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陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

・教育学研究第82巻2015志水宏吉40―51頁


○学歴に対する家庭環境の影響力


 国立大学、学費年額約54万円、私立大学文科系学部70万円、医学部歯学部300万円と学費でもいろいろある。

 家計所得と進学大学への進学率は、家計所得が年収200万円未満28.2%、600~800万円未満49.4%、800~1000万円未満54.8%、1200万円超62.8%。また年収差の効果は国公立よりも私立大での影響が大きい。親の経済状況が子の大学進学の決定に大きな影響を及ぼす。国公立か私立かの選択にも影響する。


 親の年収が高くなれば就職する高校生の数は低下する。年収200万円未満35.9%、1200万円超5.4%。


 社会移動は戦後開放的になったが、近年再び閉鎖的になっている。


 親の所得水準が子の学力に大きな影響を与えている。親の所得が高いと子が学校外教育を受ける余裕があると考えられる。ただし、親の能力・学力が高いから所得が高く、それらが子に遺伝されたとも考えられる。


○飛梅は紅か白か


 配流の際、道真を慕って都から一夜にして大宰府まで飛んだと伝えられる「飛梅」として伝えられている梅木は、白梅である。ところが、北野天満宮に、この木と同じ種として伝わる「紅和魂梅」と呼ばれる樹齢約300年の御神木があるのだが、こちらは紅梅である。


 道真邸宅は紅梅殿と呼ばれ、対して菅家累代の邸宅は白梅殿と呼ばれた。 多くの作品において、道真が「東風吹かば」の歌を詠んだのは紅梅殿でのことであったと伝えられる。紅梅殿は、清少納言も枕草子第二十二段、ものづくし、家の項に取り上げている。「いへは。このゑの御かど。ニ條あたり。一條もよし。すざぐ院。かも院。をののみや。すがはらの院。こうばいどの。あがたのみと。そめどの。れいぜい院。とう三條。こ六條。」なお、枕草子の章段分けは書籍によって異なることがある。(http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/nakajima/waka/data/makura1.html


 道真失脚事件は平安時代の『拾遺和歌集』、『大鏡』、『宝物集』、鎌倉時代の『北野天神縁起絵巻』、『源平盛衰記』、『十訓抄』、『古今著聞集』、南北朝時代の『太平記』等に記されている。


 『拾遺和歌集』、『大鏡』、『宝物集』ではまだ道真の邸宅を「紅梅殿」と記していない。『北野天神縁起』のうち絵巻として最古のものとされるいわゆる承久本にはすでに道真邸宅に対して「紅梅殿」という呼称が用いられており、邸内から紅梅を眺める道真の姿が描かれている。詞書のみの建久本は未調査。時代は下るが1278年作『北野天神縁起』弘安本には「承相の御家は五条坊門、西洞院。めでたき紅梅ありければ、後人、紅梅殿とぞ名付ける」と記されている。


 奈良時代から白梅が先にあって、紅梅が平安時代に入ってから中国より渡来した事情もあって、平安時代の人々には新しい紅梅が特に好まれた。当時大陸先進文化の象徴でもあった梅を、遣唐使中止の建議を行った道真が好んだというのは不思議な縁だと思う。


 さて、「飛梅」は紅白いずれであるかという問いへの答えは、やはり「紅」である。道真公は白梅も愛でたのではないかとも思うが、飛梅伝説の形成過程の作品中ではすべて、「東風吹かば」の歌は紅梅を眺めながら詠まれたとされているからである。


○学歴社会の実相


Q.日本は学歴によって、社会の処遇に差が生じる「学歴社会」なのか?

A.先進諸国と比べると学歴による賃金格差は小さい。学歴による職位昇進確率の差はあるが、能力にしたがった評価制度の浸透がすすめば是正されると考えられる。


学歴には、1最終教育段階、2学校の質やブランド、3専攻の三性質がある。


日本では、高卒と大卒の間で、賃金格差が目立つ。だが、先進諸国と比較して実際の賃金格差は小さい。では、その「学歴格差感」は何処から来るか。職位昇進確率の差ではないかと考えられる。1入社時の学歴フィルター、2学歴による配属時の贔屓、3受験を通じて養成された努力できる能力、4いわゆる学閥などの同窓人脈、5「知力」による活躍、6競争原理の導入が甘い旧態官僚的企業における、学力の評価、の5点が昇進へ有利に働くと考えられる。


戦後日本社会における教育民主化政策に伴い、次第に高校、大学への進学率も上昇してきた。1955年の時点で進学率は、高校50%、大学10%だった。高校進学者のうち、普通科60%、職業科40%だった。現在の進学率は、高校97%、大学50%。高校進学者のうち、普通科80%、職業科20%である。


進学の選択は5つの要因がある。1本人の能力、2本人の意欲と努力、3家計が教育費、生活費を支払えるか、4通学圏内に志望の学校・専攻があるか、5卒後の職業生活の見通し、の5つである。

戦後進学率が上昇した最大の要因は高度経済成長によって家計所得が増加したことにある。


現在のような大学進学率が50%を超える在り方を、苅谷剛彦は「大衆教育社会」と呼び、吉川徹は「学歴分断社会」と呼ぶ。また学歴格差の三極化が指摘できる。高卒と普通大卒と名門大卒との処遇格差である。


○消費者によって教育が選択される時代

「抑圧と疎外」から「私事化」の時代へ変わりつつある。教師はいよいよ専門的力量を求められる。学級経営上の課題は、相対的競争心から絶対的挑戦意欲へと変えていくことである。


○宇賀神

伏見稲荷は8世紀、和銅年間に創建された。昔伏見のあたりで、秦一族の祖が餅を矢で射ろうとした瞬間、餅は鳥に変化し飛び去った。飢饉や疫病の祟りがあったため、鳥が降りた山に稲が生ったことから稲生り、稲荷として祀り鎮めた。山城国風土記逸文、豊後国風土記。


稲荷神社によく見られる鳥居に用いられる朱色は、古墳時代から血と生命力の象徴とされ、アカカガチ(赤酸醤/赤輝血)とも呼ぶ。赤酸醤は、赤いカガチ、蛇の頭の形に似たほおずきの意味である。


赤色顔料は水銀朱、精製すれば水銀となり、鍍金に用いられた。鍍金によって作られる金属鏡はとぐろを巻いた蛇の身または目という意味でカガミと呼ばれた。


宇賀神、ウカノミタマの御神体は米俵と一体化した白蛇の姿として描かれる。弘法大使が稲荷山の山中で邂逅した竜頭太という老人は、竜蛇と雷の神ともされる。


深い森の中で暮らした縄文人と稲作を伝えた渡来人とでは、蛇の見方が異なる。水害をなす執念深い山の神としてただ畏怖の対象であった蛇は、イナヅマとして雨を呼び、米を食べてしまう鼠を捕らえる、「稲作を助ける益なる神」としての姿を新しく得た。古い蛇神を封じ新しい蛇神を祀る社として、稲荷神社は創建されたものであると考えられる。


○知りたいこと

上巳節会はどのような行事か

八幡神はどのような神であるか

飛梅伝説の梅は紅白のいずれか

・普遍性と特殊性

特殊をつうじて、普遍へ至ることができるのではないか。

自分の存在、自分の経験は特殊なもので、それは究極的には、だれも変わってやれないし、だれにもわかってももらえないものだ。

いや、経験には、一般的な、みんなと大差ない、凡庸な性質というものがあって、それをかけがえのないものとしているのは、私のもつ、根源的な、根っこの特殊性なのである。


そして、誰もわからない、誰も助けられない、だれも触ることのできない、だれも到達のできない、そういう絶対的に隔絶された性質をもつような、そういうものが、わたしの一番根っこの特殊性というものでなければ、簡単につかまって、売り払われてしまうのではないだろうか。

だから、そういう、絶対的な孤独、絶対的な隔絶、絶対的な、利己、とじこもって、光のうちにとらえられることのない、個、というもの、を、基礎にすることが、たいせつ、というか、社会的に大切だとは、どうしてもいうことができないのだけれど、でも、そういうことからはじめないと、うそだぜ、とおもう。


が、そういう思考は経験や努力や社会的な、価値あるあらゆる取り組みを否定してしまうのではないだろうか。原理的に、普遍性だけを愛すると、特殊なものがどんどんいやになる。なぜなら、他と比べて、違うという意味なら、それは結局のところ、どうにかして距離をつめられ、追いつかれてしまうからだ。

特殊な経験を否定してしまって、それを悪だと感じる。なにかやろうとやるまいと、そういう、価値や肩書や、評価の対象や、認められるもの、認識されうるものはみな、絶対的な個、という入口と、矛盾するからだ。


存在自体がすでに、悪であるような感じがする。なぜなら、個、絶対的な個というものをとらえようとする、それをまったく価値の低い、「ひとそれぞれの個性」のように、親切な顔をして、すり替えようとするからだ。

だから、存在、つまり、社会的な存在、言語世界的な存在、集団内の存在としての存在は、すなわち悪なのである。

絶対的な個としての「存在?」のほうは、善でも悪でもない。


社会というものの、個との根本的な対立があって、これは、いつも、問題にならない。いつも、大切なものを忘れているような、ひっかかりを、おぼえる。

・そもそも、存在即悪
陽の当たる場所を占めることがすべての簒奪
の始まりである。

真正なるものだけで、善なるものだけで、美しいものだけで世界をつくれるならば…

真、善、美は、相対的なもので、やはり、根っこの、圧倒的な隔絶のようなものよりは、あまり、大切な感じがしない。ナルシシズムというけれど、ぼくは、これは自己愛ではないとおもっている。なぜなら、愛よりもはやいからだ。あるいは、はやくて、遠くて、捕えられないものを目指すこと、そして、やはり失敗する、その、手を伸ばす営みとその失敗のぜんたいを、愛と呼ぶなら、やはり、そこでいわれていることの一面は自己愛なのだろう。

つまり、愛の向かう、根っこと、自己愛とが、ある、ということだ。


しかし、そうするとやはり、普遍性をなぜ、求めようとするのだろう。根っことは、なんにも、関係がないのに…。道徳や倫理という意味での、社会貢献や、善や、国のための努力なんて、まったく、悪趣味だとおもうのだが。


・労働

生活と人生、ということがあって、いま、やはり、生活が問題になっている。

職能という、趣味を、あわせて、かんがえようとしていて、これは、根っことは、たぶん関係がない。

ぼくは、趣味として、ロールプレイングゲームが好きなのだが、そのようなものとして、たずきの道を、形成せんとしている。

利己のほうが、いくぶん、気持ちが良い。

・生きづらさは、「値踏みする目線」からやってきているようにおもいます。

あらゆるものが評価の、賭博の、数値化の対象となる時代
生きる意味は「不要」であるばかりか、「下
品」である。

僕はどうも、人間において、「評価」ということを、最大の問題だと、考えているふしがある。なぜ、って、うまくいえないんだけれども。


問:芸術は価値から自由であるか。

芸術なんてぜんぜんわからないのだが、芸術は、表現を条件としてもつのだろうか。

わかってもらおうとする芸術なんてものは、まったく、自己矛盾なんじゃないか。

これも、根っことは無関係だし、じつに、悪趣味(猫に笑われるという程度の意味)なのだが、まあ、生活上有用であるし、多くのひとは、社会貢献なんてものをじつに、ナイーブに信仰しているので、レトリックとしては、うまいのだろうとおもう。そのほうが、生活しやすくはあろう。

流通する善さはそれ自体が下品だということを、わからないと、まったく話があわない。

だいぶ、馴れと愚鈍によって、耐えられるようになったけれど、やはり、ひきつった笑いがこびりついているようなのである。

もっと演技を練習したほうが良い。


快適なる労働は、一個の、マシな、政策であろうと思う。

企業理念や、国家のミッションや、宗教上の習慣なんてものよりは、まだ、ましだ。快適なる労働と快適なる生活、まだよい。否定しがたさが、高い。だから社民と資本主義が結婚して地球をまわしているのだろう。



・施しは正しいのか
勤勉な労働と倹約した質素な生活が救済を証
だてる為なら、それは免罪符とどうちがうのだろう。

救われなくてなにがわるいのだろう。

地獄と天国とがあって、それがどうなのだろう。

天国には天国の苦しみがあるのではないか。

地獄にはいってしまえば、その中にも、よい待遇とわるい待遇とがわかれてしまうのではないか。

いや、神と天使による完全な天国と完全な地獄の運用があるから、天国の腐敗も、地獄の脱法的快や満足も、ありえない。


完全な運用があるのなら、はじめからそれでいいんじゃないのか。

神が、完全な存在との一体化(それは神だろう)ではなく、不完全でみじめな人間をつくりたもうたのは、自由な愛を、強制のない、困難な愛を、ねがったからではなかったのか。

歴史の浄化をつうじて、救うものとすくわれないものをわけ、救うものをのみ、彼の園にむかえるのなら、はじめから、試練なんてまどろっこしいことをせず、完全な存在をのみ、園につくり住まわせればよかろう。

それとも、なにか、神による人間創出の御業は、時間制限だから、なされたのか。

最後の審判という期限付きの、いわば、いっときの遊びだとわかっているから、そうしたというのか。

きみの神はなんとも尻が軽いな。


天国を求めるのは、愛がわからないやつだけだ。

悟りなんかないし救いなんかない。

すると、人間はみじめに、たすけあって生きていくしかない。

下品でみじめに、やっていくしかないのだが、しかし、どのように…。

評価ほどえげつないものはない。

ぼくは、評価が、社会の全体を、生活のすみずみまでを覆い、一元的に整合的なものとなるようにしようと思っている。

評価自体、うすっぺらいが、その薄い評価をさらにふたつにわる。

うすい・あさい評価は、逃げ場のない、社会全体の一枚のもの。

もう少し密な・深い評価は、部分集団内での、もの。

これを使い分けるしかないのではないか。

ほんとうは、なんにもならないほうが、ほんとうだ。


・評価が人間にとって、人間の生活にとって、最も、問題である

・社会制度を反省することをやりたい