<ドラマ緑豆の花でのチェムソン>
 
6章 朝鮮の人物-52 近代3
全琫準チョンボンジュン
 
 
 
 
近代3番目は迷わずこの人でしょう。
そう朝鮮王朝末期の民衆の英雄
全琫準チョンボンジュンです。
 
この人を思うと浮かぶ童謡(民謡)。
 
새야 새야 파랑새야  セヤセヤ パランセヤ
록두밭에 앉지말아   ノクトゥパテ アンチマラ
록두꽃이 떨어지면     ノクトゥコチ トロジミョン
청포장사 울고간다  チョンポ チャンサ ウルゴガンダ
 
鳥よ鳥よ 青い鳥よ
緑豆の畑に降り立つな
緑豆の花が散りゆけば
靑泡(チョンポ)売りが 泣いて行く
 
中学校の歴史授業で習ったので今でもソラで歌えます。
恐ろしく単純な歌ですが寂しくて心に響く、奥の深い童謡です。
 
<ドラマ緑豆の花>
 
色んな意味や説が有りますが、1番有力なのはこう言う意味です。
 
日本軍(又は官軍)よ 
緑豆(全琫準の号)将軍を倒すな
将軍が倒れれば
朝鮮民衆が嘆き悲しむ
 
青い鳥、緑豆と靑泡チョンポ売りを引っ掛けて居るのがミソですが、チョンポとは緑豆で作った豆腐(ムク묵)を指します。
 
<チョンポムク청포묵>
 
この童謡に謳われる全琫準チョンボンジュン
1855年生まれ。
幼名はミョンスク明淑明佐、海夢、鐵爐、全永準、綠豆、緑豆将軍の異名が有ります。
 
書堂ソダン(寺子屋)や漢薬房などを運営した事を見ると、朝鮮王朝末期に多く見られた没落したチュンイン中人またはリャンバン両班と思われます。
 
 
彼の父親はチョンチャンヒョク全彰赫、母親は彦陽金氏で、彼の父親は書堂の訓長や郷校の掌議をしたと言います。
村の長老によると村長だったと言う説も有ります。
 
全琫準は、このようなインテリの父の下で幼少期を過ごし、他の子供たちの様に書堂(寺子屋)で漢学を学びました。
 
 
背が5尺(約152cm)と低く、大人になっても綠豆と言うニックネームで呼ばれたそうで、最も有名な別名「緑豆将軍」もここに由来して居ます。
 
<全琫準供草>を見ると、所有する土地は田畑を全て合わせて3マジギ(約600坪0.19ha)と当時貧農層の平均所有レベルで、家庭生活はかなり困窮したそうです。
 
高敞タン村で幼少時代を過ごした彼は家勢が衰え方々を彷徨い、30代に入って東学に入信、1890年代初には数年間雲峴宮で起居し、興宣大院君の門客だった事も有るそうです。
 
 
この縁で甲午農民運動の最中、興宣大院君が密使を送り、全琫準と連携しようとしたと言われて居ます。(本人は供述でそれを否定)
 
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30歳頃全羅道コブ古阜郡で書堂を開き、子供たちを教えながら漢薬房を開き医員生活を始めます。
風水を見たり書を代筆したり、今で言う行政書士の様な仕事をこなしました。
 
 
この頃、有名な貪官汚吏チョビョンガプ趙秉甲の横暴が深刻でした。
自分の母の葬儀に2千両を収めろと命令し、全琫準の父親が邑の代表として出て抗議して杖刑で亡くなります。
 
その後もジョビョンガプの横暴は酷く、民の労働力を動員して建設した貯水池マンソクポ万石洑の使用料を強制的に徴収して搾取、地方土豪よりお金を収奪するなど暴政の限りを尽くしました。
 
 
彼は1894年農民1千人を導いて民乱を起こし、マンソクボを壊して官衙を襲撃し奪われた穀物を取り戻し農民に分けるなどしました。
 
朝鮮政府は慌てふためきジョビョンガプなどの腐敗官吏を処罰し新たに郡守を任命、事態収集の官吏アンヘクサ按覈使を派遣しましたが、派遣されたリヨンテまた深刻な横暴を働きます。
 
 
民を慰撫せず農民を拷問して処刑する乱暴な姿勢に怒った全琫準は1894年3月、各地域の東学接主に文を送ってキムゲナム金開南、孫華仲などと一緒に東学教徒と農民1万人を集めて農民軍を組織し、農民運動(戦争)を起こしました。
 
因みにこの時東学の中心で有る「北接」暴力に反対して農民軍に呼応して居ません。
 
<もう1人の指導者キムゲナム>
 
この様な事実からこの闘いを東学農民戦争(もしくは東学革命など)と呼称する事には抵抗感を禁じ得ません。
 
以後農民軍は勢いに乗り、朝鮮王家発祥の全州城を占領するなど勢力を拡大し、朝鮮王朝政府を恐怖に陥れます。
 
当惑した朝廷は急ぎ和約を結ぶポーズを取りながらまたもや清国の軍隊派兵を要請しました。
以前にも述べましたが、国際情勢を無視した高宗の罪は非常に重いと言えます。
 
<日本軍の様子>
 
清軍と、甲申政変の処理で結んだ天津条約を口実に朝鮮に派兵した日本軍が押し寄せ、我が国が戦場になりかね無い事を憂慮した農民軍は朝鮮政府と全州和約を結び軍を解散しました。
 
この時期の状況は歴史篇本編に詳しいので是非とも再読を!
 
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彼らは農民自治機関で有る「執綱所」チプカンソを設置して封建制打破の為の政策を繰り広げました。
 
その後日本が武力にて景福宮を占領、日清戦争を起こすと彼は「斥和勤王」を叫んで東学農民軍を集め軍事行動を起こしました。
 
 
この闘いは近代朝鮮初の反帝反日闘争としてその意義が高いです。
 
彼の呼び掛けに北接も渋々これに参加し、漢陽(ソウル)奪還に向け進撃を開始しますが、機関銃をはじめとする近代兵器と優れた組織力を備えた日本軍とその配下に入った朝鮮官軍との数回の戦闘、
公州ウグムチ戦闘で敗戦し、農民軍は淳昌に退却せざるを得ませんでした。
 
 
彼は軍隊を集めて再起しようとしましたが、昔の部下金敬天の密告により逮捕され圧送、裁判後1895年3月29日処刑されました。
 
ドラマでは「明成皇后」そして2019年大きな話題で始まった「緑豆の花」が記憶に新しいです。
「緑豆の花」は甲午農民戦争を背景に、敵味方に分かれ闘う羽目になった兄弟の悲哀を描いた作品で大作ですが、感動です。名作なので是非ご覧下さい。
現在、GYAOなどで配信中です。
 
レビュー記事はコチラ
 
彼は頭書に挙げた童謡に有る様に民衆の指導者として慕われ、民衆の英雄として長く謳われ続けて来ました。
 
余談ですが、湖南(全羅道)地方では1945年の祖国解放時に上記の歌を歌ったそうです。

youtubeでドラマOSTをみつけたので↓↓↓

 
彼は惜しくも道半ばで斃れはしましたが、今も全ての朝鮮民衆の心の中にしっかりと生き続けて居ます。
 

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<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키