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『1970代は都内に高層団地は珍しかったことから、投身自殺に訪れる人が多く、
特に1977年4月に父子3人が投身自殺をしてからマスメディアから「自殺の名所」と呼ばれた。

その数は1980年には133人に達し社会問題になった。
ちなみに、1980年だけでも1月から7月14日までの期間に飛び降り自殺した者が19名いた。

1981年に高層団地の3階以上の廊下や非常階段などの共用部分に花や鳥を模したフェンスを張り、
屋上を侵入禁止にするなどの対策がとられた。

高島平の団地は、2011年現在においても3階以上の廊下や階段などには原則としてフェンスが設置されている』


・・・・・・・・・・・・



大友克洋さんの『AKIRA原画展』 特集の雑誌に

初期の大友さんの作品が、この場所を参考にしたという記述があったので、つい。


以前なんかの報道で、高島平団地が『モンスター団地』と呼ばれてたといわれてたけど、


ウィキには書いてなかったけど、事実だったのかな。




モンスター団地とさくら。


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ここら辺、桜並木がすごいんだよな…




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貼り忘れ

夕焼けと鉄塔。


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ものごころつく前から夕日が好きで、いつもこの場所から夕日を見てた。

夕日はどこでも、いつでも、同じ光で世界を照らしてて、

夕日を見ると、ひたむきに夕日を見てた子供の頃の時間に

あっという間に戻ってしまう。



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よく、本当は上がれるようにはなっていないマンションの屋上に登って、そこで一番空に近い場所、

給水塔?にしてはタンクのない、給水塔もどきの上までよじ登って、

日が沈みきって暗くなるまで、夕日が沈むのを見つめていた。



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12歳のとき、わたしは、

空に一番近い場所で夕日を見られる場所を求めて、

いつも、ひとり、あそこにいた。

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このハシゴをよじ登って屋上まで行くんだけど、

このハシゴ、今でもわたしの頭の上辺りの高い場所から打ち込んであって、

作業員が業務用で使う以外、普通、一般人が使っていいものじゃないという意図がバリバリ出てるんだけど、

子供が昇れる様な高さじゃなかったはずなんだけど、

わたしは、遮るものが何もないところで、どうしても夕日を見たい、

という執念の一心で、頭の上から始まるハシゴに飛びついてしがみついて、

壁を蹴って、ぶら下がるようにして一段一段ハシゴを上がって、屋上に昇っていったんだ。



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あのころ、あの日と、同じ夕日。


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綻び始めた桜と、夕日。

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スイレンは可愛い。

花で一番好きなのはスイレンかも。

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夕景


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スピリチュアル系の本を読みまくって、変な記憶を思い出して(と思われる)、

「そっち」の世界に傾倒してついに頭がおかしくなったかと思われたわたしだった。



でもわたしは、宗教や胡散臭いもの嫌いの親の影響でスピリチュアル系の情報は今でも拒絶反応があった。

そういうものは大嫌いだった。

正直今でも「スピリチュアル」という言葉を使うたびに蕁麻疹が出る感じがする。



でも、わたしの中に、わたしの大嫌いで拒絶反応が起きるものの大御所みたいな記憶があるので

やむなくそれらの記憶と折り合いをつけるためにスピリチュアル系の本を読み漁っていた。

でも本当には、それらに書いてあることをわたしは信用していなかった。


「信用する」というのは、それがわたしの人生の重要事に位置づけられるということだった。

そんなことはなかった。

そんなものは重要でもなんでもなかった。

ただの退屈しのぎであり、冷やかしてあり、夢物語であり、遊びだった。



そのときもまだ映画『パッション』との掲示板のやりとりは続いてた。

でもヒーリングに関してはやはり期待できないのかもしれないと思い始めた。


やはりそんなうまい話は現実にはないのだ。

ここは地道に精神医療や心理医療のお世話になるのが現実的なのではないかと思った。

あの記憶の中でも、エネルギー云々より現実的であるほうが大事だといってたし。



一度東京に戻ったとき、これで最後にしようかと思いつつ、もう一度pcで「ヒーリング」と検索してみた。

適当に検索結果の一番上にでてきたところに予約して、遠隔電話ヒーリングを申し込んでしてみることにした。

『ヒーリングサロン風(fu)-アクアライトプロジェクト』というところだった。



不思議なHPだった。

今までのスピリチャル系のHPにある、ふわふわした「癒し系」の雰囲気がまったくなかった。

むしろそうしたものを排除している意思を感じた。

まるで普通の会社のHPのように、飾り立てることもせずカッチリとしていて無機的で、

業務的にメニューや趣旨などが書かれていた。



そこに予約を申し込んだとき、もわっとした何かの「予感」のようなものを感じたけど、

そのようないかにも「スピリチャル」的なことは嫌いなので、気のせいだろうとその感覚を振り払った。


時間になって電話口にヒーラーがでた。

やっぱり今までの癒し糸のヒーラーとは違って、どこか精力的な口調の男性だった。



わたしは今までのヒーリングでそうしてきたように、

ぼそぼそと何が苦しいのか何に困っているのかという人生相談的なものをした。

なるべく状況のバカバカしさと疚しさから意識をそらすようにして、

ヒーリングという名の、現実的人生相談なのだと自分に言い訳していた。



そこでも今までのように、もわっとした何か、感じてるのか感じてないのか、

非常に注意を払わないとわからない程度のものが起こるのだろうと気を抜いてもそもそしゃべっていた。

男性はわたしの話を片手間に聞いているような、

何か別のことに注意をとられているような生返事をしていた。



・・・・・・・・



何してるんだろう、わたしの話し聞く気ないのかな、ここも外れだったのかな、まあ別にいいけど、

一万円ドブに捨てたと思えばいいや(そのとき一時間8千円くらいだったか)、

と男性の気配に意識を凝らした瞬間、急に誰かに喉を掴まれたような感じがして、ぎょっとして身を強張らせた。



何!? と思う瞬間後にも、その感覚はどんどん強くなっていって、誰かに喉をつままれているような、

透明な指に喉を貫かれているような、それどころか、全身を誰かにマッサージでもされているような、

喉を中心に全身的に物理的な身体感覚を強烈に感じて、ほとんど恐怖を覚えた。

何が起きてる?!



起きたことをそのまま言葉にするなら、まず、わたしの喉の「弁」が開いた。

それは物理的にではなくて、誰かと話すのが怖い、誰とも話したくない、

と、わたしが今までの人生で喉のところで、声と言葉を溜め込んで押さえつけてきた

エネルギー的「弁」を、エネルギー的に対抗措置をされて開かれた、そんな気がした。



わたしが喉のところで溜め込み押さえ込んでいたエネルギーの「弁」がその人のエネルギーで開かれ、

わたしの喉に押さえ込んでいた重石がとれると、そこからすさまじいエネルギーが迸り出た。


喉に掃除機のホースを突っ込まれて、今まで喉のところで押さえつけて押し殺してきた、

声と言葉の死骸のようなものが詰まったネガティブエネルギーを思い切りバキュームされてる感じだった。

物理的に。



わたしの喉からものすごい勢いで掃除機の排気の風のようなものが迸り出たとき、

そのエネルギー排気物が空間軸を越えて電話口の人にもかかった気がした。

電話口の人が激しく咳き込んだ。「す、すごい…」といっていた。

その人が手馴れた業務的手順でこうしたことをやってきたのが感じられた。



その人がわたしの喉に溜め込まれたゴミ(ネガティブエネルギー)をすべて吸い取ると、

あ、吸い取りきられる、終わる、とわたしが思ったところで、電話口のヒーラーも

「ふん!」と気合の入った声をかけて、喉に詰まったエネルギーが全部吸いきられた感じがして、

その人は自分が何をしているか、確信的にわかってやっているのがわかった。



その人は、わたしの喉へのアプローチは終わったと判断したようで、

わたしは遠隔操作のロボットにあちこち全身を点検されているかのように、

ほとんど物理的にそのひとの遠視的エネルギーがわたしの全身を

エネルギー的に精査しているのを感じた。



・・・・・・


わたしと電話口のひとは、もうそのときには一切言葉を交わしていなかった。

電話口の人は、今はもう自分のしていることに集中しきって、

大きく息を吐いたり吸ったり、気合を入れる声を上げたり咳を激しくしているだけだった。


私は呆然として言葉もなくわけもわからず、自分の身に実際に起きていることを

息を呑んで見守っているしかなかった。

ただ、これが、ヒーラー、とだけ思っていた。



ふと、電話口のそのひとの姿が見えた気がした。

普通の会議室か事務室のような、ごく普通の会社の一室のような白い部屋で、

白衣を着たその人が、机の上にぶら下げられた白い石のようなものに手を伸ばして、

それがわたしのエネルギー的情報を取るのに必要だからと触っているイメージ。



でもそれを神頼み的な、自分がそれに使われるグッズ視している意識はなく、

ただ淡々と業務上それが必要だからそれを使っているという意識のようだった。

電話口の人は、そんなことを、エネルギーをほとんど物理領域と同じように

コントロールして当たり前のようにやっている。

これが、ほんとうの、「ヒーリング」、これが、ほんものの、「ヒーラー」、わたしは、呆然と、思った。



小一時間その人はずっと咳き込んでいて、それはわたしの黒いエネルギー、

心の中の闇や影の部分に触れる度にその人は咳き込み、

その人が咳き込んで吐き出すたびに、わたしのなかの黒いエネルギーが抜けていく感じがした。

つまりその人は、わたしの『心』に直接アクセスして、

わたしの「心の闇」をほとんど物理的に「掃除」しているのだ。



わたしはスティーブン・キングの『グリーンマイル』の登場人物、

キングがその作品内で書いたヒーラー、「ジョン・コーフィ」を思い出した。

わたしはその作品を読んで感動したけれど、まさか自分の身にリアル・ジョン・コーフィ、

リアル・グリーンマイルが訪れるとは思わなかったし、感動どころではなかった。

茫然自失だった。



すると今度は、下腹部をかき混ぜられるような感じがして、わたしはまた身をこわばらせた。

下腹部に石を沈められたかのような強い圧力を感じる。

そしてその石からわたしの体の中心を貫く一本の木を足の爪の先から頭頂までするすると伸ばされた気がした。



するとそのわたしの体の中心を貫いた一本の木は、水を通すために中が空洞になった木のように、

その木を電極のような媒体にして、すさまじい光と極彩色のエネルギーが

天上からわたしの中に降ってきて怒涛のように流れ込んだ。



ほとんど音が聞こえるくらい私の中で宇宙の誕生のように万華鏡のような光が弾けて、

細胞のひとつひとつから、影、闇、否定的なもの、

ネガティブエネルギーというものがことごとく吹き飛ばされ、そこに光が取って代わった。

細胞のひとつひとつから掃除機でネガティブなエネルギーを物理的に吸引され、

そこに、細胞のひとつひとつに、注射器で光を、ポジティブな意識を注入される。



わたしの中の、憎悪、悪意、殺意、嫌悪、否定、嫌だ、キライ、ダメ、

そんな意識と感情と思考が、ほとんど物理的に手づかみでわしづかみにされ引きずりだされ、

ポイポイとどこかに、宇宙の果てに、捨てられ、吸い出されてていく。

それらの意識・感情・思考が、物理的に、どんどん消えていく、軽くなっていく。



すると、氷漬けにされていたように身も魂も冷たく凍え、死体のように無感覚になっていた身体が

熱いお湯に漬けられるようにして溶け出し、「感覚」が戻ってきた。



後でHPを見てわかったことだけど、喉のチャクラはコミュニケーション能力と対応しており、

その人は、コミュニケーションに難のあるわたしの喉のチャクラを重点的にヒーリングしてくれたらしかった。

また、下腹部に感じた圧力は「丹田」のチャクラで、

その人は私の全身的なチャクラを浄化・活性化・ヒーリングしてくれたらしかった。

と、頭ではわかっても、まさかそんな漫画みたいな話が自分の身に起きるとは、

まだそれが現実だと信じきれていない自分がいた。



・・・・・・・


意識、感情、思考、というのはアイデンティティではないのか? それは人格の一部ではないのか?

意識感情思考が他人に好き勝手に書き換えられるというのはどういうことなのだ?



意識、思考、感情、それは人の人格を構成するものではないのか、

人の人格というものは一定のものではなく、これほど簡単に、ほとんど物理的に、

しかも自分の努力なしに、他者の手によって、書き換えられるものなのか?

それでいいのか? それは洗脳とは違うものなのか?

わたしは激しく混乱した。



でも、今までの人生で一度も感じたことのない、

活力、安らぎ、心の弾み、わくわく、楽しさ、幸福感がまるで物理的な注射によるカンフル剤のようにどうどうと、

どこからか、宇宙のずっと上のようなところから、無限のようにわたしに注ぎ続けられていることは、

今、わたしが身を持って感じている事実でしかない。



わたしはただ、電話しているだけ、受話器を持っているだけなのに、

今までの、他人と自分と世界の死と破滅しか願ったことのない死神みたいなわたしから、

わたしは何もしてないのに、どんどん幸せ人間に上書きされていっていた。



それは、電話口の人の努力に対して申し訳なく、失礼なことだけど、

自分で自分が気持ち悪くなるような変化だった。


わたしは何もしてないのに、まるで、麻薬でもやったかのように、

ただそこにいるだけで、どんどん「幸せ」に「気持ちよく」なっていき、

ラリったかのように光と幸福に包まれて、ほとんどモノも考えられなくなっている

自分を自分で気持ち悪く思ってしまった。



・・・・・・・


だって、わたしはさっきまで、死にたい、みんな死んじゃえ、世界もみんなも自分も大嫌い、

という死神みたいな生きる屍みたいな心を持たないモノだったのに、

電話しただけで、受話器を持っただけで、一時間も経っていないのに、

生きるすべてが心地よく、肌に触れ目に触れるすべてが気持ちいい、

生きることが最高の、今まで見たこともないハッピー人間になっている「わたし」がいる。



なにこれ? これだれ? わたし? わたしって、だれ?こんなことが許されていいの?

という謎の思考も浮かんだ。



だって、わたしは今まで、どれだけのひとを傷つけ苦しめてきたか。

わたしは今までの人生をずっと、他人を苦しめ傷つける死神として、自分で自分の死を願う死神として、

世界を壊したい死神として、今さっきまでそこにそうしていたのに、

たった数分で、他人にしてもらって、勝手に、こんなに、幸せになってていいの?

なんだか、なぜだか、そんなふうに思った。



わたしだけが、わたしが、こんなに簡単に、こんなに幸せになっていいの?

いいはずがない。怖い。わたしは報いを受けなければならない存在なのだ……

恐らく、深層意識で、そう思って、この変化を突っぱねたいわたしが急激に頭をもたげてきた。



この変化は怖い。幸せは怖い。わたしは、幸せになっていいはずがない。

こんなの、わたしじゃない。わたしはちがう……

「報復」の恐れ。


親は、わたしが幸せになることなんか決して許さないだろう。

親は、私が幸せになることなど決して望んでいないだろう。

親を散々苦しめ、親の全人生に泥を塗り、不幸のどん底に叩き落した、悪魔か死神のようなわたしが、

親を差し置いて、わたしだけ、抜け駆けして、幸せになるなんて、決して認めないだろう。

わたしが不幸であることが、親の望みであり、わたしの親孝行なのだ……



ものすごい宇宙的光の幸福に包まれて陶然としながら、

そんな極めて個人的な地上的現世的考えに未だに縛られてた。

それはわたしの中の、「どんな感情の干渉も受けない機械的思考の空白領域」だと思う。

ものすごいことが身に起きているのに、それはネガティブな感情の干渉をはねつけるのと同じ機能を

ポジティブな感情からの干渉に対しても同じように機能させてしまっていたのだと思う。



ほとんど思考もできないほど幸福感でラリっていたわたしだけど、

やっぱりそこでもどこかで冷静な思考領域を持ちたがっている、

そうした卑小な個人的領域をしぶとく執念深く捨てられず、隠し持っているわたしがいた。



最後に宇宙が頭上に落ちてきたかのような光と万華鏡のような極彩色の幸福感が降り注いだ。

とんでもないことだった。とんでもないことが起きていた。

わたしは怒涛の光の感覚にそれでも抗い、機械的思考にしがみついて冷静さを保とうとしたけど、

最後には思考の最後の一欠片さえ宇宙の彼方に吹き飛ばされてしまった。



電話口の人が最後に気合の入った声をかけて、一時間のヒーリングが終わった。

その宇宙をも自在に動かしたかのような人は最後に、

「なんか咳しちゃってすみませんね(笑)」とごく普通の世間話で締めてわたしをさらに呆然とさせた。

「いえ」、とやっと一言だけいうと、わたしはその瞬間にすでに生じた180度の自分の変化に気がついた。



・・・・・・・・・



今まで、カウンセリングなどで話をするとき、

ひきこもってから数年は誰とも話さないのが当たり前だったので、喉に声が詰まる。

そしてどんどん声が掠れ、ささやき声のようになり、ついに声は出なくなって、わたしは黙り込んでしまう。



いつも誰かに喉を締められているように、喉に異物、石が詰め込まれているように感じていたのが、

それが完全に取れて、わたしは始めて、自分の喉から自分の声が自然に出てくる体験をした。

そして喉が締め付けられる感じがなくなって、初めて呼吸器をはずされた人のように

初めてこんなに楽に呼吸ができるのを感じた。



わたしが私だと思っていた「死神」のわたしが憑依を解いたようにどこかへ消えてしまい、

そこにいるのは、何もしなくても、ただそこに存在してるだけなのに、

ただただ幸せでどうしようもないと感じている、今までの「わたし」が見たことのない「わたし」だった。

わたしは幸せでありながら、混乱し、畏れた。



あとその人は、わたしの喉のネガティブエネルギーをどう処置した、

ネガティブエネルギーを排除してポジティブエネルギーを充填した、

「たんでん」と「せんたりんぐ」を作ったという聞きなれない単語の出てくる話しを

まるで普通の医者のように業務的に淡々としててさらにわたしを呆然とさせた気がするけど、

宇宙と正面衝突したかのような、あまりの出来事に脳がほとんど追いつかず、ほとんど記憶していない。



ただ、わたしが引き篭もりであるとかなんとか、

そんな、今では目の前に現れた宇宙の前では些細なことすぎて場違いに感じられることを口にしたとき、

その人は、「またここにくれば助けてあげるから」、といった。

わたしは最初から最後まで、茫然自失としながら電話を置いた。


心身は麻薬の海に溺れたように無条件に幸福と高揚感に溢れていた。

あの死神みたいな感じは剥ぎ取られ、心を直接手でわしづかみにされ、

精神と心に物理的に掃除機でバキュームをかけられ徹底的に清掃され、物理的に人格を一変された気がした。



私はその人の言った、「たすけてあげるから」という言葉を思い出した。

たすかる、たすかる? わたしが、たすかる? たすかるとは、なんだろう?

わたしはそのとき、引き篭もって7年近く経っていた。

他人や親や自分を殺そうとした。

たくさん人を傷つけ、人に傷つけられ、自分を傷つけた。

わたしがいるのは地獄で、死神のわたしがそこにいるのは当たり前だった。

地獄にいるのが当たり前になった、そこにいるのに慣れたわたしが、

たすかって、すくわれて、どこにいくというのだろう? どこにいけるのだろう?



わたしはそのときとても幸せに包まれていたけど、過去の私以外の「わたし」には、

なんのイメージもわかなかった。

なんだかそれが怖かった。



・・・・・・・・・



ひきこもりという、自分で自分を閉じ込める病、それは、助かる病とは思えなかった。

日本社会にはひきこもりもニートも不登校もたくさんいる。

それはきっと日本社会の病理であり、日本社会を反映した家族環境が原因なのだろう。


わたしは精神分析の学術の理論通りにそう思っていた。

そう思うしかなかった。



わたしは日本社会の病理に蝕まれた何百万人のうちの一人でしかないのだ。

日本社会が病気でもそのシステムで回っている以上変化は起きず、

わたしもきっと一生このままなのだろうと思っていた。



そして今、ここで、わたしは、学術とか理論とか分析など一顧だにしないだろう、

現世的理論には追いつかない領域の、誰にも言えない記憶を思い出し、

そしてたぶん、現世世界の「学術、理論、分析」領域には

決してその存在を認められないだろう手法で、

今までの7年をかけて、どこにも、誰にも救えなかった

わたしの心が初めて掬われ、「たすかる」可能性を見出した。



今にも通りに躍り出て人を殺傷したい願望に駆られていたわたしが、

その一時間で、今まで心底大嫌いだった子供を、この世のなにより愛しいと感じていた。

子供の性格とか外見的特長ではなくて、子供の「エネルギー」がものすごく心地よかったのだ。

外に出ると、草木の声と言葉を聞き分けることができた。

空気中に偏在している宇宙エネルギーを感じることができた。

今まで機械的義務的に食べていた食べ物の味が初めて『味覚』としてわたしに感じられた。



今まで氷漬けのように冷たく凍っていた、時間の死体のように横たわっていた世界が、

一気に熱湯をかけられて溶け出し、時間が進み始めたような感じがした。

止まっていたのは世界ではなく、ただ、わたしひとりだったのだ。

わたしの心。

世界はただ、わたしの心が映し出された鏡でしかなかったのだ。




後でHPで調べてわかった、あのときヒーラーがわたしの中に作ったといった、

「丹田」と「センタリング」を意識して強化すると、

そのセンタリングが光とポジティブエネルギーの背骨のように機能して、

わたしの中に溜まったネガティブエネルギーが、掃除機で吸い取られていくように、

物理的な空気の抜け感としてわたしの中から出て行くのを感じた。



意識を凝らすとわたしの中に宇宙が渦巻いて極彩色の曼荼羅が生じ、私はその中に浮かんでいた。

今までの淀んだ脳が買い換えられたように、今までなかった信じられないスピードとクリアさで回っていた。

思考が追いつかないレベルで様々な悟りの瞬間が次々に起きているような感じがした。



本を読むと、今まですべてが私の知らない外国語で書かれていたような言葉を

私は始めて「読む」ことができた。


まるで世界と私が和解したように、私はそこに書かれている言葉を初めて理解することができた。

生まれついての心の喪失による心の文盲者、心の盲目者が、

生まれて初めて言葉を読み、生まれて初めてその目に光を見るような感じだった。



人の心の動きや思考の動きに合わせて脈動する言葉に

私もこころのリズムを合わせることができる、そんな感じだった。


それはまだ弱弱しいものだったけど、私は初めて私の中に人の心の動きを理解する、

他の人と同じ「人の心」が生まれ始めていると思った。

ものすごい混乱と畏怖と恐れと疑問と感動と感謝だった。



宇宙に抱擁されているかのような圧倒的な感覚の前に、思考など何の役にも立たなかった。

それ(思考)がどれだけ、魂の本来の姿、

全的に『感じる』ことからの逃避であるかがわかっただけだった。

私は泣いた。



・・・



跡でHPを見ると、電話口でヒーリングされているときに感じた通り、その男性がしてたことは、

ヒーリング手法や意識がすでにかっちりと確立された手順だったことを知った。



またそのヒーリングサロンを創設したヒーラーの人のコラムを読むと、HPを見て感じたとおり、

このヒーリングサロンは、ヒーリングをごく普通の「仕事」のひとつとして社会に位置づけようとしていた。



宇宙をも、人の『心の闇』をも物理的に動かす奇跡のようなヒーリングを、

定義が曖昧な『スピリチュアル」にするのではなく、事務、業務、実務、

社会の中の「普通の仕事」のひとつに位置づける、ただの『ヒーリング会社』として。



そこには、この数年で私に怒涛のように訪れた、「もうひとつの世界」についての、

すべての疑問への答えが書かれていた。

『現実がすべて』と。



その「ヒーリング会社」を作り上げた人というのが、各国の要人や富豪やアーティストに数千万円も積まれて

依頼を受けているという超ど級のヒーラーという人で、

何も知らずにHP見ただけでは眉唾つけそうな話しだったけど、

そこの「実力」を身をもって知った今では、ただ納得するしかなかった

(最近では外国の富豪に一億円積まれたとか)



現代に蘇ったキリスト?仏陀? 実感ではひょっとしたらそれさえ凌駕する?

歴史上のどんな思想も、哲学も、宗教も、業績も、超越している世界ということだけはわかった。



あまりにスケールが大きくて、ただただポカンとするしかなかった。

その数年で起きたことが、世界を裏返すかのようにあまりにも急転直下で、

もうどこまでが夢で、どこまでが現実なのか、わからなかった。


・・・・



ここに関わった一年後に、7年間どこに誰に助けと救いを求めてもできなかったこと、

外に出て社会復帰をした(今も途上だけど)。



助けと救いを求め続けた人生の果てに、これもある種、叶えられた祈りということになるのだろうか。

でもそれはある種、わたしにとっては、そこから始まる、過酷な叶えられた祈りだったかもしれない。



今でも様々な問題に付きまとわれているように、

それで奇跡と魔法が解いたわたしの(悪)夢物語の美しいフィナーレ、めでたしめでたし、終わりではなかった。



宇宙が頭上に落ちてくるような、生まれて初めての奇跡と魔法をこの身に受ける恩恵を受けながら、

なぜあんなことになったのか、わからない。

でもきっと、私はわかっているのだし、わかっていなければならないのだと思う。

それは私の責任なのだと思う。



今まで作り上げて機能させてきた「うそのキャラクター人格」、仮面を脱ぎ捨て殻を捨て、

自己表現すること、本心に近い思考や心情を言葉にして伝えることへの恐れは未だに拭いがたく、

それは、取り返しのつかない失敗を生んだ。



どれだけ宇宙が広大で、無限の光に満ちていてもどうしても抜け出せない足枷のように、

わたしがわたしであることの、一個の卑小さに囚われていることの、自分自身への敗北ともいえる、失敗。



この取り返しのつかない失敗をすると予感していたから、外に出るのをやめて引きこもっていたというように。
実際、それ以降も、外に出さえしなければよかった、外に出るんじゃなかった、と思うような、
私が病的にひきこもることで、かろうじて回避していた

「破滅的・破壊的予感」が現実化したようなことに、次々ぶち当たった。


パンドラの箱の封印のように厳重に閉じ込めていた心が、

ヒーリングによってものすごい勢いで開かれたことで、パンドラの箱に閉じ込めて今まで直視すること、

外に出して現実化してしまうことをかろうじて避けていた様々な問題が
ダムの決壊のように噴出して現実化してしまったことも事実だった。


ヒーリングを受けることの副作用、自分の心の負の側面が露出して精神的に不安定になったり、
現実的問題として負が実体化することもあると後で知ったけど、当初はそのことへの言及やケアや助言もなく、
突然放り込まれた混乱の只中に放置された感じで、正直初期の「会社」の対応としては不親切だったと思う。

・・・・・



今でもまだ正直、この道を進んでいいのか迷っている。

副作用と利、どちらが私に大きく作用するのか、

私がどちらに踏みとどまるか、賭けのようでわからなくて怖い。
私の中には、一生外に出してはいけないと、あるとき、時間の氷漬けにするようにして閉じ込めた、
永遠に封印して閉じ込めきって、無力に消滅を願うしかない、自分でも恐い怪物、闇が、心の中にいるから。



人の思念、心、感情、思い、無意識の願望、意識・無意識は、

エネルギー領域で即物的に作用し、実体化し、現実化する。

それはエネルギー世界の基本的知識。
ただ私の中に押しとどめていたそれが、エネルギーで力任せに

心の枷を外れて無防備に外に出てしまうことが恐い



エネルギーヒーリングというのは、大雑把にダイレクトな形で

ポジティブとマイナスに作用するものではあるけれど、
人間はやはり、より緻密に学術的な精神・心理メカニズムに沿って機能し、
その厳密なメカニズム・回路にまでは緻密に作用しきれないのではないかという疑問がある。



エネルギー世界があること、エネルギーヒーリングがあること、それは当然の前提として、

でも、それですべてではなく、それはただ賛辞すべきもの、ただアメイジングなだけのものではなく、

それが、厳密な回路とメカニズムを持つと思われる、人の心と精神性への応用性、

それがこのすべてでいいのか、という迷いがある。



ヒーリングで排除する「ネガティブエネルギー」とは、心に巣食った根源的な「問題」ではなく、むしろ、
その問題が外に出て、コントロール下を離れて勝手に跋扈しないように押しとどめていた、
ある危機に際した心がそのときかろうじて対処療法した、防衛機制、

リミッターでもあったりするのではないかと思う。


それをネガティブエネルギーと判断して、力まかせに排除してしまうと、
押し込めていた本当の「問題」が防衛機制を解かれて、ただ暴れ出してしまうこともあるのではないか。
それをどこで判断するのか。



パンドラの箱のように、閉じ込められた私の、開かれた心から現れた、破壊と、あるかもしれない希望。
破滅と希望のどちらに至るせよ、いずれにしても、私の砂時計の時間は、進み始めてしまった。
蓋を開かれる度に自分の心から現れる、破壊欲動と希望、

激しさを増す闇と光の心の葛藤の闘いに引き裂かれながら、迷っている。



宇宙と顔をつき合わせているかのような素晴らしい可能性の世界が目の前に開かれているというのに、

未だに私は一個の私という卑小な精神性に閉じ込められているのだ。

私は何でこんなに小さいのだろう。何でこんなに情けないのだろう?


・・・・・・・・・・



賛否・疑問・疑惑・解釈、様々にあるのは当然だと思うけど、

私はただ、起きたことを正確に言葉にする努力をした。

私はただ、正確でありたかった。



私は事実に正確に殉じようとはしたけれど、私自身は正確かはわからない。

だから誰も、わたしを信用する必要はない。自由。


で、この「一般社会性・常識外れ」という、私が最も恐れる類の、最後まで隠し通したかった、

最後の記憶と最後の秘密の告白をしたのは、世界が変わってきているのを感じたから。



預言者ぶるつもりはないけど、そんなスピリチュアルな役回りは大嫌いだけど、

もう、今までの世界の「智識」では、世界がもたなくなってきているのを感じたから。


世界が根底から覆りつつある。恐れ。焦り。贖罪意識。切迫感。警告。

よくわからない。ただ、魂の奥深くから急き立てられる。伝えなければと。



アセンション?か知らないけど。シフトする時が来たのだと思う。

『ほんとうの世界』 『ほんとうの自己』 『ほんとうの魂』の正確な知識を知り、

「これから」変わりゆく世界を、過たず歩んでいくために。


・・・・・・



ちなみに過去に受けたヒーリングの感想。


『エンジェル・セッション』時のもの(天使のエネルギーと繋がるヒーリング)

http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-11010707062.html

『クジラ・セッション時』(ハワイのクジラのエネルギーと繋がるヒーリング)
http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10678268241.html



『スピリチュアル・ヒーリング』時のもの。

(この会社のスタッフで一番才能のあるサイキッカー『和泉モモ』先生に

過去生のリーディングとヒーリングをしてもらったときのもの。

厳密にいえば、この20分の経験が直接体験となって、ひきこもりから出た。)

http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10752179612.html



和泉モモ先生の詳細情報~http://www.j-h-v.com/menu/izumi-more.html


背景~http://www.j-h-v.com/momo-haikei.html


私はずっと、この『ヒーリング会社』を初めて知ってから、デジャヴのように、
ここに満ちるエネルギーの感覚、物理的に定義しえないエネルギー世界を合理的に扱おうというコンセプトに、
どこかで知っている、一度逢ったことがある、というもどかしい感じにつきまとわれていたけれど、
和泉モモ先生によれば、魂の段階のときに、現世で出逢おうと決めてきた、
生まれる前からの、時空間を超えた、魂の『約束』をしていたからなのだという。


『約束~出逢いは時空を超えて~』



いちおう、胡散臭さを払拭するために、世界から認められた推薦文。
パリ・オペラ座エトワール デルフィーヌ・ムッサン

http://www.j-h-v.com/reco-ex/200709.html )
(パリオペラ座のダンサーが、ヒーリングによる公演成功に感謝の意を表して、

メビウス(そこの現会社名)に寄贈した、エトワールが実際にオペラ座の舞台を踏んだ

トゥシューズを私も実際に拝見しました。)



ちなみに、現そこのヒーリングhttp://www.mebius-inc.jp/


最後の記憶はもっと混沌している。


・・・・・


ある意識領域にダイブすると、そこもわたしの意識が幽体となって進入した幽体レベルの世界のように、

エネルギーのネット世界のように、わたしの意識が向けるベクトルの世界の情報に

そのままアクセスできるようだった。



そこに入ると、わたしが望んだように、大勢の人がいる大広間のようにわっと大勢の声が聞こえ始めた。

情報の奔流がわたしの中を貫いていくような感じ。

『鋼の錬金術師』でエドワード・エルリックが「真実の扉」を開けてしまうシーンに似ている。

膨大な情報の奔流に自我が引き裂かれそうに感じ、

わたしは感覚から切り離された機械的思考領域にしがみついた。



そこでもわたしは、自分の狂気を疑う思考領域を保ちながら進んだ。

そこは、輪廻する人の魂のシステムの根幹をざっと見たわたしの、

より細部の疑問に応える応用編みたいな感じだった。

神とは何か?人間とは何か?人間以外の存在とは何か?悪とはなにか?



ただ、生まれてくる前の記憶を利用して魂のワンネスを経験し、

光に満ちたいわゆる「波動が高まる」経験をしたとはいえ、

『その記憶を終えたわたしが、それ以前より特に正気を失い錯乱しているなどの変化をしていることもない』

と書いたように、その体験は別にヒーリング体験になったわけでもなく、

その体験をする前にわたしが陥っていた、地獄の業火に焼かれるような

世界中の負のエネルギーを集積したような精神状態であることは変わらなかった。



なので、意識エネルギーが自動的に検索され世界に反映される幽体エネルギー世界にその精神状態で行くと

さまざまな魂の波動領域の情報に自動的にアクセスしてしまい、

それは決してすべてが事実・真実なわけではなく、

ただ自分の意識が「これが真実だ」と思った瞬間に、その情報領域に囚われるだけなのだ

ということをわたしはなぜか魂の領域で知っていたので、そのことの注意しながら情報にあたっていった。


その情報が正しいか間違っているかは、主観的な体感で判断するしかなかった。

「すべてがひとつ」であるその場では、すべての情報も私自身であるので、

何が間違っているか正しいかも、自分の感覚を精査することで判断しうると考えた。



魂の記憶を思い出しているときからそうだったけど、このときの経験でも起きていた特徴的なことがあった。

わたしが成長してから読んだ、すべてのスピリチュアル関係の本に載っている情報が

意識で検索されたようにでてくるのだ。

そこは、意識で自由にアクセスし情報をとることのできる、魂のネット空間のようなものだったけど、

本人の意識レベルに応じて検索の質も変わるので、出てくる情報もまちまちで違う。



わたしは情報の奔流を求めながらもそれらに囚われず、

常に機械的思考で情報の奔流の中を前へ前へ、

できるだけブレずに絶対的な真実を目指して真っ直ぐに意思を研ぎ澄ました。



神とは何か?人間とは何か?世界とはどのようなものか?

そして、わたしはどう生きればいいのか?


そこは、すべての時間軸と空間軸が並列しているエネルギー領域で、

「スピリチュアルの本を読んでいる未来のわたし」と、

そのスピリチュアル本の情報が持つスピリチュアルエネルギーに

5歳のその時点でチャネリングして情報をとり感応し、

その本が書かれるエネルギー場に観察者として干渉しているような感じだった。



例えば、バシャールの本を読んでいる未来のわたしにチャネリングするように、

5歳の時点でバシャールの言葉を見、聞き、

同時にその言葉が生まれているエネルギー場も幽体エネルギー同様、

時間軸空間軸を超えたものとして体感(参加)しているとき、

これってただ未来の自分が読んだ本にチャネリングしてるだけじゃない?と5歳のわたしが思うと、

すかさず、「今この講演を、多くの人がチャネリングして聞いています」というバシャールの言葉が

私に意識の中の本の言葉に現れた。




5歳のわたしは、意識エネルギーのみの状態になりながら、そういうものかなぁと思っているようだった。

後になってバシャールのその本の中にこの言葉を見つけたけど、そのときの年代が、

ちょうど私が5歳のときのことだった。



意識エネルギーのみになったわたしは、未来のわたしが読んでいるそれらの本にチャネリングすると同時に、

その本の言葉が生まれる只中のスピリチュアルな場に、同時参加しているようだった。


意識エネルギーとしてそこにいて、彼らのエネルギー場に関わることは、ただ受身に情報をとるだけではなく、

リアルタイムに積極的に、流動的な情報の場に観察者として参加していることでもあった。



すべての時間軸と空間軸が並列したエネルギー場にいて、

志向し望んだことが即座に実体化し反映されるエネルギー者としての観察者として、

わたしはそこにいるようだった。



神について知りたい、と強く思えば、わたしの意識レベルで検索し模索しうる限りの

「神」についての概念が現実に実体化反映され、物語化され、現実が動かされ、

ニール・ドナルド・ウオルシュが「神」とチャネリングを始めて「神との対話」という本を書き、

それを読む未来のわたしにチャネリングして5歳のわたしもその情報を字面的にも

エネルギー的にも読み取るというような感じ。

本と言葉だけではなく、世界と世界を作ってきた人間を知るために、

実際の彼らの生そのものにアクセスしていたような。



不可解な人間として人間と生きる恐怖を克服するために、

人間を知るために人間として生きる実験シミュレーションのように、

様々な人生のタイプ、様々な人格のタイプ、人の人生に姿の見えない透明な第三者の観察者として憑依し、

一瞬で膨大な人生を疑似体験的に知り、それらの人々が生み出した様々な書物、概念、思想、

哲学、業績、業務、作品創作物を通して、世界を知っていくような感じ



実際の人間の人生に憑依するように疑似体験的に観察するとともに、

より激しく破壊的なわたしの感情を投影したい人生と人格の創造には

それを創作物と創作物を作る人物にエネルギーを投影してた気がする。


わたしは、現実の人間、世界をエネルギー場から観察し、

「このような場合はどうなるのだろうか」と思考し模索することで人の生を操作的に動かしていた

人形遣いみたいなものだったのだろうか。

より理想的な人間と世界を見出すための、人の生を使った実験シミュレーションの破壊と創造を繰り返す模索。



わたしは自分のしていることに疑いを持った。

彼ら人間が無邪気に生きているときに、わたしはエネルギー場からの、

イデアの影からの陰湿な観察者として、自分の意思で彼らに好き勝手に影響を及ぼしているように思われた。

れでは彼らの、人間の、わたしの自由意志は、どこまでが自由意思といえるのか。

わたしの人生もわたしの意志でしていると思っていたものが、実はイデアの影から

誰かが影響を及ぼしているものではないとどうしていえるのか。



殺人衝動に駆られていた16歳のとき、それをできないわたしのかわりに、

誰かがわたしのやりたかったことをやるのを見て溜飲をさげたいと思っていたときに、

サカキバラ事件が起きたように、自分の意思でしたと思っていたものが、

誰かの強い意志に引きずられたものだとしたら、自由意志とはどうなるのか。


・・



けれど、膨大な実際の人間の人生のタイプ、人格のタイプを見つめ同時に憑依しながら、

世界の歴史の推移と人間思想の推移を車窓の窓から眺めるように見つめながら、

どこまで幻覚で夢で、どこまでが本当なのかわからなかった。

5歳のわたしが自分が見聞きしているものの真偽を疑っているように、

5歳のわたしを思い出しているわたしも、自分の記憶の真偽を疑っていた。

これこそ過誤記憶ではないのか。


わたしが見聞きしているものが、5歳のわたしには夢か現実かわからない、

その記憶を見ている今のわたしの精神異常か過誤記憶かほんとうかわからない。


5歳のわたしはそこで、マーキングみたいに、姿の見えない第三者として

わたしがそこにいたことを示す「証拠残し」をしたみたいだった。

「それ」がわたしが知っている「それ」なら…



こうした普通の人にはたぶん決して理解できない異常な体験をしながらも、

わたしは自分の狂気におののくことも、自分が特別な体験をしているという高揚も一切持たなかった。

ただ何の感覚もなく、車窓の窓から風景を眺めるように、目の前に流れていくモノを

機械的に見つめていただけだった。



それにそれらが事実か幻覚かもある意味どうでもいいことだった。

それは、夜にひとりぼっちのわたしを慰めてくれる、ただの寝物語にすぎなかった。

退屈しのぎにちょうどいいお話しでしかなかった。



そこでは、マリアやイエスや異星人や地球にチャネリングしている人たちがいて、

わたしは彼らの言葉とその言葉が生まれるエネルギー場にチャネリングしてつながってある意味楽しんでいた。


私利私欲に満ちた現世の人間たちが嫌いなわたしにとって、

宗教心を持って自分より大きな存在に敬虔な気持ちを持っている彼らの存在にシンパシーを感じたことで

意識の自動アクセスが起きやすかったのだと思う。



ただ彼らが揃っていう、地球が人間の横暴に怒って今後天変地異が増えて人間に危機が訪れるので、

より敬虔になり祈りを欠かさずにいましょう、という呼びかけや

チャネリングによる予知予言の類(いわゆるアセンション)はテンプレみたいなものなので基本無視していた。



ただその中で唯一、地球と人類の未来にチャネリングしているという人の

本の言葉とその言葉が生まれたチャネリングのエネルギー場にアクセスしたときは、

なぜかそれだけは真実味を感じた。

それはよくないことであり、わたしを心底から絶望させたにも関わらず。



わたしは5歳のわたしが、世界の終わりのようになぜか異常に絶望し、諦念していたことを知っていた。

5歳の時点で、世界の終わりだの、人類の滅亡だの、その責任の所在だのを考えて、

それがすでに決定されたことのように思い、絶望、諦念、自暴自棄、無力、怒り、

深刻な欝状態になっていたことを知っていた。



でもそれがなぜなのかはわからなかった。

その原因の記憶を今、始めて思い出した。

このとき初めて、これらの風景、光景が実際の記憶であり、わたしの精神状態、人生に

影響を及ぼしていたのかもしれないと思った。


わたしは5歳のときに実際に世界の終わりを間接的に見ていたのだ。

すべてが砂のように崩れ、砂漠の中に足跡も残さず消えていく世界の消滅を。

(『地球少女アルジュナ』みたいな。)



わたしがチャネった(チャネリングした)これらの光景を見ていたひとたちは、

わたしのように、すべての時間軸空間軸が並列しているエネルギー場で、

意識によるネット検索のようなことを行っているひとたちで、

わたしたちはそのエネルギー場のネット検索場で似たようなことをしているもの同士として

かち合ったという感じだった。



ややこしいけど、ある検索者(チャネラー)が未来の地球やそこにいる人間の意識に入り込んで

チャネリングしてそれを体験したり本に書いたりしている(それらが同時並列に存在している)エネルギー場に

わたしも居合わせチャネることで、副次的にそれを体験しているという感じ。



「未来の地球と人類にチャネる」彼らから受けた情報に衝撃を受けたものの、わたしも、

すべての時間軸空間軸、すべての人間の存在の意識場が並列存在するエネルギー場で、

人間とは何か、世界とは何かを模索して、あちこちに意識検索(チャネリング)して、

透明な観察者として人の意識に(たぶん)介在干渉してたわたしもまた、

ある意味では意識エネルギーによる未来旅行や過去旅行、

タイムトラベルをしていたタイムトラベラーだったといえるかもしれない。



わたしはそのとき、彼らがチャネっている未来の、

わたしには真実味を帯びているように見えた未来を見て(感じて)強い衝撃を受けた。


わたしは、感情の干渉を排除した機械的思考に身を置き続けて、

何を見ても何を聞いても何が起きて何を体験しても、一切何も感じない魂の空白領域で、自己防衛的に、

ただ正確なことを知るために検索を続ける、「見る機械」に徹していたけど、

そのとき初めて、自分がしていること、わたしが見ているもの、聞いているものを自覚して、畏れを抱いたと思う。


・・



アセンションに関していえば、それは起こると思う。

破壊的破滅的な何か、完全なパラダイムシフト。

それは、魂のブループリントを作る場で、

「なんかいい加減、こう、ちまちま成長してくのまどろっこしくね?ここらで景気よく成長加速したいよね」

と思って決めた。


わたしはそんな前向きな意識は持ってなくて、

ただ薄汚くてバカで救いようがない三次元世界と人類が嫌いで、

ただそれらに壊れてほしがってた気がする。


そうだ(思い出した)、そのアセンションが決定的に起きる日時が今、一部でいわれている、

「マヤ暦の太陽暦の終わり」といわれている有名な2012年12月21日だと、

魂の領域で決めてきた世界の設計図だったと思う。



ただ魂の一部のどこかでは、破壊的アセンションが起こる前に人が自力で

魂を成長させれば、世界の終わりは避けられるかもしれない、という意見もあった。

未来は確定したものではなく、複数方向に枝分かれしており選択可能であり、

魂のレベルで決定したことであっても、現世での意思決定が影響を及ぼすことも可能であると。



理屈ではわかったけど、わたしはそういうことを信用していない。

魂の根源的エネルギーレベルで選択したことのほうが圧倒的に優位に決まってる。



でも目に見える形でアセンションするのは三次元領域ではなく、死後の魂の領域でしかないから、

現世で生きる人は、死や破壊や喪失に嘆く人ばかりが増えるんだと思う。

現世で嘆かれていることほど魂の領域世界では歓喜していることなのだけど、

死んでからしか意味がわからない話というのは残酷だし、何の意味があるシステムなのかと思う。



魂の領域では、三次元領域との、肉体を持たないことによる意識の乖離が如実に現れる。

境界のない世界で、みんなアホのように楽観的で幸福でのほほんとしている。

軽い思いつきで、殺されたいとか殺したいとか災害にあいたいとか

障害や遺伝子設計なども自由に創り出してししまい、

わたしなどはこのシステムに疑問があるし憤慨してたし、

わたしのように調子に乗ってあれもこれもと盛った挙句、

生まれた後の取り返しのつかなさに後悔するバカものも出てくるのだ。



わたしにとって、「取り返しがつかないこと、二度と取り戻せないこと」とは、

三次元でいう「死」ではなく、次元を超えた領域から三次元領域に囚われ縛られるために天から落ちること、

つまり「生」を受けることに他ならなかった。



わたしにとって、生まれてしまうことこそが、二度と取り返しがつかないことなのだ。

ふたつの世界にまたがる知識・情報を垣間見たわたしにとって、世界の全ての風景が逆転している。


だからわたしは死や生にほとんど重きを置かない。

魂が歓喜することと、三次元領域に囚われた意識とはほとんど真逆に乖離しているから。

そしてそういう見地は、三次元現実世界の社会生活では、ほとんど社会不適格者、精神異常者だった。



人の三次元的生や死や悲劇にまったく心を動かされない機械のような心を持ったわたしは

現実社会から見れば深刻なニヒリズムに陥っているとみなされる状態だった。

そしてわたし自身、三次元的「常識」から真っ逆様に落ちて真逆から世界を見ている

自分自身に恐怖を覚えた。

他者と違う恐怖、世界にひとりぼっちのマイノリティになってしまう恐怖、

自分が得体の知れない、心を持たない怪物に変態してしまった恐怖。



どうせ死んでも次の世界があり、しかもこの三次元世界はもうすぐ終わる。

存在しない幻に等しい現世的利益を囲い込む、

本当のことなど何もわかっていないバカな現世的人間によって。

もうすぐ世界は終わるのに、子供を生み、育て、生きる、人の存在などに、何の意味がある?


わたしはわたしがここにいる意味を見出せなかった。

それはわたしが基本的に持っていたベースの感情なのかもしれないし、

あるいはこの記憶の影響で破壊され、失ったのかもしれない。

そして同時に、周りのすべての他者と世界の存在の意味も見失った。



そうした見解がわたしに深刻な無力感と無意味感と自暴自棄、あらゆるネガティブな感情を起こさせた。

わたしはこの現世世界の全てに存在の意味を見出せなくなり、

誰が死のうが殺されようが、今すぐ世界が終わろうが一切心を動かされなくなっている自分を見出した。

むしろ、もう世界が終わることが動かしようがなく決定されているなら、

いっそ今すぐ世界が終わってみんな死んでほしいと思った。


わたしの目の中に、あのとき見た世界の終わりの風景が焼きついて、

それはわたしの魂に永遠に烙印され、血を流し続ける呪いとなった。


わたしの目の中で、今、ここにある世界は終わりの風景を晒し続け、

わたしの目の中心に、あのとき見た世界の終わりの風景が動かしがたくあり続けるのであれば、

もうわたしにとって、すでに世界は終わり、人類はみんな死んでいるも同然だった。



わたしの理性はその不合理な出血的感情を食い止めようと必死に異議を唱えていた。

わたしがふたつに引き裂かれて、ずるずると絶望の底に落ちていくような闇のわたしと、

闇を否定したい光のわたしが葛藤し戦っているみたいだった。


でもそれらは抑えてもどうしようもなく溢れてくる魂の深部からの出血みたいで、

魂の深部に開いた地獄の穴のようで、わたしはあっさりその闇の中に落ちた。



事実そうなのだ。

わたしは文字通りこの領域の世界に属さない、もうひとつ別の世界に属する(そこの記憶を持つ)

存在なのだといいたければいえるけど、そんなことはいいたくなかった。

わたしはこの社会に普通の人間として、ただ適応したかっただけだ。



「普通の社会・世界中のみんな」からわたしを隔絶するこんな記憶など思い出したくなかったし、

こんな情報など、知らなければよかったと思った。

でなければ、この記憶を強制的に忘れるはずがない。



・・・



そのときのわたしの身体年齢は5歳だったけれど、

エネルギー場ではすべてがひとつであり、検索した情報はわたし自身でもあり、

自動ダウンロードが起きるようにどんな思想や情報や世界を見ても理解に困難を覚えなかった。

そこは集合無意識の場のような、アカシックレコードのようなところだったのだろうか。


そこではわたしは、肉体から開放された軽やかな裸の意識エネルギーで、名前もなく誰でもなかった。

それに特に困難を感じなかった。むしろ心地よかった。



わたしはそこでどうしようもなく個的なわたしとして完全完璧に完結していながら、

そしてわたしは誰でもありすべてである、あなたはわたし、わたしはあなた、ワンネスの感覚。

わたしはそこで、どんな真逆な人間のタイプにもなれた(シミュレーション的に観察し、憑依する)し、

動物にも植物にもなれたし、自然現象にもなれたし、宇宙にもなれたし、地球そのものにもなれた。

架空の怪物にもなれたし、人々の意識に入り込んで人の意識を促して、彼らに創出される創作物にもなれた。



魂のエネルギー状態という無限の変身と変換。

水のようにすべてに偏在し無限に変態しながら、どうしようもなく私自身として個的であることが同時並在する。

無限と一瞬が同時に存在し、

無限の他者と彼らに関わるわたしが無限に分散する時間と空間が同時並在する場。

魂とはそういう存在なのだし、エネルギー場とはそういう場所なのだ。


どうしようもなく魂が自由に飛翔する場所。

けれど自由と同時に確固とした意思を持って自己を再発見し作りださなければ、

固体化できずぐずぐずに溶けて流れ出す水のように、何者にもなれない場所。


わたしはそこで、魂の設計図に書き込む段階で、何者になるか決めかねたんだと思う。

初めて俯瞰したシステムへの困惑と迷いと疑惑がわたしの足をつかんで引きとどめた。

固体化できずに漂う水(たましい)。



そしてわたしが見ている光景には何の意味もない。

ある意味、そこで起きていることは、当たり前のことであり、

アリの命も人間の命も、すべての存在が等価に並列存在しているということは、

そこにある情報には何の意味もないのだ。



ただ、その情報を積極的に受け取り何かに使おうとする意思を持った人の手に渡ったときにだけ

そこにあるものは意味を持つのだ。

つまり物事に意味は最初からあるのではなく、意思を持って意味(名前)を与えることによって生まれる。

もしくは、物事を最初から「こうだ」と決めてかかっている

意識状態に呼応した意味をつけられた世界が眼前に現出する。



意味とは、意図的にであれ非意図的にであれ、人の意識が作り出すものなのだ。

そしてひとの意図的・非意図的な意識によって意味(志向)付けられたエネルギー世界がイデアとして

三次元の現実世界で実体を持った現実となる。



エネルギーと三次元が乖離した世界に人間が生きている理由は、

人間が本来持っている魔法のようにエネルギーですべてを可能にするエネルギー力を、

自由無限空間で当たり前のように自由自在に発揮させるのではなく、

より抵抗があり、その使い方を忘却さえした三次元の領域で、

失った力を再発見することで、より強固な意思(ベクトル)を持って使うことを覚えるためなのだ。



ということは、本当に問題であり価値があるのは、こうしたエネルギー場ではないのだ。

こうしたエネルギー場は、むしろそこにあって当然のものなのだ。

人が死んだらいつでも自然とそこにいけるものなのだ。

というか、人が死ぬ、ということは存在せず、人が三次元で「生きている」状態のほうが

エネルギー場から見ると特殊な状態なのだ。



問題であり価値が問われるのは、こうしたエネルギーをより抵抗のある

三次元の領域でより強固な意志をもって使いこなし、力、自分自身を再発見しようとして

この三次元領域に下りてきている、「わたしたちが創り出す三次元領域の現実」なのだ。



エネルギー場では、本人の意識状態が即座に周りの風景に実体化する。

そして抵抗・粘りのある三次元領域でも、時間差をおいて、やはり人の意識・志向性エネルギーが

現実領域に実体化する。


つまり本当に価値があるのは、このようなエネルギーの知識を持ってアクセスしている人ではなく

そんなことをすべて忘却した状態であれ、三次元の現実領域をより豊かに生きている人にこそあるのだ。

その人が囲まれている現実世界がその人の意識エネルギーが創り出しているものであり、

つまりその人がどんな現実を生きているかに、その人の心が即物的に現れるのだ。



・・


それらが特別な世界のことであろうと異常なことであろうとどうでもよく、

わたしはただ、正確なことを知りたいだけだった。

わたしは何も知らず、すべてを知っていなくてはならず、すべてを知っているはずだった。

人間、人間以外、神、宇宙、地球、存在、わたし。



情報の特急列車の奔流がわたしの中を駆け抜けていくような旅の終わりに、

夢から覚めつつあるのを感じた。



ただ、知りたい、事実を、真実を。なぜ、なぜ、なぜ、

ベースには確かに「波動の低い」感情が渦巻いていたけれど、

そうした主観と感情からはなるべく身を置き乖離した機械的思考のみに頼って、

それがわたしをどんどんクリアに牽引していくのを感じた。


その先にあったのは、誰かの思考や人生の覗き見、間接的憑依的体験ではなく、

真っ白な空間、まばゆい光、何もなく、すべてがあるような空間に剥き身のわたしがいた。



その光に呑まれていくと自我が消えそうでわたしはどうにもならない恐怖に身が強張るのを感じた。

神の領域、だろうか。

わたしは見てはいけないものを見ているのではないか、

人が足を踏み入れてはいけない禁忌の領域に踏み込み、タブーを冒しているのではないか。

罪悪感と罰への恐怖でいっぱいになった。



そして、誰かの存在を感じた。誰だろう?

白いローブをまとったように光に包まれたその人は手を伸ばして、

わたしの額の中央に人差し指で触れる仕草をした。

わたしの恐怖は絶頂に達した。

その人はわたしの額の中央に祝福の印をつけようとしているのか、

それとも呪いの獣の印をつけようとしているのか、わからなかった。

わたしは無理やりその白い領域から身を引き剥がし、彼らから逃れた。



そのときのわたしの意識に流れ込んできたのは、つぶやきのような声。

高い波動にチャネリングしても、本人の意識波動が低いままだと、

波動の高い存在への抵抗と負の感情が生まれ、本人を逆に苦しめる…、

わたしはそんな声に耳をふさいで遁走した。



まわりを見渡すと、情報の騒がしい混雑は消えて、クリアな白い雪景色が広がっているようだった。

何かいろいろなことがあるけど、結局だからなに?どんなスピリチュアルも私と関係ない、

キレイな言葉に満ちた思考領域にとどまるだけ、結局、こういうことって、最後には、なんなの?

それらは一種の夢として、走る列車、機械になっていた私の中を通り抜けた風景(情報)にすぎなかった。


飽きた感じで情報を流してたら、だんだん最後の終着点、流れの行き着く先、という感じになり、

最後に、誰かの声が響く空間と謎の言葉に行き着いたと思う。



「現実が全て」と。

現実から逃げた寝物語の夢の行き先で、現実が全てといわれるのか・・・と思った。



そこが到達点で、他に見るべき情報はないようだった。

たぶんわたしが望んだ、「世界の事実・人間の真実・知るべきこと」は、

ほとんどわたしにダウンロードされたということなのだろう、

現実がすべて、それは実に味気ない知識ではあったけど、

それ以外にもう見るべきもの、知るべきものは残されていないようだった。



けれど、その「現実」とは、無限階層ともいうべきどれだけ膨大なエネルギーが影響しあっているものか?

わたしがエネルギー状態の透明な観察者としてここにいることで、

本人が無邪気に主体的に生きていると思っているところに、誰にも知られず

わたしが見つめ、その場を思考し感じ模索することで影響を(たぶん)及ぼしているように、

どれだけのエネルギーが、「人知れず」現実に影響しているのか?

わたしは結論の中にまだ懐疑を残していた。



そしてわたしのすべての問いと答えと静かな激情は、意識エネルギーとしてエネルギー場に呼応され、

やがて現実領域でも時間差で実体化する。



・・・・・


白い光に満ちた風景がフェードアウトして、わたしは夢の奔流から覚醒した。


そして夢が破れるように、どっと押さえつけていたいろいろな感情が溢れた。

一体これらは何なのかという混乱、これが真実だとすると、

それを知ってる世界にひとりしかいないかもしれない、

この記憶によって世界中の人間からわたしひとりが隔絶され、

記憶によって世界にひとりぼっちのマイノリティになってしまったわたし自身が陥っている孤独とさみしさと恐怖、

「目覚めていない」人間たちへの憎悪、怒り、憤激、軽蔑、憐れみ、

自分の中にどんどん溢れてくる負の感情への畏れ、わたしはパニックになった。


絶大な恐怖。ありえない記憶への。ありえない風景への。ありえない自分自身への。

わたしは恐怖に駆られてその場で自分の記憶に強制リセットをかけた。


つまり、ぜんぶ忘れた。


そしてリセットをかけた自分の記憶にわたしは保険をかけた。

身体的にも社会的にも自由、選択肢がない今の現実領域の5歳のわたしには、

この記憶を保持し続けるのは荷が重過ぎる。


いつか、この記憶をより客観的に見て、社会的に何らかの行動を自由にとれるときがくるまで、

この記憶を封印する。


わたしが社会的自由を得る(はずの)、成人する20歳のときに、

この絶大な恐怖をもたらす記憶がわたしを迎えにくるまで封印すると。


そして20歳の誕生日を経て、わたしは記憶の訪問を受け、

ほとんど恐怖の発作に襲われて、すべてを思い出した。


最後の記憶とは、記憶を封印した過去の5歳のわたしからの、

そして、人生のすべての設計図と世界の未来の行く末を見つめた魂のわたしから託された、

過去と未来からのタイムボックスであり、手紙だった。

時系列が少し違うと思う。思い起こしながら書くため少し不正確。


・・・・・・・・・



苦痛の最高潮ですべてを諦めて無抵抗に受け入れたとき、わたしは覚醒の中の眠り、

覚醒の中の夢のような、記憶に落ちた。


すると今までわたしを苦しめていた苦痛が苦痛でなくなり、

それはただわたしの中を流れていく情報に変換され始めたようだった。


今までわたしを苦しめていた苦痛が変換した情報とは、記憶だった。

夜の中にいたわたしは、もう一度、記憶の中で目を覚ました。


わたしが今、ここにいる前、どこにいたのか。

5歳のわたしが生まれてくる前、どこにいたのかの記憶。



なぜ精神異常的な幻覚幻聴の類ではなく、そう思ったのか。

それは、ただ、わたしの中に生まれてくる確信という以外ない。

5歳の今のわたしが知っているはずのない言葉であり光景であり映像である、

という判断でしかない。

わたしは記憶に身を任せ、耳を済ませた。






同時に、なるべく感情や欲望に身を任せて持っていかれないように、

記憶を思い出す(そのようなイメージの奔流を見つめている)のと同時系列で、

これらが精神異常かもしれないことも同時に考慮する批判的視点も

「機械的思考」の領域に片足を踏みとどめながら、ただ機械的に起きていることを見つめていた。

正気と狂気のバランスの狭間でわたしは危うく立っていた。




デビット・チェンバレンの『誕生を記憶する子供たち』によれば、

幼い子供ほど、母親の胎内にいたときの記憶を思い出す確立が多いという、

 http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10605593054.html

http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10605593943.html
子供たちの報告によれば、胎児はその時点で、すでに確立された自己と意識を持っている。

では『胎児以前』の自己と意識はどこにいるのか?その記憶は?合理的に考えればあるはずだった。

そしてその記憶の言及もされていた。



わたしに生じたのは、映像的イメージと言語的イメージと、

直接脳内に情報をダウンロードされているような、直感的感覚という他ない「記憶の思い出し」だった。



そこには、ふたりのわたしがいるみたいだった。

ひとりは、夜の中にうずくまっているわたし、

もうひとりは、記憶の中を、実際にそしてリアルタイムで生きているわたし。


夜の中のわたしは自分の身に起きていることに混乱し、感じたり思考したりしており、

夜のわたしが記憶を思い出すのと同時間的に、記憶の中に入り込んでそこを生きているわたし。

記憶は、思い出すと同時に、今、ここに、リアルタイムにあるものだった。


思い出しているわたしと、思い出された記憶の中を生きているわたし、そこにいるふたりのわたし。

そして、5歳のときの「そのとき」を思い出している、今ここにいる第三のわたし。



・・・



その「記憶」とはなんだったのか、わたしが落ちた「そこ」とはどこだったのか。

有体に言えば、坂本政道さんの『死後体験』に書かれていることと同じだった。


そしてここでも問題は、「坂本政道さんの『死後体験』と同じものだな」と納得しているわたしは、

5歳のときの記憶を思い出している第三のわたしではなく、

5歳のときの時点の、それらの記憶を思い出しているわたしがすでに思考していたことだった。
この記憶に落ちたとき、わたしはどこかで、

この懐かしい帰り道のようなものを行くことを予め知っていた気がした。



子供は現世的生と生前の記憶の境界が曖昧なものだ。
子供は胎児期の記憶を思い出しやすい。

そしてわたしは、わたしが生れ落ちた現世のあまりの苦痛に耐えられず、

昔に、現世に生まれてくる以前の記憶に回帰し逃げ込んだのだ、という気がした。



そして「そこ」とは、わたしがここに、現世に生まれてくる前にいたところ。

わたしは生まれてくる前、死んでいた。

わたしはここに来る前、そこにいた。

つまり、魂の領域に。

わたしは思い出していた。

一度思い出すと芋づる式に出てきた。



死んだ直後の深い闇からの目覚め、魂のクリーニング、魂の先導者、同じ魂の波動が集まる魂の領域、

生まれてからの人生の設計図を構築する、魂のブループリント製造室、

そして生まれ出る直前にすべてを忘れるための部屋。



それは、人の生前と死後を整然と支配する、ひとつのベルトコンベア的に確立されたシステムだった。

(坂本政道さんの『死後体験』と同じ。個人的にヘミシンクはお勧めしない)



そこは、とても気持ちのいい場所だった。

肉体を持たないがゆえに所有意識境界意識がなく、それゆえにすべてが開放され一体感に満ち、

事実魂・幽体とは本来ひとつのもの、光でありワンネスなのだ。

ただ生まれる前に、この場所のことを忘れるための処置を魂に受けるのだ。

そして、圧倒的に懐かしい、「魂の故郷」だった。



そこには光と愛とぬくもりと一体感と自由しかなかった。

生前は深い負の意識に囚われて自殺もした人たちも

今はすっかり解放されて自由に交流していた(魂の同じレベルのひとたちと)。

生前、自己意識を突き詰めて負に囚われた人ほど、

死後に解放される魂の世界の光と愛をより深く感じているみたいだった。



わたしのように。

わたしもまた、ここにきて初めて愛と光の温もりに凍てついた魂が解けていくような

初めて感じる安らぎの感覚を味わっていた。

でも同時に、それまで気づけなかったことに気づいて一気にダウンロードされた情報にいささか混乱して

苛立ちと不信と怒りもまた募らせていたと思う。



ただ生前、憎悪と狂気に囚われて大量殺人などをした人の魂は、

自分がどこにいるのかわからなくなる迷妄の闇の中で深く眠っていた。

まるで深い病を癒そうとするかのように。

それが迷妄という狂気に囚われた魂に課せられるペナルティだった。



そこには罪の意識はなかった。

すべてが許され、すべてが愛され、すべてがひとつだった。

ただ、すべては自分の魂がどんなベクトルを選択するかでしかないのだ。

愛か、憎悪か、闇か、光か。

そこは、なんでもありの経験のフリーランチだった。


わたしはそこで、他の魂たちと同じように、生まれては死に、死んで回帰しまた生まれ出るための

ベルトコンベアに何も考えずに乗っかっていればいいはずだった。

けれどわたしはそこで、何かに気づくと同時に、何かを知り、そして躓いた。


・・



なぜだ、と。

こんなに素晴らしい場所があるのに、わたしたちの魂は本来こんなに素晴らしいのに、

すべてを忘れることで、人は卑しくなり、現世で何度もまた同じ過ちを繰り返す。

人が輪廻するのは、同じ過ちを少しずつ克服して、ここのような地上の楽園を現世に再現するためだ。

でも人は死んで生まれて忘却してリセットするたびに何度も同じ過ちを繰り返す。

このシステムを作ったものは何なのだ、誰なのだ、

わたしの、わたしたちの魂はどこからきたのだ、何がわたしたちの魂をベルトコンベアに乗せているのだ、

現世の苦しみの意味とは何なのだ、何がわたしたちの魂を支配しているのだと。



わたしの存在の意味、人の苦しみの意味、魂はどこからきたのか、

なぜ存在は今ここにいるのか、なぜこのように存在するのか。

おそらく、神を問うように、わたしの中に激情とともに問いが溢れた。


そこには、生まれ変わりを繰り返す未熟な魂を世話する、もう生まれ変わらなくてもいいくらい

成長した高度な魂の存在のひとたちがいて、

彼らはわたしの突然の激情にふと顔を見合わせた気がした。



わたしは神に唾吐くようなことをいったのではないかと恐れたけれど、

彼らの雰囲気はどこか面白がっているようにも思えた。

そして彼らはわたしの問いに答えるためにわたしの手をとって、上へ、

どこか上部へ、わたしを連れていった、そんな気がした。



その魂の領域は、すべてがエネルギーであり、すべてがひとつであり、

すべての空間と時間軸とすべての存在が同時に存在していた。

わたしの思考や感情はその世界ですぐに実体化する。



エネルギー幽体世界のネット検索装置のように、わたしが意識をあるベクトルに向けると、

その領域の情報に瞬時にアクセスできる。

その情報はまた、すべてがひとつであるこの領域では私自身のものでもあり、

自動ダウンロードが起きるように、理解に困難を覚えない。

わたしはそこで、自分のすべての疑問に答える情報を一瞬の俯瞰で見た気がした。



すべての存在は、生命・非生命を問わず原子・粒子的エネルギーであり、

すべては、あるひとつの到達点を目指して流れる大河の一滴である。

魂の選択に良し悪しはない。

すべての魂の選択と経験は本人の望みによって決定され、祝福されている。


殺すことも殺されることも、災害も事故もどんな不幸も、

人は生まれる前に自ら、生まれてからどんな経験をするかという「魂の設計図」を描いてくる。



たとえば大きな災害などでは、その災害を経験したいと思いついた魂の周りに、

それに同意する魂が集まって、「現世で大きな災害に経験して被害にあう魂集団」が形成される。

たとえばある魂が、殺されてみたい、と思えば、殺してみたい、と思う魂が寄ってきて、

ふたりの合意で、現世での殺し、殺され関係が成立する。


確かに生前、自殺した人もどんなに苦しんだ人も殺された人も、今は幸せそうにゆったりと談笑している。

いや生前悲惨な経験をした人ほど、死んだ後の魂の休息を心から味わっている気がする。



神はいない。

あらゆるものが神(の断片)である。

すべての存在は宇宙が始まったときから始まった。

すべての始まりはすべての存在が始めた。

わたし・わたしたちがすべてであり、わたし・わたしたちがすべての始まりであり、

わたし・わたしたちが到達すべき神である。


ただ人間は現世に生まれてそれらを一度忘却することで、

わたしたちはわたしたち自身という神を自力で見つけるための隠れん坊をしているのだ。

イエスや仏陀はわたしたち自身の中にいる神を見つけ体現した、

魂を至上の高度状態にまで成長させた、つまり「悟った」人たちにすぎない。



そして魂というエネルギーはすべてひとつであり一体なのだから、

自己が他者にすること、他者が自己にすることはすべて、自己が自己にすることである。

自分が発した感情・思念的エネルギーは、愛であれ憎悪であれ、すべて自分に還ってくる。

愛であれ破壊であれ、自分が吐いた唾は自分が呑み込むしかないのだ。

なぜならそこには自分しかいないから。

生前であれ死後であれ、人はいずれ輪廻してカルマのバランスをとらねばならない、云々。



「わたしたちの中にいる神」とは?それは「愛」であり光だった。

見ると、生まれてから不幸のどん底に叩き落されて不遇の目にあってから、

再び人の愛情に恵まれて愛と光を見出すという、

シンデレラストーリー的「魂の設計図」を描いている人たちのグループがあった。



彼らはまるで『光の家族』のように光に包まれていた。

そして、彼らの魂は一段階上の階に行くようだった。

(そこではすべての時間軸と存在が並列しているので、

生まれる前と生き終わった後の魂の状態が同時並列しており同時に見ることができた)



ただそこで、「不幸にあってから愛を見出す」というストーリーにするためには、

与える側にしても受け取る側にしても、自分の魂が「愛」を信じ、求め、見出していないと作れないストーリーで、

つまりそれだけ自分の魂が「愛」という「神(魂本来の姿)」を見つけて

魂の段階を上がっていないと可能にならないシステムだった。

確かに魂を成長させるためにはよくできたシステムではあった。



でも、それは誰が決めたシステムなの?

少なくとも、今、それに疑問を抱いているわたしはこのシステムに同意していない。

それで十分なシステムなの?

これでは現世でどれだけがんばったって、より自由な魂のエネルギー状態で決定した

ことは変えられず、現世での苦労も努力も無駄でしかなく、

現世での自由意志など存在しないに等しいではないか。

魂のエネルギー世界が現世より優位な形で影響を及ぼしてもいいのか。



わたしもまたそうしながら自分の魂のブループリントを作っていた。

魂の設計図には、家族構成、対人関係、自分の性格なども自由に書き入れられてた気がする。

けれどそれを作るより疑問の方が大きく気がそぞろだった気がする。



すべての存在?では、人間だけがこのようなシステムにあるのだろうか?

人間以外の存在もまた何らかのシステムの中にある?

そもそも人間以外の存在とは?それは人間より卑小な存在か高度な存在か?

人間のこのシステムが十全であるかは、他のシステムも参考にしないとわからないのではないか?

何が人間の魂(エネルギー)とそうでないエネルギーを分けるのか?



そんな疑問が渦巻きながら、もう時間切れだった。

わたしが疑心暗鬼に囚われながら気がそぞろのままに作ったブループリントは

もっと吟味熟考し変更する機会もなくそのままにわたしは現世に来ていた。


ただ生れ落ちる直前(母の胎内の細胞に意識として宿る直前?)、

ここのことを忘れるというシステムにわたしは完全同意しない、

いざというとき(現世に耐えられなくなったとき?)保険的にここのことを思い出せるプログラムも

自分の魂の設計図に組み込んでおこう、というようなことをちらっと思った気がする。



わたしは空から落ちるように、魂の記憶の旅から再び地上の現世に目覚めた。

気がつくと、またわたしは味気ない現世の夜にいた。

あれほどの魂の幸せ、無限感、自由な解放感、一体感、溢れる光、愛。

夢だったかもしれない、記憶だったかもしれない、でも確かに心に残る温もり。



あそこにあったすべて、あの「魂の故郷」にあったすべてが、今、ここには、

「わたしの帰るお家」には、何もなかった。

「わたしが帰属する親・家族」にも、どこを探しても一切見つけられなかった。


ここはわたしの本当の故郷ではなく、わたしが本当に帰属する場所ではなく、

わたしの親はわたしの親などではなかったことをわたしは発見してしまった。

魂に親などいない。



わたしは、本当の魂の故郷を思い出してしまうことで、

ここに生まれてくる誰もが「そこ」の記憶を忘れることで現世に修行にくるのに、

わたしだけが甘えでズルをして抜け駆けをして思い出してしまったので、

わたしだけがこの現世で、誰とも分かち合えない真実の記憶、

けれど、現世では誰も知らないから現世ではうそになってしまう記憶を、

これからのわたしはずっと、この世界にたったひとりぼっちで、抱えて生きていかなければならないのだ。



わたしはこれからのわたしに待ち構えている現世での永遠に等しい絶対の孤独の一生を思ってめまいがして

絶対的な絶望に撃ちぬかれた。

こんなことなら、思い出すんじゃなかった。

誰にもいえない、誰に言っても理解されない、人に言えばうそつきになってしまう、

この世界でわたしを、世界中の誰からも隔絶する記憶などを思い出して、知ってしまうくらいなら。



それにわたしのしたことは、システムに反するタブーだったのではないか、

神にあだ名す行為だったのではないかという恐怖がどこかに巣くっていて、

この記憶を思い出したことによる隔離の苦痛はその罰なのではないかと思った。



わたしはそれまでずっと、この経験はわたしがついに狂気を発症したことの証左なのかもしれないという

機械的思考の批判的意見をつねに耳元で囁くようにして聞いていた。

でもすべての記憶が終わったとき、初めて目が覚めたように思考の武装をかなぐり捨てて、

どっと押し寄せる感情に呆然として、本当だった、あれは本当の記憶だったんだ、と思った。



それらの記憶は整然と理にかなっており、いや現世的には理を超えていたとしても、

その記憶を終えたわたしがそれ以前より特に正気を失い錯乱しているなどの変化をしていることもない、

それどころか、わたしが今まで感じたことがないような幸福と魂の安らぎを感じ、

それはわたしの中で消えない命の火のように灯っているのを感じた。



ひと時の素晴らしい夢のような時間が終わり、祭りの後のような圧倒的なさみしさが襲ってきた。

帰りたい。

あの光と愛の温もりに溢れた魂の故郷に帰りたい。

すべてがひとつで、あなたはわたし、わたしはあなた、どんな国の国境もなく

自己と他者の国境もなく、だから誰も誰かを傷つけようという意図など抱きようがなく、

誰もが互いに無限の愛を与え合って歓喜に渦巻いていた、すべてが幸福に完全に調和していた天国。



還りたい。

あの優しい魂たちにわたしを迎えにきてほしい。お願い。

わたしはそれひとつしか考えられなくなった。

死ぬ以外に帰る手段がない、あの「本当の故郷」を思い出すと、それはもう霞の向こうに遠くて手が届かず、

切なさと懐かしさで体がまっぷたつに引き裂かれそうだった。


ここはいや。

ここじゃない。

ここはわたしのいるところじゃない。

ここはわたしの居場所じゃない。

ここは全部にせもの。ぜんぶうそ。

何も知らない癖にすべてを知っていると思い上がって、

魂の忘却と魂の故郷の喪失から始まった、すべてが最初から間違った考えで

すべてを間違えた世界を作り上げ、誰もが本当は存在しない限界性・境界に囚われて、

本当は何もない所有物をかき集めて囲い込もうとして、

愛も感謝も与え合うこともなく、互いに奪い合って、傷つけあって、不幸にし合ってる人たちがいるばかり。

帰りたい。帰りたい。帰りたい。こんなところ、だいきらい。



あの魂のワンネスの素晴らしい感覚の名残はじょじょに消えていき、

あの世界とは真逆の現世がどのようなところか、今、わたしがどこにいるのかを思い出し、覚醒するにつれ、

恐怖がこみ上げてきて、わたしの魂もまたわたしが嫌う「真実を知らない」彼らのように、

現世的限界性の檻の中で縮み上がり、もしくはわたしが設計してきた通りの魂の性格が発動し、

わたしは現世のすべてに敵対の意思を持ったなけなしの牙を剥いた。



わたしはその夜、初めて泣いた。

この地上のどこにも帰れない家と、この世界中の誰とも分かち合えない故郷の記憶を思って泣いた。


・・


この記憶を思い出して、わたしに何か精神的変化はあっただろうか。

5歳児がありえないような情報を得て天才になるような。

親に賢者のような口をきき始めるとか聖人君子のような愛に満ちた人になるとか。



何もなかった。

世界で一番信用できない親にそのような話をするなど論外だった。

あれらの情報は、あくまで記憶という形の、次元を超越したエネルギー領域を「思い出す」という形で

一時的にアクセスできたもので、三次元の限界性に囚われた現世では、

わたしには5歳児の脳のキャパシティに準じた情報量と、

生まれてくる前に決めた現世の「わたし」が持っている性格の範囲内の卑小な人格しか持ち得なかった。



わたしはすでに後悔し始めていた。

わたしが生まれてくる前に決めたことを。

間違った選択をして生まれてきてしまったことを。

一度生まれてしまったら、

もう二度と取替えしようがない曲がり角を曲がってきてしまったことの過ちは訂正できない。



わたしはふと、死にたい、と思った。

自殺という悲壮な決意はなかった。

ただ、もう一度、間違えた生誕をやり直すために、生まれてくる前に帰り、戻るだけなのだ。

そのことは知っていた。その誘惑は強烈だった。



ただ、魂だけの状態だったあの超越的感覚も今は現世的卑小さに堕して色あせ、

わたしは死んだ後に親や周囲に何を言われどんな騒ぎを引き起こすかという

きわめて現世的に評価を気にする矮小な性格に囚われて実行できなかった。



わたしは確かにわたしのアイデンティティを確立するわたしが求めた記憶を見つけた。

それは生まれてくる前にわたしが魂の設計図に組み込んだ計画の一部でもあった。

それどそれは、生まれて今、ここに生きているわたしを後悔するものでしかなかった。


・・・・


次の最後の記憶は、この後に起きたことか、それとも別の日に起きたことか、いまいちはっきりしない。


わたしは圧倒的にさみしかった。

本当の故郷、「魂の故郷」から引き離されて現世の今、ここにいる、半身を引き裂かれたようなさみしさに

耐えられなかった。


もう一度あの記憶の中に戻ることはできないということは感じられた。

あれは思い出すと同時にリアルタイムに生きることであり、

すべての時間軸が存在はするけれど、二度と戻らない一瞬であり永遠だ。



でもわたしは何もない誰もいない現世の夜、ひとりで、さみしかった。

またあの魂たちのような誰かの声がほしかった。

今度は記憶ではなく、誰でもいい、わたしのさみしさを慰めてくれる誰かの声、

物語、子守唄、寝物語、なんでもいい、誰かの声が聞きたいと思った。



一度「魂の記憶」を思い出したわたしは、まだ魂のエネルギー領域につながっていて、

アクセスし易くなっている気がした。


そのころわたしは夜な夜なひとり遊びのようなものをしていた。

しんしんと夜の闇の沈黙が降り積もる中で、わたしは一心に耳を澄まして

わたしに聞こえる唯一の音、わたしを唯一抱きとめている存在、

地球の大地の底の底の音に耳を澄ます。

下腹部から黒い木の根のようなものがどこまでもするすると伸びて、

地球の中心までどこまでも伸びて、そこで紐帯のように地球とわたしが結ばれて繋がって、

わたしと地球がひとつになるイメージと感覚に包まれると、安心感で眠ることができた。


それをしながら、以前わたしを飲み込んだ記憶がせりあがってきたあの感覚を思い出しながら、

ある意識領域にダイブするように、意識に変性を生じさせてみた。

すると、それが起きた。

今度は魂の設計図にはない(と思う)完全に自力なスピリチュアル体験だった。



あの感覚がきて、頭が孫悟空の輪のようなもので締め付けられるような感じがして、

額の中央に誰かが強く何か硬いものを押し付けているような強い圧力を感じ、

尾骶骨がじんじんするような、ジェットコースターに乗っていて急激に落ちるときのような

無重力状態になって内臓が浮くような吐き気のするような気持ち悪い感覚がして、

わたしはわたしの思い付きを後悔したとき、ふとその日食べた本来は嫌いな牛肉を

母に進められて食べたことを思い出して、なぜかこの症状が牛肉のせいのように思えた。


尾てい骨に溜まっていた感覚がすごい勢いで背骨を駆け上って、

頭頂を突き破るようにしてまっすぐ天頂に飛翔していく光の鷹か鷲のようなものが

わたしの中から飛び立った。



もうひとつの記憶、たぶん未来に続く、最後の記憶の物語。