私たちの医師国家試験の会場は都内の拓殖大学で、2日間にわたって試験は行われました。

 

拓殖大学の最寄り駅は地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅です。

 

私の出身校である筑波大学附属高校(当時は東京教育大学附属高校)は拓殖大学の近くにあり、茗荷谷駅から歩いて高校まで通っていました。

 

 

 

いきなり話はそれますが、茗荷谷駅から高校まで歩く途中に小さな公園がありましたが、その公園ではよく拓大の応援団が大声で練習を行っていました。

 

しかし、高校3年の時にその拓大応援団ではシゴキによる部員死亡事件が起こり、応援団の上級生数人が逮捕されるという事件がありました。

 

それ以前から、拓大の応援団は怖い集団だという噂を聞いていましたが、まさか死亡事件まで起こすとまでは思っていませんでした。

 

 

 

1985年にはまだつくばエクスプレスはおろか東京駅行きの高速バスもなく、つくばから拓大まで2日間通うのは大変なため、前日から同級生全員で都内のホテルに泊まりこんで試験に臨みました

 

この時宿泊したのは新宿西口公園近くのビジネスホテルで、それぞれに個室が用意されました。

 

私たちだけでなく一般客も利用しているホテルで、場所的にカップルの利用も多く、カップルが泊っている部屋の隣の部屋をあてがわれた同級生の中には、隣の部屋の物音に悩まされて勉強が手に付かなかったたという人もいました。

 

 

 

 朝のホテルから試験会場への移動には貸切バスを利用し、同級生全員で行動を共にしました。

 

これが大学入試であれば、周りの同級生は全員がライバルとなるわけですが、国試では全員合格を目指す仲間であり、みんなと一緒に試験会場に行けることに大きな安心感が得られました。

 

行きは一緒でも帰りは別々なので、1日目の試験終了後には、高校時代によく通った茗荷谷の「バンビ」という洋食屋に夕食を食べに行ったことを覚えています。

 

 

 

ホテルやバスの手配などは全て1学年下の後輩の有志(国試対策委員 略して国対委員)が行ってくれて、私たちの行動は万事彼らにお任せです。

 

 

 

試験前日にホテルに泊まるのには、誰一人試験に遅刻しないようにすることの他に、もう一つ大きな理由があります。

 

それは、試験前日に他の大学の国試対策委員より予想問題がもたらされることです。

 

 

 

国試対策委員なる組織は筑波大学だけでなく他の各大学にも存在し、出題が予想される問題を交換し合って前日夜に受験生へ情報を知らせてくれます。

 

試験前日に部屋で仕上げの勉強をしていると、ドアの下の隙間から次から次へと予想問題のコピーが差し込まれます。

 

 

 

予想問題がどこからどのように持ち込まれたのか私は知りませんが、当たっていた問題もあれば当たらなかった問題もありました。

 

予想問題なんて全然あてにならないと聞かされていたのですが、私には結構当たっている確率が高かったように感じます。

 

当たっていた予想問題も、それを知らなかったら答えられなかったというような難問はほとんどなかったのですが、合格ラインぎりぎりにいる受験生、特に国試浪人生にとっては重要な情報だったのかもしれません。

 

 

 

予想問題の情報源は知りませんが、さすがに問題作成者からの露骨な漏洩はないものと信じています。

 

一般的には、国試問題を作成している先生の授業内容から、その授業を受けた学生らが問題を推測しているのだと思います。

 

 

 

当時の筑波大学には国試の問題を作成している教官はいませんでしたので、筑波大学からもたらされた予想問題はなかったものと思っています。

 

しかし、国試が終わってから気が付いたのですが(これは私の思い込みかも知れませんが)、筑波大学の教授に大きな示唆を与えてくれていた人がいらっしゃるのです。

 

 

 

それは、その教授の6年生最後の授業において、授業の最後に「今日の私の授業は君たちにとっては大変重要な価値がある」というような趣旨の発言がありました。

 

そしてその言葉通り、その授業で強調して説明されていた病気が卒業試験に出題されました。

 

卒業試験後の時点では、あの時の教授の言葉は「卒業試験に出題するぞ」という意味だったと解釈したのですが、なんとほぼ同じような問題が国家試験にも出題されたのです。

 

今では、あの時の教授の言葉は「国家試験に出るぞ」という意味だったのではないかと確信しています。

 

 教授が示唆した問題と同一の病気を問う問題のCT写真

 CT像と病歴から病気を診断する問題でした

 

 

 

国試が終わってからは、みんなで新宿に行って居酒屋で打ち上げパーティーを行いました。

 

一次会終了後、新宿の街をスキップしたことまでは覚えているのですが、飲みすぎてその後の記憶がありません。

 

気が付いたときは、後輩が運転する車の中でした。

 

私の人生の中で、最大の記憶空白期間となっています。

 

 

 

前回の問題ブログに書きましたように、私が大学を卒業した1985年から医師国家試験(通称:国試)は年1回だけとなりました。

 

当時の国試は4月の初旬に行われ、結果発表は5月の中旬でした。

 

 

 

私は筑波大学の6回生(大学創設6年目に入学)ですから、私たちの前には5学年約500人の先輩が卒業していましたが、その全員が前年の秋の国試までに合格していました。

 

1985年の国試を受けた筑波大学の卒業生は、全員が現役だったことになります。

 

 

 

筑波大学の医学教育のカリキュラムは、他の大学にはない独特なもので、必ずしも国試に有利というわけではありませんでした。

 

6年生の1学期は大学から外に出て、県内や都内の一般病院で実習を行う「院外実習」を受けることになっていました。

 

医学生が大学病院以外で臨床実習を受けることなど当時の日本ではあまり例がないことでした。

 

 

 

他の大学では6年生になるとすぐに国試の準備に取り掛かるのですが、私たちは院外実習中のために1学期の間はとても国試の受験勉強などできるはずもなく、本格的な勉強の開始は6年生の夏休みになってからでした。

 

それでも筑波大学の国試合格率が全国でトップクラスを維持していたのは、陸の孤島だったつくばの環境と無縁ではありません。

 

 

 

近くに繁華街もなく交通も不便だったつくばでは、勉強するかスポーツに励むしかなく、勉強に没頭することが容易だったのです。

 

国試勉強中の邪魔になった誘惑は、つくばに当時「東洋最大のディスコ」と称された「エクセル」という大きなディスコができたことと、国試直前の1985年3月から開催された科学万博です。

 

それまで何も有名になるようなことがなかったつくばで科学万博が始まったことは、受験を控える身にとっては迷惑以外の何物でもありませんでした。

 

 

 

大学6年生の夏休みからは仲の良いもの同士で小グループを作り、定期的に国試対策の勉強会を開いてみんなで一緒に勉強をしましました。

 

筑波大学の学生のほとんどは大学近くのアパートに一人暮らししていたので、友人が集まって勉強するのには大変好都合でした。

 

 

 

余談ですが、あんなに仲良く一緒に勉強していた同級生も、医師になってからは忙しさゆえに、集まって近況を語りあうなどのということはほとんどなくなります。

 

同じ大学病院に勤めていても、診療科が違うとたまに食堂で会うくらいで接点が無くなります。

 

ましてや勤める病院が違うと、年賀状のやりとりくらいはしても会って話し合う機会はまずありません。

 

ただ、今はもうみんな子供も成人して仕事も第一線から退く年齢に近いづいてきたので、旧交を温める機会は今後増えるのではないかと期待しています。

 

 

 

 

正直言いまして、国家試験前の半年間は自分の人生の中で最も勉強に集中した日々だったと思います。

 

大学入試の時よりも勉強したと思います。

 

国試は競争試験ではないので、合格ラインを超えることができればよく、他人よりいい成績を取る必要はありません。

 

しかし、国試に落ちてしまっては医師ではないただの人になってしまうので、絶対に落ちるわけにはいかないという重圧にさらされ、どんなに勉強してもこれで十分とは安心できませんでした。

 

それゆえ、今でも国試のことを夢に見てしまうことがあります。

 

 

 

 1985年医師国家試験の問題

 医学の試験なのに、表紙の例題は何故か地理の問題です

 

 

 

医師国家試験の合格基準は100点満点で60点程度と言われています。

 

実際の試験では、試験後の自己採点で95点近い得点が取れていたので、はたから見れば余裕の合格ですが、当時は心の余裕なんて全くありませんでした。

 

国試勉強の時に覚えた知識は、医師になって以降現在に至るまで大きな財産となっています。

 

 

 

1985年の国試では筑波大学は99%合格の好成績でしたが、翌年は念願の全員合格という成績を残しました。

 

 

 

 

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今日から大学入試センター試験が始まりました。

 

センター試験の日は、何故だか関東でも雪が降ることが多いのですが、今年はどうやら天気に恵まれているようです。

 

 

 

センター試験の前身は「共通一次試験」ですが、今年は共通一次試験が始まってから丁度40周年にあたります。

 

そして何を隠そう、40年前の共通一次試験が始まった年に高校を卒業したのが、私たち1960年生まれの人間です。

 

 

 

私は高校までは都内に住み、都内の高校に通っていましたから、茨城に住むようになってから今年で40年経つことになります。

 

 

 

40年前の1979年第1回共通一次試験は1月13日に行われましたが、その日も都内は大雪が降り、試験会場となった越中島の東京商船大学(現在の東京海洋大学)まで遅刻しないように朝早くに家を出ました。

 

入学試験にマークシート方式が取り入れられたのもこの時からで、それまでマークシートの試験を受けたことなんてなかった私たちは、マークシート方式に慣れるようにとマークシートを使った模試を受けて練習したことを覚えています。

 

 

 

私が現役で筑波大学に合格できたのも、正直言って共通一次試験のお陰かも知れません。

 

医学部志望の理系でありながら、当時の私は数学ⅡBと数学Ⅲを苦手としていました。

 

共通一次試験の数学は数学Ⅰだけを勉強すればよく、しかもその年の数学の問題は比較的簡単だったため、数学嫌いの私でも満点を取ることができました。

 

 

 

 

 保存してあった40年前の共通一次試験の受験案内書

 

 

 

 第1回共通一次試験の問題冊子の現物

 

国立大学入試に共通一次試験が導入されたことは、私の人生の中で大きな幸運の一つであり、大学入試で運を使い果たしたのか、その後の人生ではくじを引いても当たりがでたためしがありません。

 

 

 

 

この年、1979年に関東に雪が降ったのは共通一次試験の日だけでなく、筑波大学で行われた二次試験の日も見事に大雪に降られました。

 

朝早く雪の中を常磐線で土浦駅に向かい、バスに乗り換えて筑波大学まで行ったことを覚えています。

 

電車やバスが遅れなかったのはラッキーでした。

 

 

 1979年 筑波大学医学専門学群の小論文試験

 

 

科学雑誌「サイエンス」のフロンガスに関する論文を引用した問題

 

 

 

 

1979年から始まった国立大学入試の改革は共通一次試験の導入だけではなく、一期校と二期校の廃止という大きな変更点もありました。

 

今の若い人はご存じないと思いますが、1978年までの国立大学には一期校と二期校という区別があり、二期校の入学試験は一期校の試験の後で行われていたため、受験生は2つの国立大学の入試を受けることができたのです。

 

それが、1979年からその区別がなくなり、国立大学の受験チャンスは年に1回だけとなりました。

 

当時は前期試験と後期試験の区別もなければ推薦入試もなかったため、国立大学の入試は文字通りの一発勝負となってしまいました。

 

 

 

 

私たちの学年から一発勝負の試験に変更となったのは国立大学入試だけではなく、医師国家試験も同様です。

 

私たちが大学を卒業して医師国家試験を受験したのは1985年ですが、その前年の1984年までは医師国家試験は年に2回ありました。

 

1984年までは春の国家試験に落ちても、半年後の秋の国家試験を受験することができたのですが、私たちの学年からは医師国家試験の制度までもが変更されてしまったのです。

 

 

 

 

せっかく大学を卒業できても、国家試験に落ちてしまったら1年間医師になれないわけですから、当時のプレッシャーは相当なものでした。

 

医師になってから30数年経った今でも、時々国家試験の夢を見ることがあります。

 

試験が間近に迫っても準備が追い付かず、全く勉強していない科目がありながら試験に突入するという嫌な夢です。

 

試験を受けるということは、何歳になってもあまり気持ちの良いものではありません。

 

 

 

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