スピリチュアル系の本を読みまくって、変な記憶を思い出して(と思われる)、

「そっち」の世界に傾倒してついに頭がおかしくなったかと思われたわたしだった。



でもわたしは、宗教や胡散臭いもの嫌いの親の影響でスピリチュアル系の情報は今でも拒絶反応があった。

そういうものは大嫌いだった。

正直今でも「スピリチュアル」という言葉を使うたびに蕁麻疹が出る感じがする。



でも、わたしの中に、わたしの大嫌いで拒絶反応が起きるものの大御所みたいな記憶があるので

やむなくそれらの記憶と折り合いをつけるためにスピリチュアル系の本を読み漁っていた。

でも本当には、それらに書いてあることをわたしは信用していなかった。


「信用する」というのは、それがわたしの人生の重要事に位置づけられるということだった。

そんなことはなかった。

そんなものは重要でもなんでもなかった。

ただの退屈しのぎであり、冷やかしてあり、夢物語であり、遊びだった。



そのときもまだ映画『パッション』との掲示板のやりとりは続いてた。

でもヒーリングに関してはやはり期待できないのかもしれないと思い始めた。


やはりそんなうまい話は現実にはないのだ。

ここは地道に精神医療や心理医療のお世話になるのが現実的なのではないかと思った。

あの記憶の中でも、エネルギー云々より現実的であるほうが大事だといってたし。



一度東京に戻ったとき、これで最後にしようかと思いつつ、もう一度pcで「ヒーリング」と検索してみた。

適当に検索結果の一番上にでてきたところに予約して、遠隔電話ヒーリングを申し込んでしてみることにした。

『ヒーリングサロン風(fu)-アクアライトプロジェクト』というところだった。



不思議なHPだった。

今までのスピリチャル系のHPにある、ふわふわした「癒し系」の雰囲気がまったくなかった。

むしろそうしたものを排除している意思を感じた。

まるで普通の会社のHPのように、飾り立てることもせずカッチリとしていて無機的で、

業務的にメニューや趣旨などが書かれていた。



そこに予約を申し込んだとき、もわっとした何かの「予感」のようなものを感じたけど、

そのようないかにも「スピリチャル」的なことは嫌いなので、気のせいだろうとその感覚を振り払った。


時間になって電話口にヒーラーがでた。

やっぱり今までの癒し糸のヒーラーとは違って、どこか精力的な口調の男性だった。



わたしは今までのヒーリングでそうしてきたように、

ぼそぼそと何が苦しいのか何に困っているのかという人生相談的なものをした。

なるべく状況のバカバカしさと疚しさから意識をそらすようにして、

ヒーリングという名の、現実的人生相談なのだと自分に言い訳していた。



そこでも今までのように、もわっとした何か、感じてるのか感じてないのか、

非常に注意を払わないとわからない程度のものが起こるのだろうと気を抜いてもそもそしゃべっていた。

男性はわたしの話を片手間に聞いているような、

何か別のことに注意をとられているような生返事をしていた。



・・・・・・・・



何してるんだろう、わたしの話し聞く気ないのかな、ここも外れだったのかな、まあ別にいいけど、

一万円ドブに捨てたと思えばいいや(そのとき一時間8千円くらいだったか)、

と男性の気配に意識を凝らした瞬間、急に誰かに喉を掴まれたような感じがして、ぎょっとして身を強張らせた。



何!? と思う瞬間後にも、その感覚はどんどん強くなっていって、誰かに喉をつままれているような、

透明な指に喉を貫かれているような、それどころか、全身を誰かにマッサージでもされているような、

喉を中心に全身的に物理的な身体感覚を強烈に感じて、ほとんど恐怖を覚えた。

何が起きてる?!



起きたことをそのまま言葉にするなら、まず、わたしの喉の「弁」が開いた。

それは物理的にではなくて、誰かと話すのが怖い、誰とも話したくない、

と、わたしが今までの人生で喉のところで、声と言葉を溜め込んで押さえつけてきた

エネルギー的「弁」を、エネルギー的に対抗措置をされて開かれた、そんな気がした。



わたしが喉のところで溜め込み押さえ込んでいたエネルギーの「弁」がその人のエネルギーで開かれ、

わたしの喉に押さえ込んでいた重石がとれると、そこからすさまじいエネルギーが迸り出た。


喉に掃除機のホースを突っ込まれて、今まで喉のところで押さえつけて押し殺してきた、

声と言葉の死骸のようなものが詰まったネガティブエネルギーを思い切りバキュームされてる感じだった。

物理的に。



わたしの喉からものすごい勢いで掃除機の排気の風のようなものが迸り出たとき、

そのエネルギー排気物が空間軸を越えて電話口の人にもかかった気がした。

電話口の人が激しく咳き込んだ。「す、すごい…」といっていた。

その人が手馴れた業務的手順でこうしたことをやってきたのが感じられた。



その人がわたしの喉に溜め込まれたゴミ(ネガティブエネルギー)をすべて吸い取ると、

あ、吸い取りきられる、終わる、とわたしが思ったところで、電話口のヒーラーも

「ふん!」と気合の入った声をかけて、喉に詰まったエネルギーが全部吸いきられた感じがして、

その人は自分が何をしているか、確信的にわかってやっているのがわかった。



その人は、わたしの喉へのアプローチは終わったと判断したようで、

わたしは遠隔操作のロボットにあちこち全身を点検されているかのように、

ほとんど物理的にそのひとの遠視的エネルギーがわたしの全身を

エネルギー的に精査しているのを感じた。



・・・・・・


わたしと電話口のひとは、もうそのときには一切言葉を交わしていなかった。

電話口の人は、今はもう自分のしていることに集中しきって、

大きく息を吐いたり吸ったり、気合を入れる声を上げたり咳を激しくしているだけだった。


私は呆然として言葉もなくわけもわからず、自分の身に実際に起きていることを

息を呑んで見守っているしかなかった。

ただ、これが、ヒーラー、とだけ思っていた。



ふと、電話口のそのひとの姿が見えた気がした。

普通の会議室か事務室のような、ごく普通の会社の一室のような白い部屋で、

白衣を着たその人が、机の上にぶら下げられた白い石のようなものに手を伸ばして、

それがわたしのエネルギー的情報を取るのに必要だからと触っているイメージ。



でもそれを神頼み的な、自分がそれに使われるグッズ視している意識はなく、

ただ淡々と業務上それが必要だからそれを使っているという意識のようだった。

電話口の人は、そんなことを、エネルギーをほとんど物理領域と同じように

コントロールして当たり前のようにやっている。

これが、ほんとうの、「ヒーリング」、これが、ほんものの、「ヒーラー」、わたしは、呆然と、思った。



小一時間その人はずっと咳き込んでいて、それはわたしの黒いエネルギー、

心の中の闇や影の部分に触れる度にその人は咳き込み、

その人が咳き込んで吐き出すたびに、わたしのなかの黒いエネルギーが抜けていく感じがした。

つまりその人は、わたしの『心』に直接アクセスして、

わたしの「心の闇」をほとんど物理的に「掃除」しているのだ。



わたしはスティーブン・キングの『グリーンマイル』の登場人物、

キングがその作品内で書いたヒーラー、「ジョン・コーフィ」を思い出した。

わたしはその作品を読んで感動したけれど、まさか自分の身にリアル・ジョン・コーフィ、

リアル・グリーンマイルが訪れるとは思わなかったし、感動どころではなかった。

茫然自失だった。



すると今度は、下腹部をかき混ぜられるような感じがして、わたしはまた身をこわばらせた。

下腹部に石を沈められたかのような強い圧力を感じる。

そしてその石からわたしの体の中心を貫く一本の木を足の爪の先から頭頂までするすると伸ばされた気がした。



するとそのわたしの体の中心を貫いた一本の木は、水を通すために中が空洞になった木のように、

その木を電極のような媒体にして、すさまじい光と極彩色のエネルギーが

天上からわたしの中に降ってきて怒涛のように流れ込んだ。



ほとんど音が聞こえるくらい私の中で宇宙の誕生のように万華鏡のような光が弾けて、

細胞のひとつひとつから、影、闇、否定的なもの、

ネガティブエネルギーというものがことごとく吹き飛ばされ、そこに光が取って代わった。

細胞のひとつひとつから掃除機でネガティブなエネルギーを物理的に吸引され、

そこに、細胞のひとつひとつに、注射器で光を、ポジティブな意識を注入される。



わたしの中の、憎悪、悪意、殺意、嫌悪、否定、嫌だ、キライ、ダメ、

そんな意識と感情と思考が、ほとんど物理的に手づかみでわしづかみにされ引きずりだされ、

ポイポイとどこかに、宇宙の果てに、捨てられ、吸い出されてていく。

それらの意識・感情・思考が、物理的に、どんどん消えていく、軽くなっていく。



すると、氷漬けにされていたように身も魂も冷たく凍え、死体のように無感覚になっていた身体が

熱いお湯に漬けられるようにして溶け出し、「感覚」が戻ってきた。



後でHPを見てわかったことだけど、喉のチャクラはコミュニケーション能力と対応しており、

その人は、コミュニケーションに難のあるわたしの喉のチャクラを重点的にヒーリングしてくれたらしかった。

また、下腹部に感じた圧力は「丹田」のチャクラで、

その人は私の全身的なチャクラを浄化・活性化・ヒーリングしてくれたらしかった。

と、頭ではわかっても、まさかそんな漫画みたいな話が自分の身に起きるとは、

まだそれが現実だと信じきれていない自分がいた。



・・・・・・・


意識、感情、思考、というのはアイデンティティではないのか? それは人格の一部ではないのか?

意識感情思考が他人に好き勝手に書き換えられるというのはどういうことなのだ?



意識、思考、感情、それは人の人格を構成するものではないのか、

人の人格というものは一定のものではなく、これほど簡単に、ほとんど物理的に、

しかも自分の努力なしに、他者の手によって、書き換えられるものなのか?

それでいいのか? それは洗脳とは違うものなのか?

わたしは激しく混乱した。



でも、今までの人生で一度も感じたことのない、

活力、安らぎ、心の弾み、わくわく、楽しさ、幸福感がまるで物理的な注射によるカンフル剤のようにどうどうと、

どこからか、宇宙のずっと上のようなところから、無限のようにわたしに注ぎ続けられていることは、

今、わたしが身を持って感じている事実でしかない。



わたしはただ、電話しているだけ、受話器を持っているだけなのに、

今までの、他人と自分と世界の死と破滅しか願ったことのない死神みたいなわたしから、

わたしは何もしてないのに、どんどん幸せ人間に上書きされていっていた。



それは、電話口の人の努力に対して申し訳なく、失礼なことだけど、

自分で自分が気持ち悪くなるような変化だった。


わたしは何もしてないのに、まるで、麻薬でもやったかのように、

ただそこにいるだけで、どんどん「幸せ」に「気持ちよく」なっていき、

ラリったかのように光と幸福に包まれて、ほとんどモノも考えられなくなっている

自分を自分で気持ち悪く思ってしまった。



・・・・・・・


だって、わたしはさっきまで、死にたい、みんな死んじゃえ、世界もみんなも自分も大嫌い、

という死神みたいな生きる屍みたいな心を持たないモノだったのに、

電話しただけで、受話器を持っただけで、一時間も経っていないのに、

生きるすべてが心地よく、肌に触れ目に触れるすべてが気持ちいい、

生きることが最高の、今まで見たこともないハッピー人間になっている「わたし」がいる。



なにこれ? これだれ? わたし? わたしって、だれ?こんなことが許されていいの?

という謎の思考も浮かんだ。



だって、わたしは今まで、どれだけのひとを傷つけ苦しめてきたか。

わたしは今までの人生をずっと、他人を苦しめ傷つける死神として、自分で自分の死を願う死神として、

世界を壊したい死神として、今さっきまでそこにそうしていたのに、

たった数分で、他人にしてもらって、勝手に、こんなに、幸せになってていいの?

なんだか、なぜだか、そんなふうに思った。



わたしだけが、わたしが、こんなに簡単に、こんなに幸せになっていいの?

いいはずがない。怖い。わたしは報いを受けなければならない存在なのだ……

恐らく、深層意識で、そう思って、この変化を突っぱねたいわたしが急激に頭をもたげてきた。



この変化は怖い。幸せは怖い。わたしは、幸せになっていいはずがない。

こんなの、わたしじゃない。わたしはちがう……

「報復」の恐れ。


親は、わたしが幸せになることなんか決して許さないだろう。

親は、私が幸せになることなど決して望んでいないだろう。

親を散々苦しめ、親の全人生に泥を塗り、不幸のどん底に叩き落した、悪魔か死神のようなわたしが、

親を差し置いて、わたしだけ、抜け駆けして、幸せになるなんて、決して認めないだろう。

わたしが不幸であることが、親の望みであり、わたしの親孝行なのだ……



ものすごい宇宙的光の幸福に包まれて陶然としながら、

そんな極めて個人的な地上的現世的考えに未だに縛られてた。

それはわたしの中の、「どんな感情の干渉も受けない機械的思考の空白領域」だと思う。

ものすごいことが身に起きているのに、それはネガティブな感情の干渉をはねつけるのと同じ機能を

ポジティブな感情からの干渉に対しても同じように機能させてしまっていたのだと思う。



ほとんど思考もできないほど幸福感でラリっていたわたしだけど、

やっぱりそこでもどこかで冷静な思考領域を持ちたがっている、

そうした卑小な個人的領域をしぶとく執念深く捨てられず、隠し持っているわたしがいた。



最後に宇宙が頭上に落ちてきたかのような光と万華鏡のような極彩色の幸福感が降り注いだ。

とんでもないことだった。とんでもないことが起きていた。

わたしは怒涛の光の感覚にそれでも抗い、機械的思考にしがみついて冷静さを保とうとしたけど、

最後には思考の最後の一欠片さえ宇宙の彼方に吹き飛ばされてしまった。



電話口の人が最後に気合の入った声をかけて、一時間のヒーリングが終わった。

その宇宙をも自在に動かしたかのような人は最後に、

「なんか咳しちゃってすみませんね(笑)」とごく普通の世間話で締めてわたしをさらに呆然とさせた。

「いえ」、とやっと一言だけいうと、わたしはその瞬間にすでに生じた180度の自分の変化に気がついた。



・・・・・・・・・



今まで、カウンセリングなどで話をするとき、

ひきこもってから数年は誰とも話さないのが当たり前だったので、喉に声が詰まる。

そしてどんどん声が掠れ、ささやき声のようになり、ついに声は出なくなって、わたしは黙り込んでしまう。



いつも誰かに喉を締められているように、喉に異物、石が詰め込まれているように感じていたのが、

それが完全に取れて、わたしは始めて、自分の喉から自分の声が自然に出てくる体験をした。

そして喉が締め付けられる感じがなくなって、初めて呼吸器をはずされた人のように

初めてこんなに楽に呼吸ができるのを感じた。



わたしが私だと思っていた「死神」のわたしが憑依を解いたようにどこかへ消えてしまい、

そこにいるのは、何もしなくても、ただそこに存在してるだけなのに、

ただただ幸せでどうしようもないと感じている、今までの「わたし」が見たことのない「わたし」だった。

わたしは幸せでありながら、混乱し、畏れた。



あとその人は、わたしの喉のネガティブエネルギーをどう処置した、

ネガティブエネルギーを排除してポジティブエネルギーを充填した、

「たんでん」と「せんたりんぐ」を作ったという聞きなれない単語の出てくる話しを

まるで普通の医者のように業務的に淡々としててさらにわたしを呆然とさせた気がするけど、

宇宙と正面衝突したかのような、あまりの出来事に脳がほとんど追いつかず、ほとんど記憶していない。



ただ、わたしが引き篭もりであるとかなんとか、

そんな、今では目の前に現れた宇宙の前では些細なことすぎて場違いに感じられることを口にしたとき、

その人は、「またここにくれば助けてあげるから」、といった。

わたしは最初から最後まで、茫然自失としながら電話を置いた。


心身は麻薬の海に溺れたように無条件に幸福と高揚感に溢れていた。

あの死神みたいな感じは剥ぎ取られ、心を直接手でわしづかみにされ、

精神と心に物理的に掃除機でバキュームをかけられ徹底的に清掃され、物理的に人格を一変された気がした。



私はその人の言った、「たすけてあげるから」という言葉を思い出した。

たすかる、たすかる? わたしが、たすかる? たすかるとは、なんだろう?

わたしはそのとき、引き篭もって7年近く経っていた。

他人や親や自分を殺そうとした。

たくさん人を傷つけ、人に傷つけられ、自分を傷つけた。

わたしがいるのは地獄で、死神のわたしがそこにいるのは当たり前だった。

地獄にいるのが当たり前になった、そこにいるのに慣れたわたしが、

たすかって、すくわれて、どこにいくというのだろう? どこにいけるのだろう?



わたしはそのときとても幸せに包まれていたけど、過去の私以外の「わたし」には、

なんのイメージもわかなかった。

なんだかそれが怖かった。



・・・・・・・・・



ひきこもりという、自分で自分を閉じ込める病、それは、助かる病とは思えなかった。

日本社会にはひきこもりもニートも不登校もたくさんいる。

それはきっと日本社会の病理であり、日本社会を反映した家族環境が原因なのだろう。


わたしは精神分析の学術の理論通りにそう思っていた。

そう思うしかなかった。



わたしは日本社会の病理に蝕まれた何百万人のうちの一人でしかないのだ。

日本社会が病気でもそのシステムで回っている以上変化は起きず、

わたしもきっと一生このままなのだろうと思っていた。



そして今、ここで、わたしは、学術とか理論とか分析など一顧だにしないだろう、

現世的理論には追いつかない領域の、誰にも言えない記憶を思い出し、

そしてたぶん、現世世界の「学術、理論、分析」領域には

決してその存在を認められないだろう手法で、

今までの7年をかけて、どこにも、誰にも救えなかった

わたしの心が初めて掬われ、「たすかる」可能性を見出した。



今にも通りに躍り出て人を殺傷したい願望に駆られていたわたしが、

その一時間で、今まで心底大嫌いだった子供を、この世のなにより愛しいと感じていた。

子供の性格とか外見的特長ではなくて、子供の「エネルギー」がものすごく心地よかったのだ。

外に出ると、草木の声と言葉を聞き分けることができた。

空気中に偏在している宇宙エネルギーを感じることができた。

今まで機械的義務的に食べていた食べ物の味が初めて『味覚』としてわたしに感じられた。



今まで氷漬けのように冷たく凍っていた、時間の死体のように横たわっていた世界が、

一気に熱湯をかけられて溶け出し、時間が進み始めたような感じがした。

止まっていたのは世界ではなく、ただ、わたしひとりだったのだ。

わたしの心。

世界はただ、わたしの心が映し出された鏡でしかなかったのだ。




後でHPで調べてわかった、あのときヒーラーがわたしの中に作ったといった、

「丹田」と「センタリング」を意識して強化すると、

そのセンタリングが光とポジティブエネルギーの背骨のように機能して、

わたしの中に溜まったネガティブエネルギーが、掃除機で吸い取られていくように、

物理的な空気の抜け感としてわたしの中から出て行くのを感じた。



意識を凝らすとわたしの中に宇宙が渦巻いて極彩色の曼荼羅が生じ、私はその中に浮かんでいた。

今までの淀んだ脳が買い換えられたように、今までなかった信じられないスピードとクリアさで回っていた。

思考が追いつかないレベルで様々な悟りの瞬間が次々に起きているような感じがした。



本を読むと、今まですべてが私の知らない外国語で書かれていたような言葉を

私は始めて「読む」ことができた。


まるで世界と私が和解したように、私はそこに書かれている言葉を初めて理解することができた。

生まれついての心の喪失による心の文盲者、心の盲目者が、

生まれて初めて言葉を読み、生まれて初めてその目に光を見るような感じだった。



人の心の動きや思考の動きに合わせて脈動する言葉に

私もこころのリズムを合わせることができる、そんな感じだった。


それはまだ弱弱しいものだったけど、私は初めて私の中に人の心の動きを理解する、

他の人と同じ「人の心」が生まれ始めていると思った。

ものすごい混乱と畏怖と恐れと疑問と感動と感謝だった。



宇宙に抱擁されているかのような圧倒的な感覚の前に、思考など何の役にも立たなかった。

それ(思考)がどれだけ、魂の本来の姿、

全的に『感じる』ことからの逃避であるかがわかっただけだった。

私は泣いた。



・・・



跡でHPを見ると、電話口でヒーリングされているときに感じた通り、その男性がしてたことは、

ヒーリング手法や意識がすでにかっちりと確立された手順だったことを知った。



またそのヒーリングサロンを創設したヒーラーの人のコラムを読むと、HPを見て感じたとおり、

このヒーリングサロンは、ヒーリングをごく普通の「仕事」のひとつとして社会に位置づけようとしていた。



宇宙をも、人の『心の闇』をも物理的に動かす奇跡のようなヒーリングを、

定義が曖昧な『スピリチュアル」にするのではなく、事務、業務、実務、

社会の中の「普通の仕事」のひとつに位置づける、ただの『ヒーリング会社』として。



そこには、この数年で私に怒涛のように訪れた、「もうひとつの世界」についての、

すべての疑問への答えが書かれていた。

『現実がすべて』と。



その「ヒーリング会社」を作り上げた人というのが、各国の要人や富豪やアーティストに数千万円も積まれて

依頼を受けているという超ど級のヒーラーという人で、

何も知らずにHP見ただけでは眉唾つけそうな話しだったけど、

そこの「実力」を身をもって知った今では、ただ納得するしかなかった

(最近では外国の富豪に一億円積まれたとか)



現代に蘇ったキリスト?仏陀? 実感ではひょっとしたらそれさえ凌駕する?

歴史上のどんな思想も、哲学も、宗教も、業績も、超越している世界ということだけはわかった。



あまりにスケールが大きくて、ただただポカンとするしかなかった。

その数年で起きたことが、世界を裏返すかのようにあまりにも急転直下で、

もうどこまでが夢で、どこまでが現実なのか、わからなかった。


・・・・



ここに関わった一年後に、7年間どこに誰に助けと救いを求めてもできなかったこと、

外に出て社会復帰をした(今も途上だけど)。



助けと救いを求め続けた人生の果てに、これもある種、叶えられた祈りということになるのだろうか。

でもそれはある種、わたしにとっては、そこから始まる、過酷な叶えられた祈りだったかもしれない。



今でも様々な問題に付きまとわれているように、

それで奇跡と魔法が解いたわたしの(悪)夢物語の美しいフィナーレ、めでたしめでたし、終わりではなかった。



宇宙が頭上に落ちてくるような、生まれて初めての奇跡と魔法をこの身に受ける恩恵を受けながら、

なぜあんなことになったのか、わからない。

でもきっと、私はわかっているのだし、わかっていなければならないのだと思う。

それは私の責任なのだと思う。



今まで作り上げて機能させてきた「うそのキャラクター人格」、仮面を脱ぎ捨て殻を捨て、

自己表現すること、本心に近い思考や心情を言葉にして伝えることへの恐れは未だに拭いがたく、

それは、取り返しのつかない失敗を生んだ。



どれだけ宇宙が広大で、無限の光に満ちていてもどうしても抜け出せない足枷のように、

わたしがわたしであることの、一個の卑小さに囚われていることの、自分自身への敗北ともいえる、失敗。



この取り返しのつかない失敗をすると予感していたから、外に出るのをやめて引きこもっていたというように。
実際、それ以降も、外に出さえしなければよかった、外に出るんじゃなかった、と思うような、
私が病的にひきこもることで、かろうじて回避していた

「破滅的・破壊的予感」が現実化したようなことに、次々ぶち当たった。


パンドラの箱の封印のように厳重に閉じ込めていた心が、

ヒーリングによってものすごい勢いで開かれたことで、パンドラの箱に閉じ込めて今まで直視すること、

外に出して現実化してしまうことをかろうじて避けていた様々な問題が
ダムの決壊のように噴出して現実化してしまったことも事実だった。


ヒーリングを受けることの副作用、自分の心の負の側面が露出して精神的に不安定になったり、
現実的問題として負が実体化することもあると後で知ったけど、当初はそのことへの言及やケアや助言もなく、
突然放り込まれた混乱の只中に放置された感じで、正直初期の「会社」の対応としては不親切だったと思う。

・・・・・



今でもまだ正直、この道を進んでいいのか迷っている。

副作用と利、どちらが私に大きく作用するのか、

私がどちらに踏みとどまるか、賭けのようでわからなくて怖い。
私の中には、一生外に出してはいけないと、あるとき、時間の氷漬けにするようにして閉じ込めた、
永遠に封印して閉じ込めきって、無力に消滅を願うしかない、自分でも恐い怪物、闇が、心の中にいるから。



人の思念、心、感情、思い、無意識の願望、意識・無意識は、

エネルギー領域で即物的に作用し、実体化し、現実化する。

それはエネルギー世界の基本的知識。
ただ私の中に押しとどめていたそれが、エネルギーで力任せに

心の枷を外れて無防備に外に出てしまうことが恐い



エネルギーヒーリングというのは、大雑把にダイレクトな形で

ポジティブとマイナスに作用するものではあるけれど、
人間はやはり、より緻密に学術的な精神・心理メカニズムに沿って機能し、
その厳密なメカニズム・回路にまでは緻密に作用しきれないのではないかという疑問がある。



エネルギー世界があること、エネルギーヒーリングがあること、それは当然の前提として、

でも、それですべてではなく、それはただ賛辞すべきもの、ただアメイジングなだけのものではなく、

それが、厳密な回路とメカニズムを持つと思われる、人の心と精神性への応用性、

それがこのすべてでいいのか、という迷いがある。



ヒーリングで排除する「ネガティブエネルギー」とは、心に巣食った根源的な「問題」ではなく、むしろ、
その問題が外に出て、コントロール下を離れて勝手に跋扈しないように押しとどめていた、
ある危機に際した心がそのときかろうじて対処療法した、防衛機制、

リミッターでもあったりするのではないかと思う。


それをネガティブエネルギーと判断して、力まかせに排除してしまうと、
押し込めていた本当の「問題」が防衛機制を解かれて、ただ暴れ出してしまうこともあるのではないか。
それをどこで判断するのか。



パンドラの箱のように、閉じ込められた私の、開かれた心から現れた、破壊と、あるかもしれない希望。
破滅と希望のどちらに至るせよ、いずれにしても、私の砂時計の時間は、進み始めてしまった。
蓋を開かれる度に自分の心から現れる、破壊欲動と希望、

激しさを増す闇と光の心の葛藤の闘いに引き裂かれながら、迷っている。



宇宙と顔をつき合わせているかのような素晴らしい可能性の世界が目の前に開かれているというのに、

未だに私は一個の私という卑小な精神性に閉じ込められているのだ。

私は何でこんなに小さいのだろう。何でこんなに情けないのだろう?


・・・・・・・・・・



賛否・疑問・疑惑・解釈、様々にあるのは当然だと思うけど、

私はただ、起きたことを正確に言葉にする努力をした。

私はただ、正確でありたかった。



私は事実に正確に殉じようとはしたけれど、私自身は正確かはわからない。

だから誰も、わたしを信用する必要はない。自由。


で、この「一般社会性・常識外れ」という、私が最も恐れる類の、最後まで隠し通したかった、

最後の記憶と最後の秘密の告白をしたのは、世界が変わってきているのを感じたから。



預言者ぶるつもりはないけど、そんなスピリチュアルな役回りは大嫌いだけど、

もう、今までの世界の「智識」では、世界がもたなくなってきているのを感じたから。


世界が根底から覆りつつある。恐れ。焦り。贖罪意識。切迫感。警告。

よくわからない。ただ、魂の奥深くから急き立てられる。伝えなければと。



アセンション?か知らないけど。シフトする時が来たのだと思う。

『ほんとうの世界』 『ほんとうの自己』 『ほんとうの魂』の正確な知識を知り、

「これから」変わりゆく世界を、過たず歩んでいくために。


・・・・・・



ちなみに過去に受けたヒーリングの感想。


『エンジェル・セッション』時のもの(天使のエネルギーと繋がるヒーリング)

http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-11010707062.html

『クジラ・セッション時』(ハワイのクジラのエネルギーと繋がるヒーリング)
http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10678268241.html



『スピリチュアル・ヒーリング』時のもの。

(この会社のスタッフで一番才能のあるサイキッカー『和泉モモ』先生に

過去生のリーディングとヒーリングをしてもらったときのもの。

厳密にいえば、この20分の経験が直接体験となって、ひきこもりから出た。)

http://ameblo.jp/httpamebloo/entry-10752179612.html



和泉モモ先生の詳細情報~http://www.j-h-v.com/menu/izumi-more.html


背景~http://www.j-h-v.com/momo-haikei.html


私はずっと、この『ヒーリング会社』を初めて知ってから、デジャヴのように、
ここに満ちるエネルギーの感覚、物理的に定義しえないエネルギー世界を合理的に扱おうというコンセプトに、
どこかで知っている、一度逢ったことがある、というもどかしい感じにつきまとわれていたけれど、
和泉モモ先生によれば、魂の段階のときに、現世で出逢おうと決めてきた、
生まれる前からの、時空間を超えた、魂の『約束』をしていたからなのだという。


『約束~出逢いは時空を超えて~』



いちおう、胡散臭さを払拭するために、世界から認められた推薦文。
パリ・オペラ座エトワール デルフィーヌ・ムッサン

http://www.j-h-v.com/reco-ex/200709.html )
(パリオペラ座のダンサーが、ヒーリングによる公演成功に感謝の意を表して、

メビウス(そこの現会社名)に寄贈した、エトワールが実際にオペラ座の舞台を踏んだ

トゥシューズを私も実際に拝見しました。)



ちなみに、現そこのヒーリングhttp://www.mebius-inc.jp/