会津若松城(日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

画像1枚追加したので再UPしました。

今回からは会津若松城の紹介です。

2021年4月16日に訪問しました。

今日はその歴史です。

 

桜がまだ咲いていました。

桜と天守を撮影出来てよかった。

 

歴史解説板です。

 

室町時代

1384年に蘆名氏7代当主の蘆名直盛が、

小田垣の館または東黒川館という館を造っ

たのが若松城のはじまりとされます。

1400年代中頃までに黒川城とその城下

が成立し、蘆名氏の城でした。

 

戦国時代

 

蘆名盛氏が黒川城に拠り周辺を制圧し

戦国大名になります。

 


蘆名盛氏肖像画


1589年に蘆名氏と敵対した伊達政宗

は、蘆名義広を攻めて蘆名氏を滅ぼし、

黒川城を手にします。しかし、政宗は

1590年に秀吉に従い会津を召し上

げられます。わずか1年の支配でした。

安土桃山時代

秀吉の命で黒川城には蒲生氏郷が

封じられます。

1592年より蒲生氏郷が近世城郭

に改修し、城下町を整備しました。

1593年に7層の天守が完成しま

す。

 

蒲生氏郷肖像画です。

 

蒲生氏郷は、町の名を黒川から、

「若松」へと改めました。「若松」の

名は、氏郷の出身地日野城に近

い馬見岡綿向神社(現在の滋賀

県蒲生郡日野町村井にある神社、

蒲生氏の氏神)の参道周辺にあっ

た「若松の杜」に由来し、領地の

松坂の「松」という一文字もこの

松に由来すると言われています。

この時代はめでたい松・福・鶴・

などの名を付けるのが流行りで

した。

城名は「黒川城」から「「鶴ヶ城」

に改められます。

近年の発掘調査で、蒲生時代の

石垣の基底部が確認され、鐙瓦

(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦

の一部に金箔が貼られたものが

出土しています。

1598年に蒲生氏郷の子供秀行

は家中騒動のために92万石から

18万石に下げられ下野国宇都宮

に移封されます。越後国春日山

より上杉景勝が120万石で入封

します。

 

江戸時代

 

1600年に徳川家康は関ヶ原の

戦いで西軍に加担した上杉景勝

を、30万石に下げ、出羽国米沢

に移封しました。

1601年には蒲生秀行が再び

入城します。

 

蒲生氏時代1620年頃の

若松城です。

 

1627年に嫡男の忠郷に嗣子

がなく没したため、秀行の次男

忠知が後嗣となり伊予国松山

に移封されました。代わって、

賤ヶ岳の七本槍の一人である

加藤嘉明(よしあきら)が伊予

松山より入封します。

 

加藤嘉明肖像画です。

加藤清正とは同姓ですが、

親戚ではありません。

嘉明の父は三河松平家の

家臣で、清正の父は尾張

中村の刀鍛冶でした。

 

1639年に子供の加藤明成が、

1611年の会津地震で倒壊し、

傾いたままだった蒲生時代の

七層の若松城天守閣を、幕末

まで威容を誇った五層にして

建替えました。

城下町の整備を図って近世

会津の基礎を築きました。

 

黒太線部分だけが石垣です。

西出丸・北出丸が加藤家に

より整備されました。打込み

ハギ以降の石垣は加藤家時

代のものです。

この出丸は大きな馬出です。

(加藤明成の肖像画が見つかりません)

 

会津若松城です。(グーグル)

 

1634年に加藤明成は改易さ

れ、出羽国山形より3代将軍

徳川家光の庶弟である保科

正之が23万石で入封します。

以後、明治維新まで会津松平

家(保科氏から改名)の居城

となります。

 

戊辰戦争図です。

小田山砲台から城内まで約1200m

なので、ライフル砲(アームストロング

砲)の有効射程距離です。

普通の大砲では1200mは飛びません。

1日で約2500発の炸裂弾が城内に打ち

込まれたそうです。一方的な攻撃です。

 

現在の鶴ヶ城グーグル図です。

 

明治維新後

1868年(慶応4年)、戊辰

戦争の戦闘の一つである

会津戦争で会津勢の籠城

する鶴ヶ城は新政府軍に

包囲され砲撃を受けます。

1か月の間持ちこたえたが、

降伏し開城しました。

 

戊辰戦争で傷んだ天守古写真です。

 

戊辰戦争後の天守と本丸御殿書院

の古写真です。

 

上の古写真とほぼ同位置から

撮影した現在の本丸と天守です。

本丸御殿はありません。

 

1868年(明治元年)9月

に開城すると新政府軍に

引き渡され、兵部省の所管

となり、仙台鎮台が管理し

ます。翌年には会津藩に代

わって若松県が発足し県庁

を城内の建物に置いたため、

若松県が城の管理を委任

されます。

1870年に御三階櫓と共に

同寺に移された唐破風の表

玄関は阿弥陀寺玄関に転

用されています。

 

阿弥陀寺の三階櫓と唐破風玄関です。

戊辰戦争で阿弥陀寺が焼けたので、

移築して本堂代わりに使われました。

 

1874年1月には陸軍省か

ら仙台鎮台へ「旧若松城は

営所建築の場所であるので、

石垣や立樹等を除き旧来の

建物で必要無いものは取壊

し払下げすべく取り計らう事」

とされ、同年末までに天守

などの建造物はすべて解体

されました。

城地約29haの払い下げら

れて、旧会津藩士遠藤敬止

は、城跡を一括して保存す

るため、私財2500円で譲

り受け旧藩主松平家に寄

付しました。

「若松公園設計方針」が示

され城跡の所有者であった、

旧藩主の松平家と交わした

土地譲渡契約を10年賦に

より、1927年(昭和2年)

に償還し若松市の所有と

なりました。

 

第二次大戦後

 

1965年(昭和40年)に鉄筋

コンクリート造により天守が外

観のみ復興再建されました。

内部は「若松城天守閣郷土

博物館」になりました。

 

 

1990年(平成2年)に「鶴ヶ

城公園」として日本さくら名所

100選に選定されます。

2001年(平成13年)に本丸

内の干飯櫓(ほしいやぐら)と

、南走長屋が木造で復元さ

れます。

 

天守最上階から見た二重干飯櫓です。

手前天守方向に走長屋が続きます。

 

2006年に日本100名城に

選定されました。

 

2011年(平成23年)には、

黒瓦だった天守の屋根瓦を

明治時代に解体される以前

の赤瓦葺に復元されました。

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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