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クラシック音楽とお散歩写真のブログ

座右の銘は漁夫の利、他力本願、棚から牡丹餅!!
趣味のクラシック音楽をプログラミングする事に没頭、あとは散歩中に写真を撮りまくること。

中学受験応援しています。

Programming Music
Hummel,Johann Nepomuk/Variations on a Dutch Song in B-flat,Op.21

 

Programed by Hummel Note
Daw&Sequencer:Dorico 5
Sounds:GARRITAN PERSONAL ORCHESTRA(Piano)
Thumbnail images are generated by CyberLink PowerDirector

 

【注釈】動画オープニングのAiで生成した「貴婦人にレッスンするフンメル」 はGeminiで画像生成後、CyberLink PowerDirectorで動かす指示をして作りました。
【注釈2】動画内の譜面はProgrammingとして使用した譜面の演奏画面キャプチャーですので、演奏用の出版譜面とは異なります。

【まえがき】

いまさらですが、「ヨハン・ネポムク・フンメル(1778-1837)」という作曲家の名前を知らないという方もコアなクラシックファンでない限り多いのではと思っています。神童モーツァルトの数少ない弟子の一人であり、楽聖ベートーヴェンとも親交があった彼は、古典派からロマン派への架け橋となった重要な音楽家です。
生涯に200曲以上の作品を残したフンメルの作品群の中でも、特に彼の真価が発揮されているのがピアノ曲です。今回は、その中でも中期の華やかで洗練された魅力を持つ「オランダの歌による変奏曲 変ロ長調 Op.21」をご紹介します。この曲には、師であるモーツァルトとの意外な繋がりが隠されていました。

【主題はオランダ国歌!師モーツァルトとの「競演」】

この変奏曲の主題となっているのは、当時オランダで広く親しまれていた「ヴィレム・ヴァン・ナッサウ(Willem van Nassau)」という愛国的な歌です。驚くべきことに、このメロディは現在のオランダ国歌として歌い継がれています。
そして、さらに興味深い事実があります。フンメルの師であるモーツァルトも、全く同じ主題を用いて「『ヴィレム・ファン・ナッサウ』による7つの変奏曲 K.25」を作曲しているのです。

  • モーツァルトの変奏曲 K.25(1766年作曲)

モーツァルトがわずか10歳の時に作曲した、若き天才の才能が光る作品です。明快で優雅な古典様式で書かれており、一つ一つの変奏は簡潔ながらも創意に富んだ、宝石のように愛らしい小品に仕上がっています。

  • J.N.フンメルの変奏曲 Op.21(1806年頃出版)

モーツァルトの作品から約40年後、弟子フンメルは同じ主題を、より華麗で技巧的なコンサートピースへと昇華させました。この時代にはピアノという楽器が格段に性能を向上させており、フンメルはその可能性を最大限に引き出していると言えます。
同じメロディが、師の手にかかると古典的な気品あふれる作品に、そして弟子の手にかかると来るべきロマン派の時代を感じさせるヴィルトゥオーゾ(名人芸)的な作品へと姿を変える。この「師弟による競演」を聴き比べてもなかなか面白いです。ただ、モーツァルトの作曲年齢が10歳のときの作品ですので、いくら天才と言えども成人したフンメルの作品と比べて幼さを感じてしまうことは否めませんが、モーツァルトの変奏曲も大変魅力的ではあります。

【フンメルの技巧が光る、楽曲の魅力】

フンメルの変奏曲 Op.21は、主題と9つの変奏、そして華麗なコーダ(終結部)で構成されています。
親しみやすい主題が提示された後、変奏が始まると、そこはまさにフンメルの独壇場です。

  • きらびやかなアルペジオ(分散和音)やスケール(音階)が織りなす軽快な変奏。

  • しっとりとした表情を見せる叙情的な短調の変奏。

  • 力強い和音とオクターヴが壮大な響きを生む堂々とした変奏。

これらの多彩な変奏には、モーツァルトから受け継いだ端正な様式美の中に、後のショパンやリストを思わせる華麗なピアニズムの萌芽が随所に散りばめられています。演奏するには、一音一音を明瞭に弾き分けるタッチや、優雅で正確な装飾音の技術など、高度なテクニックが要求されます。特に、以下のような点がポイントとなります。

●明瞭なタッチ: 速いパッセージでも一音一音が明瞭に聞こえる、粒のそろったタッチが不可欠です。
●華麗な装飾音: フンメルの作品に特徴的な装飾音を、優雅かつ正確に演奏することが求められます。
●ダイナミクスの表現: 変奏ごとの性格の違いを、ダイナミクス(強弱)の変化によって豊かに表現することが重要です。

モーツァルトの優雅さと、来るべきロマン派の情熱とヴィルトゥオジティを繋ぐフンメルのピアノ変奏曲 Op.21は、彼の作曲家そしてピアニストとしての才能を現代に伝える、聴きごたえのある作品と言えるでしょう。ただし、後期の作品にみられるほどのより叙情的な雰囲気は持っていません(第7変奏のみロマン派ピアノ曲の叙情楽章のような雰囲気を持っています)。あくまでもこれから始まるヴァルトォーゾ時代の幕開けを宣誓しています。
 
【おわりに】
モーツァルトの優雅さと、来るべきロマン派の情熱。その二つを繋ぐフンメルの「オランダの歌による変奏曲 Op.21」は、彼の才能を現代に伝える聴きごたえのある中期の作品群でも、幻想曲,Op.18やピアノソナタ第3番,Op.20と並ぶ傑作です。
ぜひ、師モーツァルトのK.25と聴き比べながら、時代と共にピアノ音楽がどう進化していったのか、そして二人の天才の個性豊かな表現力の違いを堪能してみてください。きっと、クラシック音楽の奥深い世界の新たな扉が開かれるはずです。

【DTM】J.N.フンメル/ピアノとオーケストラの為の序奏とロンド
「ロンドンへの帰還」Op.127 (再編集版)
 

 

今回は10年前の2015年に作成した打ち込み音源の焼き直しです。当時はGARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 4の音源を使用してましたが、今回はGARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 5を使用しました。グランドピアノの表現や弦楽器の改善されているので合わせて強弱の再調整とほんの少しだけテンポもいじっています。前回のデータは下記の記事で紹介していました。

 

 

ヴィルトゥオーゾとしてのフンメル

ベートーヴェンが比較的早期に聴力を失い、演奏会の舞台から退くことになったのとは対照的に、ヨハン・ネポムク・フンメルは1830年代初頭まで、ヨーロッパで最も称賛されるヴィルトゥオーゾ(名人演奏家)の一人として活躍を続けました。

 

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AIで生成したフンメルの想像の肖像画

 

とはいえ彼にも演奏活動から離れていた期間があり、1814年のウィーン会議での演奏会への復帰が、以後10~15年間にわたる絶大な人気の礎となりました。彼の演奏家としての長いキャリアは、超絶技巧のみならず、作曲家としての活力と創造力によって支えられていました。
 

 

即興演奏家としての顔

フンメルはまた、卓越した即興演奏の才能でも知られており、その能力は演奏会における大きな魅力の一つでした。即興演奏には、幻想的な導入部、当時人気のオペラの主題、そして自由な変奏が含まれており、ときにはオペラのフィナーレのパラフレーズで締めくくられることもありました。

 

作曲家ルイ・シュポーアは、ウィーン会議のパーティーでのフンメルの即興についてこう記しています。

 

「その日の舞曲の主題を対位法的な変奏、フーガ、そして華麗なフィナーレへと織り込み、すべてワルツの拍子で、最後まで残っていた人々を踊らせた」シュポアの回想録より

 

このような即興の構成要素は、彼の出版されたピアノ独奏曲や管弦楽付きの作品にも色濃く反映されています。たとえば変奏曲 ヘ長調 Op.97(1820年)や《変奏曲とフィナーレ 変ロ長調 Op.115》(1830年頃)はその好例です。
 

 

フンメルとロンド形式の進化

1829年作の《幻想的性格的作品「オベロンの魔法の角」》では、ウェーバーのオペラ《オベロン》の主題に基づく自由な構成を採用しており、フンメルの構想力が際立っています。また、ピアノと管弦楽のための5曲のコンサート・ロンド(Op.6, 56, 98, 117, 127)も重要な成果として挙げられます。

 

とりわけOp.127は生前に出版された最後の作品番号であり、作曲家としての集大成的な位置づけがなされています。

 

 

ロンド形式の歴史的背景

ロンドは18世紀後半から協奏曲のフィナーレに好まれる形式として使われてきましたが、19世紀初頭までは独立したジャンルとはみなされていませんでした。モーツァルトの《コンサート・ロンド K.382》などは既存の協奏曲のフィナーレの代替として作られたものでした。

 

しかし、フンメル、リース、チェルニー、ウェーバー、さらにはメンデルスゾーンやショパンらの登場によって、ロンドは独立したコンサート作品としての地位を確立していきました。

 

これらの新しいロンド作品では、導入部の存在、華麗な技巧、即興性の強調といった特徴が見られ、古典派のロンドとは異なる性格を帯びています。

 

 

1830年代:フンメル晩年の挑戦

1814年の復帰以降、フンメルは再び協奏的作品の創作に力を注ぎました。19世紀に入り、聴衆の層が貴族から中産階級へと移行していく中で、音楽にも変化が求められるようになりました。フンメルはその期待に応えつつ、芸術的な水準を妥協せずに維持したことで、多くの支持を集めました。

 

1829年、休暇を翌年に持ち越す代わりにロンドンとパリへの長期旅行を敢行。パリでは期待されたほどの注目を得られませんでしたが、ロンドンでは40年ぶりの再訪にもかかわらず、大きな成功を収めました。

 

 

その後1831年、1833年と再びロンドンを訪問。特に1833年の滞在では、オペラシーズンの監督としての活動も行いながら、新作《ロンドンへの帰還 Op.127》と遺作となった最後のピアノ協奏曲(Op.posth.1)を披露しています。

 

 

ロンドンへの帰還 Op.127 ― 魅力的な晩年の結晶

《ロンドンへの帰還》(フランス語題:Le retour de Londres)は、1835年にウィーンで出版されました。興味深いことに、同年の手紙でフンメルはこれを「ルルドへの帰還」と呼んでいます。

 

この作品は、フンメルらしい美しさと表現力に満ちた緩やかな導入部に始まり、ロンド主題は行進曲風でありながら、各エピソードでは表現力豊かな詩情や華麗な技巧が交錯します。まさにロンド形式の完成形と言える構造と完成度を持ち、フンメル晩年の創作の情熱が衰えていなかったことを示す傑作です。

 

なお、大英図書館所蔵の自筆譜には多くの修正跡や記譜上の省略が見られ、作品がある程度急いで仕上げられたことを示唆しています。

 

 

おわりに

《ロンドンの帰還》は、フンメルの円熟と技巧、そして聴衆との距離感を見事に融合させた作品です。この曲を通じて、彼が時代の変化と対話しながら、常に新しい音楽を追求し続けた姿が鮮やかに浮かび上がります。

 

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