ミケ様
寒いような暑いような時期でございます。
暑くはないか、もう。
お元気でお過ごしのことと思います。
にゃんこ先生です。
☆
「バリアント」というのは現実の一種です。
今いる現実があって、それとは別の、バリエーションとしての現実です。
現実はひとつではありません。
「今いる現実」というのも、別の現実からすると、「バリアント」といえます。
となると、すべてはバリアント。
バリアントというからには元があります。
元(ソース)は「ひとつのもの」です。
☆
あるバリアントから、任意のバリアントを「自由に選んで」跳躍できるのか?
ほんとにそんなことはできるのか?
前回はそんな問いかけで終わっていました。
原理的には可能。
「原理的に」はね。
明日の朝、駅前のATMで一万円おろして、あまりの残高の少なさに唖然とするというバリアント(現実)があったとしましょう。
明日の朝、駅前のATMで一万円おろして、残高を見たら億万長者になっていた、というバリアント「も」あったとしましょう。
残高を別にするとバリアントという意味では同列です。
だけど、易システムはここに「至り易さ」と「至り難さ」を観ます。
それを「距離」といってもいいかもしれません。
上の例のふたつのバリアントでいうならば、今いる場所(バリアント)からは、唖然とする方が、億万長者より、はるかに至りやすいバリアントであることは、明らかなのではないでしょうか。
☆
さらっと『明らかなのではないでしょうか』といってしまいましたが、なぜそうなるのでしょうか。
それはたぶん、そのように人間の顕在意識が働くからだと思います。
人間の顕在意識がそういうふうに「見せる」。
タガとか、カセとか、制限とか、またいいたくなりますが……
そうではないでしょう。
そんなネガティブなものではありません。
それは人間の、もっといえば生命の、「主たる」機能なのではないかと思っています。
「ひとつのもの」を「自己の境界」によってあえて限定して眺めること。
それが人間の、生命の、「ひとつのもの」を区分することによって成り立っているあらゆる存在の、根源的な存在理由なのではないでしょうか。
それを無視した願望実現法は、極端にいえば、人間やめろ!生命やめろ!と言ってるのと同じコトで、現実という幻想の上の、さらなる矛盾した幻想になってしまうのではないかと思います。
☆
あるバリアントから任意のバリアントを自由に「選んで」跳躍できるのか。
原理的には可能です。
では、ゲンジツには?
極端に離れた(至り難い)バリアントに一気に跳躍するのは実際にはむずかしい。
……と、当たり前の回答になるのでした。
☆
トランサーフィンも、けっこうムチャなことを言っています(*1)。
毛色は他のものとはかなり変わっていますが、これも願望実現ものの一種です。
トランサーフィン流にいうなら億万長者の方のバリアントを選びたければそうなることを「当然と思え」、そしてそのようにふるまいなさい、ということになるのでしょう。
どのくらい「当然と思う」かというと、毎朝ポストに朝刊を取りに行くのと同じくらい当然と思え、そうすればトランサーフィンできますよ、と。
最近は新聞をとってる人も減っていると聞きますが、これはもう「当然と思う」というより、「思う」とか、なにかテクニックを「練習する」とか、そういうレベルじゃない。
息をしたり歩くのと同じくらい「自然に」ということらしいです。
たしかにそうできれば、バリアントの流れをトランジットすることができるかもしれません。
でもふつうは、そんなことはできない。
朝刊を玄関に取りに行くことと、イキナリ億万長者になることを、平然と、同列に、アタリマエに観ることなど、ふつうは到底出来ません。
人間という装置の取説に、それらを同列に観ることができる機能は、記載されていないのではないかと思います。
あるいは書いてあってもちっこい字で後の方に書いてある。ふつうはそんなとこ、読みません。
もちろんどんなものであっても常に「仕様外」の使い方はあります。
包丁は料理の道具ですが、ふだんのニュースに出てくるのはたいていその「仕様外」の使い方です(例えがよくない)。
仕様外の使用法については留意しておかなければなりませんが、当面のところ、朝、駅前のATMに一万円おろしに行って、残高のオシリに付いた0の多さに腰を抜かす(*2)!……ということもなさそうです。
ていうか、腰抜かしてる時点で、トランサーフィンにはほどとおい。
当然と思っていれば腰など抜かしません。
ひと安心(?)したところで次回につづきます。
★注釈
(*1)
トランサーフィンの本を読んだのはずいぶん昔。
このへんはウロ覚えです。まちがってたらゴメン。
(*2)
このふたつのバリアントのちがいは、実はホントに微々たるもんなんですよ……というのが隠れたオチ。
ちがいは、お金をおろしに行った口座の残高を記憶しているシステムのデータのちがいだけです。
もしあの時、ああだったら、こうだったら、もし私が、あの時、ああしてれば、こうしてれば、という、無数の変数を含む、「たられば」バリアントどうしのちがいに比べれば、ある特定のデータのビットの値がちがうだけのバリアントの相違(距離)なんてほんとうに微々たるものでしょう。
一億円の札束のカタマリが現実に眼前にあることと、コンピュータのデータは、実際にオカネをおろして、目の前に置いて数えてみるまで、リンクしません。
今、駅前のATMの前でリンクしているのは、手の中にある一万円札と、通帳に支払額として記載された10000というデータと、ため息をつかれるそのときのミケさんのお気持ちだけ、ということになります。
え?そんなに切羽詰まってない?
にゃんこ先生みたいな素寒貧の酔っぱらいと一緒にするな?
失礼しました。
ではまた〜
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すべて無料、閲覧、複製、配布自由です。
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「(1)易システムハンドブックV2.02(最新(最終)はV2.03です)」は猫乃電子出版の田邉さんが根性で作成してくれたRomancer版(ブラウザで読める本)もあります(多謝)。
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