シスター渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」
このクリップの最初に出てくる言葉。
「暗い暗いと不平を言う前にみずから灯りをつけましょう」
という言葉は、私が、以前の会社の朝礼でなんどか、使用したことがあります。
いつか忘れましたか、ずいぶんと、小さな頃に、父親の部屋から聞こえてきたラジオからの言葉なのでしょうか。・・・
それとも、テレビをつけっぱなしでたまたま、脳裏にやきついたのかもしれません。
良い言葉だなぁと、この今の今まで、記憶しておりました。
彼女の言葉は、キリスト教という範疇を超えて、私たちの心の井戸の深いところまで、
降りてきます。
自分の置かれた環境。
探せば、嫌な所、嫌いな所、苦手な人間関係、友達と比較してなんと劣った環境なんだろうかとか、いくらでも、不満がでてきます。・・・・・
でも、その不満をいくら呟いた所で、問題は解決しないことは間違いありません。
花伝書の言葉のなかにも、年令年令の花の咲き方という考え方がでてきます。
昔こんな記事も書きました。
◎◎ いっしょうけんめい、という字は、普通は皆「一生」懸命と書く。
しかしながら、「大辞林」で字をひくと、一生懸命は一所懸命から出ている字とある。
もともと、一所懸命は、武士がひとつの自分の所領=領地に命を懸けるという意味からきているのだろう。私は勝手に、もっと意味を広げて考えている。
つまり、自分が仕事をしている、あるいは何かに憑かれたようにひとつのことを持続しているその「場所」に命を懸けることと。・・・
フランスだったかの有名な料理家の奥さん、確かすでに70歳くらいであったか、私はいつでもここで仕事をしている、と台所を嬉しそうに指差していたことを今でも覚えている。子ども達もその女性の料理は最高だと言う。
松本清張は、仕事の極意=小説の書き方を聞かれて、まず「座る」ことと言っている。
人はなにかにつけて、仕事を後に後にのばすことの言い訳を見つける天才だから、TVを見たり、いろいろ雑用に追われては仕事につけないということである。
まず、「座る」という松本清張の「一所」は当然愛机の前であろう。
教壇。キャンバスの前。お客様と接する店頭。自分の店のお客様と接するカウンター。
まあ、「一所」はどこにでもある。
そしてそこに命さへかけるくらいの気概でやればそこは自分のエナジーの源泉の場所になる。
要はそこを「一所懸命」の「場」と考えることができるかどうか、というだけのこと。
私ならば今は、パソコンの前と、キャンバスの前で、ひたすらものを考え作品をつくり、書斎の前での整理整頓というところか。
マンネリにならないように日々、その「場」の雰囲気を変えるようには気配りをしながら、自分の一日の時間のほとんどがそこで使われている以上、自分のその平凡であるけれども、自分を懸けているようにして何かにその「場所」で没頭したいものである。
それが真の意味での「一所懸命」である。
また、こんな同じテーマでも、記事を書きました。
◎◎
地下の書庫を整理しながら、谷沢さんの本で「司馬遼太郎」という対談集がありこれは昔読んだかなと、ぺらぺらめくっていて、「私の人生は95%が書庫の中です」という文にあたったのですが、これはすごいと思います。
要するに「場」ということですね。
フランスの母親の伝統的な料理の味を娘が守るということでその母親にテレビ局がインタビューする場面がありましたが、そこでも「私の一番好きな所は、ここよ」とばかり台所を指差し、朝から番まで私はここで料理をするのよ、と。
まさに吉本ばななのキッチンを連想させる素敵な台所。調味料やら見た事のない鍋やら、自分のまさに秘伝のレシピやら、保存食やら、冷蔵庫の中には秘密のさまざまな下ごしらえの料理が・・、麦酒のつまみが、チーズがあり、ヨーグルトがあり、岩塩があり、粗挽きやら粉やらの胡椒があり、タイムがあり、パセリがあり、バジルがあり、セージがあり、ロズマリーなどのハーブがそこかしこに置かれている。
人は「場」がすべてである。
ひとつの場に命を懸けることを、昔から「一所懸命」というではありませんか。
「一生懸命」とも書きますが、もともとは、「一所懸命」が正しい。
ひとつのところに命をかける。
音楽家はピアノの前に一日に10時間もすわりっぱなし。
画家はキャンバスの前から離れません。作家も朝から晩まで机の前で缶詰作業。
松本清張の名言があります。
作家になるためのコツはただひとつ、「まず机に座ること」。
動いては駄目なのでしょうね。ちょろちょろして、成功する人はいないでしょう。
散歩することが好きな以外は、ほとんど部屋の中書庫の中、地図が大好きで資料集めに奔走してましたからね。それが一番の趣味だったのでしょうね。
確か谷沢さんが15万冊。司馬さんも15万冊の蔵書でした。
谷沢さんが司馬遼太郎さんの葬式の時に、ちらりと垣間見えた蔵書に「うらやんだ」話もあります。
司馬さんは谷沢さんの蔵書を生涯に一度だけのぞきにきたらしいです。
谷沢さんと言えば、確か18歳ぐらいの時に、すでに古書の取り扱いする古物商の免許をとってあちこちの古本祭りで全集を買いあさっていたのは有名な話ですからね。
昔の人はすごいですね。
そしてこれが司馬遼太郎さんがよく本を買った神保町の「高山本店」、主人の高山富三男さんは、20年前に司馬遼太郎さんが買って行った本まで記憶しているそうらしい。
渡辺和子女史が、言っていることと、同じではないでしょうか。
その場その場で咲きなさい、・・・・なんという素晴らしいことばでしょうか。
人を「花」にたとえてくれています。暖かい言葉・・・
花伝書で言えば、あなたの年令・年令でもって、咲きなさいという言葉にもなるのでしょうか。
また、「場」について、考えてみたいと思います。
私は、岩見沢の故郷の自分の家で、今、ここ、自分の魂を咲かせたい、そう願います。
虎次郎に 梅子に 松之助 みんな もう 彼らは何も言わずして咲いています。