期には御内人として、蝦夷沙汰代官職を

務め、津軽地方を本拠地に南は出羽国の

秋田郡から、北は下北半島まで一族の

所領が広がります。のち二家に分裂し

檜山郡と秋田郡にそれぞれ割拠しました。

 

1333年の鎌倉幕府滅亡後に、残存した

鎌倉北条氏派の武士が、1334年頃に砦

として脇本城を築いたのが始まりのよ

うです。機能を失っていた朝廷の秋田

城にも砦を築きました。鎌倉時代から

南北朝時代にかけての、津軽時代には

北条家家臣「安藤氏」、南北朝が終り

足利家臣になったので、室町時代中期

以降の秋田時代には、足利氏に恭順す

るために、「安東氏」と名字を変更し

のではないでしょうか。

 

1456年に安東政季は小鹿嶋(現在の

男鹿)に入り、脇本城を拠点としたそ

うです。八郎潟の干拓前は男鹿半島が、

北側から米代川、南側から雄物川によ

る土砂堆積によって、2本の砂州が伸

びて複式の陸繋島となり、中心部が取

り残されて汽水湖である八郎潟となっ

たそうです。それで小鹿嶋と言われま

した。陸上からは攻め難い地形でした。

 

八郎潟の干拓前と干拓後


秋田県のグーグルマップです。

これまで紹介の地も赤丸で示しました。
朝廷の秋田城が武士の世になり機能を

失いました。その後は安倍氏や藤原氏

の勢力が支配しました。安東氏は初め

安藤氏と称していましたが、室町時代

に安東と表示されています。もとは、

安倍氏の流れと言われますが。諸説

あります。

下図は安東氏系図の1例です。

 

1456年に安東政季は小鹿嶋(現在の

男鹿)に入り、脇本城を拠点としてい

ます。

 

安東愛季の肖像画は後世のものです。

 

安東愛季木造

 

安東政季の父:舜季が湊安東氏に男子が

いないので娘と婚姻します。

1539年に安東愛季が生まれる。

1562年に愛季が大舘の浅利氏を攻める。

1565年に愛季が鹿角郡に侵攻。
1570年に安東愛季が下国と湊の両安東

氏を統一し支配ます。

(湊安東氏宗家に、男子がいないので

愛季が強引に相続して統一)

1573年に室町幕府滅亡

1575年に愛季が織田信長に鷹を献上。

1576年に愛季の次男:実季が誕生。

1577年に愛季が朝廷から従五位下を

与えられる。

1577年に嫡子:業季に湊・檜山城を

譲り、愛季は脇本城を居城とする。

その後は業季が早世します。

1580年に次男の実季が湊城主になる。

愛季が従五位上の侍従に任命される。

1582年に本能寺の変

 

1585年に豊臣秀吉が関白になる。

1587年に愛季が戸沢氏と合戦中に

亡くなる。享年49 

脇本城下の法蔵寺に葬られる。

1589年に豊島城主:湊通季が実季の

湊城を攻める。脇本城船越川が戦場

となるが、実季が勝利します。敗れ

た通季は南部氏の家臣となります。

1591年に実季が脇本の菅原神社を

建立します。

 

安東実季木造

 

実季は自称秋田城介を名乗っていた

ので、名字を安東から秋田に変更し

ています。安東では蝦夷の人かと、

われることもありました。

 

1602年に徳川家康の命で、実季は

茨城県の宍戸に国替えとなる。

1630年に伊勢国朝熊へ蟄居を命じ

られます。嫡男の俊季との不和説や、

従来からの檜山系・湊系による家臣

間の対立が背後にあったと言われま

す。伊勢国朝熊へ蟄居のまま死去し

ます。

 

1605年に佐竹家臣11人が脇本横町

から比内12所に入る。

1653年に菅原神社が現在地に移転

1804年に紀行家の菅江真澄が脇本

城跡を訪問する。

 

1804年の脇本城跡です。

 

1810年の脇本城跡です。

 

1804年の脇本城跡からの風

景です。

本丸付近から見た城下町跡です。

砂州が延びる左側が八郎潟です。

 

現在の写真は

 

現在の本丸からの写真です。

八郎潟が干拓されて、地形が変わっ

ています。

 

2004年に国の史跡に指定されます。

2017年(平成29年)4月6日には、

続日本100名城(106番)に選定さ

れました。

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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