白木のヴァイオリンが完成 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

弦楽器のおもしろさは「音」が人間の思考とは全く別の原理であるという事にもあります。ものを学ぶためにはこれまでの人生経験で培ってきたものをすべて忘れることが重要です。

天才や巨匠や名人のようなずば抜けた職人がいて彼の作る楽器の音だけが優れているという思い込みがあります。しかし人間の社会の中での地位と物理現象の音とは全く関係がありません。音は空気の振動ですが純粋な物理現象で、空気を読んではくれません。

例えば20世紀に作られたヴァイオリンは形は同じようなストラド型かガルネリ型でアーチは平ら、板の厚みはやや厚めのものが多いです。このように教科書通り20世紀初めの頃に作られたものはたいていよく鳴るようになっていて、新作楽器ではかないません。多くのものは作者も有名ではなく値段は新作よりも安いことも多いです。
たくさんある中から試奏して好みに合う音のものを探すことができます。



ドイツ、チェコ、ハンガリーなどのマイスター級のヴァイオリンであれば教科書通りきっちり作られています。値段は300万円もするようなものはめったになく、200万円もしないものがほとんどで作者が無名なら100万円位です。こうなるとイタリアの新作楽器には競争力がありません。日本ではこのようなモダンのマイスターヴァイオリンが存在することは知られておらず、仕入れても売れない、売れないから仕入れない、売ってないから誰も知らないというサイクルに陥っていることでしょう。安くて音が良い楽器の宣伝に費用をかけるよりもバブル時代の商売を続ける方が旨味があるというわけです。
何よりも一度嘘をつくとつじつまを合わせるために嘘をつき続けないといけなくなります。このため日本語で情報を集め弦楽器に詳しくなればなるほど、無知の人よりも理解から遠ざかっていくことになります。英語も独特の世界があって危険です。今まで嘘の上に嘘を積み重ねて構築して来たウンチクが崩れ去ってしまうのはせっかくの労苦が水の泡になってしまいます。

だから私は言葉で語られることなんて無視しろと言っているのです。そうすれば矛盾することもありません。なぜかはわからなくても弾いて音が気に入ればそれで良いのです。それが「悟りの境地」です。

日本国内でも地方から東京に行くと価値観の違いに驚きます。高価な楽器が飛ぶように売れて行くのが理解できません。東京中心の思考で弦楽器業界自体が時代錯誤にならないことを願います。


イタリアのもので同じ時代のものとなると普通は500~1000万円くらいします。しかし品質はバラバラで素人が作ったような一か八かのものも「イタリア製」と一緒くたにされています。業者は「個性がある」とほめるかもしれません。
しかし不真面目だったり、教育を受けられなかった職人はどこの国にでもたくさんいてドイツやチェコの個性的なものはマイスター作品とは区別され50万円位がせいぜいでしょう。手作りだからと言って音は量産楽器にもかなわないかもしれませんし、逆に何百万円もするものよりも良いかもしれません。ヴァイオリンの値段と音は直結せず1000万円~2000万円は誤差の範囲内くらいと思ったほうが良いでしょう。

500~1000万円、またはそれ以上するイタリアのモダン楽器を見ても職人たちが皆「見事なものだ」と絶賛するようなものではありません。鑑定書があるかどうかだけです。そういうものだと知ってください。

それを正当化するウンチクが捏造されます。
「フランスの楽器の方が美しく作られている、しかしイタリアの職人は見た目ではなく音を作っているのだ」と。私もイタリアのオールド楽器のファンですからそうあってほしいです。しかし実際には日本の業者が安くしか買い取ってくれないので見た目がそこそこのものを手早く作っているようです。日本の消費者も音に対してシビアではなく「言葉」に高いお金を払っているようです。

フランスの楽器製作は組織的に行われたので、それほどの規模で音について研究されたことも歴史上ないことでしょう。むしろ性能が優れています。そもそもモダン楽器を確立したのがフランスですから。モダン楽器というのは広いホールで演奏するため、作曲もスケールの大きなダイナミックな作品が作られるようになり、それに「音」を対応させるために考案されたものです。現在でもそれが主流となっていて、イタリアの職人もそれに習っています。
音のために考えらたのがモダン楽器であって、見た目だけを作ろうとしたものではありません。それならシュタイナー以上に工芸品を目指したことでしょう。かつて王侯貴族が所有していたヴィヨール族の楽器や宝飾品のように装飾に力を入れることでしょう。
ただ極限まで性能を追求しなくても、遊びがあっても良いのかなとも思います。意外と「柔よく剛を制す」ということがあるので弦楽器は面白いのです。


同じようなウンチクは弓についても言われます。
フランスの弓に比べるとドイツの弓のほうが正確に加工できていることがあります。「フランスの弓の方が個性や味があるんだ」と。今度はフランスの立場が逆転してるのが面白いですね。値段が安い産地のものが品質が高いと同じような言い訳を考えるものです。
日本人の職人についても同じようなことが言われることでしょう。

言葉で知るべきことはウンチクのようなものはいくらでも作れるということです。このため詳しい人ほど間違っていくのです。ヴァイオリン業界ではウンチクを作ることが楽器を作るよりも熱心なようです。


ともかく職人の腕の良さが音の良さとは直結しません。
作りながら音を調整する工程が無いので作っている時にはどんな音がするかわかりませんし、何が理想なのか分かっていないので卓越した技量で精密に加工してもそれが正解かわかりません。加工に失敗したと思ってもその方が音が良いかもしれません。音の良し悪しも演奏者によって感じ方が違います。


このため現在ヨーロッパで職人は楽器を製造するよりも修理の仕事の方が主になっています。たくさん作られ過ぎました。たくさん作られたので値段も安いのです。それを「高い=音が良い」と思い込んでいると試すことさえしません。安い楽器をバカにする人には弦楽器への愛がありません。愛が無いのに愛好家とは言えないでしょう。

コストパフォーマンスという概念はとても重要です。弦楽器に詳しいのであるならこのことを理解しているべきです。有名な作者の楽器を買っておけばいいというのは楽器に興味がないお金持ちの雑な買い方です。弦楽器のことを知らない親や祖父母が高い楽器を買うのはカモにされるだけです。

こちらで楽器自体に興味がない人は作者名なんてなんでもいいから音が良い楽器を試奏して選んでいます。作者名なんて知る必要が無いのです。



一方で20世紀には作風が定説としてマニュアル化し定まってしまっため、全く違う音のものは珍しくなります。特にオールド楽器や初期のモダン楽器とは音が違うと感じる人もいます。個人差があります。これを探すのは数が無いので難しいのです。有名なオールド楽器は高価なものですが、必ずしもお金の問題ではありません。評価額では新作よりも安いものがありますが売っているか分からないのです。

そのような楽器が音が違うのは「古さ」と「作り」の二つの要素が考えられます。古さを再現することは不可能ですが、作りなら可能性があります。

19世紀以降、近現代的な楽器を効果的に作る方法が研究されて来たのでオールド楽器のようなものは作り方が誰もわからなくなってしまいました。気持ちだけオールド風に作りたいと思っても工具を変えなければ出来上がってみるといつもと同じ現代風になってしまいます。
またオールド楽器は作風もバラバラなのでどれを再現すると結果が得られるかも重要です。特定の古い楽器と同じだから良いというわけではありません。


新作楽器でオールドのような音を再現するにはとても厳しい条件となります。オールドの時代なら適当に作っても今頃はオールドの音になっています。

オールドだから全部音が良いというわけでもありません。音もバラバラで好みも別れるでしょう。
したがって私が作っているようなもので200年以上前のものがあればものすごく期待が持てる貴重なものです。
それは私がたくさんの楽器を見て来て、試作を繰り返してこんなもんじゃないかというイメージです。
そのような条件を満たしてお手本となるものを探すのは難しいです。
このため何でもかんでもオールド楽器の複製を作れるというわけにもいきません。
ビオラになるとオールドで作られた数が少なく、サイズもバラバラで、ペッグボックスに難があるのでもっと難しいです。

モダン楽器すら製法が失われてしまったようです。19世紀的なものはすぐに売れてしまいます。うちでは板が薄く暗くて強い音のものは学生などに最もよく売れるトレンドです。こちらでも80年代にはまだ明るい音のものが売れていて、当時暗い音のものを買った人は少数派だったと言っています。今となっては鳴るようになっていますから羨まれるものです。

評判というのは「過去の知識」です。
国として間違いを教えるわけにはいかない小学校で教えるようなことは過去の知識であり、大学で行われる最先端の研究とは違います。いつでも定説が覆るのが高度な知識です。
何よりも自分の心に正直であることが重要です。それが私がこちらで学んだことです。

小型にモディファイしたピエトロ・グァルネリ型のヴァイオリンです。
横板を裏板に接着します。

アンティーク塗装なので中も古くします。


ラベルには偽造防止技術です。絵を描いてあります。小さく描かないといけないのが難しいです。

ここを切り取ってネックを取り付けます。

高いアーチの楽器ではネックの取り付け方が難しいです。正解が分かりません。

ネックがつくとヴァイオリンらしくなります。基本的にはアマティ譲りの造形をしています。しかし音響的には窮屈さが少ないと思います。モデルはアマティとデルジェスの間という感じですね。
というよりもデルジェスはこれを踏襲し、アマティのクオリティが無くなったというだけです。デルジェスの謎の一つは適当に作ってあるのに、後の時代の適当に作られたものと違うので、単なる適当でもないという所です。このような基本があるからでしょう。大雑把に言えばアマティやグァルネリ家のものを適当にしたのがデルジェスということです。さらにグァルネリ家で働いていたベルゴンツィの影響もあります。
これをデルジェスを革新的なものと考え、他のグァルネリ家やアマティを「従来の劣ったもの」ととらえるとデルジェスを理解することができません。

適当に作られた楽器の音が良いことがあるというのは説明してきました。適当にする何かベースみたいなものがあるはずです。

エッジの加工が終るとコーナーの印象も変わってきます。アマティ的な細長い感じがあります。しかしやや横方向に向かっているのが特徴です。
板は板目板でユニークです。
全体に丸みがあります。

アーチはかなり高さがあります。白木なので指板の影が映っています。中央を頂点としています。上が平ら過ぎると陥没してしまいます。
横板は板目板ではなく柾目板になっています。これはオリジナルに習ったためです。グァルネリ家では適当で木材を揃えようという気が無かったのでしょう。ネックも柾目になっています。アマティやストラディバリなら板目板で統一されていることでしょう。

アーチも立体感があり丸みがあります。楽器全体に丸みがありかわいらしい感じがします。クレモナのオールドヴァイオリンはかわいらしい印象があります。モダン楽器の方が立派という感じがします。


ネックは通常よりも2mm短くなっています。胴体のストップ(駒の位置)は3mm短くトータルで5mm短くなります。指板の位置をずらせばネックも最大で2mm伸ばすことができるようにしてあります。時を経てオーナーが変わっても通常のヴァイオリンとして使用できるようにするためです。

指板の幅も通常よりも0.5mm細くなっています。たった0.5mmですがネックを握った印象は異なるでしょう。1mm細いと細すぎます。これがクレモナの新作楽器では私の通常よりも1.5mm太かったのです。私のビオラよりも太い物でした。




これからニスを塗ります。
会社の仕事とは別の時間でやっているので、ここまでほとんど休まず半年かかっています。こんなに一生懸命作っても適当に作られた楽器の音が良かったりするんですからやってられません。


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