陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ -4ページ目

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

・教育費の公的負担を多くすることに、例えば高齢者層が反発するとして、教育への投資が社会全体に還元される、また、子どもの貧困への対策として無償の給食がベーシックなセーフティネットとなる、などのロジックをしっかりと説き続けることが必要だろう。

・ラディカルなフェミニズムの立場から、学校教育における男女の取り扱いの対応を形式的に平等化することは好ましくないと感じる。ただし、セクシャルマイノリティの生徒への配慮は、ある程度講じてあげたいとも思う。生徒がカミングアウトをしているかどうかなど、それぞれの事情によって異なり、一律の対応を用意できないかもしれないが柔軟な対応をとりたい。例えば身体が男性で性自認が女性の生徒がいたとして、着替えは男子生徒と共にさせることも、女子生徒と共にさせることも避けたほうが好ましい。この場合には、空き教室やトイレの個室で着替えることを認めるなどで対応できるのではないだろうか。


・都道府県の単位で学校を設置し、自治体の自主法によって学校運営の具体的な取り決めがなされているのに、学習指導要領がトップダウンで法的拘束力を持つのは少し違和感がある。

・いじめ調査における学校、教育委員会、調査部会の調査結果の対立のように、複数の権利主体が対立し、法的な整備がないために不利益を生じている実態が確認された場合には立法による整備を急ぐべきだと思う。「部活動」の位置づけ明確化も急いでほしい…。

・能力主義「能力に応じて」と平等主義「ひとしく」の解釈について。

公教育とは何かという問いとまっすぐつながっているので興味深い。自由と平等がしばしば矛盾する善であることに問題の原因があると思う。
能力別学級編成や、能力別の進路分けは公平か。そもそも生得的な資質の違いを認めるかどうか(ないものとみなす立場は妥当か)。
障害を持つ者には積極的格差是正策として、米国のヘッドスタートなどのように就学前支援を特別に提供するなどすべきか。

すべての生徒に同一の教育活動を提供することがより平等であるか、同一の教育目標を持ちつつも個別の生徒により適合した異なる活動を提供することがより平等であるか。そもそも、同一の教育目標のもとに学ぶべきであるか。

さらに、日本の学校においては教科学習に加えて、学級をはじめとした生活指導に重点を置いていることもまた事態をややこしくしている。特に学校行事への参加のあり方が難しい…。運動会における競技では優劣を競うが、障害を持つ生徒も同一の条件で参加させるべきか、それとも、オリンピック・パラリンピックのように、分けるべきか(インクルージョン、学校行事の肥大)。障害を持つ生徒に合わせて、「ブラインド・サッカー」のような競技を実施する、などするか。

たとえば、(同じ公立中学校の)現場教員においても、人によって「義務教育の範囲」などの教育の本質的なトピックについての考えは多様であると思う。「法の文言に魂を入れるため」に、もっと議論をすべきだと思うし、自分がどのような立場であるか明確にして、その立場として学校教育をより良いものとしていくために貢献すべきだ。日本(の学校)は属人的思考が強く、縄張りによる棲み分け(ゾーニング)対応をとることが多い。教員同士が話し合うことを諦めているようでは、学校改革のエネルギーなど生まれないし、アリバイ的にトップダウンの命令を消化させる管理職と、陰口をこぼしつつもよく考えずに(考えるゆとりがない…)ひたすら「こなし続ける」現場教員との溝は埋まらないだろうと思った。だから、現場を離れた院であっても、教育の問題を検討し言葉にしていく活動はとても大切なことだと思う。

冬ですね。

日記を書きます。

久しぶりなので、自己開示するのが難しいです。文体が身体になじまない感じがする。

ですますのほうが書きやすいのか、だ、であるなのか、両方が混じるのか。

雑談しているように、自由にあまり意識しないように書こうと思います。

手直しもしない。

同じ話や繰り返しがあっても気にしない。

格好つける表現も避けます。できるだけ短文にはしようと思うけど。

で、わかりにくいなと思ったら、説明しなおそうと思います。

消さないので、前のほうのダメな説明のほうも消さないので後ろから読んだ方が無駄がないかもしれません。

 

「自己不一致」という言葉があります。

これが気になっていて。

自分で思っていることと、表現していることが違うと、自信がなくなっちゃうんですよね。

実践力が足りないのが僕の悩み、悩んでるのかな、悩みなんですが、それはたぶんかなりの部分、自信のなさであり、自己不一致からきている。

自己不一致の改善のためには、たぶん言葉にすることが必要だと思う。

だからブログを書きたいなということなんですね。

 

で、あとは、疑問をたくさん作ろうと思います。

ブログで自己開示していると、自己顕示欲がどんどん高まっていって、どんどん先鋭的になってしまうような気もするので、それは気を付けようとおもうけどね。

 

星マーク以下は読まなくていいです。ノートに書いたものをそのまま打っただけ。

*

 

教師の指導には正当性・正統性があるのか。

一斉指導は可能なのか。

コアコンピテンシーとは何か。

すべての生徒が必要とする基底的能力はあるのか。

生徒に要不要を選択させるべきであるのか。

「子ども」は適切な判断ができるのか。

アファーマティブアクションは平等に適うのか。

戦争をどう教えるか。

教員養成の根本的な弱点は失敗を認められない点にある。

 

いじめは集団によるいじめである。その主導者はコミュニケーション能力に秀でており、集団統治に影響力をもっているので、学級経営上、教員はいじめ加害者に寄り添う方がいじめ被害者に寄り添うよりも有利に働いてしまう。