能力主義「能力に応じて」と平等主義「ひとしく」の解釈について | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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・都道府県の単位で学校を設置し、自治体の自主法によって学校運営の具体的な取り決めがなされているのに、学習指導要領がトップダウンで法的拘束力を持つのは少し違和感がある。

・いじめ調査における学校、教育委員会、調査部会の調査結果の対立のように、複数の権利主体が対立し、法的な整備がないために不利益を生じている実態が確認された場合には立法による整備を急ぐべきだと思う。「部活動」の位置づけ明確化も急いでほしい…。

・能力主義「能力に応じて」と平等主義「ひとしく」の解釈について。

公教育とは何かという問いとまっすぐつながっているので興味深い。自由と平等がしばしば矛盾する善であることに問題の原因があると思う。
能力別学級編成や、能力別の進路分けは公平か。そもそも生得的な資質の違いを認めるかどうか(ないものとみなす立場は妥当か)。
障害を持つ者には積極的格差是正策として、米国のヘッドスタートなどのように就学前支援を特別に提供するなどすべきか。

すべての生徒に同一の教育活動を提供することがより平等であるか、同一の教育目標を持ちつつも個別の生徒により適合した異なる活動を提供することがより平等であるか。そもそも、同一の教育目標のもとに学ぶべきであるか。

さらに、日本の学校においては教科学習に加えて、学級をはじめとした生活指導に重点を置いていることもまた事態をややこしくしている。特に学校行事への参加のあり方が難しい…。運動会における競技では優劣を競うが、障害を持つ生徒も同一の条件で参加させるべきか、それとも、オリンピック・パラリンピックのように、分けるべきか(インクルージョン、学校行事の肥大)。障害を持つ生徒に合わせて、「ブラインド・サッカー」のような競技を実施する、などするか。

たとえば、(同じ公立中学校の)現場教員においても、人によって「義務教育の範囲」などの教育の本質的なトピックについての考えは多様であると思う。「法の文言に魂を入れるため」に、もっと議論をすべきだと思うし、自分がどのような立場であるか明確にして、その立場として学校教育をより良いものとしていくために貢献すべきだ。日本(の学校)は属人的思考が強く、縄張りによる棲み分け(ゾーニング)対応をとることが多い。教員同士が話し合うことを諦めているようでは、学校改革のエネルギーなど生まれないし、アリバイ的にトップダウンの命令を消化させる管理職と、陰口をこぼしつつもよく考えずに(考えるゆとりがない…)ひたすら「こなし続ける」現場教員との溝は埋まらないだろうと思った。だから、現場を離れた院であっても、教育の問題を検討し言葉にしていく活動はとても大切なことだと思う。