こうもりくん、暗躍す | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

『近代とはなんだろうか』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10713306339.html


問題は「じゃあ、どうするのか」という一点にある。


日常と理念とを対立する二項に分節する作用こそが「近代」である。
あなたの思考はすぐれて「近代化」の効果である。
あなたが依って立つように、日常と理念が分かたれてあることが自明視されるのは「民族誌的奇習」であり「認識の檻」であり「バカの証」である。
ぼくはあなたとは意見を異にする者である。
時代的な規模のひどい思考停止=思いなし(仮象!)を一時中止し、日常と理念を再び結び合わせ、同時に生きる能力こそが今日求められる知性である…。


ヒントならある。


乗り越え可能性についての構造は、

「あらゆる状況についてそれを乗り越える契機は

予めそれそのものに内包されている」というのが

それである。

これを今、「潜勢的超越可能性」と呼ぼう。

(『乗り越え可能性についてのメモ』、

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10655781624.html


このようにも書いている。


したがって、変革を望む人間はまずなによりも

現今の体制であり状況をよく観察しなければならない。

そして、しばしば、体制を壊し状況を変化させる契機は

体制を支えるはずの「悪しき新しきもの」として、

ぼくたちの前に映現する。

それが「向こうさんの言い分」に耳を傾ける最大の

動機である。


「向こうさんの言い分」に耳を傾ける、というのは次のような態度だ。


『「子ども」のやり方で「子ども」との交渉に臨むために』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10520223195.html


『『けいおん!!』敬して之れを遠ざく、知と謂うべし。』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10522541191.html


さて、近代を乗り越える(ない)ための契機は、近代そのもののうちに予め内包されている。

この、乗り越えるというのはどういうことなのだろうか。

直感だけれど、ぼくはたぶん「そのものの正しい名を呼ぶこと」なのだとおもう。

ぼくたちが自覚していない時代の支配的イデオロギーを指摘することがすでにして脱近代の運動であるのではないか。


「人それぞれ/自分探し」(世界に一つだけの花・みんなちがってみんないい)もオタクも引きこもりもニートも新興宗教もクレーマーも、高度経済成長・新卒一括採用×年功序列×終身雇用・五十五年体制(冷戦)・総労働対総資本・日教組対文部省を為した「近代」のもう一つの側面であると思う。


戦後の焼け野原(=劣った現実)から一生懸命働いて(=理念に向ってたゆまぬ努力)どんどん豊かになって(輝かしい理念)、政治の季節を迎える(=さらに理念)。

ここまでがとりあえず言ってみると積極的近代。

その後スカスカのモラルが説得力を失い、「劣った現実/優れた理念」の構図はそのままに、こちらに「劣った現実」、あちらに「優れた理念」、「本当は」こちらからあちらへ行くのが「よい」が、べつにいーじゃん「劣った現実」でも。

あたしはたのしいんだから。

これは消極的近代。

さらに、消極的近代という「劣った現実」を非難し、「清貧の思想」という「優れた理念」へと努力すべきとした人間もいた。アホめ。

文学の分野で地縁や血縁との格闘というどろくさいテーマが受けなくなってきたのも同じ作用だと思う。

結局一般的な意味での出自で悩むというのはルサンチマンなんだよね。

あなたがどうなろうと知らないわよ。人それぞれじゃないの。


ぼくは今日日本社会に蔓延する「真=学歴、善=財貨、美=整形」というイデオロギーに与しないけれども、そのためには別の態度を示さなければならないはずだ。

ようは学歴ですよ・ようは金ですよ・ようは整形ですよというあまりにも短絡的な思考にとびつかないためにはその前段にあるやさしいニヒリズムを解除しなければならない。

ニヒリズムには二種類ある。

(ぼくが以前指摘した「パワーのニヒリズム」「モードのニヒリズム」とは別ね)

相対的なニヒリズムと絶対的なニヒリズムだ。

前者が「人それぞれ」、後者が「一切皆空」ではないか。

「人それぞれ」というのはすごい弱い。

というのも、「人それぞれ」もまた「人それぞれ」であるはずで、なぜ「人それぞれ」といえるのかという問いを凍結することで一時的に成立しているに過ぎないからだ。


対して、「絶対的ニヒリズム」が通った後にはぺんぺん草も生えない。

何も残らない。方法的懐疑は疑えないものは何ひとつ残らないことをぼくたちに教える。

「底抜け」だ。


さて、だからぼくはどうするかというと、「出口なし」の一点しかない。


ここに、行き止まりは行き止まりではない。

ぼくは先に進みうる。

来た道を引き返そうとしたところで、抜け出ることはできない。

「老いぼれ犬のように同じところをぐるぐる回って」しまうだけなのだ。

ではどうするのか。

行き止まりが通じていればよい。

だがそれは本当は行き止まりではないから通じているのではない。

そう考えると来た道を戻ってしまうだろう。

そうではなく、行き止まり・だから・行き止まりではない、のである。

「パスはアンパス、アンパスがパス」

(『こうもりくんの弁明』、

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10701453817.html


内なる外・外なる内を導入するにはどうするのか。

二重否定を修飾すればいいのだ。


出口なし・ではない・ではない!

一見すれば分るように、二重否定はハイブリッドではない。

向きがねじれた形で束ねられているのだ。


二重否定の迂遠さこそ正に、孔子のいう「礼」である。

もしもし、というコミュニケーション回路の立ち上げである。

繋がれ・届け・響けってね。


『つねにすでにそうであったのだったということになった、いや、あるいはただそうだったという話』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10569352477.html


だけど、ぼくは思うんだ。

たぶん、ここが世界のねっこなんだよ。

ここだけがきみのパスなんだと思う。

アンパス、ここだけがぼくのパスなんだ、と。

失われつつ、現れていること、現れつつ、失われていること。

これって内なる外、外なる内だよね。


そして、最後のヒントだ。


その荷物の重いこと重いこと。

なんだか一歩前に進む度に、荷物がだんだんと

重くなっていくような気さえするのです。

でも、若者は荷物の中身を確認しませんでした。

若者には、それが後々自分のためになるとわかっていたのです。

荷物の中身はいったい何だったのでしょうか?

それは、荷物を運ぶ仕事を彼に言いつけた主人にさえ、

わからないのです。

『OH! Memento mori』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10190236966.html


この荷物、が、いまのぼくには必要だ。

しかし荷物とはなんだろうか。

ぼくはこの記事の一年後、ほとんど同じことを語っているように見える断章を書いている。

私は遥かな空の底にいて、

大地に肢体を投げ出しているのだというよりも、むしろ背に大地を負い

ながらあの微小な光が明滅するなめらかなビロードの海に吸い込まれて

いるように感じました。

『夜に出会うところで』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10427310042.html


負う、というふるまい、そして、既に遅れているという感覚。

『OH! Memento mori』では若者は「長いものと短いもの、二本の銀のヤリ」を持った人間に追い立てられている。

もちろん、時計的時間のメタファーである。


天地の転倒と存在の輪郭が浸食されること。

闇に溶ける宙ぶらりんのコウモリ!

「仮構的なゼロ地点」あるいは「虚の焦点」に(ルサンチマンではなく「猫殺し」の加害意識としての)「疚しさ」を代入した「コウモリ」が「個としての死」を「引き受け(=キャッチャー)」、「かげふみをするように」「踊り続ける」こと。
ほらね、ひとつらなりになった。


『真っ暗な薄明かり』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10702711696.html


『「不能の王」あるいは「キャッチャー/パサー」あるいは「母」』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10603506892.html


『ネコくんのレクイエム』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10039376255.html


『誠実であるということ』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10249518972.html


『子どもたちはかげふみのようなことをして』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10278641176.html


『ダンスナンバー2010』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10669562254.html


ぼくはひどい疲労と幻滅と混乱の内にあった。

でも、たぶんもうだいじょうぶだろう。


僕は、僕を導いてくれる光を求めた。

でも、僕が何かに対して、そんな淡い期待を抱いてしまうたびに、

いわば一陣のパラノイアの突風が吹いて、僕をまるで見当のつかない

ような、こんがらがった別の波間へとさらった。

(中略)

それは僕が、ただ海と僕とがあって、補助線を引くべき燈台がまるで

存在しないような、そして、いつまでもあの地平線を照らす太陽の

昇らない永遠の夜の航海でしかないような、そういう<静けさ>、

……いや、音が実際的になっているのかどうか、それは問題にならない

のだろうか。僕は自分がどこまでもフォニーズムの傀儡でしか、

原理的にありえないのだということを痛感した。

『張り詰めたあの意味の星々と夜の海の航海』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10267752513.html


ハーバーライトなら、ぼくが守るよ。

『伏姫』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10687256108.html


ところで、荷物ってなんだろうか。

ぼくは「贈与すること」それそのものではないかと思う。

「荷物=ボール=命」は次の引き受け手の下でもやはり「ラインを割る=失われる」だろう。

でも、パスということは残る。


それだけが人間にとってなにごとかであるんだよ。