先日、支笏湖 洞爺湖に行った。
一番印象的だったのは、そこにたむろする、中国などからの外国人の大きな声。
日本人はあまりいない印象というか、静かだからあまりめだたないのだろう。^^
このような自然をながめながら、のんびり湖畔を歩いていると、ここまで生きてこれたことが、不思議でしょうがない。
言葉にできないくらいの、時間的な拘束があった。・・・・・
当時のことは、よく友達に、戦争をしていたからと言うのが一番ぴったりくる。
友達もけっこう死んだ。
学生時代に一緒に同じアパートにいた、Bちゃんも、若くして亡くなった。
油絵を一緒にならっていたX姫も亡くなった。
高校時代によく遊んだT君も行方不明。
ある意味。こうやって自分が生きていられるということは、偶然というよりも、
何かもう少しやれ、と、おてんとうさまから言われているような気もしている昨今。
湖畔をそんなことを考えながら歩いていた。海とはまた違う郷愁感がある。
よく言われることだけど、日本語の海のなかには「母」がいるし、フランス語でも、そうらしいから、やはり「海」は母親を連想されるものだと思う。わたしたちが「そこ」からやってきた故郷としての「海」。
それと比較すると、「湖」は、「姉」みたいなもんか。
現代は、その広大なる神秘感や無意識感を、感じさせることよりも、前頭葉を発達させようとしている女性達が増えて、この人生、少しつまらない気持ちになっている男性諸君も多いと思う。
遠い西洋のテロにしても。
なにやら、「男性原理」の行き着く果の荒廃感だけを感じてしまう。
「マリア」がキリスト教には、いるだろうと思うのに。
やはり、西洋のキリスト教、その他の一神教は、男の世界なのだ。
だから、日本のある宗教家に言わせると、「マリア思想」は、東洋からの逆輸入なのだとか。
なんであれ。
時代はどんどん変わって行く。進化しつづけていく。
変化しないと生きては行けない時代をより深く感じる。
・・・・・山の頂上まで、ケーブルにて、登る。広大なる眺望。神秘の眺め。
山は、海や湖と違って、やはり男を感じる。
しかしながら、日本人は、もともと、山のなかにも、男や女とは関係のない、「神」を感じ続けていた民族。
日本の神々は、男だけが威張っていないし。
神に似せて、男性をつくり、その一部から、女性をつくられたという宗教とはまったく違うだろうと思う。
とにかく。
書を捨てて、街に出て、そして、そこから、少し旅すれば、このような「自然」がここにはある。
丸一日。
ビールを吞みながら、支笏湖・洞爺湖・森林、きつね、熊、野鳥などを観察しながら、楽しき時間を満喫。
最後の最後に頭をがーんとやられたのは、羊蹄山。
修学旅行かなにかで、見た記憶はあるけれど、自然に対す感銘などはなく、友達とふざけていた自分を思い出す。
子供にしてみれば、自然は、表現するべき何かではなくて、そこで遊ぶところだし。
美しい。
こんな山を小さな頃から眺めていたかった。
スイスの山並みのような、天にそびえ立つというような、天井感はないけれども、
背が低いながらも、周囲のさらに小さな日本の山々を、どうどうと、見下ろして、
美しい稜線をさらけだす。
アイヌの人達にとって、この羊蹄山は、朝起きてから太陽が落ちて寝る迄、 自分たちをじっと見守る神そのものだったと思う。
山には山の 愁いあり
海には海の 悲しみや
ましてこころの 花ぞのに
咲きしあざみの 花ならば あざみのうた 作曲八洲秀章
作詞横井弘
八洲秀章。羊蹄山のふもとで生まれた。・・・・・
◎資料
支笏湖
4万年ほど前に形成された支笏カルデラに水が溜まったカルデラ湖である。形成当初の形状は円形であったが、カルデラの縁に恵庭岳・風不死岳が噴出したことにより、現在のようなくびれた形となった[2]。
「日本最北の不凍湖」であるが、これは温かい水が湖の深部に残存していて水面を暖めるため、湖面の水温が下がりにくいので凍りにくくなっているためである。しかし、低温の日が続いた場合には結氷することがある。最近の全面結氷は2001年(平成13年)で、その前は1978年(昭和53年)まで遡る[3]。
また支笏湖は、透明度の高さで有名な摩周湖やバイカル湖に匹敵する透明度を有している。環境省の湖沼水質調査では何度も日本一に認定されている[4]。湖の北西には、北海道三大秘湖の一つであるオコタンペ湖がある[5]。
名前の由来[編集]
湖の名前はアイヌ語の「シ・コッ」(大きな窪地)に由来しているが、この「窪地」とは支笏湖を水源とする千歳川が開削した深い谷のことを指していたものであり、千歳川の旧名でもあった。松前藩は現在の苫小牧市周辺までの地域を「志古津」(当時の漢字表記)と呼んでいた。
アイヌ民族は支笏湖を「シコツ川(千歳川)の水源の湖」の意で「シコツ・トー」と呼び、改まった場合には「シコテムコ・エアン・パラト」(シコツ川の・水源・そこに・ある・広い湖)と称えていたという[6]。
◎
洞爺湖
北海道南西部に位置し、「洞爺カルデラ」内にできた湖[6]。面積は日本で9番目、カルデラ湖としては屈斜路湖、支笏湖に次いで日本で3番目の大きさである。
東西約11km、南北約9kmのほぼ円形の湖で、有珠山・昭和新山・洞爺湖温泉などがあり北海道有数の観光地域となっている。湖畔の南側を北海道道2号洞爺湖登別線、北西部を北海道道578号洞爺虻田線、東側を北海道道132号洞爺公園洞爺線が通っており、湖畔を一周することができる。
中央に浮かぶ「中島」(面積4.85km²)の最高点トーノシケヌプリ(標高455m)を中心として東北東~南東~南南西にかけてが壮瞥町、それ以外が洞爺湖町になっている。なお、中島には昭和35年頃に2世帯6人の定住者がいたが[7]、現在定住する者はいない。
島:大島、観音島、弁天島、饅頭島
流入河川:ソウベツ川、大川など
流出河川:壮瞥川
名称の由来[編集]
「とうや」はアイヌ語の「トヤ(ト・ヤ)」(湖の岸)に由来する。湖の北岸を指す地名であったが、和人はその北岸を向洞爺と呼んで洞爺を湖の名にした[8]。アイヌの人々は洞爺湖のことを「キムント(キム・ウン・ト)」(山の湖)と呼んでいた。地元では「どうや」と呼ばれることもある。
洞爺カルデラ[編集]
カルデラの地形図。湖の下部で突き出ているのが有珠山(活火山)。スペースシャトル標高データ使用。
約11万年前に巨大な噴火が起こり[9][10]、「洞爺カルデラ」が形成された。このときに放出された火山噴出物(洞爺火砕流)の総体積は150km³を超え、広範囲に渡り数十mの厚さで堆積している[11]。この大規模な噴火による火山灰は北海道から東北にかけての広い範囲の地層に見られる。カルデラ壁周辺には火砕流堆積物による台地も形成されている。
湖の中央に浮かぶ4つの島を総称して中島と呼んでいる[12]。これは約5万年前の火山噴火に伴って形成された溶岩ドームと火砕丘の集まりであり[12]、湖底を含めると11の火山体が確認されている[12]。2万年くらい前から洞爺湖の南岸で噴火が繰り返され有珠山が誕生した[9]。
◎羊蹄山
羊蹄山は円錐形の成層火山で、2003年(平成15年)に気象庁により活火山に指定された。山頂には直径700m、深さ200mの火口(父釜)があり、西北西斜面にも側火口(母釜、子釜)を持つ。支笏洞爺国立公園に属し、山頂は倶知安町・喜茂別町・京極町・真狩村・ニセコ町の境をなしている。
一等三角点(点名「真狩岳」)の旧山頂が1,892.7m、三等三角点(点名「雲泉」)の北山が1,843.7mである[4]。
山腹にはキタキツネ、エゾクロテン、エゾリス、エゾシマリス、エゾモモンガ、エゾユキウサギなどの哺乳類が生息しており、130種類以上の野鳥がいることも確認されている。
また、名水の地としても知られ、周囲には無料で利用できる水汲み場が数か所ある。
山名[編集]
富士山によく似たその整った姿から、郷土富士として蝦夷富士(えぞふじ)とも称される。
明治、大正から昭和にかけて後方羊蹄山(しりべしやま・こうほうようていざん)、マッカリヌプリ、蝦夷富士の呼び名が併存していた。また一部の地図にはマッカリ山(真狩山)の表記も見られた。
陸地測量部の1920年(大正9年)発行の5万分の1地形図「留寿都」では後方羊蹄山(蝦夷富士)と記載されていた。しかし難読であったことから地元の倶知安町が羊蹄山への変更を求め、国土地理院の1969年(昭和44年)11月発行の地形図から羊蹄山と書き換えられた。このため現在の羊蹄山の名が定着することとなった。
旧名である後方羊蹄山は、斉明5年(659年)に阿倍比羅夫が郡領を置いたと日本書紀に記されている地名後方羊蹄(しりべし)に由来する(実際に同じ場所を指すかどうかは不明)。なお、後方で「しりへ」と読み、植物のギシギシの漢名である羊蹄を和名で「し」と読む。
アイヌの人々はマッカリヌプリもしくはマチネシリ(雌山)と呼び、南東にある尻別岳 (1,107m) をピンネシリ(雄山)と呼んだ。なお尻別岳は後方羊蹄山に対して一部のファンの間では前方羊蹄山と呼ぶことがある。
◎
八洲秀章
北海道虻田郡真狩村出身。本名鈴木義光。 21歳で上京し、YMCAのオラトリオに参加。その後、山田耕筰に師事。 1937年(昭和12年)、「詩と歌謡」に投稿した「漂泊の歌」が同年ポリドールで東海林太郎の歌声でレコード化され作曲家デビュー。作曲家として活動を始めるが、2年後肺結核に発病し療養を余儀なくされる。1940年(昭和15年)6月、伊藤久男の「高原の旅愁」で復帰。 「さくら貝の歌」、「あざみの歌」、「毬藻の唄」を作曲したことで知られる。「あざみの歌」は、自身の歌唱で1949年(昭和24年)8月8日からラジオ歌謡で1週間放送し、その後、のど自慢等で歌われるようになり、1951年(昭和26年)、伊藤久男の歌唱でレコード化された。
一時期、志摩光一の名で歌手活動を行っていた。その後は、日本音楽著作権協会評議員、日本作曲家協会理事などを務めた。
1985年(昭和60年)12月30日死去。享年70。