春風ヒロの短編小説劇場 -2ページ目

春風ヒロの短編小説劇場

春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

 私がその光景を見たのは、ある平日の朝。五月の下旬に差し掛かろうというのに、前夜の雨のせいで、ひどく冷え込んだ日のことだった。
 荷台部分に子供用座席を取りつけた自転車をこぐ、中年の父親。白のワイシャツにネクタイをなびかせながら、必死の形相で街を疾駆している。その後ろには、幼稚園の制服姿の女の子が座っている。制服の上には、防寒着の代わりであろう、父親の背広を羽織っていた。
「……坂崎さん」
 必死に自転車をこいでいたのは、かつての常連客。結婚し、子供を授かって以来、店から足が遠のいている坂崎だった。出勤前に子供を幼稚園へ送るのだろうか。少しでも肌寒さから子供を守ろうと、背広を着せてやる優しさにほほえましいものを感じながら、私は家路をたどった。

 週末の夜はいつも忙しい。まだ六月中旬だというのに、毎日、夏本番を思わせるような蒸し暑さを感じる日が続くと、一杯の涼とひと時のくつろぎを求めて来店する客がさらに増える。おかげで、店内はほぼ満席となっていた。
 この時期になると、フローズン・ダイキリやフローズン・マルガリータに代表されるフローズン系のカクテルや、パッソアやマリブ、マンゴヤンといった南国系リキュールをベースに使ったトロピカルカクテルが好まれるようになる。
 トロピカルフルーツの仕入れを増やし、「夏向けのカクテルキャンペーン」でも始めてみようか。
 立て込むオーダーを一つひとつさばきながら、そんなことを考えていた矢先、ドアにぶら下げたベルが来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
 反射的に声を掛けながら、素早く目を動かして客の人数と店内に残っている空席を確認する。楽しいひと時を求めてせっかく足を運んでくれた客に、「申し訳ありませんが、あいにく満席でして……」と断るときの切なく、気まずい思いは、言葉ではなかなか表現しづらい。無論それは、店がそれだけ人気を集めている証拠でもあるのだが。
 幸い、来店者は一人きり。それも、見知った顔だった。カウンターの隅に残っていた空席を指し示し、私は彼を迎えた。
「いらっしゃいませ、坂崎さん。こちらの席へどうぞ」

 ほかの客がそれまでに出していたオーダーを十分近くかけて処理し終わり、ようやく坂崎のオーダーを取ることができた。
「お待たせしてすみませんでした。今夜は、何をお出ししましょう? また、デュカスタンにされますか?」
「ははは、哺乳瓶はもう何年も前に卒業しましたよ。おしゃぶりだって使わなくなったし……。子供の成長は、本当にあっという間ですね」
 そう笑いながらバックバーに並べたボトルを眺める坂崎の顔は、数年前とほとんど変わっていない。ただ一つ、確実に変わったといえるのは、目尻に笑いじわが増え、表情が和やかになったことだろう。決して以前から険のある顔つきをしていたというわけではない。しかし、一層表情が柔和さを増したように見えた。
「じゃあ、グレン・フィディックを水割りでもらえますか」
「かしこまりました。今夜は一人で出歩いても大丈夫なんですか?」
「ええ、嫁と子供が泊まりがけで遊びに行ってますから。『パパも誰かと飲みにでも行ってきたら?』と、嫁からのお墨付きです」
「そうですか、いい奥様ですね。ちょっと混雑してますけど、ゆっくりしていってくださいね」
 そんなやり取りを交わしたところでほかの客からオーダーが入った。私は坂崎に会釈をすると、次のオーダーに取りかかった。

 バーのカウンター席というのは、不思議な空間だ。まったく一人きりで何時間も過ごすことだってできる。しかし、たまたま隣り合っただけの見ず知らずの赤の他人とも、一杯の酒を介して、ひと時の友人になれる。男女であれば、時にはそれが一夜の恋につながることだってある。
 一人で来店した坂崎だったが、気がつけば隣席の女性と何やら親しげに話し込んでいた。二人の様子は「たまたま隣り合っただけの客」と言うには少々親密すぎるような、不思議な雰囲気を醸し出している。とはいえ、客のプライベートに立ち入るのはバーマンにとって最大の禁忌。不倫だろうとナンパだろうと、一切関知することはない。私は素知らぬ顔で接客を続けた。
 一時間ばかり過ぎてふと坂崎のほうを見ると、ちょうど件の女性が片手を上げ、会計を求めてきた。坂崎は席に座ったまま、ゆっくり水割りを味わっている。このまま連れ立ってどこかへ……という雰囲気ではなさそうだ。
「では、また」
「ええ、今日はありがとうございました。またよろしくお願いします」
 女性は坂崎とそんなやり取りを交わすと、そのまま店を後にした。
 私は少し気になって、坂崎に尋ねた。
「お知り合いの方だったんですか?」
「そうなんですよ。娘の友達のお母さんです。まさかこんなところで会うなんて、お互いにビックリしました」
「ずいぶん親しげに話しておられたから、彼女さんか何かなのかと思いましたよ」
「ははは、まさか。あえて言うなら、『ただの顔見知り』ってやつですよ。だけど、親になるって不思議なもんですね。結婚前ならまったく共通の話題なんてなかったような相手でも、『○○ちゃんのパパ・ママ』として子供の話をすれば、一時間近く話が続く。男女という以前に、『子育て中の戦友』みたいな感覚を共有してるような気がしますね」
「そんなもんなんですか……。子供のいない私には、ちょっと理解の及ばない世界かもしれません。そういえばこの前、自転車に子供さんを乗せて走っていましたね」
「えっと……、いつの話ですか?」
「二週間ほど前だったかな、やたら肌寒かった朝のことですよ」
「ああ、あの日ですか。嫁が急に体調を崩してしまったもんで、出勤前に私が幼稚園へ送ることになったんです。娘が寒い寒いって文句ばかり言うから、防寒着代わりに背広を着せて。おかげで私も寒かったし、会社には遅刻しそうになるし。まったく散々でしたよ」
 そう言いながらも、満更でもなさそうな顔をして坂崎は水割りを飲み干した。
「お代わり、お作りしましょうか?」
「お願いします」
「何にいたしましょう?」
「そうだなあ……。何か、カクテルに行きたい気分ですね。お勧めはありますか?」
「じゃあ、お勧めを作りますね。ヘビーなものでも大丈夫ですか?」
「まだ水割り一杯飲んだだけですからね。大丈夫ですよ」
「かしこまりました」
 私は一礼し、バックバーに向き直った。何を作るかは、既に決まっている。問題は、ベースの酒に何を選ぶかだった。
 しばらく悩んだ末、私は一本のボトルを手に取った。表面に「クラックス・パターン」というひび割れ模様の施された、四角いボトル。「オールド・パー」だ。氷を入れたオールドファッションド・グラスに注ぎ、杏のリキュール「アマレット・ディ・サローノ」を加える。軽くステアして完成だ。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう、頂きます。このカクテルの名前は?」
「通常なら『ゴッド・ファーザー』です。だけど今夜はちょっと特別版にしてみました」
「どのへんが特別なんですか?」
「ベースに使ったのは『Old Parr』。この酒のモデルになったのは、トーマス・パーという、日本でいえば戦国時代ぐらいに実在した人物です。この人は八十歳で結婚し、百十二歳で奥さんと死別。百二十二歳で再婚して、百五十二歳まで生きたという、伝説的な人物です。一説には、お祖父さんの生年と記録が混同されていて、実際の没年齢は八十歳前後だったという話もありますが、それでも当時ではかなり長生きだったのは間違いありません。つまり、トーマス・パーにあやかって、いつまでも元気でいてください、っていうわけです」
「なるほど、ありがとうございます」
「それから、もう一つ。『Old Parr』の頭文字、Oを『God father』に足して、『Good father』ということでいかがでしょう? 素敵なお父さんへ、私から父の日のプレゼントです」
「ああ、そういえば明日は父の日でしたね。ありがとうございます。いい父親やってるのかどうか、分かりませんけどね。そっか……。自分が父の日を祝われる立場になったんだなあ……」
「娘さんが帰ってきたら、『お父さん、いつもありがとう』なんて言って、お父さんの似顔絵を渡してくれるかもしれませんよ」
「そんな定番イベントを自分が体験する日が来るとはなあ……。いやあ、なんかすごいですね」
 坂崎はいとおしそうに両手でグラスを抱え、しみじみと言った。

 坂崎は、それからほどなく店を後にした。
 私自身は家庭を持っていないが、坂崎という一人の客を通じて、その喜びを共有したように思えた。
 彼が次に来店するのは、いつになるだろう。そのころにはきっと、子供はさらに大きくなり、いまとはまた違った形の楽しみや、悩みを抱えていることだろう。その日が、いまから待ち遠しかった。
 パーじいさん。叶うならば、どうか彼が末永く元気でいられますように――。
 私は小さなグラスに自分用の「Good father」を作ると、カウンターの陰に置いた。
「お父さんたちに、乾杯」
 相次ぐ客のオーダーに応えながら、私はそうつぶやいた。


【ゴッド・ファーザー】
ウイスキー 45ml
アマレット 15ml

ウイスキー 7/10
アマレット 3/10
(IBA(国際バーテンダー協会)のオフィシャルレシピ)

氷を入れたオールドファッションド・グラスに注ぎ、軽くステアする。


作者注
本作は昨年の父の日に公開するつもりで執筆したものです。
なお、作中に登場する「Good father」は作者が考案したもので、バーなどで注文しても提供してもらえるとは限りません。
また、ベースに使ったウイスキー、オールド・パーは非常に高価な酒で、バーなどで気軽に注文すると驚くような金額を請求される恐れがあります。ご自身の財布とよくご相談の上、自己責任でご注文ください。

「ねえ、世の中には、不思議なことがあるって知ってる?」
「そりゃいろいろと理屈で説明できないことはあると思うよ」
「たとえば、私とあなた。いま、この部屋には二人しかいないわよね」
「うん、どう見てもオレたちしかいないね」
「だけど、ここで私が『この部屋には猫がいる』と発言するだけで、この空間には『猫がいる』ことになってしまうの」
「いや、どこにも猫なんていないよね?」
「ちょっと正確じゃなかったわね。私が『猫がいる』と発言して、あなたがそれを認めることで、この空間に『猫がいる』という事実が発生するの」
「どういうこと?」
「私たちは情報によって成立しているの。文字、音声、画像、時には触覚や味覚、嗅覚を刺激することによって伝達される情報もあるわ。それらの情報がなければ、たとえ目の前にあったとしても、それは存在しないのと同義なの」
「ふむ。たとえばオレの目の前にある、この敷きっぱなしの布団だって、今まで存在しなかったことになるのか」
「そうよ。私としては、いい加減に畳んで押し入れへ片付けてほしいと思うのだけど」
「なるほど、こうして言葉にすることで、『この部屋には敷きっぱなしの布団があって、キミはそれを片付けてほしいと思っている』という事実が成立したわけだ」
「そういうこと」
「じゃあ、オレが今から『この部屋には猫がいる』と言ったら、猫がいることになるのかな」
「いいえ、ならないわ。なぜならそれは、さっきのあなたの『いや、どこにも猫なんていないよね?』という発言に矛盾してしまうから」
「えーっと、じゃあ、『あっ、開けっ放しにしていた窓から、近所で飼ってる子猫が入ってきたぞ』と言ったら?」
「ニャーン」
「ほら、子猫が入ってきたわ。かわいいわね、よしよし。ああ、窓から入ってくる風が気持ちいいわね。昼間は暑いけど、夕方になると少しずつ風がヒンヤリする季節になったと思わない?」
「そうだね。……なるほど、こうしてオレがキミの言葉を認めたことで、『今は夏の終わりで、時刻は夕方』ってなったわけだ」
「そう。いま、この世界には、私たちの言葉しか情報が存在しないからね。情報さえあれば、私たちは何にでもなれる。たとえば、この部屋は六畳一間の安アパートかもしれない。一軒家かもしれない。六本木ヒルズかもしれない」
「だったら、実はオレはアラブの石油王の親戚がいて、毎日遊んで暮らせるだけの小遣いが手に入るセレブなんだ!」
「……言っててむなしくならない? どんな情報も、私たちの意識を超えた存在によって決められているのだから、私たちが勝手に物事を決めることはできないわ」
「え? いったいどういうこと?」
「私たちは、自分の意思で会話をしているように思うけど、実は、会話を『させられている』の。私たちは操られている」
「操られている? 誰に?」
「超越的存在、大いなる意思、世界の統括者、ゲームマスター、サムシンググレート、作者――。呼び方はいろいろあるけれど、この世界においては、神とか、それに近い存在と思っていいわ。とりあえず一番分かりやすい『神』という呼び方にするけれど、たとえば、神がこの世界には奇跡も魔法もあるんだと決めれば、それが真実になってしまうの。空から光る石のペンダントをつけた女の子が降ってくる世界だってあるし、死んだはずの奥さんが何の前触れもなく蘇って、旦那や子供に会いに来る世界だって存在しうるの」
「ニャーン」
「あっ、こらこら、カーテンにじゃれるんじゃない。……こんな本能だけで生きてるような子猫でさえ、操られているっていうのかい!?」
「その通りよ。子猫も、あそこを飛んでるコウモリも、いま私の腕に止まって血を吸いだした蚊でさえも、この世界を彩る舞台装置の一つに過ぎないわ」
「もしそれが真実なんだとしたら、このやり取りさえも、誰かに操られているってことだよね? いったい、何のために?」
「世界を、創造するために。もしくは、世界を完結させるために」
「まるでワケが分からないよ。頭が痛くなりそうだ。この世界はいったいいつ始まって、いつ終わるというんだろう」
「そうね、厳密に言うと、この世界が始まったのは、さっき私が『ねえ、世の中には、不思議なことがあるって知ってる?』と発言した瞬間。もちろん、それまでにもこの世界があったことを私たちは知っている。だけど、それらは言葉として形を与えなければ、存在しないのと同じ。そして、いつ終わるかは、私にも分からない。神が『もう終わりにしよう』と思った瞬間、終わりが訪れるのかもしれない。そう、まったく唐突に――」


本作は某コミュニティサイト内で募集したお題に基づいて執筆したものです。
本作のお題は「猫、布団、じゃれる」でした。

 彼女の第一印象。それはひと言で言うなら「迷子の子供」だった。
 自分に自信がなくオドオドして、いつも誰かに救いを求めるように視線をさまよわせている。
「普段は決して勉強ができないというわけではないんですが……。テストになると、どうしても成績がぱっとしないんです」
 彼女の母親から聞かされた言葉である。勉強ができないわけではない。つまり、決して基礎的な学力が身についていないわけではない。それなのにテストの結果がついてこないのは、自分の書いた解答に自信がなく、何度も見直しているうちに回答時間が終わってしまうのが、要因の一つだと考えられた。
 個人指導を始めるに当たり、方針を決めなくてはいけない。私は尋ねた。
「お母さんとしては、受験対策を中心とした成績アップを望まれますか? それとも、『人間力』とでもいうような、総合的なスキルアップを望まれますか?」
「それは……できたら、総合的な力を上げてもらいたいですね」
「その場合、こう言っては何ですが、学業指導が二の次になる可能性もあります。また、かなり独自の指導を行うことになりますが、その点をご理解いただけますでしょうか?」
「それで結構です。よろしくお願いします」
「わかりました」
 そんなやり取りを経て、私は彼女の部屋に入った。
「はじめまして。今日からキミの家庭教師として個人指導を担当する、萩野です。よろしく」
「ュゥヵです……」
 ぼそぼそと、文字通り蚊の鳴くような声で答える。うつむいたままなので、ただでさえ小さい声が一層聞き取りづらい。これは、骨が折れそうだった。

「まず、キミの指導方針について話をしたい」
「……はい」
 私は彼女の斜め前に、横向きに座った。彼女の正面には、私の横顔が位置する。視線を合わせることなく、リラックスしたまま対話できる距離、角度を保って、私は話を始めた。
「お母さんからは、学業指導を二の次にしてでも、人間力アップを目指してもらいたいという言葉をもらっている。キミのテストの回答などを見せてもらったけれど、基本的な理解力はある。だけど、キミには根本的に足りていないものがある」
「……はい」
「はっきり言おう。それは、決断力だ。確信や自信と言ってもいい。それが根本的に不足しているからこそ、答えに迷い、本来なら正解できるはずの問題まで間違ってしまっているんだ」
「……はい」
「キミに必要なのは成功体験だ。まず、身をもって行動し、体験する。その体験を二度、三度と積み重ねていくことで、経験になっていくんだ」
「……はい」
「よく、『時間が解決してくれる』なんて言う人がいる。だけど、何もしないまま、ただ時間を浪費しているだけでは、何も解決なんてしない。するはずがない。大事なのは、行動することだ。どんな些細なことでも、自分のために行動し、経験を積み重ねていけば、そのために費やした時間は、必ず問題を解決してくれる」
「……はい」
「キミに必要なのは熱だ。熱くなれ。弱い自分と決闘するんだ。逃げるな。恐れるな。自分の中の弱さと向き合って、それを克服するんだ」
「……はい」

 翌日から、彼女の指導が始まった。
 指導内容は行動目標をリストアップして視覚化し、一つひとつ消化していくメンタルトレーニングのメソッドと、ジョギング、ボイストレーニング、ヨガなどの運動を組み合わせたものだ。加えて、基礎学力を維持するため、いくつかの問題集を宿題として課した。
「自信がなく消極的で、おとなしすぎる」という性格ではあっても、決して彼女は不真面目なわけでも、やる気がないわけでもなかった。だから、彼女は着々と課題やトレーニングをこなし、自分の心に抱えた障壁を一つ、また一つと乗り越えていった。
 わずか一週間で彼女の表情には自信がみなぎり、ハキハキした受け答えもできるようになった。
 だから、ある日、彼女が初めて会った日のようにうなだれ、オドオドとしているのを見たときは、少なからず驚いた。その理由は、すぐに明らかになった。
「宿題? ……やってません」
 なるほど、そういうことだったのか。私は納得した。
 宿題をやっていないのは、大した問題ではなかった。そんなもの、別にやってもやらなくても構わない。それよりも、ずっと大きな問題があった。
 私は冷徹に指摘した。
「聞こえない」
 そう。自信を持たなくてはならない。過ちを犯したときこそ、自らの非を受けとめ、真摯な態度で臨まねばならない。
「宿題、やってません」
「まだ足りない」
「宿題、やってません!」
「まだ聞こえない、伝わらないっ!」
「宿題っ、やってませんっ!」
「そう、その調子だっ! もう一度っ!」
「宿題ッッ、やッッてませんーッッ!!!」
「そうだっ、それでいいっ! 腹の底から声を出すんだっ!『宿題をやっていなかった』と伝えることを、恐れちゃいけない。過ちは正すことができる。課題はこれからやればいい。大事なことは、現実と向き合わずに逃げ出そうとしないことだ! さあ、あの夕陽に向かって走るぞ!」
「先生ーッッ、まだ昼ですッッッ!!!」
「……はい」
「聞こえませんッッ!」


本作は某コミュニティサイト内で募集したお題に基づいて執筆したものです。
本作のお題は「『宿題? ………やってません』、迷子の子供、決闘する」でした。

「恐竜が絶滅したのは、小惑星の衝突と火山の噴火による気象の大変動が原因だと言われているわ」
「……はあ」
 彼女がいきなり小難しいことを言いだすのは、今に始まったことではない。
 日常生活のごく何げない瞬間、たとえばキャベツの千切りを作っているとか、風呂掃除をしているときに、突然、量子力学や「ヴォイニッチ手稿」について語り始めたりするのだ。
 そんなわけで、たとえ現在時刻が夜中の11時半で、そろそろ寝ようと布団にもぐり込んだ矢先のことだとしても、ぼくと彼女が白亜紀の終末について語り合うのは、明日の朝食のメニューについて相談するのと同じぐらいの感覚だった。その議論は、あくまで彼女が求める何かを導き出すためのプロセスなのだ。あえてそんな回りくどい会話の時間を共有することを楽しむような空気が、明るい太陽光に満たされたアドリア海のそよ風のように、ぼくと彼女の間には絶えず流れていた。
「小惑星の衝突の火山の噴火によって、土砂粉塵と火山灰が成層圏まで巻き上げられ、太陽光が遮られた。熱帯性の植物が育たなくなって、まず草食恐竜が、そして草食恐竜を捕食する肉食恐竜が死滅していったわ」
「環境の変化に適応できなかったことが、恐竜絶滅の大きな原因だと言われているね」
「そう、環境の変化。特に温暖な白亜紀の環境に適応した恐竜の巨体は、寒冷地での生存には不向きだった。何も恐竜だけの話ではないわ。私たち恒温動物、特に体毛の退化した人間は、体温維持のために衣服や寝具などさまざまな工夫を凝らさなければいけないわ」
「そうだね。今日はちょっと冷え込むから、布団の中もまだ冷たいね」
「だから、あなたは私を温める努力をすべきだわ」
「『寒いから、くっつきたい』って、普通に言えばいいんじゃないの?」
「……うるさいわね」
 掛け布団を少し持ち上げて隙間を作ると、彼女はゴロンと寝返りを打ってぼくの布団へ転がり込んできた。左腕で彼女に腕枕をしながら、右腕で彼女の体を抱きしめ、隙間なく布団で包み込む。
 彼女が背中を向けているため表情は分からないが、耳が赤くなっているのだけははっきりと見えた。ぼくはその耳にキスをして、ささやいた。
「おやすみ。……それとも、もう少し二人で体を動かして、ぬくもってから寝る?」
「……バカ」



「『塩のように混じり気なく 血のように甘い』って言うじゃない」
 朝食のみそ汁を作りながら、彼女が不意に尋ねてくる。彼女の柔らかい手のひらの上で、さらに柔らかい豆腐が賽の目に切られている真っ最中のことだ。
「『ドラゴンランス』シリーズに出てくる、死者の詩の一節だっけ?」
「こんなディープなネタにあっさりと即答するあたりが実にマニアックなオタクよね」
「さり気なく人を罵倒しない。で、その詩の一節がどうしたの?」
「『塩のように混じり気なく』は分かるんだけど、『血のように甘い』は納得がいかないわ。人間の血液の塩分濃度は0.9%、つまり1リットルの水に大さじ半分の塩を溶かしたぐらいで、決して甘くはない。むしろ、しょっぱいはずだわ」
「人間の生血を吸う死者たちの詩なんだから、おいしさの比喩で『甘い』と表現したんじゃない?」
「その可能性はあると、私も思う。ところで、死者のモンスターといえば、有名なのはゾンビにドラキュラ――」
「ミイラ男なんかも有名だよね」
「そう、それ。ミイラよ。彼らが全身に巻いている包帯は、広義の白装束と言うことはできないかしら? あくまで経年劣化による変色を考慮しない、という条件が必要になるのだけれど」
「ミイラの包帯はあくまで死者の皮膚が腐敗するのを防ぐものなんだから、衣装とはちょっと違うんじゃないかなあ……」
「でも、ハロウィンでミイラのコスプレをすれば、包帯は衣装になるじゃない。白い衣装という点だけに着目すれば、それも白装束と言えるんじゃなくって?」
「うーん、そんなふうに言われたら、包帯も衣装と言えるかもしれないって気がしてくるなあ」
「狭義の白装束と言えば、神事に用いられる白衣を指すわけでしょう。だけど、ミイラも死後の世界で肉体を維持するために作成されたのだから、宗教的背景に基づいた、ある種の神事と言えなくもないんじゃないかしら」
「日本の神事の装束とミイラにそんな共通点を見いだすなんて、八咫烏もビックリだね」
「まあ、さすがに今の私にとって、白装束になるほどの包帯は必要ないと思うんだけどね」
「えっ、ちょっと待って、何の話?」
「豆腐と一緒に、ちょっぴり指まで切っちゃった。大丈夫、豆腐に血は付けなかったし、味噌汁にも血は入らなかったから、何も問題はないわ」
 テヘペロ♪、とでも言いそうな顔で、彼女が血のにじんだ指を突き出してくる。ぼくは絆創膏を取りに行くため、急いで椅子から立ち上がろうとするが、彼女はぼくの動きを制するようにズンズンと近づいてきて、座ったままのぼくの額を、血のにじんだ指で軽く押さえた。
「ねえ、知ってる? 椅子に座ったまま、こんなふうに額を押さえられると、人は立ち上がれなくなるの」
「あー、それな。椅子に深く腰掛けて、背中を背もたれにピッタリ密着させていれば、確かに立ち上がれなくなるけど……よっ、と」
 ぼくは両膝の裏で椅子を押すと、額に押し付けられた指を簡単に外して立ち上がった。
「もう半分立ち上がってたからね。そんな状態で額だけ押さえられても、簡単に立ち上がれるさ。切ったのは1カ所だけ? 絆創膏は1枚で大丈夫?」
「あら、たったこれぐらいの切り傷、『ツバ付けとけば治る』と言って舐めてくれると思ったのに。ほら、ほら」
「そんなこと言ってるうちに、どんどん血が出てきてるでしょ。早く絆創膏貼ろうね」
「私の血なら、甘いかもしれないわよ」
「そんなわけないでしょ。ぼくは血よりも、早く朝ごはんが食べたいんだから」
「指なんて舐めたくないというわけね。ほかの場所なら昨夜いっぱい舐め――」
「やーめーなーさーいー!」
「どうせなら『そんなおしゃべりな口は、ぼくの唇でふさいでやる』って言ってキスしてくれてもいいのよ」
「はいはい、唇突き出して待たないの。朝っぱらからそんなことしません」

「つまり夜ならいいわけね」

「やめなさい」
 ぼくは彼女の指先に玉のようにふくれ上がった血をティッシュでそっとふき取り、小さな切り傷を絆創膏で包み込んだ。
「ありがとう。じゃあ、冗談はこれぐらいにしておいて、朝ごはんにしましょう」
「そうだね。……いただきます。あ、醤油取ってくれる?」
「醤油といえば、そもそも始まりは肉を塩漬けにした時に生まれる肉醤(ししびしお)が――」
 まったく、彼女といると、ただ朝ごはんの席で醤油を取ってもらうだけでも、狩猟生活を送っていた古代中国史について考えなくてはならない。そんな面倒な日常が、ぼくはたまらなく楽しくて、愛おしいと感じるのだ。


本作は知人の依頼により執筆したものです。
本作のお題は「恐竜、白装束、血液」でした。

 幼女の突拍子のない話は、聞いていて実に面白い。
「ミユちゃんね、大きくなったらウサギさんと友達になるの」
 4歳になったばかりの姪っ子は、いつも、突然そんな話を始める。
「ヘリコプター」を「ヘリポクター」、「金メダル」を「キンデマル」と言ってみたりしたかと思うと、いきなり「おててえほん」ごっこを始めて、「むかしむかし、あるところに、キリンになりたいこんにゃくがいました。だけど、こんにゃくはキリンじゃなくて、まちがえてピアノになっちゃいました」などという、大人では考えつかない斬新なストーリーを聞かせてくれたりするのだから、まったく、一緒にいて飽きることがない。
「へえー、どうしてウサギさんと友達になりたいの?」
「ウサギさんね、ニンジン好きでしょ。だからミユちゃんのニンジン分けたげるの」
「あれ、ミユちゃんはニンジン苦手なの?」
「ううん、大好き。だから分けてあげるの。ウサギさんと一緒にオイシイするの」
「オイシイ」のところで、両手を頭の上に上げ、ピヨピヨと動かす。ああ、なんてかわいいんだろう。この子は天使か。地上に降りた最後の天使なのか。1万ボルトの瞳の持ち主だとでもいうのか。
 まったく、彼女の話を聞いているだけで心が洗われていくような気がする。こんな可愛らしい子とずっと一緒にいられるのなら、普段は「彼氏いらない。恋愛も結婚も面倒くさい」なんて言ってる私でさえ、家庭を持って子供を産みたいと思ってしまうのだ。

 そういえば私も、子供のころには突拍子もないことを尋ねて、大人を困らせていたような気がする。いまでも特に覚えているのは、叔母さんにショッピングモールへ連れて行ってもらったときのやり取りだ。
「ほら、メグちゃんの欲しがってたお菓子、あそこにあるよ」
「あっ、あっちでプリキュアのショーやってる。見に行こうか?」
 叔母さんはいつも、すぐに私の探しているものを見つけて教えてくれる。それが不思議に思ったのだ。
「おばちゃんは、どうしてすぐに見つけられるの?」
「おばちゃんはメグちゃんよりも背が高いから、遠くまで見えるんだよ」
「どれくらい遠くまで見えるの? アフリカ見える?」
「あはは、アフリカは見たことないなあ」
 あの時、叔母はどんな顔をしていたのだろう。
 子供の突拍子のない言葉に困惑していたのだろうか。それとも、遠く=アフリカという無邪気な発想を面白がっていたのだろうか。

 連休を利用して、姉夫婦が実家へ遊びに来た。もちろん、ミユちゃんも連れてきている。
 私は早速、彼女を連れて近所の公園へ遊びに行った。大型の遊具をいくつも取りそろえた本格的な児童公園で、彼女はここで遊ぶのを何より楽しみにしていた。
「あれに登りたい!」
 ミユちゃんが指さしのは、小学校高学年ぐらいにならないと登れないような、かなり大型のジャングルジムだった。
「うーん、あれはミユちゃんが登るのは、まだちょっと難しいと思うよ」
「えー」
「ちょっとだけならいいけど、上まで登るのは危ないよ。ミユちゃんがもう少し大きくなったら登ろうね」
「あの上まで登ったら、アフリカ見えるかなあ?」
 姪の何げないひと言に心底驚かされる。何と言うことだ。遠い場所=アフリカという思考が、姪に遺伝するなんてことがあるんだろうか。私はしげしげとミユちゃんの顔を見る。
「さすがにアフリカは見えないと思うよ」
「残念だなー。あーあ、アフリカ見てみたかったなー」
「どうしてそんなにアフリカが見たいの?」
「ミユちゃん、アフリカのウサギさんが見たいの」
「アフリカにウサギって住んでたかなぁ……」
 アフリカというと、サバンナのシマウマやキリン、ライオン、チーター、ゾウにサイなどのイメージしかない。まあウサギなんて、北極や南極などのごく一部の地域を除けば、世界中にいるような生き物なのだから、アフリカにもいるだろうとは思う。
「おばちゃん、見ててー!」
 目をやると、ミユちゃんは小さなすべり台を滑り降りるところだった。1メートルにも満たない、大人からすれば小さなすべり台だが、彼女にとっては大冒険なのだろうか。そして小さな子供は、どうして「見ててー!」と言うのだろう。大人の気を引きたいのか、見てもらっていることで安心するのか、自分はこんなことができるんだよ、とアピールしたいのか……。おそらく、その全てが「見てて」という言葉に込められているのだろう。
 見ててあげるよ、見ててあげるとも。私でよければ、いつまでだって……。
 小さなすべり台を飽きる様子もなく何度も滑り降りる姪の姿を、私は目を細めて、ずっと見つめていた。

 実家で夕食を済ませ、帰宅した私は「たしかこの中に……」とつぶやきながら、クローゼットの奥にしまい込んであった段ボール箱を引っ張り出した。
 箱の中には、色とりどりの毛糸玉が入っている。一時期、趣味で作っていた編みぐるみの材料だ。白の毛糸玉と、一緒にしまっておいた『初めてでも簡単! 編みぐるみのつくりかた』、手あかでちょっと黒ずんだウサギの編みぐるみも取り出す。このウサギの編みぐるみは、子供の頃、大好きだった叔母さんがプレゼントしてくれた、私の「宝物」だ。
「叔母さんみたいに、うまく作れるかな。ミユちゃん、喜んでくれるかな……」
『編みぐるみのつくりかた』のページを手繰りながら、想像を広げる。
「アフリカのウサちゃんを作ってみたよ。『ミユちゃん、アタシとお友達になって。ニャンニャン♪』」
「えー、ウサギはニャンニャンなんて鳴かないよー」
「じゃあ、『ミユちゃん、アタシとお友達になって、ワンワン♪』」
「ちーがーうー! ワンワン鳴くのは犬ー!」
「じゃあ、ウサギはなんて鳴くの?」
「うーん……うーん……ピョンピョン、かなあ……?」
 そんなやり取りが、今から頭の中に浮かんでくる。私は頬を緩ませながら、毛糸を編み始めた。


本作は某コミュニティサイトで投稿されたお題を元に執筆したものです。

本作のお題は「幼女、うさぎ、毛糸」でした。

 リビングルームから、やたらとテンションの高い会話が聞こえてくる。同棲中の彼氏が見ているDVD――オタク男子二人が主人公のアメリカドラマ――だ。
 私はタブレットを持ったまま、リビングルームに向かった。テレビ画面に流れているのは、主人公たちが天体観測に行く話だった。主人公の一人が天体観測に来ている女性をナンパしようと言いだす。しかし、相手にしてくれたのは見るからに怪しい、ヒッピー風の中年女だけ。主人公はその女にもらったクッキーを持って、仲間の所に戻ってくる。
「目ぼしいオンナはいたのか?」
「いたよ、クッキーくれた」
「オンナの特徴は?」
「絞り染めのTシャツを着てたなあ」
「年はいくつぐらいだよ?」
「んー、4、50ぐらいかな?」
「その年でこのクッキーね、いかにもオバーちゃんがやりそうなこった」
 会話の合間に、アメリカドラマにありがちな「ワハハハ」という笑い声が挿入されている。主人公の仲間は、つまらなそうにクッキーを受け取り食べ始める。
「うめぇ!」
「なんか妙にウメーよな、このクッキー。ヤメらんねぇよ」
 実は、彼らが食べているクッキーには大麻が入っているのだ。食べているうちにみんなハイになって、天体観測などそっちのけになってしまう。いきなり一人が自分の初体験の話を始め、「ああ……従姉妹のジーニー。あのときキミが○○を××してボクが××を□□して」とセルフエロトークに没頭したかと思えば、もう一人は「ボクが王になったら、ウサギを家来にするんだ」と妄想を語り始める。やがて、ラリった三人はゲラゲラ笑いながら、「このままボーイスカウトのキャンプを襲撃に行こうぜ」「いいぞ、皆殺しだー!」などと物騒な話で盛り上がり始める。
 ツッコミどころ満載のカオスな状況に見入ってしまい、当初の目的を忘れそうになっていた私は、慌てて彼氏にタブレットの画面を突き出した。
「とーふよー!」
「トウフヨウ?」
 彼氏が怪訝な顔で尋ねてきたので、私は力強く言い返した。
「そう、豆腐よう!」

 豆腐よう。それは豆腐を使った、沖縄独自の発酵食品だ。島豆腐を麹や泡盛に漬け込んで発酵させて作る。泡盛の風味が染み込んだチーズや、熟成の利いた練りウニのような、ネットリとした食感と、発酵食品独特の味わいが特徴。いわゆる「珍味」に属する食品であり、主に沖縄料理を扱う居酒屋などで提供される。

「その豆腐ようが、いったいどうしたって言うのさ」
「作りたいのっ」
 私の言葉に、彼氏は沈黙で答える。彼氏が私に向けていた視線は、例えるならば、水族館で深海魚に向けるような若干の冷たさを含んだものであって、ペンギンやラッコに向けるような、温かなものではなかった。
 おかしい。どうしてそんな、珍妙な生き物を見るような目で私は見られているのだろう。日本語が通じていないのだろうか。
「と・う・ふ・よ・う・を・つ・く・り・た・い・の」
 ひと言ずつ、はっきりと区切って発音してみる。日本語を習い始めたばかりの外国人が、たどたどしく「ワタシの、ナマエは、ルーシーです」と発言するみたいに、正確な発音とアクセントを意識して。どれだけ怠惰な聴覚神経でも、きちんと認識できたはず。それなのに、彼氏の冷たい視線は変わらない。
「Too food,Yoh! Two clicks time know you」
「空耳アワーっぽく言わなくていいから」
「じゃあやっぱりあなたは理解するべきだわ、私の言いたいことを。作りたいのよ、豆腐ようを」
「ハリウッド映画の字幕みたいなしゃべり方もやめなさい」
「オー、ニポンゴムズカシイネー」
「……で、麻婆豆腐でも、湯豆腐でもなく、どうしていきなり豆腐ようなの?」
「スルーされた……。ボケ殺しや……」
「ど・う・し・て?」
「あー、うん、一から説明するね」
 そして、私は話し始めた。以前、沖縄料理を出す居酒屋で豆腐ようを食べたこと。ショートホープ(タバコ)1箱分くらいの大きさの豆腐ようが、500円ぐらいしたこと。小さすぎてボッタクリだと思ったけど、ものすごく味が濃いから、ちょっとずつ箸の先で削って舐めるように食べるしかなくて、結局、食べきるのにものすごく時間がかかったこと。だけど、自分で作ればずっと安上がりなんじゃないかと思ったこと。調べてみたら、材料となる豆腐は市販の木綿豆腐でいいらしいこと。昔なら紅麹も泡盛も大手百貨店でないと手に入らなかったけれど、今ならネット通販で簡単に入手できること。そして――。
「ネットでレシピを見つけたから、作ってみたくなったわけか」
「すごいね明智君。私の話を一瞬で要約したね」
「いまどき怪人二十面相なんて誰も知らんから」
「でね、材料ポチッていい?」
「好きにしたらいいだろ」
「乾燥紅麹って100グラム5000円ぐらいするけど本当にいい?」
「たっか! 何それ、普通の麹だったらダメなの!? ってか、このページのレシピでは普通の麹使ってるじゃん!」
「ダメ! 豆腐ようは赤くないと! 白い豆腐ようでは私の色欲は満たされないわ!」
「色欲の意味ちげーし……」
 さんざん揉めた後で、彼氏が「これなら買ってもいい」と言ってくれたのは、1包200円の高血圧対策サプリメント「乾燥ベニコウジ粉末・お試し用」だった。「これで気に入らなければこっちを買え」と言って表示してきたのは「食用色素・赤 家庭用」。いわゆる「食紅」だった。まったく、冗談じゃない。食紅で赤く染めた豆腐ようなんて、どう考えてもおかしいじゃないか。仕方ない、このお試し用のベニコウジ粉末で我慢してやるとしよう。
 全ての注文を終えた私は、この時点で既に半ば満足していた。あとは注文した材料たちが届くのを待つばかりだ。
 待ってろよ、豆腐よう。沖縄の人が嫉妬するぐらい美味しく作って、大麻クッキーみたいに食べた人たちをメロメロにしてやるんだから。


本作は知人より頂いたお題を元に執筆したものです。
本作のお題は「色欲、嫉妬、怠惰」でした。

 新幹線と在来線を乗り継ぐこと、約3時間。帰省というものは、出張とはまったく異質な疲れを肉体にもたらす。そのことを改めて実感しながら、私は昼下がりの町をトボトボと歩いていた。
 飲食店の立ち並ぶ通りをしばらく歩くと、私の生家が見えてきた。昔ながらの小さな居酒屋で、1階が店舗、2階が居住区といった作りになっている。
 ガラガラと音を立てる引き戸を開けると、カウンターの奥から威勢のいい声が聞こえた。
「おう、ドラ息子、帰ってきたか! 仕込み手伝え、仕込み!」
 もうすぐ70になるというのに、相変わらず元気な父親だった。白衣も白帽もシミ一つなく、ピシッとアイロンを当てている。
「分かってるよ。荷物を置いたら、すぐに行くから」
 私はそう答えると足早に階段を上り、居間の片隅にボストンバッグを下ろす。ハンガーに掛かった白衣を着て洗面所で手を洗うと、厨房へ向かった。

 私はかつて、両親のことが嫌いだった。
 いや、正確には「居酒屋」という仕事が嫌いだった。
 ヘベレケになった客で深夜まで騒々しい店では、宿題もまともにできなかった。日曜や祝日に「どこかへ遊びに行きたい」と言っても、「休みの日こそ書き入れ時だ!」と父親に一蹴された。
 食事はいつも、店の仕込みで余った食材を使った、いわゆる「まかない料理」だった。新鮮な魚や野菜をふんだんに使った料理はおいしかったが、ハンバーグやオムライスといった、子供好みの料理にはほど遠かった。しかも両親はずっと店にいたため、食卓はいつも一人きり。店がひまなときだけ、たまに母親が、一緒に食事をしてくれるのが楽しみだった。
 温かな食卓を家族で囲む。
 私が望んでいたのは、そんなありきたりの団欒風景だった。しかしそれは、「両親の生業が居酒屋だから」というただ一つの理由だけで、どれほど望んでも手に入らない存在になっていた。
 だから反抗期に差し掛かったときは、何度も父親と殴り合いのケンカをした。酒も居酒屋も大嫌いだった。
 そんな私が、ある漫画に出合って酒に興味を持つようになった。その本の名は、『BARレモンハート』(古谷三敏・ファミリー企画)。「レモンハート」を舞台に、夜な夜な繰り広げられる人間模様と、それにまつわる酒の紹介で話が進められていく。読み進めるうち、私はショットバーという空間に魅せられていった。そしてバーや酒を題材にした小説を何冊も読んでいた矢先に「Blue Moon」のマスターと出会い、広くて深い酒の世界に足を踏み入れていくことになる。
 やがて私は、「美味い酒と料理で人に喜んでもらうこと」を無上の喜びとする父の姿に、理解を示せるようになった。そして自分の店を持つようになって、あらためて父親の偉大さが分かるようになった。
 同じ場所で何十年も、常連客に支えられながら店を続ける。一口に言うのは簡単だが、これほど大変なことはない。
 父親と肩を並べて食材を仕込む。包丁さばきは若いころとまったく変わっていなかったが、白衣の背中はずいぶん小さくなったと感じた。
 少し、寂しかった。

 午後5時。開店を待っていたかのように、数人の客が訪れる。ほとんどが両親と同世代だ。多くの若者は仕事を求めて都会へ出て行ったし、残っている者は、もっと若者向けの店に行くのだろう。
 私が厨房に立っているのは、常連客にとって珍しく、この上ない話の種になるようだった。
「おっ、大将、息子帰ってきたの? いよいよこの店も若大将に継がせる気になったのかい?」
 父親に向かって、気さくに話しかける。
「馬鹿言え、この店はオレの代でしまいだよ。こんなドラ息子にくれてやるもんか」
「おいおい、この店がなくなったら、ワシらの楽しみがなくなってしまうじゃないか」
「大丈夫だよ、オレはあと50年は死なねえつもりだから。それに、死んだら今度はあの世で飲み屋やってやるから、心配すんなや」
 店内にどっと笑いが起きる。私は内心、父親の言葉が意外だった。今回の帰省は「大事な話がある。一日でいいから帰ってこい」という、父親の強い要望によるものだった。きっと、「こっちに戻ってこい。店の後を継げ」と言われるだろうと思っていたのだ。
 その後、客が入れ替わり立ち替わりするたび、私のことが話題になったが、父親は毎回、私にこの店を継がせるつもりはなく、自分の代でこの店を閉じることを繰り返していた。

 午後10時。閉店後の店内で、私は山積みになった皿や銚子を洗っていた。
「おい、洗い物は後でいいから、まあちょっと座れや」
 父親と母親が、並んでカウンター席に座る。私は手ぬぐいで手を拭きながら、その横に座った。
「飲め」
 父親が一升瓶からコップにドボドボと酒を注ぎ、差し出す。私はそれを無言で受け取り、グッと半分ほど飲み干した。
「最近、店のほうはどうだ?」
「ああ、おかげさんで馴染みが少しずつ増えてきたよ。最近はちらほらイベントをやったりもして、ずっと忙しくしてる」
「そうか……。ところで、あれから誰か、いい人はできたのか?」
「……いや。そんな暇はないよ」
 私の言葉に、両親はわずかに肩を落としたように見えた。
「あのな。オレも母ちゃんも、いつまでも生きてるわけじゃない。この店を継げとは言わないが、せめてオレたちが元気なうちに、お前が身を固めてくれたらと思ってるんだ」
 私はしばらく無言のまま、手元のコップを見詰めていた。が、やがてコップに残った酒を飲み干すと、意を決して口を開いた。
「オレにとっては、あの店が嫁であり、子供だから、いまの生活を変えるつもりはないよ。オレにはこの生き方しかできないし、するつもりもない。一度、オレの店を見に来てよ。その上で判断してくれ」
「……そうか」
「アンタはやっぱり、お父さん似だねぇ。こうと決めたら、テコでも動きゃしないんだから。……ねぇ、お父さん。一度、この子の店に行ってみましょうよ。この子が嫁とも子供とも言うんだから、いいお店なのよ、きっと」
「んなこたぁ分かってるっ! ったく、どうしようもないドラ息子になりやがって……」
 父親はそう言うと、私のコップに再び、なみなみと酒を注いだ。
 コップの中で、酒が天井の明りを反射して、ゆらゆらと揺らめいていた。私はそれを見詰めながら、グッと酒を飲むのだった。


本作は某コミュニティサイトで投稿されたお題を元に執筆したものです。

本作のお題は「居酒屋、ドラ息子、ヘベレケ」でした。

 オレはね、ちょっとしたイメージというか、「こういうシチュエーションのとき、自分は実は○○で……」っていうのを、よく考えるんよ。
 お前も考えたことない?
 たとえばそう、学校で授業を受けている最中、テロリストが教室に入ってくる。乱射される銃。飛び交う悲鳴。そんな中、オレは冷静に床に伏せ、教室を脱出する。オレは普段こそ、ただの学生のフリをしてるんだけど、実は対テロ特殊部隊で秘密の訓練を受けたエリート戦士。で、友達や好きな人を守るために一人でテロリストとの戦いを始める。
 ほかにもさ、たとえば自分が超能力者で、異世界と交信することができるとかさ、誰かがテレパシーで自分の思考を盗み読みしていると思って「おい、お前だよお前。勝手に人の脳内覗き見してんじゃねーよ」なんて、唐突に思い浮かべてみたり……。
 ま、そんな風に、人に聞かれると恥ずかしいことこの上ない妄想なんだけど、あれこれ考えちゃったりするわけさ。
 で、どうしてこんなことを唐突に言い出したかって言うと、今のオレたちみたいなシチュエーションで、実は……っていうことを、ずっと妄想してたことがあるんだわ。
 ほら、この夏から秋へと季節が移り変わって、縁側で日向ぼっこする猫の横で、二人で並んでお笑い番組を見ながら……っていう、このシチュエーションね。
 なんて言うか、さっき話したみたいな恥ずかしい妄想、そう、あくまで妄想の話だから、あんまりマジに受け止められても困るんだけどさ。
 ……オレさ、ずっとお前のことが好きだったんよ。
 こんな風に、猫と一緒に暮らしながら、バカなお笑い番組を見て、ずっと笑っていられるような暮らしがしたくて、それをお前と一緒に、やっていけたらいいなぁ、なんて。
 だっはっは、やっぱりなんか照れくさいなぁ。つか、恥ずかしいったらありゃしねぇ。中学生の妄想みたいなモンだから、あんまりマジに聞かんでね、いやマジでマジで。
 でもオレさ、お前とだったら、ずっとやっていけそうな気がするんだわ。
 なんつーか、こう……線香花火? 打ち上げ花火みたいに、パッと上がってドーンと咲いてハイおしまい、じゃなくて、パチパチ火花を散らしながら、ゆっくりノンビリ世界を彩ってく、みたいな……。
 付き合うなんて言うのも、ちょっと大げさかもしれない。もっと気楽なんだけど、でもずっと一緒にいたいって感じ、分かってもらえっかな?
 な、なんだよー、泣くなよもう。あ、ほらほら、夏休みに買って、ずっとしまい込んだままにしてた線香花火があるんよ。一緒にやらね? 地味かもしんないけど、お前と一緒なら、ぜってー楽しいって思ってさ。あー恥ずかしっ。


本作は某コミュニティサイトで投稿されたお題を元に執筆したものです。

本作のお題は「縁側で日向ぼっこする猫、お笑い番組、線香花火」でした。

 カキィン! という甲高い音に続いて、
「打ったぁ! 痛烈な打球が三遊間を抜ける、レフト鈴木君追いついたが二塁へ送球は間に合わない、山下君二塁打!」
という、興奮気味のアナウンスがラジオから流れてきた。
「ねーねー、アタシ思うんだけどさー、ラジオ放送の高校野球って、ときどき早口すぎてなに言ってるか聴き取れなくなるよねー」
「でも、それくらいのスピードでしゃべることができるんだから、アナウンサーってすごい職業だと思うよ」
 隣の部屋から聞こえてくるリョウコの声に、カズヤは淡々と答える。その手元では、刻みネギがリズミカルに量産されている。
「りょーこさん、もうすぐご飯なんだからお菓子はそろそろおしまいですよー」
「あーもう、分かってるわよぉ。カズピーまるでお母さんみたい」
「リョウコッ! お菓子ばっかり食べてたら虫歯になるわよッ!」
「お母さんのモノマネしなくていいからっ。しかも妙に似てるし」
「そりゃお義母さんとの付き合いも長いからね」
 そんなことを話しながら、カズヤは出来上がった刻みネギを小皿に盛りつけ、リョウコを呼んだ。
「さあさあ奥さん、そろそろテーブルにお皿を出すのくらい手伝ってもバチは当たらない時間ですよー」
 まな板の隣には、ネギのほかにも細かく刻んだ大葉やミョウガ、おろし生姜などの小皿が並んでいる。そして、コンロの大鍋の中では、グツグツと音を立てながらそうめんがクルクルと対流を続けていた。鍋が吹きこぼれないように火加減を調整しながら、カズヤはキッチンタイマーをチェックする。
「10……9……8……」
「カズピー、これ持って行くねー♪」
「うん、よろしく。6……5……」
「麦茶ー、コップー♪」
「4……3……2……」
「お箸を並べてー♪」
「1……ゼロッ!」
 キッチンタイマーが鳴る瞬間、片手でタイマーの停止ボタン、片手でコンロの火を止める。シンクに置いた大きめのザルに素早く鍋のそうめんを空け、流水にさらす。指先を包み込むやけどしそうなほどの熱さを、流水でやわらげながら素早く麺のぬめりを取る。麺を水道水と同じ温度まで冷やしたらボウルに移し、たっぷりの氷水を注ぐ。そうめんの出来上がりだ。
 あらかじめ作って冷やしておいた、蒸し鶏をたっぷり使ったサラダも冷蔵庫から取り出す。だし汁と柚子の果汁を合わせて作った特製ポン酢を添えて、食卓に運んだ。
 リョウコはすでに食器や薬味を並べ終えた食卓に着き、期待を込めた目でこちらを見ていた。カズヤはそうめんの入ったボウルとサラダの大皿を食卓に置き、少しだけ意地の悪い声で尋ねる。
「……ところでリョウコ、めんつゆは?」
「うにゃっ、ごめん忘れてたっ!」
「ハハハうっかりさんメ。罰として今日一日、リョーコたんと呼ぶぞ」
「いーやーだー。寒気がするからー」
 リョウコが冷蔵庫から出してきたガラスボトルには、「めんつゆ」と書いた大きな紙。過去に二度ほどリョウコが麦茶と間違えて飲んでしまったため、カズヤが貼り付けたのだ。
 ガラスの器になみなみとつゆを注ぎ、二人で一緒に手を合わせる。
「いただきます」

「やっぱり夏といえばこれだよねー。カズピーのそうめん食べると、『ああ夏だなあ』って実感するもの」
 ツルツルと音を立ててそうめんを吸い込みながら、リョウコは嬉しそうに言う。
 すだれをぶら下げた窓の外には、絵に描いたような青空と入道雲。軒先の風鈴が、時折、チリンと音を立てる。
「かれこれ十年近く、毎年ずっと食べてるからね」
「でも、今年は特別っ♪」
「……まあ結婚して初めてのそうめんだからねぇ」
「でも不思議よね。そうめんなんて乾麺を茹でるだけなのに、アタシが作ってもこんな風にならないもの。どうしてこんなに美味しくなるのかしら」
「愛だよ、愛」
「愛情だけならアタシも負けないはずなんだけどなー」
「オレの愛は料理への愛だからね」
「えー、奥さんへの愛は?」
「次元が違う。一キログラムの綿と、一キログラムの鉄の塊と、一キログラムの水。重さはどれも同じでも、体積も、用途もまったく違う。料理とリョウコへの愛情を比較するのは、綿を風呂に入れて水を布団に詰めようとするような愚劣な行為なのだよ」
「(ツルツルモグモグ)……ん、何か言った?」
「自分で投げた質問の答えくらい聞いとこうよ、ねえ!」
「やだ、カズピーの話メンドクサイから」
「ひどっ、何それひどいよ、ねえ!」
「うーるーさーいー」
 そんな心温まるやり取りを続けながら、二人で一つのボウルからそうめんを食べる。
 窓から風が吹き込み、風鈴がチリチリとせわしく鳴った。

 食べ終わった食器を片付け、風通しの良い和室に二人で寝転がる。吹き抜ける風が体の火照りを飛ばしていく。二人は指先だけを絡ませるように手をつなぎ、ノンビリと話す。
「ねぇ、カズピー、アタシ猫飼いたい」
「この前、猫より子供が先って言ってなかった?」
「両方がいいー」
「この社宅にいるうちは猫は無理だよ。ペット可物件に引っ越すか、戸建の家を買うまで待とうね」
「じゃあそれまで、カズピーが猫ね!」
「ハハハ、何だよそれ」
「いや、やっぱりアタシが猫! うにゃーっ!」
「ちょ、コラ、やめろってば、暑いから」
「にゃー、にゃー」
「あっ、こら、わき腹はやめっ、やめなさいアハハハハハ」
「にゃー、コチョコチョにゃー」
「アハハハハハハ」

 ――数分後、リョウコは笑いすぎて汗まみれになったカズヤにガッツリと叱られ、炎天下、謝罪のためのアイスクリームを買いに行かされることとなる。
 二人の夏は、まだ始まったばかりだ。


本作は某コミュニティサイトで投稿されたお題をもとに執筆したものです。
本作のお題は「雲、猫、ラジオ」でした。

「マスターのお気に入りのお店って、あるんですか?」
 私が彼女からそんな質問を受けたのは、ゆったりとした空気の流れる、ある平日の深夜のことだった。彼女のほかに客はなく、BGMとして掛け続けているLP盤のスロージャズだけが店内の空気を彩っていた。
「お店っていうのは、飲み屋のことですか?」
 私は清潔なクロスでグラスを磨きながら問い返す。カウンターの向こうでは、小柄な女性が黒髪を揺らしながらうなずいていた。
「そうそう、もちろん。……あ、よそのお店に浮気するみたいな話って、NGだったかしら?」
 彼女はそう言って、いたずらっぽく笑う。
「いやあ、そんなことないですよ。むしろ、イベントで応援に行ったり、ヘルプに来てもらったりすることもあるし、店同士でお客さんを紹介したりすることもありますからね。ジャンジャン聞いてもらって構いませんよ。でも……、実は美和さんのほうが、詳しいんじゃないですか? それこそ、ライブやったりしておられるでしょう?」
「あはは、BGM代わりにピアノを弾いてるだけで、ライブだなんて、そんな大層なものじゃないですよ」
 そう笑いながら手を振る。暖色系の照明を浴びながら、いかにもピアニストらしい細く長い指がヒラヒラと動く様子は、珊瑚礁の海を優雅に泳ぐ熱帯魚を連想させた。
「生(ライブ)演奏じゃないですか。この前のイベントでは、『H3』が満席になったって聞きましたよ」
「H3」はMoonlightから数ブロック離れた場所にあるオーセンティックバーだ。床面積だけでもうちの数倍の広さがあり、常時、3人のバーテンダーが接客に当たる。さらに、この店には1台数百万円のグランドピアノが置いてあり、時折、ピアノリサイタルなどを開いていることでも知られていた。
「あらやだ、あれはあのお店が人気だっただけですよ。私のピアノを目当てに来た人なんて、そんなにいなかったと思いますよ。そんなことより、マスターのお勧めのお店、教えてくださいよ」
「うーん……そうですね……」
 個人的につながりが深く、パッと思い浮かぶ店といえば「Blue Moon」と「Marine Blue」だ。しかし、「お気に入りの店」という言い方には、そぐわないような気がした。
 ちょうど美和のグラスが空いたところだった。私は最近行ったある店のことを思い出し、勧めた。
「ああ、そうだ。よかったらお勧めのお酒と料理があるんですけど、それを味わっていただいてもいいですか? どちらも軽くて甘口の一品なんで、気に入っていただけると思います。試食用にサービスしますんで、お気に召したら、それぞれご注文くださいな」
「あ、じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました」

 私が差し出したのは、スプーン1杯のクリームチーズと、テイスティンググラスに少量注いだ自家製のサングリアだ。サングリアは軽めの赤ワインにスライスしたモモとリンゴを漬け込み、アップルブランデーを少量加えて風味を足したもの。そしてクリームチーズは――。
「あ、これ、すごく美味しい! 甘いのは、フルーツですか?」
 美和が驚きの声を上げた。
「そう。マンゴーやパイナップル、レーズンなど、何種類かのドライフルーツを、クリームチーズに漬けてあるんです。チーズの水分でフルーツが柔らかくなるし、チーズにもフルーツの味が移る。ワインのつまみに、ちょうどいいでしょう?」
「それに、こっちのお酒も甘くておいしい! フルーツのカクテルですか?」
「これはサングリアといって、スペインとか、ポルトガルでよく飲まれてるものです。ワインにフルーツを漬け込んで風味をつけたものですよ」
「そうなんだ。うん、これはすごく美味しいから、それぞれ一つずつくださいな」
「気に入っていただいたようで、何よりです。で、実はこれ、私が最近、何度か行ってるお店の人気メニューなんですよ。美味しかったから、うちでもちょっと真似してみたんです」
「へえ、そうだったんですね。そのお店、行ってみたいです」
「ええ、ぜひ行ってみてください。立ち飲み屋なんですけど、女性でも気軽に入れるオシャレな雰囲気の店です。カウンターのすぐ向かいにオープンキッチンがあって、料理しているところを目の前で見ながら飲めるんですよ。立ち飲み屋だから千円か、2千円もあれば、かなり満足できると思います。ぜひ、お一人ででも、彼氏さんとでも、行ってみてくださいな」
「あらやだ、彼氏なんていませんよ。むしろマスター、今度その店に連れて行って下さいよ」
「お誘いありがとうございます。またそのうち、機会がありましたら、ぜひ」
「あらあら、政治家の『前向きに検討する』みたいな、体のいいお断りをされちゃったわね」
「あはは、そんなことないですよ」
「ところでマスター。トウモロコシを使った珍しい飲み物って、何かご存じないですか?」
「トウモロコシを使った珍しい飲み物、ですか……? 酒で言えば、バーボンやコーンウイスキー、中国の白酒(パイチュウ)、焼酎やウオッカの材料にもトウモロコシが使われたりしますが……」
「でも、そういうのは『珍しい』とはちょっと違うでしょう? 少なくとも、日本では知られていないような、トウモロコシの使い方があれば教えてほしいなって思って」
 いたずらっぽく笑う美和。
「じゃあ、Suco de milhoはご存じですか? 私がブラジルで飲んだ、トウモロコシのジュースです」
「えっ、何それ、聞いたことないです」
「ブラジルの高速道路のサービスエリアなどでよく売られているもので、そうですね……、味は、塩を抜いた冷たいコーンポタージュでしょうか。茹でたトウモロコシをフードプロセッサーで滑らかになるまで潰して、砂糖と牛乳を加え、煮込んでから冷やして作るそうです」
「すごーい、おいしそう。私、トウモロコシ大好きだから、飲んでみたいです」
「うーん……。美味しいことは美味しかったですよ。ただ……ちょっと、ね」
 私が苦笑しながら言葉を濁すと、美和は首をかしげた。
「ちょっと……どうかしたんですか?」
「いやあ、トウモロコシのジュースですから、ね。ものすごくお腹がふくれるんですよ。ただでさえブラジルの飲み物って、Mサイズでも日本のLサイズか、LLサイズぐらいのボリュームがあるんです。そんな量のトウモロコシジュースを飲んだら、もうお腹いっぱいです。それに、味がコーンポタージュに似てるから、どうしても舌が塩味を探してしまうんです。だけど、ジュースであってスープじゃないから、塩味も旨味もなく、ただひたすら甘いだけ。あれはよっぽどトウモロコシ好きじゃないと、慣れていない日本人には向かないと思いますね」
「うーん、でもやっぱり飲んでみたいなあ。マスター、作ってくださいよ」
「……前向きに検討させていただきます」
「またそんな政治家みたいなこと言うんだから……」
「じゃあ、政治家から美和さんに1杯、サービスさせていただきますよ。あと、今度またリサイタルをされるときには、ぜひ応援に行かせてくださいな」
「どうせ、『このお店が休みだったら』の話でしょう? 前向きに検討させてもらっておきますね」
「恐れ入りました」
 私は笑いながらカクテルのレシピを整えた。アップルブランデーに、スイートベルモット。そこに少量のアプリコットブランデーとレモン果汁を加える。シェークしてグラスに注げば出来上がりだ。
 グラスに注いだ酒は、細かく、滑らかな気泡を含み、オレンジ色に輝いている。
「気に入っていただけるでしょうか?『チューリップ』というカクテルです」
「うれしい。私、花の中でチューリップが一番好きなんですよ。……ちなみにマスター、オレンジのチューリップの花言葉、ご存じですか?」
 美和はグラスを掲げながら尋ねた。
「オレンジのチューリップの花言葉はね、『照れ屋さん』って言うんですよ」
「あはは、『照れ屋さん』ですか。私が? それとも、美和さんが?」
「さあ、どっちかしらね。照れ屋のチューリップに、乾杯」


【チューリップ】
アップルブランデー 30ml
スイートベルモット 30ml
アプリコットブランデー 1tsp
レモンジュース 1tsp
シェークしてカクテルグラスに注ぎます。

本作は知人より頂いたお題を元に執筆したものです。
本作のお題は「とうもろこし」「チューリップ」「海」でした。