BAR Moonlight 第16話「お気に入りの場所」 | 春風ヒロの短編小説劇場

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春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

「マスターのお気に入りのお店って、あるんですか?」
 私が彼女からそんな質問を受けたのは、ゆったりとした空気の流れる、ある平日の深夜のことだった。彼女のほかに客はなく、BGMとして掛け続けているLP盤のスロージャズだけが店内の空気を彩っていた。
「お店っていうのは、飲み屋のことですか?」
 私は清潔なクロスでグラスを磨きながら問い返す。カウンターの向こうでは、小柄な女性が黒髪を揺らしながらうなずいていた。
「そうそう、もちろん。……あ、よそのお店に浮気するみたいな話って、NGだったかしら?」
 彼女はそう言って、いたずらっぽく笑う。
「いやあ、そんなことないですよ。むしろ、イベントで応援に行ったり、ヘルプに来てもらったりすることもあるし、店同士でお客さんを紹介したりすることもありますからね。ジャンジャン聞いてもらって構いませんよ。でも……、実は美和さんのほうが、詳しいんじゃないですか? それこそ、ライブやったりしておられるでしょう?」
「あはは、BGM代わりにピアノを弾いてるだけで、ライブだなんて、そんな大層なものじゃないですよ」
 そう笑いながら手を振る。暖色系の照明を浴びながら、いかにもピアニストらしい細く長い指がヒラヒラと動く様子は、珊瑚礁の海を優雅に泳ぐ熱帯魚を連想させた。
「生(ライブ)演奏じゃないですか。この前のイベントでは、『H3』が満席になったって聞きましたよ」
「H3」はMoonlightから数ブロック離れた場所にあるオーセンティックバーだ。床面積だけでもうちの数倍の広さがあり、常時、3人のバーテンダーが接客に当たる。さらに、この店には1台数百万円のグランドピアノが置いてあり、時折、ピアノリサイタルなどを開いていることでも知られていた。
「あらやだ、あれはあのお店が人気だっただけですよ。私のピアノを目当てに来た人なんて、そんなにいなかったと思いますよ。そんなことより、マスターのお勧めのお店、教えてくださいよ」
「うーん……そうですね……」
 個人的につながりが深く、パッと思い浮かぶ店といえば「Blue Moon」と「Marine Blue」だ。しかし、「お気に入りの店」という言い方には、そぐわないような気がした。
 ちょうど美和のグラスが空いたところだった。私は最近行ったある店のことを思い出し、勧めた。
「ああ、そうだ。よかったらお勧めのお酒と料理があるんですけど、それを味わっていただいてもいいですか? どちらも軽くて甘口の一品なんで、気に入っていただけると思います。試食用にサービスしますんで、お気に召したら、それぞれご注文くださいな」
「あ、じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました」

 私が差し出したのは、スプーン1杯のクリームチーズと、テイスティンググラスに少量注いだ自家製のサングリアだ。サングリアは軽めの赤ワインにスライスしたモモとリンゴを漬け込み、アップルブランデーを少量加えて風味を足したもの。そしてクリームチーズは――。
「あ、これ、すごく美味しい! 甘いのは、フルーツですか?」
 美和が驚きの声を上げた。
「そう。マンゴーやパイナップル、レーズンなど、何種類かのドライフルーツを、クリームチーズに漬けてあるんです。チーズの水分でフルーツが柔らかくなるし、チーズにもフルーツの味が移る。ワインのつまみに、ちょうどいいでしょう?」
「それに、こっちのお酒も甘くておいしい! フルーツのカクテルですか?」
「これはサングリアといって、スペインとか、ポルトガルでよく飲まれてるものです。ワインにフルーツを漬け込んで風味をつけたものですよ」
「そうなんだ。うん、これはすごく美味しいから、それぞれ一つずつくださいな」
「気に入っていただいたようで、何よりです。で、実はこれ、私が最近、何度か行ってるお店の人気メニューなんですよ。美味しかったから、うちでもちょっと真似してみたんです」
「へえ、そうだったんですね。そのお店、行ってみたいです」
「ええ、ぜひ行ってみてください。立ち飲み屋なんですけど、女性でも気軽に入れるオシャレな雰囲気の店です。カウンターのすぐ向かいにオープンキッチンがあって、料理しているところを目の前で見ながら飲めるんですよ。立ち飲み屋だから千円か、2千円もあれば、かなり満足できると思います。ぜひ、お一人ででも、彼氏さんとでも、行ってみてくださいな」
「あらやだ、彼氏なんていませんよ。むしろマスター、今度その店に連れて行って下さいよ」
「お誘いありがとうございます。またそのうち、機会がありましたら、ぜひ」
「あらあら、政治家の『前向きに検討する』みたいな、体のいいお断りをされちゃったわね」
「あはは、そんなことないですよ」
「ところでマスター。トウモロコシを使った珍しい飲み物って、何かご存じないですか?」
「トウモロコシを使った珍しい飲み物、ですか……? 酒で言えば、バーボンやコーンウイスキー、中国の白酒(パイチュウ)、焼酎やウオッカの材料にもトウモロコシが使われたりしますが……」
「でも、そういうのは『珍しい』とはちょっと違うでしょう? 少なくとも、日本では知られていないような、トウモロコシの使い方があれば教えてほしいなって思って」
 いたずらっぽく笑う美和。
「じゃあ、Suco de milhoはご存じですか? 私がブラジルで飲んだ、トウモロコシのジュースです」
「えっ、何それ、聞いたことないです」
「ブラジルの高速道路のサービスエリアなどでよく売られているもので、そうですね……、味は、塩を抜いた冷たいコーンポタージュでしょうか。茹でたトウモロコシをフードプロセッサーで滑らかになるまで潰して、砂糖と牛乳を加え、煮込んでから冷やして作るそうです」
「すごーい、おいしそう。私、トウモロコシ大好きだから、飲んでみたいです」
「うーん……。美味しいことは美味しかったですよ。ただ……ちょっと、ね」
 私が苦笑しながら言葉を濁すと、美和は首をかしげた。
「ちょっと……どうかしたんですか?」
「いやあ、トウモロコシのジュースですから、ね。ものすごくお腹がふくれるんですよ。ただでさえブラジルの飲み物って、Mサイズでも日本のLサイズか、LLサイズぐらいのボリュームがあるんです。そんな量のトウモロコシジュースを飲んだら、もうお腹いっぱいです。それに、味がコーンポタージュに似てるから、どうしても舌が塩味を探してしまうんです。だけど、ジュースであってスープじゃないから、塩味も旨味もなく、ただひたすら甘いだけ。あれはよっぽどトウモロコシ好きじゃないと、慣れていない日本人には向かないと思いますね」
「うーん、でもやっぱり飲んでみたいなあ。マスター、作ってくださいよ」
「……前向きに検討させていただきます」
「またそんな政治家みたいなこと言うんだから……」
「じゃあ、政治家から美和さんに1杯、サービスさせていただきますよ。あと、今度またリサイタルをされるときには、ぜひ応援に行かせてくださいな」
「どうせ、『このお店が休みだったら』の話でしょう? 前向きに検討させてもらっておきますね」
「恐れ入りました」
 私は笑いながらカクテルのレシピを整えた。アップルブランデーに、スイートベルモット。そこに少量のアプリコットブランデーとレモン果汁を加える。シェークしてグラスに注げば出来上がりだ。
 グラスに注いだ酒は、細かく、滑らかな気泡を含み、オレンジ色に輝いている。
「気に入っていただけるでしょうか?『チューリップ』というカクテルです」
「うれしい。私、花の中でチューリップが一番好きなんですよ。……ちなみにマスター、オレンジのチューリップの花言葉、ご存じですか?」
 美和はグラスを掲げながら尋ねた。
「オレンジのチューリップの花言葉はね、『照れ屋さん』って言うんですよ」
「あはは、『照れ屋さん』ですか。私が? それとも、美和さんが?」
「さあ、どっちかしらね。照れ屋のチューリップに、乾杯」


【チューリップ】
アップルブランデー 30ml
スイートベルモット 30ml
アプリコットブランデー 1tsp
レモンジュース 1tsp
シェークしてカクテルグラスに注ぎます。

本作は知人より頂いたお題を元に執筆したものです。
本作のお題は「とうもろこし」「チューリップ」「海」でした。