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クラシック音楽とお散歩写真のブログ

座右の銘は漁夫の利、他力本願、棚から牡丹餅!!
趣味のクラシック音楽をプログラミングする事に没頭、あとは散歩中に写真を撮りまくること。

中学受験応援しています。

【DTM】J.N.フンメル/ピアノとオーケストラの為の序奏とロンド
「ロンドンへの帰還」Op.127 (再編集版)
 

 

今回は10年前の2015年に作成した打ち込み音源の焼き直しです。当時はGARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 4の音源を使用してましたが、今回はGARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 5を使用しました。グランドピアノの表現や弦楽器の改善されているので合わせて強弱の再調整とほんの少しだけテンポもいじっています。前回のデータは下記の記事で紹介していました。

 

 

ヴィルトゥオーゾとしてのフンメル

ベートーヴェンが比較的早期に聴力を失い、演奏会の舞台から退くことになったのとは対照的に、ヨハン・ネポムク・フンメルは1830年代初頭まで、ヨーロッパで最も称賛されるヴィルトゥオーゾ(名人演奏家)の一人として活躍を続けました。

 

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AIで生成したフンメルの想像の肖像画

 

とはいえ彼にも演奏活動から離れていた期間があり、1814年のウィーン会議での演奏会への復帰が、以後10~15年間にわたる絶大な人気の礎となりました。彼の演奏家としての長いキャリアは、超絶技巧のみならず、作曲家としての活力と創造力によって支えられていました。
 

 

即興演奏家としての顔

フンメルはまた、卓越した即興演奏の才能でも知られており、その能力は演奏会における大きな魅力の一つでした。即興演奏には、幻想的な導入部、当時人気のオペラの主題、そして自由な変奏が含まれており、ときにはオペラのフィナーレのパラフレーズで締めくくられることもありました。

 

作曲家ルイ・シュポーアは、ウィーン会議のパーティーでのフンメルの即興についてこう記しています。

 

「その日の舞曲の主題を対位法的な変奏、フーガ、そして華麗なフィナーレへと織り込み、すべてワルツの拍子で、最後まで残っていた人々を踊らせた」シュポアの回想録より

 

このような即興の構成要素は、彼の出版されたピアノ独奏曲や管弦楽付きの作品にも色濃く反映されています。たとえば変奏曲 ヘ長調 Op.97(1820年)や《変奏曲とフィナーレ 変ロ長調 Op.115》(1830年頃)はその好例です。
 

 

フンメルとロンド形式の進化

1829年作の《幻想的性格的作品「オベロンの魔法の角」》では、ウェーバーのオペラ《オベロン》の主題に基づく自由な構成を採用しており、フンメルの構想力が際立っています。また、ピアノと管弦楽のための5曲のコンサート・ロンド(Op.6, 56, 98, 117, 127)も重要な成果として挙げられます。

 

とりわけOp.127は生前に出版された最後の作品番号であり、作曲家としての集大成的な位置づけがなされています。

 

 

ロンド形式の歴史的背景

ロンドは18世紀後半から協奏曲のフィナーレに好まれる形式として使われてきましたが、19世紀初頭までは独立したジャンルとはみなされていませんでした。モーツァルトの《コンサート・ロンド K.382》などは既存の協奏曲のフィナーレの代替として作られたものでした。

 

しかし、フンメル、リース、チェルニー、ウェーバー、さらにはメンデルスゾーンやショパンらの登場によって、ロンドは独立したコンサート作品としての地位を確立していきました。

 

これらの新しいロンド作品では、導入部の存在、華麗な技巧、即興性の強調といった特徴が見られ、古典派のロンドとは異なる性格を帯びています。

 

 

1830年代:フンメル晩年の挑戦

1814年の復帰以降、フンメルは再び協奏的作品の創作に力を注ぎました。19世紀に入り、聴衆の層が貴族から中産階級へと移行していく中で、音楽にも変化が求められるようになりました。フンメルはその期待に応えつつ、芸術的な水準を妥協せずに維持したことで、多くの支持を集めました。

 

1829年、休暇を翌年に持ち越す代わりにロンドンとパリへの長期旅行を敢行。パリでは期待されたほどの注目を得られませんでしたが、ロンドンでは40年ぶりの再訪にもかかわらず、大きな成功を収めました。

 

 

その後1831年、1833年と再びロンドンを訪問。特に1833年の滞在では、オペラシーズンの監督としての活動も行いながら、新作《ロンドンへの帰還 Op.127》と遺作となった最後のピアノ協奏曲(Op.posth.1)を披露しています。

 

 

ロンドンへの帰還 Op.127 ― 魅力的な晩年の結晶

《ロンドンへの帰還》(フランス語題:Le retour de Londres)は、1835年にウィーンで出版されました。興味深いことに、同年の手紙でフンメルはこれを「ルルドへの帰還」と呼んでいます。

 

この作品は、フンメルらしい美しさと表現力に満ちた緩やかな導入部に始まり、ロンド主題は行進曲風でありながら、各エピソードでは表現力豊かな詩情や華麗な技巧が交錯します。まさにロンド形式の完成形と言える構造と完成度を持ち、フンメル晩年の創作の情熱が衰えていなかったことを示す傑作です。

 

なお、大英図書館所蔵の自筆譜には多くの修正跡や記譜上の省略が見られ、作品がある程度急いで仕上げられたことを示唆しています。

 

 

おわりに

《ロンドンの帰還》は、フンメルの円熟と技巧、そして聴衆との距離感を見事に融合させた作品です。この曲を通じて、彼が時代の変化と対話しながら、常に新しい音楽を追求し続けた姿が鮮やかに浮かび上がります。

 

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ロシア演奏旅行のために準備された2曲の協奏曲

Programming Music
J.N.Hummel/Variations on a Russian theme for Piano and Orchestra in F,Op.97

このピアノとオーケストラのための作品は、Op.98の作品と共にロシアでの演奏旅行のために作曲されたと思われます。どちらもロシアの民謡をテーマにした作品であり、明るい牧歌的なテーマを扱った作品で、1820年頃作曲されたものです。フンメルがロシア方面へ演奏旅行したのは、主に1822年と1814年の二度ですが、2回目のツアーをすでに計画していたのでしょう。

🎹 1814年のロシア旅行

彼は1813年に歌手エリザベート・レッケル(Elisabeth Rockel)と結婚した後、1814年に彼女の希望でロシアやヨーロッパ各地を巡っています 。

🎼 1822年のロシア再訪

1822年には再びロシアを訪れ、演奏旅行と共に旧知の仲(ロンドンで共にクレメンティのもとで学んでいました)である作曲家でピアニストのジョン・フィールドと出会い共演しています。

このピアノとオーケストラの為の変奏曲はフルート2、ホルン2、弦楽五部のシンプルな編成で、序奏も置かれていません。前奏の和音で始まりすぐに軽やかなテーマが始められます。テーマはピアノの優雅さで発表され、 モーツァルトのピアノと管弦楽のためのロンド(K.382)と類似した雰囲気を持っています。

ヘ短調の感傷的な第3変奏を挟んでテンポの速い軽快な変奏が続きますが、第6変奏のLarghetto con espressione.は、ロマン派のピアノ曲を先取りした装飾と展開が美しい幻想的なロマンスを奏でます。テンポの速い技巧的なパッセージが続く第7変奏からカデンツァを挟んでテーマに戻って曲は終わります。

ピアノに関しては後期のフンメルらしい表情に富んだ高い演奏技術を求められるものですが、オーケストラは終始伴奏に終始しています。ただ第7変奏の終わりでは劇的な表現を見せてくれます。

このDTM・動画制作について

この曲のプログラミングはすべてDorico5でHALion Sonic7の音源を使用して作成しましたが、ピアノ音源のみGARRITANのグランドピアノを使用しています。

動画内の譜面はDoricoの再生画面で、この譜面はオリジナルの譜面とは異なっています。私は譜面制作ではなく、演奏を主眼に置いているので、テンペ指示、強弱などはかなり細かに入力しています。さらに動画内の画像はCyberLink PowerDirectorでフンメルのコンサート風景を作成させました。


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