自分の幸せは、他人の犠牲によって成り立っている | パソコン修理の『ゆーもあねっと』®

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常に全力でバカをやり社会にとって唯一無二の存在になる。

というようなことを、

先日の豊橋市倫理法人会 経営者モーニングセミナーでお話しさせていただきましてね。

 

だからこそ、常に感謝し、それに報いらなければならない。

そのために私たちは『働く(=みんなを幸せにする)』と説きました。

 

この年末年始も、私たちがつつがなく生活できるのも、

誰かが働いているからこそなので、それを当たり前に思わず、

その恩恵に預かり、今度は自分が誰かを幸せにしてやろうと働く。

 

誰かがやって当たり前、してもらって当たり前。

きっと誰かがやってくれるだろう。

そう思ってると・・・。

 

 

まあ、こういうことを平気でやってしまうんですな。

 

いつもの墓参り。潮音寺近くのゴミステーションです。

この日はもちろん粗大ゴミ(豊橋では「こわすごみ」と言います)の日ではありません。

撮影したのが昨日でしたので、プラ・ビニールゴミの日でした。

にもかかわらず、平気でこんなゴミを捨てる。

せめて指定のゴミ袋に入れてあればまだしも、それも入れない。

いわゆる不法投棄というやつです。

きっと誰かが片付けてくれる、このままじゃどうせ邪魔だからなんとかしてくれるさ等と

自分のわがままからでた感情がこういうことをさせる。

捨てた本人は、邪魔だったものがなくなってスッキリつまり、幸せを感じたのかもしれませんが、

これに対処しなければならない町内の人にとっては、迷惑(=不幸せ)でしかありません。

 

ゴミのポイ捨てってそういうことなんじゃないでしょうか。

てめぇかってなわがままが、他人に犠牲を強いる。

しかし、それはきっと必ずどっかで巡り巡ってくると思い。

マイナスの幸せにした度合いもまた、そのまま自分に跳ね返ってくる。

あの計算式はそういうことです。

 

 

 

※後日談ではありますが、翌々日にはきれいに片付けられていました。

  きっと町内の方が、犠牲を払って片付けてくれたのでしょう。

  その町内の方もまた、町内の幸せのために働いてくれた。

  そしてその働きは、また巡り巡って返ってくると思います。

  まずは、感謝しましょう。

  片付けてくれて、ありがとうございました。