音が悪くなった? チェロのチューンナップ指板の事例 (後編) | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

夏にこんな記事を書きました。
https://ameblo.jp/idealtone/entry-12817824358.html
前編と言いながら後編が来ていませんでした。

過去に別の職人が指板を交換して音が悪くなったので元に戻してほしいという依頼でした。その職人は指板の裏側を特殊な加工をすることで音が良くなると考えたのでしょう。しかし、頭で考えただけでは机上の空論でしかありません。

修理の依頼として難しいのはその以前の音を知ることができないので、以前の音に戻してほしいと言われてもわかりません。

しかし問題は他に見つかりました。駒が低くなりすぎています。
弦に引っ張られネックの角度が寝ていきます。そうすると弦と指板の間隔(弦高)が広くなりすぎて弦を抑えるのが難しくなります。弦高を正しくするためには駒を低くします。それを繰り返していると駒が低くなりすぎてしまいます。
20年くらい前に大きな修理をしているチェロですが、そこからネックが下がったのか、もともと低めに入れていたのかよくわかりません。

そこでネックに木材を張り付けて角度を調整しました。

同時に指板も新しくしました。以前のチューンナップ指板は上のカーブが平らすぎるのを不満に思っていたそうです。丸すぎるものを削って平らにすることはできますが、平らすぎるものを丸くすると両端が薄くなりすぎてしまいます。そこで新しいものに交換です。裏側に特殊な処理はせずに普通のものです。


ニスの補修を終えるとこんな感じになりました。継ぎ目が全く分からないというまでにはいきません。しかし修理法としては楽器にダメージを与えず最も経済的な方法です。チェロの場合には数十年に一回はこのような修理が必要です。


ニスもこんなにひどい状況でした。

最低限の補修でも随分とましになりました。

オーケストラの夏休みを利用しての修理でしたから、また新シーズンが始まってしばらく試してもらいました。
基本的にはすごく気に入ってもらえたそうです。しかし高音に荒々しい音がついてくるのが不満だと言っていました。
修理を終えたときに、弦の交換も考えたのですが、とりあえずそれ以前に張ってあった弦をそのまま使って、修理後の音の変化を見てから、弦の交換を考えようということになっていました。

弦は低音側の二本がトマスティクのスピルコア、高音側がラーセンです。これは20年以上前に流行した組み合わせでしょう。私が始めたときにも新製品の弦が登場し、すでに時代遅れになっていました。
チェロはスチール弦を使っている人が99%で、弦の音や演奏感覚への影響がとても大きいです。かつてはチェロでもガット弦が使われていました。ガット弦では柔らかすぎるので、スチール弦も背に腹は代えられず音量を得るために使われてきました。欠点ははっきりしていて金属的な耳障りな音がすることです。

ヴァイオリンではガット弦に変わるものとしてナイロン弦が主流になりました。しかしチェロでナイロン弦は柔すぎます。トマスティク・ドミナントやピラストロ・オブリガートなどわずかな製品にナイロン弦がありますが、スチール弦になれた人はグニャグニャして弾きにくい印象を受けるでしょう。

一つはチェロが低音楽器であること、サイズの割に板が薄く構造に柔軟性がある事などが原因でしょう。ヴァイオリンでもスチールはかつては耳障りな嫌な音と考えられていました。ガット弦が高級でスチール弦は安物と考えられてきました。安い楽器にスチール弦を張るのでよけいに耳障りな音になったことでしょう。今ではナイロン弦が開発され音の滑らかさはガット以上で、張力もガットよりも強いものです。
現在ではスチール弦も進歩しそのようなことはありませんが、細かな音の表情が失われてしまうと感じるかもしれません。使う人がいないので開発は止まっています。ナイロン弦はもともと特性が万人向きで望ましいものであり、スチール弦は欠点を抱えているものでした。このためか、チェロのスチール弦は新製品が出るごとに改良が進み、金属的な音が軽減して来ています。ヴァイオリンのナイロン弦は進歩しているかどうかよくわかりません。新製品は出ますが、定番になるものはありません。

このためトマスティクのスピルコアは古い世代のスチール弦ということになります。荒々しく針金のような音です。それに対してラーセンというメーカーは進歩的なスチール弦の開発でリードしてきました。他社よりも金属的な音が少ない柔らかい音が特徴です。
多くのチェロでは低音が頼りなく、高音が耳障りという問題を抱えています。それは人間の耳が高い音には敏感だからではないかと考えていましたが、楽器の構造で高音側に魂柱が入っているために、高音にクッション性が少なく音が強くなっているのではないかとも思います。これは以前左利きの人のために弦を左右反対に張る実験をした結果得られた見識です。

そのようなチェロの癖にあわせて、低音には金属的な音のトマスティク・スピルコア、高音側にはラーセンのラーセンを組み合わせました。ラーセンは張力を増したソロイストというバージョンが追加されました。

私はあまりのも両極端な組み合わせだと思います。
すべてスピルコアにすると高音が耳障りで、すべてラーセンにすると低音が頼りないというわけです。もし同じ弦のセットで上手くいくのであればそれが優れた製品と言えるでしょう。それで言うと中庸なのがピラストロ社です。パーマネントまたはパーマネント・ソロイストであれば、4弦をセットで使うことができます。逆に言えば高音が特別柔らかいわけでも無く、低音が特別強いわけでもありません。チェロ自体が問題のないものならばそれでいいでしょう。その後はエヴァピラッチ・ゴールドが出ました。これは全体的に柔らかい音のもので明るく豊かなボリューム感のあるものです。さらにパーペチュアルというものが出ました。これは引き締まって筋肉質の角の尖った暗い音です。

ラーセンはトマスティクから低音市場を奪還するためか、マグナコアというものを発売しました。柔らかい一辺倒ではなくスピルコアのような荒々しさを持たせています。高級スピルコアといった感じです。楽器によって相性がありますが、今学生などには人気があります。ただラーセンの得意な音では無いようです。

さらに新たに出たのがイル・カノーネというもので、これにはDirect&FocusedとWarm&Boadの2種類のバージョンがあります。基本的にはDirect&Focusedでスチール弦の正常進化が実感できると思います。特に耳障りなチェロではWarm&Boadが救世主となるかもしれません。

ただしラーセンで問題になるのは、高音の弦の寿命が短いことです。スピルコアとともに使うとA線を頻繁に変えないといけません。プロの使用頻度では数か月、半年も使うと長い方でしょう。低音の方のスピルコアは何年でも大丈夫です。むしろうちのお客さんん間ではスピルコアは新品の頃の硬さが取れて使い込んだ方が良いとう認識になっています。
このためチェロの弦は高音のものほど頻繁に変える必要があり、低音の方は劣化はあまり気にしなくてもいいというものです。

ラーセンがそのようになっているのは、もともとそういう設計になっているからです。ピラストロのほうがそこまで柔らかい音ではないものの耐久性はもう少しあるということです。ピラストロでは一番新しいフレクソコア・デラックスが最も柔らかい音と公式HPでも示されています。これは値段の安いものですが、安い楽器ほど耳障りな音のものが多いのでピッタリです。ただし、低音はやや頼りないので、同社のエヴァピラッチゴールドとの組み合わせを考えているようです。高音用の弦としても可能性を感じます。

トマスティクは伝統的に高音が耳障りになるケースが多いです。高音が柔らかい音のチェロなら可能性はあります。新製品がどんどん出ていますが、私どもは追いついていません。


話を戻すとチェロの持ち主は、マグナコアぐらいまでは試したことがあるそうです。10年以内の新製品は知らないようでした。いくつか試したけどもスピルコア+ラーセンに戻っていたようです。
そのチェロは特殊で離れて聞いているとそうでもないのですが、弾いている本人にはとても柔らかく感じるようです。それでスピルコアに戻っていたというわけです。

新製品がたくさん出ているのでアップデートを考えることができます。また本人が言っていた高音の耳障りな音も、ラーセンの弦が古くなっていることが考えられます。本人が演奏するとすぐにそれが弦の劣化によるものだと分かりました。基本的にのチェロのA線は古くなるとビョーンと金属的な付帯音が出てきます。ラーセンでは最初は柔らかいだけに目立ちます。これは当たりはずれや、楽器との相性などのレベルではなく必ず生じる変化と考えて良いと思います。
アマチュアでも2年くらい手入れも何もしていないようなチェロでは高音がメタリックになっていることが多いです。そうなるとA線の交換を薦めます。高音ほど劣化が感じられるので次の機会にはA線とD線を交換することになります。

本人としては低音はスピルコアが悪くないと考えているようなので、単に新製品にするだけでは低音が頼りなくなってしまうでしょう。メーカーは金属的な音を減らし柔らかい音を目指して開発を続けていますが、時にはそれによって柔らかすぎるということも起き得ます。新しい製品にすれば何でもスピルコアよりもマイルドな音になってしまい持ち主はそれは望んでいないとのことでした。

そこで芯のしっかりした音のピラストロ・パーペチュアルを薦めました。パーペチュアルはバージョンの違いが山ほどあって我々も覚えられないくらいです。パーペチュアルは楽器によって相性があって上手くいったりいかなかったりします。その辺の難しさがバージョン違いを次々と発売する原因かもしれません。
もっとも新しいのは「エディション」というバージョンでマイナーチェンジバージョンと考えて良いでしょう。

これをスピルコアのGとC線と交換すると、芯の強さは残しつつも開放的に豊かに鳴りました。タングステン巻きの弦なので最初は本調子ではありませんが、すぐに新世代の弦の違いを実感できたようです。
これは楽器との相性もあり、押さえつけたような重い音の出方になることもあります。今回のケースでは上手くいきました。

今度は高音側です。
劣化したラーセンを新品にするだけでも効果はあると思いますが、同社では一番新しい高級弦のイル・カノーネを試してみることになりました。始めにWarm&Boadを試すと耳障りな金属的な付帯音は無くなりました。さらにDierct&Focusedにすると伸び伸びと開放的に鳴るようになり、とてもスチール弦とは思えない柔らかい音でした。

このような体験は新製品が出るごとにします。かつて柔らかさに驚いた弦もさらに新製品と比べると針金のように感じます。ただそれがユーザーの求めている方向性なのかは分かりません。

プロの演奏者なのでこれが劣化すれば経費として交換が必要です。
アマチュアならそこまで劣化が速くありませんし、さらに経済性を考えるならフレクソコア・デラックスも考えられます。

スピルコア+ラーセンに変わる弦のアップデートとして面白い結果を得られました。パーペチュアルはバージョンがいろいろあるので他がどうなのかは気になりますが、すべて試せる人はいないでしょう。カデンツァというバージョンはG線とC線のみで用意されています。ということはスピルコアの市場を奪うべく開発されたのかもしれません。今回はエディションで十分な効果を得られたのでそれ以上詮索しませんでした。

かつてはチェロのスチール弦は欠陥を抱えたものであり、良いものが無い中苦肉の策で、スピルコア+ラーセンの組み合わせが流行しました。その後新製品が次々と出てどれを選んでいいか分からないという状況になっています。値段もどんどん高くなっていて気軽に買って試すというわけにもいきません。
そんな中ピラストロのフレクソコア・デラックスは値段も安く、耳障りな嫌な音を抑えてくれる悪くない製品です。ただ積極的に音を追い込んでいくというまではいかないでしょう。高級弦に比べると低音には頼りなさもあります。しかしランニングコストも考えると量産楽器にはとりあえずこれでいいのではないかと思うくらいです。

このチェロの持ち主の方はジョージア(グルジア)の出身だそうです。チェロも学生時代に買ってもらったものだそうです。サイズは小さめでその割には音が良く、他のものを借りてもピンとこないそうです。
楽器自体はボロボロで、どこの産地のものかもわかりませんが特別高価なのではないでしょう。そんなものを東ヨーロッパの人たちは使っています。ミルクール、マルクノイキルヒェン、シェーンバッハなど大きな産地の特徴が無いので地理的に考えてもハンガリーのものかなとも思います。


これはウクライナから来たばかりの親子が持っている子供用のチェロです。ラベルにはロシア語のような文字が書かれています。

酷いボロボロのものです。

修理もひどく絵の具のようなものが塗ってあります。


たまたまそこらにあった古い駒をあてがってみると奇跡的にぴったりだったので
タダで修理してあげました。
こんな粗末な楽器で練習している国もあります。

ロシア出身の人では24年使っていたチェロの弦が切れてしまって耐久性の不足を嘆いていました。それに比べるとラーセンの弦などはぜいたく品です。高価な新製品に次々と交換しなくてはいけないとまでは言うことはできません。


結果的に修理は上手くいって持ちの主の方には大変満足してもらったようです。指板の軽量化よりも、駒の高さ=ネックの角度のほうが音への影響が大きいでしょう。駒が低すぎると弓が表板にぶつかってしまうので弓の可動範囲を確保するために必要な修理で、結果音も良くなったと感じたようです。
物事というのは優先順位というものがあります。細かいことに夢中になってしまうと大事なことを見落としてしまいます。細かいことを知っている方が優れていると錯覚しがちです。マニアにはそのような製品が魅力的に見えビジネスとなって目立ってきます。

しかし大きなことを理解する方が難しいです。
具体性やつかみどころがなく、それが分かっていることの方が理解度が上です。


私は音は好みだという話をしています。
これは、職人の論理で「これは良い楽器だからこの楽器を買いなさい」と強要するのではなくて、ユーザーに選択権があるということを言っています。

そんなのは配給制度じゃないんだから民主主義の社会では当たり前でしょう。それが当り前じゃないのが職人の世界です、中世の大昔のままなのです。