<ドラマ 緑豆の花>
 
ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
97.東学トンハク
 
 
 
 
昨年韓国でドラマ「緑豆の花」が制作されましたが、敵味方に分かれてしまった兄弟の悲劇を通じて甲午農民戦争が全面的に描かれ話題を呼びました。
 
今回は1894年甲午農民戦争に多大な影響を与えた東学について見ます。
 
東学は1860年(哲宗11)に教祖チェジェウ崔済愚が創始した朝鮮の民間宗教です。
 
<東学(天道教)旗>
 
東学と言う名称は、彼が西敎(キリスト教)に対抗してわが国の宗教という意味で付けた名前で、天主信仰に基づき輔国安民広済蒼生(苦しむ民を救う)を打ち出した民族的かつ社会的な宗教です。
 
東学思想は
❶すべての人が自己の体にハンウルニム天主を祀る事によって君子になれると言う思想から始まり、
❷「人に仕えるのをハンウル(天)の様にする」と言う思想になり、
❸後には人が直ぐにハンウル=「インネチョン(人乃天)」で有ると言う教理に発展しました。
 
東学には二つの経典「東經大全」「龍潭遺詞」が有りますが、東学の思想を簡単に理解できるだけでなく歌詞調の文体が素晴らしく、文学的な価値も認められています。
 
<東学教典「東經大全」>
 
21文字呪文なる
「チギクムチ ウォンウィデガン シチョンジュ チョファジョン ヨンセブルマン マンサジ
(至氣今至 願爲大降 侍天主 造化定 永世不忘 萬事知)」
と言う呪文を唱えるだけで苦しい修行をせずとも直ぐに君子となる事が出来ると言う思想が
庶民に受け入れられ、
三南地方(忠清,全羅,慶尚)を中心に全国に広がりました。
 
<教主チェジェウとチェシヒョン>
 
庶民の支持が日増しに大きくなると朝廷では、東学も西学(キリスト教)のように民心を惑わせる邪教で有ると禁止させ、教祖崔済愚は信者たちと一緒に捕らえられ1864年に処刑されました。
 
2代目教主 崔時亨は東学布教に力を注ぎ、東学は最下部の「包」を統括する「都接主」を置き全東学教団を統率する道主を置くなど統率有る組織に発展しました。
 
その後、東学運動は教主の地位回復を目指す
「教祖伸寃運動」を通じて
民衆の集団デモ運動に転換され、
貪官汚吏の追放、外勢排斥など政治的要求が組み込まれ、社会運動の要素が強くなりました。
 
 <ドラマより>
 
かいつまんで東学の特徴は3つ有り
 
❶まず思想が儒教・仏教・仙教の3教をベースに統合され、民間信仰的要素が大きい点、
 

❷次にキリスト教の天命思想を受け入れつつ、先祖を祀らないキリスト教の教理を批判し、庶民の生業、農業・商工業を神聖視、輔国安民して、死んで天国に行くより生きて救済される事を目標とする点、

 
❸最後に庶民層の反王朝的な社会改革運動の性格を帯びていたと言う点です。
 
特に後の2つは、西洋の勢力を我が国を侵略する危険な存在として把握して居る点(斥邪思想)と、両班社会の解体期に万民平等の理念を打ち出して居ると言う点で、
社会史的意義が多大だったと言えるでしょう。
 
<緑豆ノクトゥ将軍ことチョンボンジュン>
 
1894年(高宗31)甲午農民戦争に於いて
全琫準ら農民軍指導者は、東学の宗教運動が築いた万民平等の理念とその組織をベースに
甲午農民戦争を農民運動の集大成である社会改革運動に発展させました。
 
農民軍が合言葉に掲げた除暴救民・逐滅倭夷・消滅権貴は、すでに東学運動が革命的な社会改革運動に転換したことを物語っています。
よって韓国では甲午農民戦争東学農民戦争、東学農民革命とも呼びます。
 
もちろん東学の教理は革命ではなく教化であり、東学組織の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否したと言う点で限界は免れません。
 
<甲午農民戦争>
 
実際、2次蜂起に於いて農民軍決起を妨害する行動が有りました。
なので共和国ではこの運動に於いて東学の影響は限定的で有るとし、「東学」と言う冠詞は付けません。
 
東学は1905年にソンビョンヒ孫秉熙によって
天道教に改称されました。
 
天道教は広く庶民に根を下ろし、
自主独立の民族運動勢力として
その地位を占めました。
 
<3代教主 ソンビョンフィ>
 
金日成の満洲抗日闘争を助けたとして、
共和国でも「天道教青友党」が友党として存立しており、
幾ばくかの信者を擁して居ると思われます。
韓国では現在教会が100箇所、信徒が10万人との事です。
日本にも神戸に教会が有ります。
 
 
<参考文献>
한국민족문화대백과사전 東学
위키백과
조선전사