前回の問題ブログに書きましたように、私が大学を卒業した1985年から医師国家試験(通称:国試)は年1回だけとなりました。

 

当時の国試は4月の初旬に行われ、結果発表は5月の中旬でした。

 

 

 

私は筑波大学の6回生(大学創設6年目に入学)ですから、私たちの前には5学年約500人の先輩が卒業していましたが、その全員が前年の秋の国試までに合格していました。

 

1985年の国試を受けた筑波大学の卒業生は、全員が現役だったことになります。

 

 

 

筑波大学の医学教育のカリキュラムは、他の大学にはない独特なもので、必ずしも国試に有利というわけではありませんでした。

 

6年生の1学期は大学から外に出て、県内や都内の一般病院で実習を行う「院外実習」を受けることになっていました。

 

医学生が大学病院以外で臨床実習を受けることなど当時の日本ではあまり例がないことでした。

 

 

 

他の大学では6年生になるとすぐに国試の準備に取り掛かるのですが、私たちは院外実習中のために1学期の間はとても国試の受験勉強などできるはずもなく、本格的な勉強の開始は6年生の夏休みになってからでした。

 

それでも筑波大学の国試合格率が全国でトップクラスを維持していたのは、陸の孤島だったつくばの環境と無縁ではありません。

 

 

 

近くに繁華街もなく交通も不便だったつくばでは、勉強するかスポーツに励むしかなく、勉強に没頭することが容易だったのです。

 

国試勉強中の邪魔になった誘惑は、つくばに当時「東洋最大のディスコ」と称された「エクセル」という大きなディスコができたことと、国試直前の1985年3月から開催された科学万博です。

 

それまで何も有名になるようなことがなかったつくばで科学万博が始まったことは、受験を控える身にとっては迷惑以外の何物でもありませんでした。

 

 

 

大学6年生の夏休みからは仲の良いもの同士で小グループを作り、定期的に国試対策の勉強会を開いてみんなで一緒に勉強をしましました。

 

筑波大学の学生のほとんどは大学近くのアパートに一人暮らししていたので、友人が集まって勉強するのには大変好都合でした。

 

 

 

余談ですが、あんなに仲良く一緒に勉強していた同級生も、医師になってからは忙しさゆえに、集まって近況を語りあうなどのということはほとんどなくなります。

 

同じ大学病院に勤めていても、診療科が違うとたまに食堂で会うくらいで接点が無くなります。

 

ましてや勤める病院が違うと、年賀状のやりとりくらいはしても会って話し合う機会はまずありません。

 

ただ、今はもうみんな子供も成人して仕事も第一線から退く年齢に近いづいてきたので、旧交を温める機会は今後増えるのではないかと期待しています。

 

 

 

 

正直言いまして、国家試験前の半年間は自分の人生の中で最も勉強に集中した日々だったと思います。

 

大学入試の時よりも勉強したと思います。

 

国試は競争試験ではないので、合格ラインを超えることができればよく、他人よりいい成績を取る必要はありません。

 

しかし、国試に落ちてしまっては医師ではないただの人になってしまうので、絶対に落ちるわけにはいかないという重圧にさらされ、どんなに勉強してもこれで十分とは安心できませんでした。

 

それゆえ、今でも国試のことを夢に見てしまうことがあります。

 

 

 

 1985年医師国家試験の問題

 医学の試験なのに、表紙の例題は何故か地理の問題です

 

 

 

医師国家試験の合格基準は100点満点で60点程度と言われています。

 

実際の試験では、試験後の自己採点で95点近い得点が取れていたので、はたから見れば余裕の合格ですが、当時は心の余裕なんて全くありませんでした。

 

国試勉強の時に覚えた知識は、医師になって以降現在に至るまで大きな財産となっています。

 

 

 

1985年の国試では筑波大学は99%合格の好成績でしたが、翌年は念願の全員合格という成績を残しました。

 

 

 

 

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