BAR Moonlight 第17話「ふるさと」 | 春風ヒロの短編小説劇場

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春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

 新幹線と在来線を乗り継ぐこと、約3時間。帰省というものは、出張とはまったく異質な疲れを肉体にもたらす。そのことを改めて実感しながら、私は昼下がりの町をトボトボと歩いていた。
 飲食店の立ち並ぶ通りをしばらく歩くと、私の生家が見えてきた。昔ながらの小さな居酒屋で、1階が店舗、2階が居住区といった作りになっている。
 ガラガラと音を立てる引き戸を開けると、カウンターの奥から威勢のいい声が聞こえた。
「おう、ドラ息子、帰ってきたか! 仕込み手伝え、仕込み!」
 もうすぐ70になるというのに、相変わらず元気な父親だった。白衣も白帽もシミ一つなく、ピシッとアイロンを当てている。
「分かってるよ。荷物を置いたら、すぐに行くから」
 私はそう答えると足早に階段を上り、居間の片隅にボストンバッグを下ろす。ハンガーに掛かった白衣を着て洗面所で手を洗うと、厨房へ向かった。

 私はかつて、両親のことが嫌いだった。
 いや、正確には「居酒屋」という仕事が嫌いだった。
 ヘベレケになった客で深夜まで騒々しい店では、宿題もまともにできなかった。日曜や祝日に「どこかへ遊びに行きたい」と言っても、「休みの日こそ書き入れ時だ!」と父親に一蹴された。
 食事はいつも、店の仕込みで余った食材を使った、いわゆる「まかない料理」だった。新鮮な魚や野菜をふんだんに使った料理はおいしかったが、ハンバーグやオムライスといった、子供好みの料理にはほど遠かった。しかも両親はずっと店にいたため、食卓はいつも一人きり。店がひまなときだけ、たまに母親が、一緒に食事をしてくれるのが楽しみだった。
 温かな食卓を家族で囲む。
 私が望んでいたのは、そんなありきたりの団欒風景だった。しかしそれは、「両親の生業が居酒屋だから」というただ一つの理由だけで、どれほど望んでも手に入らない存在になっていた。
 だから反抗期に差し掛かったときは、何度も父親と殴り合いのケンカをした。酒も居酒屋も大嫌いだった。
 そんな私が、ある漫画に出合って酒に興味を持つようになった。その本の名は、『BARレモンハート』(古谷三敏・ファミリー企画)。「レモンハート」を舞台に、夜な夜な繰り広げられる人間模様と、それにまつわる酒の紹介で話が進められていく。読み進めるうち、私はショットバーという空間に魅せられていった。そしてバーや酒を題材にした小説を何冊も読んでいた矢先に「Blue Moon」のマスターと出会い、広くて深い酒の世界に足を踏み入れていくことになる。
 やがて私は、「美味い酒と料理で人に喜んでもらうこと」を無上の喜びとする父の姿に、理解を示せるようになった。そして自分の店を持つようになって、あらためて父親の偉大さが分かるようになった。
 同じ場所で何十年も、常連客に支えられながら店を続ける。一口に言うのは簡単だが、これほど大変なことはない。
 父親と肩を並べて食材を仕込む。包丁さばきは若いころとまったく変わっていなかったが、白衣の背中はずいぶん小さくなったと感じた。
 少し、寂しかった。

 午後5時。開店を待っていたかのように、数人の客が訪れる。ほとんどが両親と同世代だ。多くの若者は仕事を求めて都会へ出て行ったし、残っている者は、もっと若者向けの店に行くのだろう。
 私が厨房に立っているのは、常連客にとって珍しく、この上ない話の種になるようだった。
「おっ、大将、息子帰ってきたの? いよいよこの店も若大将に継がせる気になったのかい?」
 父親に向かって、気さくに話しかける。
「馬鹿言え、この店はオレの代でしまいだよ。こんなドラ息子にくれてやるもんか」
「おいおい、この店がなくなったら、ワシらの楽しみがなくなってしまうじゃないか」
「大丈夫だよ、オレはあと50年は死なねえつもりだから。それに、死んだら今度はあの世で飲み屋やってやるから、心配すんなや」
 店内にどっと笑いが起きる。私は内心、父親の言葉が意外だった。今回の帰省は「大事な話がある。一日でいいから帰ってこい」という、父親の強い要望によるものだった。きっと、「こっちに戻ってこい。店の後を継げ」と言われるだろうと思っていたのだ。
 その後、客が入れ替わり立ち替わりするたび、私のことが話題になったが、父親は毎回、私にこの店を継がせるつもりはなく、自分の代でこの店を閉じることを繰り返していた。

 午後10時。閉店後の店内で、私は山積みになった皿や銚子を洗っていた。
「おい、洗い物は後でいいから、まあちょっと座れや」
 父親と母親が、並んでカウンター席に座る。私は手ぬぐいで手を拭きながら、その横に座った。
「飲め」
 父親が一升瓶からコップにドボドボと酒を注ぎ、差し出す。私はそれを無言で受け取り、グッと半分ほど飲み干した。
「最近、店のほうはどうだ?」
「ああ、おかげさんで馴染みが少しずつ増えてきたよ。最近はちらほらイベントをやったりもして、ずっと忙しくしてる」
「そうか……。ところで、あれから誰か、いい人はできたのか?」
「……いや。そんな暇はないよ」
 私の言葉に、両親はわずかに肩を落としたように見えた。
「あのな。オレも母ちゃんも、いつまでも生きてるわけじゃない。この店を継げとは言わないが、せめてオレたちが元気なうちに、お前が身を固めてくれたらと思ってるんだ」
 私はしばらく無言のまま、手元のコップを見詰めていた。が、やがてコップに残った酒を飲み干すと、意を決して口を開いた。
「オレにとっては、あの店が嫁であり、子供だから、いまの生活を変えるつもりはないよ。オレにはこの生き方しかできないし、するつもりもない。一度、オレの店を見に来てよ。その上で判断してくれ」
「……そうか」
「アンタはやっぱり、お父さん似だねぇ。こうと決めたら、テコでも動きゃしないんだから。……ねぇ、お父さん。一度、この子の店に行ってみましょうよ。この子が嫁とも子供とも言うんだから、いいお店なのよ、きっと」
「んなこたぁ分かってるっ! ったく、どうしようもないドラ息子になりやがって……」
 父親はそう言うと、私のコップに再び、なみなみと酒を注いだ。
 コップの中で、酒が天井の明りを反射して、ゆらゆらと揺らめいていた。私はそれを見詰めながら、グッと酒を飲むのだった。


本作は某コミュニティサイトで投稿されたお題を元に執筆したものです。

本作のお題は「居酒屋、ドラ息子、ヘベレケ」でした。