音が悪くなった? チェロのチューンナップ指板の事例 (前編) | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

今年の夏は空前の冷夏でした。私も初めてのことです。
8月の上旬には最高気温が15℃くらいの日もありました。
猛暑はニュースになるのに冷夏は伝えられないようですね。なぜでしょうね?
世界では暑い所と涼しい所があっても、暑い時だけ報じれば「世界的な猛暑」という印象になりますね。

外国の情報などはまっすぐ伝わらないものだと考えておいたほうが良いです。

それでも過去10日くらいは本来の夏が戻っていました。
とはいえ夜に気温が下がり始めるのが早くて、例年に比べるとそこまでではありませんでした。
それももう終わってまた20℃以下になるそうです。

2月ころから作っていた楽器も形ができたので一休みです。


学校も夏休みで、ヴァイオリン製作学校の生徒が研修に来ています。
同僚が休暇を取っているので私が教える係です。
何か思ったことがあれば次にでもお伝えしましょう。


こちらは新年度のようなことは9月からです。
オーケストラも8月にはお休みとなります。新しいシーズンが9月から始まるわけです。
夏休みの間に楽器をメンテナンスに出すので我々弦楽器職人は今が修理の最盛期となるわけです。近年はコロナ対策のために、演奏会が行われず、メンテナンスの仕事も減っていました。このためひざびさに持ち込まれた楽器は汚れなどが多くついてニスの補修も必要になっています。
このような費用はオーケストラが持ちます。したがって申請をするなど楽団によって手続きが違います。資金が潤沢な楽団とそうでない楽団があります。動物園のような感じです。

プロの演奏者でも楽器のことは素人のようなものです。
弦楽器職人のもとを訪ねて楽器を見てもらうといろいろなことを言われます。
「私が考案したこれにすると音が良くなる」と言われます。ほんとかウソが怪しいものです。
そんな話です。

プロオケのチェロ奏者がやってきました。
別の工房で、指板を交換する修理を受けました。その後音が気にいらずに前のほうが良かったと言っています。それで何とかしてくれというわけです。
前の音が分からないので修理の依頼としては最悪の条件です。
依頼を受ける時に何が不満でどんな音にして欲しいか明確に指示してもらう方が助かります。でもその通りにできるかはわかりません。

一番困るのは「何か分からないけどしっくりこない」とか「以前のほうが音が良かった」と言われる時です。具体的にわからないと何ともしようがありません。

以前に別の工房で指板を交換すると音が悪くなったので再び交換することになりました。

指板を外しました。裏側を見ると変わっています。

尾根のような筋が3本入っています。
何のためにこのようになっているかは想像ですが、強度を保ちながらも指板を薄くすることで軽量化をはかっているのではないかと思います。


職人は「私が考案した指板に交換すると音が良くなる」と持ち掛けたのでしょう。実際演奏者は愛想をつかしています。指板の外側の丸みも気に入らず触るのも嫌という感じです。

持ち主の人は元の指板も取ってあったのでそれに戻すこともできそうでした。しかし他の問題があるので全く別の修理をすることになりました。

弦楽器ではいつものことで「ネックの下がり」が生じています。ネックが弦に引っ張られて指板の下端が下がってくると、それに合わせて駒の高さを低くしないと弦を抑えにくくなります。このため駒が低くなっています。そのせいか弓が表板のエッジにぶつかって傷がついています。
そこで、駒を高くするように修理が必要だと指摘しました。
この時角度だけを上げると表板を押し付ける力が強くなり、ギャーと押しつぶしたような音になる恐れがあります。
そこで角度が正しくなるようにします。

ネックに板を張り付けて高さと角度を調整します。

木材を張り付ける時に材料が薄いと接着のためににかわの水分が染み込むと曲がってきてしまいます。木材は水につけると狂いがひどく出ます。この接着は非常に難しいものです。
接着前は隙間なくぴったり合うように加工したつもりになっていても接着すると隙間が空いてしまうのです。職人ならあるあるでしょう。

木材を厚くすれば歪みは少なくなりますが、後でたくさん削り落とさないといけません。そこで、合板に張り付けてそれごと接着する方法を試みてみました。

指板は角度を変えるだけなら新しいものにする必要がありませんが、持ち主がとにかく前回の修理でつけられた指板を嫌っているので新しくしました。
以前のプロの演奏者がコロナの前からメンテナンスをしていないので指板も摩耗していますし、表面のカーブがあっていないので多く削り直さないといけません。そうするとやってみたら指板が薄くなりすぎたなんてことになりかねません。そんな失敗はついこの前にヴィオリンでありました。

前の指板は触りたくもないということもあって新しいものにしました。費用はオーケストラ持ちです。過去の修理をした人ではありません。

でもこれで音が以前のようになるかはわかりません。教科書通りに正しくしただけです。しかしもともと駒が低くなっていたので、以前よりも元気よく鳴るのではないかと思います。以前の音に戻すのではなく、楽器本来の能力を引き出すということです。
今回の修理が正解かどうかは分かりません。わからないのですから標準的な状態にすることしか私にはできません。

それよりもしばらくメンテナンスをしていなかったニスの方が大変ですね。傷を直すなんて仕事はありますが気が遠くなります。傷がいくつあるんでしょうか?
傷ひとつあたりで料金を計算すれば大金をゲットできますがそうもいきません。完全に直すのは無理で、痛々しくない程度にすれば使い込まれた楽器という印象になることでしょう。


ニスの仕事が多いので結果音がどうなるかはしばらく先になります。また報告します。


しかし、過去に改造修理をした職人の態度というのは「典型的な職人」のものです。「軽い方が音が良い」という理屈を信じていて、「軽量化した指板に交換することで音が良くなる」と、演奏者に改造修理を持ち掛けたのでした。その結果音は持ち主の人は気に入りませんでした。

その職人も「音を分かっている」つもりなんでしょうね。でも理屈で考えているだけです。職人や技術者の言うことが「机上の空論」であることが多いと私が指摘していることです。

こういう場合に「音が良い」と言ことに具体性が無いのです。これがレーシングカーの改造なら、タイムとして結果が出ます。ドライバーが運転しやすいことも長丁場のレースではタイムアップにつながります。

でも、音が良いということに何の具体性もありません。
音というのは変化することはあってもそれを良いととらえるか悪いととらえるかは主観でしかないと考えるべきです。つまり同じ変化でもあるケースでは音が良くなり、別のケースでは悪くなったと評価されうるのです。

現状がどうで、それがどう変わったかということですから。

生物の進化と似ています。卵や子供が生まれると個体差のあるものが生まれます。そのうち生存に有利な個体が残ってさらに子孫を残します。たくさんの卵のうちほんのわずかだけが「良くなった」というわけです。
それでも環境が変化すると対応できなくなって栄えた生物も絶滅してきました。

ちょっとずつ違う指板を何十個も交換すれば一つや二つは音が良くなるかもしれません。チューンナップというのはそれくらいのリスクだと思ったほうが良いです。職人にそれくらいの経験があって、このケースではこうする、このケースではこうするというくらいの知識があれば「技術」として確立しているということになります。しかしそのようなケースはまれで今回のように頭がで考えた机上の空論であることが多いです。

演奏家としては職人に「指板を変えたら音が良くなりますよ」と言われるとそうかと思ってしまうでしょう。

今回の修理では指板を変えるだけでなく、駒の高さ、ネックの角度、魂柱、駒も交換します。そうやって多くの項目を同時にやるとすべてが最善ではないにしてもリスクが分散して極端に変な音にはならないでしょう。おそらく楽器本来の「普通の音」になるのではないかと思います。それを願って仕事をするしかありません。
実際弓が表板にぶつかっていたので駒を高くするのは楽器を守るために必要なことです。演奏を妨げる要素を改善するという事にもなります。

あとはもともとボディストップが短いチェロで、弦長が短い方が弾きやすいということで、その点も以前のものより厳密に調整します。


研修に来ている学生にはこんなことを見せて、職人というのは理屈で考えているけども、実際の音はそれとは全然違うんだということを教えました。
なんで職人がそんな思考に陥るかというのは一つは、ヴァイオリン製作学校の先生がそういう事を教えているからです。学校の先生というのはそういうものです。実際の楽器とお客さんとのやり取りで起きることを体験するのはいい刺激となるでしょう。
しかし現段階では、「決められた寸法に正確に加工する」ということがとても難しいものです。それができないのに音が良くなる秘密に夢中になるのはもってのほかです。
ヴァイオリン職人を志した人のうち最初の1~2か月で8割の人が辞めます。それは作業が苦行と感じられるからです。私はそれが楽しくてしょうがありませんでしたし、研修生も苦にならないようなので将来性があります。以前やめて行った見習いはつらくてしょうがなかったようです。職人としてまじめに仕事をできるだけでも「天才」なのですよ。

私が作っているようなヴァイオリンでも、ヴァイオリン製作学校では不合格になるものです。板は薄すぎるし、アーチは高すぎます。形もストラディバリとは違います。
学校で教えていることが間違っているとまではいいませんが、正解とされていることが狭すぎるのです。もっと幅があるということを知ってもらいたいです。

正解を頭で考えるのではなく、実際に出てきた音を耳で聞かないといけません。

今回のお客さんは割といろいろな工房を訪ねては職人の言うことを真に受けてしまい様々な「チューンナップ」を施しています。それに対してプロでも全く無頓着な人もいます。

私は指板を軽量化することよりもネックの角度や駒の高さのようなことの方がはるかに音の違いに直結するのではないかと思います。この手の修理は数えきれないほどやってきています。

よく分からない「発明品」に飛びつく前に普通の状態にしたほうが良いでしょうね。
安価なアクセサリー類なら試してダメなら没にすれば良いですが、チェロの指板交換は結構な仕事量です。学生にはヴァイオリンの指板交換をやってもらいました。学校では新作楽器の製造しかまだやっていないので、修理で指板を交換するのははるかに難度が高いです。
悪戦苦闘していましたが、プロは同じくらいの作業時間でチェロを交換できます。

当然生徒には発明品の指板を教えるのではなく、普通の指板交換を正しく行う方法を学んでもらいました。

このような失敗事例が起きる原因を皆さんも参考にしてもらいたいと思います。
つまり机上の空論で考えている職人が主流だということです。これは別の分野でも「理系マニア」が陥りやすいものです。そういうマニアを一般の人は頭がおかしいと思うでしょう。そういう人はマニアの中でも「下手くそ」な人です。下手くそなマニアを取り上げて「その趣味はクレイジー」と思われてしまいます。本当にマニアの上級者は理屈ではなく結果を客観的に受け入れ、センス良く生かすものです。科学とは客観的であるはずなのに、理系趣味の人が理屈に引っ張られて、先入観で結果を判断してしまうのです。だからおそらく理系出身者の中でも本当の科学者は少ないのでしょうね。職人の中でもそうなのですから。
ストラディバリや音響工学の研究も出てきます。それも先入観に満ちたものでおよそ科学とは言えないものです。

さらに、芸術や文化というのは科学とも違います。それを「美」という抽象的なものを作り上げなくてはいけません。美を生み出すための手段が技術というわけです。技術に興味があって美に興味がないと「下手くそなマニア」の典型となることでしょう。

ヘタクソなマニアが飛びつくようなものというのがあるんです。それと同類の職人がニーズに応えて収入を得ているというわけです。
健康食品とかパワーストーンとか他の分野でもいろいろありますね。


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