白河小峰城(日本100名城) 11 最終回 松平定信など | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

未納の続きです。

今回が最終回で松平定信と歴史館です。

 

下図③付近から二の丸茶屋方向です。

内堀跡があります。

 

③から④の方に行くと

 

④付近から見た内堀跡と

二の丸茶屋です。

 

この反対側は

 

小峰城歴史資料館です。

 

下図の現在地です。

小峰城歴史資料館前です。

 

中に入ると

 

 

 

この先は撮影禁止でした。

 

ここにあったポスターです。

 

次に⑦の搦手門跡は

 

1808年の搦手門付近古絵図です。

 

上図⑦の搦手門枡形です。

 

上図⑧付近から本丸方向です。

三重櫓が見えます。

この石垣の手前は下図にある

武家屋敷のようです。

 

 

 

最後に松平定信さんですが、

優秀なので将来は将軍にな

るのではと言われましたが、

 

松平定信自画像です。(30歳頃)

 

9代将軍徳川家重により、白河藩の

養子にされます

 

吉宗の長男9代徳川家重です。

きっちりと言葉を話せなかった

という障害がありましたが、

吉宗は彼の子供は正常だしと、

長子相続させました。

田安家七男だった定信とは

伯父甥の関係でした。家重

は幼い頃に、お気に入りの

布を汚くなっても手放さない

という性格でした。優秀だと

言われた定信からバカにさ

れていると感じていました。

それで白河に追い出したと

いう仲でした。

病弱だった田安家の当主

が亡くなり、弟の定信は田

安家に戻してほしいと頼み

ますが戻れず、田安家は

当主不在で放置されます。

 

徳川家の系図です。

将軍職は弟の家系である一橋家

の11代家斉に奪われまし。

 

26歳で白河藩主となります。

天明の飢饉では的確な藩政

で餓死者を出さず、名君と讃

えられました。田沼意次を

失脚させ、1787年老中首座

となり、十一代将軍家斉を補

佐し寛政の改革に取り組みま

す。はじめは期待された改革

もうまく成功せず、家斉と対

立します。怒った家斉は小姓

から刀を受け取って、定信

に斬りかかろうとします。

しかし御側御用取次の平岡

頼長が機転を利かせて、

「越中殿(定信)、御刀を賜

るゆえ、お早く拝戴なされよ」

と叫んだために家斉も拍子

抜けし、定信に刀を授けて

下がりました。賄賂を一切

受け取らず、朱子学を重ん

じた定信ですが、家斉か

ら老中首座を解任されまし

た。

有名な川柳に「白河の清き

に魚のすみかねて もとの

濁りの田沼こひしき」があ

ります。白河とは白河藩で

す。

 

 

老中首座解任後は国元で

ある白河藩政に取り組みま

す。地元では名君です。

1801年には日本最古の

公園とされる、南湖と名付

けた一万六千坪の庭園を

竣工している。この庭園

は他大名の物と違い塀も

柵もなく「士民共楽」とい

う思想の元、庶民にも開

かれた庭園でした。

将軍になれなかった残念

な定信でした。

 

晩年の松平定信です。(1759~1829年)

 

これで白河城の紹介は終わりです。

明日からは会津若松城の紹介です。

 

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