さっき、駅からの道で、悲しいくらい優しい気持ちになった。
何に対して?…何に対してだろう。
あるいは、それもまた嘘かもしれない。
だって「私は先ほど悲しいくらい優しい気持ちになったのです」という言葉は比較的マイナス査定されにくいだろうから、ぼくにとってそう主張することは特に心理的負荷がかからない。
言葉だけならいくらでも言えるだろう。
君だけを愛してるよ早く君に会いたいよ、うんぬん。
でもとりあえずここでは許してやりたい。この問題は一旦保留し、前に進もう。
前進はいいことだろうか。
たぶんいいことじゃないだろうか。
わからないけど今ここではいいことだとされていることは確かだろう。
そうすると、ぼくはあんまりよくない態度をとっているだろう。
ぼくは八方ふさがり、出口なし、と思った。
何年か考えて、やっぱりそうだと思った。
あらゆるものごとが一点を指している。
出口なし!
だからぼくは行き止まりは行き止まりだ、と思った。
でもそれじゃあ困る。たぶん。
わからないけれど、前進は「前進はよい」という立場を劇的にひっくり返すような根源的な空前の反論を展開できない限りは正しいのだ。
行き止まりは行き止まりだというトートロジーが機能する限り、ぼくはどこにも行けない。
このテーゼの前段は正しいと思う。
確かに「これ」(と書いても、ぼくという一人称代名詞で指示できない「このぼく」にしか伝わらないわけなんだけれど)は行き止まりだと思う。
ここに、行き止まりは行き止まりではない。
ぼくは先に進みうる。
来た道を引き返そうとしたところで、抜け出ることはできない。
「老いぼれ犬のように同じところをぐるぐる回って」しまうだけなのだ。
ではどうするのか。
行き止まりが通じていればよい。
だがそれは本当は行き止まりではないから通じているのではない。
そう考えると来た道を戻ってしまうだろう。
そうではなく、行き止まり・だから・行き止まりではない、のである。
「パスはアンパス、アンパスがパス」
この論理を舌先三寸ではなく腑に落とすことによって、ぼくはいくらか自由になれたのである。
同じ問題を抱えたきみには、あるいは、ささやかだけれど役に立つ報せかもしれない。
*
さて。
きんさまさん、ごめんね。
いきなりけんか腰になることもないよね。
ぼくが間違ってたよ。ごめん。
いや、ぼくが間違ってることをあなたが教えてくれたわけなんだけれども、対応のフェイズで、手続き的な問題として、ぼくの手つきみたいなものが、また別に間違ってたとおもう。
そして、こうやって謝るということは、あたかも今回だけ、たまたまぼくが間違えたみたいな感じでぼくは話してしまうことになって、別の問題を抑圧隠蔽してしまうだろう。それは一種の心理的操作として機能してしまうことは指摘されてよい。
つまり、大体いつもぼくが間違ってるんだよ。
それとも、あなたはもうこんなブログ誰が読むかーいっと去ってしまわれたのかもしれないのだけれど、礼節というものは相手の空間的な位置とは独立して成立している。
ときどき電話をかけながらぺこぺこお辞儀している人がいるよね、例えばあれがそういうことだね、って説明が最近の人にはぴんと来ないかもしれない。
あるいは、ぼくはさらに居直ることもできるかもしれない。
というかどうなんだろう、ぼくにとってそれを言及することは特にメリットをもたらさないだろう。
でもまあ可能的ではあるよ、ということはすべて指摘していいのではないだろうか。
主張そのものの心理的負荷と(象徴的なものではなく偏在的なほうの)権力関係というものは強く結びついていて、それをなるたけ羅列することは人間の自由に資するところがあるんじゃないか。
吉本隆明の「書いちゃいけないことなんかなにもないんだ」みたいな言葉に触発されてちょっと考えただけなんだけど、そういうことは考える。
それほど有効ではないかもしれないけれどぼくにはそこそこ正しいように思える。
「正しいと思うならまずお前がやれ」
「わかりました、やります。でも今ここではちょっとできません」
「ここがロドスだここで、てね」
義を見てせざるは勇なきなり。
正しいと思うことを声高に主張するならば今ここでやらないといけない。
それができないなら臆病だということだし、「チキン」とは最大の侮辱だ。
だって自由に飛べないってことなんだぜ。
そして不自由は何よりも無知を表すものだ。
「知行合一」「福徳一致」「知徳一致」って輪になる。
みなさんに押しつけようとは思わないが、ぼくは自分に対して、そう要求する。
「かく言うてめーはできてんのかよ」って問いはつねに向けられている。
それで、居直りってこと。
居直りなのかどうかもよくわからんがこういうことは不可能ではない。
あるいは、もう一つオススメがある。
村上春樹がどこかで書いていたんだけど、
「それがどうした」
「そういうものだ」
という素敵な2つの言葉がある。
この2つさえ押さえておけば人生のいかなる波も
システマティックに処理できるのだ。
ただし、使いすぎに注意!
硬直したシステムというものは、
ときに僕たちにとって非常に危険なものになる可能性があるんだ。
このブログがこんなにつまらないものだとは思いませんでした。
残念です。もう二度ときません。さようなら。
このブログがこんなにつまらないものだとは思いませんでした。
そういうものだ
残念です。もう二度ときません。さようなら。
それがどうした
三年前にぼくが書いた言葉だ。
恐らく、ぼくはこういうときにこういうことを平気で言ってのけるような酷薄な人間なのだ。
ぼくは脂汗をかきながらいえ、違うんです、だとか必死にくだらない言葉を連ねるだろうけれども、耳を傾ける必要があろうか。だってきみ、現にこうやって書いているじゃないか。
どれだけ取り繕ったとて(ちゃんちゃらおかしいね)、ほらね、腹の底ではこういう人間なのさ、てね。
と、いうような立場をも、ぼくは書くだろう。
なぜならばこれこそぼくがさっき書いたように「でもまあ可能的ではあるよ、ということすべての指摘」だからだ。それがある種のヒエラルキーを解体する方向に作用するのではないか。
それがどれだけぼくにとってその時々に不利であっても、人間にとって有益であるならばそうすべきではないのか。都合のよいときだけではなく、まさに今、ここで。
「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理に妥当するように行為せよ」
ぼくはカントに賛同する。賛同ということはやるということだ、「知行合一」。
自分の言葉に責任を持つというのはそういうことではないかと思うのだ。
自分が書いたものと心中できないならはじめから黙っていた方がいい。
黙ってじっとしていれば大抵のことはやり過ごせるだろう。
人生もまた例外ではない。
勇気が徳であることは疑わないが臆病を悪とするには抵抗がある。
でも、ときに臆してしまうことは仕方ないんじゃないかという気がする。
*
イソップ寓話に「卑怯なコウモリ」という話しがある。
鳥族と獣族が戦争をしている。
今、鳥族が優勢だ。
コウモリは鳥の王の下に赴き、陛下、私めは鳥族の一員でございます。
きっと憎たらしいけむくじゃらの四本足どもを倒してやりますとも、と。
すると今度は獣族が優勢。
コウモリは獣の王の下に赴き、国王、私めは獣族の一員でございます。
きっとあの不恰好なくちばしを提げた羽ダルマどもを倒してやりますとも、なんて。
やがて戦争は終りコウモリが双方を裏切ったことが判明した。
コウモリは洞窟に追放されて孤独に暮らした、おしまい。
ぼくはこのコウモリに、「不穏な目覚め」に生き「彼にとってはあらゆる土地が永遠に流謫の地でしかないような」哲学者の立場を見る。
なぜか。
鳥も獣も、自分の正しさは一時も疑っていないからだ。
戦争中も、終戦後も、つねに政治的に正しい立場を離れていないだろう。
自分の立場の正しさを疑ったのはただコウモリだけじゃないだろうか。
そして戦争が終った後、獣や鳥から見るとお世辞にも「東南角地・日当たり良好」とはいえない土地に追いやられて、己の正しくなさを延々と考えたのではないか。
必ずしもすべてのコウモリがそうだとは思わない。
鳥や獣に混じって、結局ばれなかった奴もいるだろう。
そういう奴は洞窟のコウモリからは一番嫌われるだろうけれど。
ろくでもないコウモリは既存の価値を停止し事象そのものを問う。
それだけがかろうじて不自由な自由だと、ぼくには思われる。