20151120 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

・普遍性と特殊性

特殊をつうじて、普遍へ至ることができるのではないか。

自分の存在、自分の経験は特殊なもので、それは究極的には、だれも変わってやれないし、だれにもわかってももらえないものだ。

いや、経験には、一般的な、みんなと大差ない、凡庸な性質というものがあって、それをかけがえのないものとしているのは、私のもつ、根源的な、根っこの特殊性なのである。


そして、誰もわからない、誰も助けられない、だれも触ることのできない、だれも到達のできない、そういう絶対的に隔絶された性質をもつような、そういうものが、わたしの一番根っこの特殊性というものでなければ、簡単につかまって、売り払われてしまうのではないだろうか。

だから、そういう、絶対的な孤独、絶対的な隔絶、絶対的な、利己、とじこもって、光のうちにとらえられることのない、個、というもの、を、基礎にすることが、たいせつ、というか、社会的に大切だとは、どうしてもいうことができないのだけれど、でも、そういうことからはじめないと、うそだぜ、とおもう。


が、そういう思考は経験や努力や社会的な、価値あるあらゆる取り組みを否定してしまうのではないだろうか。原理的に、普遍性だけを愛すると、特殊なものがどんどんいやになる。なぜなら、他と比べて、違うという意味なら、それは結局のところ、どうにかして距離をつめられ、追いつかれてしまうからだ。

特殊な経験を否定してしまって、それを悪だと感じる。なにかやろうとやるまいと、そういう、価値や肩書や、評価の対象や、認められるもの、認識されうるものはみな、絶対的な個、という入口と、矛盾するからだ。


存在自体がすでに、悪であるような感じがする。なぜなら、個、絶対的な個というものをとらえようとする、それをまったく価値の低い、「ひとそれぞれの個性」のように、親切な顔をして、すり替えようとするからだ。

だから、存在、つまり、社会的な存在、言語世界的な存在、集団内の存在としての存在は、すなわち悪なのである。

絶対的な個としての「存在?」のほうは、善でも悪でもない。


社会というものの、個との根本的な対立があって、これは、いつも、問題にならない。いつも、大切なものを忘れているような、ひっかかりを、おぼえる。

・そもそも、存在即悪
陽の当たる場所を占めることがすべての簒奪
の始まりである。

真正なるものだけで、善なるものだけで、美しいものだけで世界をつくれるならば…

真、善、美は、相対的なもので、やはり、根っこの、圧倒的な隔絶のようなものよりは、あまり、大切な感じがしない。ナルシシズムというけれど、ぼくは、これは自己愛ではないとおもっている。なぜなら、愛よりもはやいからだ。あるいは、はやくて、遠くて、捕えられないものを目指すこと、そして、やはり失敗する、その、手を伸ばす営みとその失敗のぜんたいを、愛と呼ぶなら、やはり、そこでいわれていることの一面は自己愛なのだろう。

つまり、愛の向かう、根っこと、自己愛とが、ある、ということだ。


しかし、そうするとやはり、普遍性をなぜ、求めようとするのだろう。根っことは、なんにも、関係がないのに…。道徳や倫理という意味での、社会貢献や、善や、国のための努力なんて、まったく、悪趣味だとおもうのだが。


・労働

生活と人生、ということがあって、いま、やはり、生活が問題になっている。

職能という、趣味を、あわせて、かんがえようとしていて、これは、根っことは、たぶん関係がない。

ぼくは、趣味として、ロールプレイングゲームが好きなのだが、そのようなものとして、たずきの道を、形成せんとしている。

利己のほうが、いくぶん、気持ちが良い。

・生きづらさは、「値踏みする目線」からやってきているようにおもいます。

あらゆるものが評価の、賭博の、数値化の対象となる時代
生きる意味は「不要」であるばかりか、「下
品」である。

僕はどうも、人間において、「評価」ということを、最大の問題だと、考えているふしがある。なぜ、って、うまくいえないんだけれども。


問:芸術は価値から自由であるか。

芸術なんてぜんぜんわからないのだが、芸術は、表現を条件としてもつのだろうか。

わかってもらおうとする芸術なんてものは、まったく、自己矛盾なんじゃないか。

これも、根っことは無関係だし、じつに、悪趣味(猫に笑われるという程度の意味)なのだが、まあ、生活上有用であるし、多くのひとは、社会貢献なんてものをじつに、ナイーブに信仰しているので、レトリックとしては、うまいのだろうとおもう。そのほうが、生活しやすくはあろう。

流通する善さはそれ自体が下品だということを、わからないと、まったく話があわない。

だいぶ、馴れと愚鈍によって、耐えられるようになったけれど、やはり、ひきつった笑いがこびりついているようなのである。

もっと演技を練習したほうが良い。


快適なる労働は、一個の、マシな、政策であろうと思う。

企業理念や、国家のミッションや、宗教上の習慣なんてものよりは、まだ、ましだ。快適なる労働と快適なる生活、まだよい。否定しがたさが、高い。だから社民と資本主義が結婚して地球をまわしているのだろう。



・施しは正しいのか
勤勉な労働と倹約した質素な生活が救済を証
だてる為なら、それは免罪符とどうちがうのだろう。

救われなくてなにがわるいのだろう。

地獄と天国とがあって、それがどうなのだろう。

天国には天国の苦しみがあるのではないか。

地獄にはいってしまえば、その中にも、よい待遇とわるい待遇とがわかれてしまうのではないか。

いや、神と天使による完全な天国と完全な地獄の運用があるから、天国の腐敗も、地獄の脱法的快や満足も、ありえない。


完全な運用があるのなら、はじめからそれでいいんじゃないのか。

神が、完全な存在との一体化(それは神だろう)ではなく、不完全でみじめな人間をつくりたもうたのは、自由な愛を、強制のない、困難な愛を、ねがったからではなかったのか。

歴史の浄化をつうじて、救うものとすくわれないものをわけ、救うものをのみ、彼の園にむかえるのなら、はじめから、試練なんてまどろっこしいことをせず、完全な存在をのみ、園につくり住まわせればよかろう。

それとも、なにか、神による人間創出の御業は、時間制限だから、なされたのか。

最後の審判という期限付きの、いわば、いっときの遊びだとわかっているから、そうしたというのか。

きみの神はなんとも尻が軽いな。


天国を求めるのは、愛がわからないやつだけだ。

悟りなんかないし救いなんかない。

すると、人間はみじめに、たすけあって生きていくしかない。

下品でみじめに、やっていくしかないのだが、しかし、どのように…。

評価ほどえげつないものはない。

ぼくは、評価が、社会の全体を、生活のすみずみまでを覆い、一元的に整合的なものとなるようにしようと思っている。

評価自体、うすっぺらいが、その薄い評価をさらにふたつにわる。

うすい・あさい評価は、逃げ場のない、社会全体の一枚のもの。

もう少し密な・深い評価は、部分集団内での、もの。

これを使い分けるしかないのではないか。

ほんとうは、なんにもならないほうが、ほんとうだ。


・評価が人間にとって、人間の生活にとって、最も、問題である

・社会制度を反省することをやりたい