最後の記憶はもっと混沌している。
・・・・・
ある意識領域にダイブすると、そこもわたしの意識が幽体となって進入した幽体レベルの世界のように、
エネルギーのネット世界のように、わたしの意識が向けるベクトルの世界の情報に
そのままアクセスできるようだった。
そこに入ると、わたしが望んだように、大勢の人がいる大広間のようにわっと大勢の声が聞こえ始めた。
情報の奔流がわたしの中を貫いていくような感じ。
『鋼の錬金術師』でエドワード・エルリックが「真実の扉」を開けてしまうシーンに似ている。
膨大な情報の奔流に自我が引き裂かれそうに感じ、
わたしは感覚から切り離された機械的思考領域にしがみついた。
そこでもわたしは、自分の狂気を疑う思考領域を保ちながら進んだ。
そこは、輪廻する人の魂のシステムの根幹をざっと見たわたしの、
より細部の疑問に応える応用編みたいな感じだった。
神とは何か?人間とは何か?人間以外の存在とは何か?悪とはなにか?
ただ、生まれてくる前の記憶を利用して魂のワンネスを経験し、
光に満ちたいわゆる「波動が高まる」経験をしたとはいえ、
『その記憶を終えたわたしが、それ以前より特に正気を失い錯乱しているなどの変化をしていることもない』
と書いたように、その体験は別にヒーリング体験になったわけでもなく、
その体験をする前にわたしが陥っていた、地獄の業火に焼かれるような
世界中の負のエネルギーを集積したような精神状態であることは変わらなかった。
なので、意識エネルギーが自動的に検索され世界に反映される幽体エネルギー世界にその精神状態で行くと
さまざまな魂の波動領域の情報に自動的にアクセスしてしまい、
それは決してすべてが事実・真実なわけではなく、
ただ自分の意識が「これが真実だ」と思った瞬間に、その情報領域に囚われるだけなのだ
ということをわたしはなぜか魂の領域で知っていたので、そのことの注意しながら情報にあたっていった。
その情報が正しいか間違っているかは、主観的な体感で判断するしかなかった。
「すべてがひとつ」であるその場では、すべての情報も私自身であるので、
何が間違っているか正しいかも、自分の感覚を精査することで判断しうると考えた。
魂の記憶を思い出しているときからそうだったけど、このときの経験でも起きていた特徴的なことがあった。
わたしが成長してから読んだ、すべてのスピリチュアル関係の本に載っている情報が
意識で検索されたようにでてくるのだ。
そこは、意識で自由にアクセスし情報をとることのできる、魂のネット空間のようなものだったけど、
本人の意識レベルに応じて検索の質も変わるので、出てくる情報もまちまちで違う。
わたしは情報の奔流を求めながらもそれらに囚われず、
常に機械的思考で情報の奔流の中を前へ前へ、
できるだけブレずに絶対的な真実を目指して真っ直ぐに意思を研ぎ澄ました。
神とは何か?人間とは何か?世界とはどのようなものか?
そして、わたしはどう生きればいいのか?
そこは、すべての時間軸と空間軸が並列しているエネルギー領域で、
「スピリチュアルの本を読んでいる未来のわたし」と、
そのスピリチュアル本の情報が持つスピリチュアルエネルギーに
5歳のその時点でチャネリングして情報をとり感応し、
その本が書かれるエネルギー場に観察者として干渉しているような感じだった。
例えば、バシャールの本を読んでいる未来のわたしにチャネリングするように、
5歳の時点でバシャールの言葉を見、聞き、
同時にその言葉が生まれているエネルギー場も幽体エネルギー同様、
時間軸空間軸を超えたものとして体感(参加)しているとき、
これってただ未来の自分が読んだ本にチャネリングしてるだけじゃない?と5歳のわたしが思うと、
すかさず、「今この講演を、多くの人がチャネリングして聞いています」というバシャールの言葉が
私に意識の中の本の言葉に現れた。
5歳のわたしは、意識エネルギーのみの状態になりながら、そういうものかなぁと思っているようだった。
後になってバシャールのその本の中にこの言葉を見つけたけど、そのときの年代が、
ちょうど私が5歳のときのことだった。
意識エネルギーのみになったわたしは、未来のわたしが読んでいるそれらの本にチャネリングすると同時に、
その本の言葉が生まれる只中のスピリチュアルな場に、同時参加しているようだった。
意識エネルギーとしてそこにいて、彼らのエネルギー場に関わることは、ただ受身に情報をとるだけではなく、
リアルタイムに積極的に、流動的な情報の場に観察者として参加していることでもあった。
すべての時間軸と空間軸が並列したエネルギー場にいて、
志向し望んだことが即座に実体化し反映されるエネルギー者としての観察者として、
わたしはそこにいるようだった。
神について知りたい、と強く思えば、わたしの意識レベルで検索し模索しうる限りの
「神」についての概念が現実に実体化反映され、物語化され、現実が動かされ、
ニール・ドナルド・ウオルシュが「神」とチャネリングを始めて「神との対話」という本を書き、
それを読む未来のわたしにチャネリングして5歳のわたしもその情報を字面的にも
エネルギー的にも読み取るというような感じ。
本と言葉だけではなく、世界と世界を作ってきた人間を知るために、
実際の彼らの生そのものにアクセスしていたような。
不可解な人間として人間と生きる恐怖を克服するために、
人間を知るために人間として生きる実験シミュレーションのように、
様々な人生のタイプ、様々な人格のタイプ、人の人生に姿の見えない透明な第三者の観察者として憑依し、
一瞬で膨大な人生を疑似体験的に知り、それらの人々が生み出した様々な書物、概念、思想、
哲学、業績、業務、作品創作物を通して、世界を知っていくような感じ
実際の人間の人生に憑依するように疑似体験的に観察するとともに、
より激しく破壊的なわたしの感情を投影したい人生と人格の創造には
それを創作物と創作物を作る人物にエネルギーを投影してた気がする。
わたしは、現実の人間、世界をエネルギー場から観察し、
「このような場合はどうなるのだろうか」と思考し模索することで人の生を操作的に動かしていた
人形遣いみたいなものだったのだろうか。
より理想的な人間と世界を見出すための、人の生を使った実験シミュレーションの破壊と創造を繰り返す模索。
わたしは自分のしていることに疑いを持った。
彼ら人間が無邪気に生きているときに、わたしはエネルギー場からの、
イデアの影からの陰湿な観察者として、自分の意思で彼らに好き勝手に影響を及ぼしているように思われた。
れでは彼らの、人間の、わたしの自由意志は、どこまでが自由意思といえるのか。
わたしの人生もわたしの意志でしていると思っていたものが、実はイデアの影から
誰かが影響を及ぼしているものではないとどうしていえるのか。
殺人衝動に駆られていた16歳のとき、それをできないわたしのかわりに、
誰かがわたしのやりたかったことをやるのを見て溜飲をさげたいと思っていたときに、
サカキバラ事件が起きたように、自分の意思でしたと思っていたものが、
誰かの強い意志に引きずられたものだとしたら、自由意志とはどうなるのか。
・・
けれど、膨大な実際の人間の人生のタイプ、人格のタイプを見つめ同時に憑依しながら、
世界の歴史の推移と人間思想の推移を車窓の窓から眺めるように見つめながら、
どこまで幻覚で夢で、どこまでが本当なのかわからなかった。
5歳のわたしが自分が見聞きしているものの真偽を疑っているように、
5歳のわたしを思い出しているわたしも、自分の記憶の真偽を疑っていた。
これこそ過誤記憶ではないのか。
わたしが見聞きしているものが、5歳のわたしには夢か現実かわからない、
その記憶を見ている今のわたしの精神異常か過誤記憶かほんとうかわからない。
5歳のわたしはそこで、マーキングみたいに、姿の見えない第三者として
わたしがそこにいたことを示す「証拠残し」をしたみたいだった。
「それ」がわたしが知っている「それ」なら…
こうした普通の人にはたぶん決して理解できない異常な体験をしながらも、
わたしは自分の狂気におののくことも、自分が特別な体験をしているという高揚も一切持たなかった。
ただ何の感覚もなく、車窓の窓から風景を眺めるように、目の前に流れていくモノを
機械的に見つめていただけだった。
それにそれらが事実か幻覚かもある意味どうでもいいことだった。
それは、夜にひとりぼっちのわたしを慰めてくれる、ただの寝物語にすぎなかった。
退屈しのぎにちょうどいいお話しでしかなかった。
そこでは、マリアやイエスや異星人や地球にチャネリングしている人たちがいて、
わたしは彼らの言葉とその言葉が生まれるエネルギー場にチャネリングしてつながってある意味楽しんでいた。
私利私欲に満ちた現世の人間たちが嫌いなわたしにとって、
宗教心を持って自分より大きな存在に敬虔な気持ちを持っている彼らの存在にシンパシーを感じたことで
意識の自動アクセスが起きやすかったのだと思う。
ただ彼らが揃っていう、地球が人間の横暴に怒って今後天変地異が増えて人間に危機が訪れるので、
より敬虔になり祈りを欠かさずにいましょう、という呼びかけや
チャネリングによる予知予言の類(いわゆるアセンション)はテンプレみたいなものなので基本無視していた。
ただその中で唯一、地球と人類の未来にチャネリングしているという人の
本の言葉とその言葉が生まれたチャネリングのエネルギー場にアクセスしたときは、
なぜかそれだけは真実味を感じた。
それはよくないことであり、わたしを心底から絶望させたにも関わらず。
わたしは5歳のわたしが、世界の終わりのようになぜか異常に絶望し、諦念していたことを知っていた。
5歳の時点で、世界の終わりだの、人類の滅亡だの、その責任の所在だのを考えて、
それがすでに決定されたことのように思い、絶望、諦念、自暴自棄、無力、怒り、
深刻な欝状態になっていたことを知っていた。
でもそれがなぜなのかはわからなかった。
その原因の記憶を今、始めて思い出した。
このとき初めて、これらの風景、光景が実際の記憶であり、わたしの精神状態、人生に
影響を及ぼしていたのかもしれないと思った。
わたしは5歳のときに実際に世界の終わりを間接的に見ていたのだ。
すべてが砂のように崩れ、砂漠の中に足跡も残さず消えていく世界の消滅を。
(『地球少女アルジュナ』みたいな。)
わたしがチャネった(チャネリングした)これらの光景を見ていたひとたちは、
わたしのように、すべての時間軸空間軸が並列しているエネルギー場で、
意識によるネット検索のようなことを行っているひとたちで、
わたしたちはそのエネルギー場のネット検索場で似たようなことをしているもの同士として
かち合ったという感じだった。
ややこしいけど、ある検索者(チャネラー)が未来の地球やそこにいる人間の意識に入り込んで
チャネリングしてそれを体験したり本に書いたりしている(それらが同時並列に存在している)エネルギー場に
わたしも居合わせチャネることで、副次的にそれを体験しているという感じ。
「未来の地球と人類にチャネる」彼らから受けた情報に衝撃を受けたものの、わたしも、
すべての時間軸空間軸、すべての人間の存在の意識場が並列存在するエネルギー場で、
人間とは何か、世界とは何かを模索して、あちこちに意識検索(チャネリング)して、
透明な観察者として人の意識に(たぶん)介在干渉してたわたしもまた、
ある意味では意識エネルギーによる未来旅行や過去旅行、
タイムトラベルをしていたタイムトラベラーだったといえるかもしれない。
わたしはそのとき、彼らがチャネっている未来の、
わたしには真実味を帯びているように見えた未来を見て(感じて)強い衝撃を受けた。
わたしは、感情の干渉を排除した機械的思考に身を置き続けて、
何を見ても何を聞いても何が起きて何を体験しても、一切何も感じない魂の空白領域で、自己防衛的に、
ただ正確なことを知るために検索を続ける、「見る機械」に徹していたけど、
そのとき初めて、自分がしていること、わたしが見ているもの、聞いているものを自覚して、畏れを抱いたと思う。
・・
アセンションに関していえば、それは起こると思う。
破壊的破滅的な何か、完全なパラダイムシフト。
それは、魂のブループリントを作る場で、
「なんかいい加減、こう、ちまちま成長してくのまどろっこしくね?ここらで景気よく成長加速したいよね」
と思って決めた。
わたしはそんな前向きな意識は持ってなくて、
ただ薄汚くてバカで救いようがない三次元世界と人類が嫌いで、
ただそれらに壊れてほしがってた気がする。
そうだ(思い出した)、そのアセンションが決定的に起きる日時が今、一部でいわれている、
「マヤ暦の太陽暦の終わり」といわれている有名な2012年12月21日だと、
魂の領域で決めてきた世界の設計図だったと思う。
ただ魂の一部のどこかでは、破壊的アセンションが起こる前に人が自力で
魂を成長させれば、世界の終わりは避けられるかもしれない、という意見もあった。
未来は確定したものではなく、複数方向に枝分かれしており選択可能であり、
魂のレベルで決定したことであっても、現世での意思決定が影響を及ぼすことも可能であると。
理屈ではわかったけど、わたしはそういうことを信用していない。
魂の根源的エネルギーレベルで選択したことのほうが圧倒的に優位に決まってる。
でも目に見える形でアセンションするのは三次元領域ではなく、死後の魂の領域でしかないから、
現世で生きる人は、死や破壊や喪失に嘆く人ばかりが増えるんだと思う。
現世で嘆かれていることほど魂の領域世界では歓喜していることなのだけど、
死んでからしか意味がわからない話というのは残酷だし、何の意味があるシステムなのかと思う。
魂の領域では、三次元領域との、肉体を持たないことによる意識の乖離が如実に現れる。
境界のない世界で、みんなアホのように楽観的で幸福でのほほんとしている。
軽い思いつきで、殺されたいとか殺したいとか災害にあいたいとか
障害や遺伝子設計なども自由に創り出してししまい、
わたしなどはこのシステムに疑問があるし憤慨してたし、
わたしのように調子に乗ってあれもこれもと盛った挙句、
生まれた後の取り返しのつかなさに後悔するバカものも出てくるのだ。
わたしにとって、「取り返しがつかないこと、二度と取り戻せないこと」とは、
三次元でいう「死」ではなく、次元を超えた領域から三次元領域に囚われ縛られるために天から落ちること、
つまり「生」を受けることに他ならなかった。
わたしにとって、生まれてしまうことこそが、二度と取り返しがつかないことなのだ。
ふたつの世界にまたがる知識・情報を垣間見たわたしにとって、世界の全ての風景が逆転している。
だからわたしは死や生にほとんど重きを置かない。
魂が歓喜することと、三次元領域に囚われた意識とはほとんど真逆に乖離しているから。
そしてそういう見地は、三次元現実世界の社会生活では、ほとんど社会不適格者、精神異常者だった。
人の三次元的生や死や悲劇にまったく心を動かされない機械のような心を持ったわたしは
現実社会から見れば深刻なニヒリズムに陥っているとみなされる状態だった。
そしてわたし自身、三次元的「常識」から真っ逆様に落ちて真逆から世界を見ている
自分自身に恐怖を覚えた。
他者と違う恐怖、世界にひとりぼっちのマイノリティになってしまう恐怖、
自分が得体の知れない、心を持たない怪物に変態してしまった恐怖。
どうせ死んでも次の世界があり、しかもこの三次元世界はもうすぐ終わる。
存在しない幻に等しい現世的利益を囲い込む、
本当のことなど何もわかっていないバカな現世的人間によって。
もうすぐ世界は終わるのに、子供を生み、育て、生きる、人の存在などに、何の意味がある?
わたしはわたしがここにいる意味を見出せなかった。
それはわたしが基本的に持っていたベースの感情なのかもしれないし、
あるいはこの記憶の影響で破壊され、失ったのかもしれない。
そして同時に、周りのすべての他者と世界の存在の意味も見失った。
そうした見解がわたしに深刻な無力感と無意味感と自暴自棄、あらゆるネガティブな感情を起こさせた。
わたしはこの現世世界の全てに存在の意味を見出せなくなり、
誰が死のうが殺されようが、今すぐ世界が終わろうが一切心を動かされなくなっている自分を見出した。
むしろ、もう世界が終わることが動かしようがなく決定されているなら、
いっそ今すぐ世界が終わってみんな死んでほしいと思った。
わたしの目の中に、あのとき見た世界の終わりの風景が焼きついて、
それはわたしの魂に永遠に烙印され、血を流し続ける呪いとなった。
わたしの目の中で、今、ここにある世界は終わりの風景を晒し続け、
わたしの目の中心に、あのとき見た世界の終わりの風景が動かしがたくあり続けるのであれば、
もうわたしにとって、すでに世界は終わり、人類はみんな死んでいるも同然だった。
わたしの理性はその不合理な出血的感情を食い止めようと必死に異議を唱えていた。
わたしがふたつに引き裂かれて、ずるずると絶望の底に落ちていくような闇のわたしと、
闇を否定したい光のわたしが葛藤し戦っているみたいだった。
でもそれらは抑えてもどうしようもなく溢れてくる魂の深部からの出血みたいで、
魂の深部に開いた地獄の穴のようで、わたしはあっさりその闇の中に落ちた。
事実そうなのだ。
わたしは文字通りこの領域の世界に属さない、もうひとつ別の世界に属する(そこの記憶を持つ)
存在なのだといいたければいえるけど、そんなことはいいたくなかった。
わたしはこの社会に普通の人間として、ただ適応したかっただけだ。
「普通の社会・世界中のみんな」からわたしを隔絶するこんな記憶など思い出したくなかったし、
こんな情報など、知らなければよかったと思った。
でなければ、この記憶を強制的に忘れるはずがない。
・・・
そのときのわたしの身体年齢は5歳だったけれど、
エネルギー場ではすべてがひとつであり、検索した情報はわたし自身でもあり、
自動ダウンロードが起きるようにどんな思想や情報や世界を見ても理解に困難を覚えなかった。
そこは集合無意識の場のような、アカシックレコードのようなところだったのだろうか。
そこではわたしは、肉体から開放された軽やかな裸の意識エネルギーで、名前もなく誰でもなかった。
それに特に困難を感じなかった。むしろ心地よかった。
わたしはそこでどうしようもなく個的なわたしとして完全完璧に完結していながら、
そしてわたしは誰でもありすべてである、あなたはわたし、わたしはあなた、ワンネスの感覚。
わたしはそこで、どんな真逆な人間のタイプにもなれた(シミュレーション的に観察し、憑依する)し、
動物にも植物にもなれたし、自然現象にもなれたし、宇宙にもなれたし、地球そのものにもなれた。
架空の怪物にもなれたし、人々の意識に入り込んで人の意識を促して、彼らに創出される創作物にもなれた。
魂のエネルギー状態という無限の変身と変換。
水のようにすべてに偏在し無限に変態しながら、どうしようもなく私自身として個的であることが同時並在する。
無限と一瞬が同時に存在し、
無限の他者と彼らに関わるわたしが無限に分散する時間と空間が同時並在する場。
魂とはそういう存在なのだし、エネルギー場とはそういう場所なのだ。
どうしようもなく魂が自由に飛翔する場所。
けれど自由と同時に確固とした意思を持って自己を再発見し作りださなければ、
固体化できずぐずぐずに溶けて流れ出す水のように、何者にもなれない場所。
わたしはそこで、魂の設計図に書き込む段階で、何者になるか決めかねたんだと思う。
初めて俯瞰したシステムへの困惑と迷いと疑惑がわたしの足をつかんで引きとどめた。
固体化できずに漂う水(たましい)。
そしてわたしが見ている光景には何の意味もない。
ある意味、そこで起きていることは、当たり前のことであり、
アリの命も人間の命も、すべての存在が等価に並列存在しているということは、
そこにある情報には何の意味もないのだ。
ただ、その情報を積極的に受け取り何かに使おうとする意思を持った人の手に渡ったときにだけ
そこにあるものは意味を持つのだ。
つまり物事に意味は最初からあるのではなく、意思を持って意味(名前)を与えることによって生まれる。
もしくは、物事を最初から「こうだ」と決めてかかっている
意識状態に呼応した意味をつけられた世界が眼前に現出する。
意味とは、意図的にであれ非意図的にであれ、人の意識が作り出すものなのだ。
そしてひとの意図的・非意図的な意識によって意味(志向)付けられたエネルギー世界がイデアとして
三次元の現実世界で実体を持った現実となる。
エネルギーと三次元が乖離した世界に人間が生きている理由は、
人間が本来持っている魔法のようにエネルギーですべてを可能にするエネルギー力を、
自由無限空間で当たり前のように自由自在に発揮させるのではなく、
より抵抗があり、その使い方を忘却さえした三次元の領域で、
失った力を再発見することで、より強固な意思(ベクトル)を持って使うことを覚えるためなのだ。
ということは、本当に問題であり価値があるのは、こうしたエネルギー場ではないのだ。
こうしたエネルギー場は、むしろそこにあって当然のものなのだ。
人が死んだらいつでも自然とそこにいけるものなのだ。
というか、人が死ぬ、ということは存在せず、人が三次元で「生きている」状態のほうが
エネルギー場から見ると特殊な状態なのだ。
問題であり価値が問われるのは、こうしたエネルギーをより抵抗のある
三次元の領域でより強固な意志をもって使いこなし、力、自分自身を再発見しようとして
この三次元領域に下りてきている、「わたしたちが創り出す三次元領域の現実」なのだ。
エネルギー場では、本人の意識状態が即座に周りの風景に実体化する。
そして抵抗・粘りのある三次元領域でも、時間差をおいて、やはり人の意識・志向性エネルギーが
現実領域に実体化する。
つまり本当に価値があるのは、このようなエネルギーの知識を持ってアクセスしている人ではなく
そんなことをすべて忘却した状態であれ、三次元の現実領域をより豊かに生きている人にこそあるのだ。
その人が囲まれている現実世界がその人の意識エネルギーが創り出しているものであり、
つまりその人がどんな現実を生きているかに、その人の心が即物的に現れるのだ。
・・
それらが特別な世界のことであろうと異常なことであろうとどうでもよく、
わたしはただ、正確なことを知りたいだけだった。
わたしは何も知らず、すべてを知っていなくてはならず、すべてを知っているはずだった。
人間、人間以外、神、宇宙、地球、存在、わたし。
情報の特急列車の奔流がわたしの中を駆け抜けていくような旅の終わりに、
夢から覚めつつあるのを感じた。
ただ、知りたい、事実を、真実を。なぜ、なぜ、なぜ、
ベースには確かに「波動の低い」感情が渦巻いていたけれど、
そうした主観と感情からはなるべく身を置き乖離した機械的思考のみに頼って、
それがわたしをどんどんクリアに牽引していくのを感じた。
その先にあったのは、誰かの思考や人生の覗き見、間接的憑依的体験ではなく、
真っ白な空間、まばゆい光、何もなく、すべてがあるような空間に剥き身のわたしがいた。
その光に呑まれていくと自我が消えそうでわたしはどうにもならない恐怖に身が強張るのを感じた。
神の領域、だろうか。
わたしは見てはいけないものを見ているのではないか、
人が足を踏み入れてはいけない禁忌の領域に踏み込み、タブーを冒しているのではないか。
罪悪感と罰への恐怖でいっぱいになった。
そして、誰かの存在を感じた。誰だろう?
白いローブをまとったように光に包まれたその人は手を伸ばして、
わたしの額の中央に人差し指で触れる仕草をした。
わたしの恐怖は絶頂に達した。
その人はわたしの額の中央に祝福の印をつけようとしているのか、
それとも呪いの獣の印をつけようとしているのか、わからなかった。
わたしは無理やりその白い領域から身を引き剥がし、彼らから逃れた。
そのときのわたしの意識に流れ込んできたのは、つぶやきのような声。
高い波動にチャネリングしても、本人の意識波動が低いままだと、
波動の高い存在への抵抗と負の感情が生まれ、本人を逆に苦しめる…、
わたしはそんな声に耳をふさいで遁走した。
まわりを見渡すと、情報の騒がしい混雑は消えて、クリアな白い雪景色が広がっているようだった。
何かいろいろなことがあるけど、結局だからなに?どんなスピリチュアルも私と関係ない、
キレイな言葉に満ちた思考領域にとどまるだけ、結局、こういうことって、最後には、なんなの?
それらは一種の夢として、走る列車、機械になっていた私の中を通り抜けた風景(情報)にすぎなかった。
飽きた感じで情報を流してたら、だんだん最後の終着点、流れの行き着く先、という感じになり、
最後に、誰かの声が響く空間と謎の言葉に行き着いたと思う。
「現実が全て」と。
現実から逃げた寝物語の夢の行き先で、現実が全てといわれるのか・・・と思った。
そこが到達点で、他に見るべき情報はないようだった。
たぶんわたしが望んだ、「世界の事実・人間の真実・知るべきこと」は、
ほとんどわたしにダウンロードされたということなのだろう、
現実がすべて、それは実に味気ない知識ではあったけど、
それ以外にもう見るべきもの、知るべきものは残されていないようだった。
けれど、その「現実」とは、無限階層ともいうべきどれだけ膨大なエネルギーが影響しあっているものか?
わたしがエネルギー状態の透明な観察者としてここにいることで、
本人が無邪気に主体的に生きていると思っているところに、誰にも知られず
わたしが見つめ、その場を思考し感じ模索することで影響を(たぶん)及ぼしているように、
どれだけのエネルギーが、「人知れず」現実に影響しているのか?
わたしは結論の中にまだ懐疑を残していた。
そしてわたしのすべての問いと答えと静かな激情は、意識エネルギーとしてエネルギー場に呼応され、
やがて現実領域でも時間差で実体化する。
・・・・・
白い光に満ちた風景がフェードアウトして、わたしは夢の奔流から覚醒した。
そして夢が破れるように、どっと押さえつけていたいろいろな感情が溢れた。
一体これらは何なのかという混乱、これが真実だとすると、
それを知ってる世界にひとりしかいないかもしれない、
この記憶によって世界中の人間からわたしひとりが隔絶され、
記憶によって世界にひとりぼっちのマイノリティになってしまったわたし自身が陥っている孤独とさみしさと恐怖、
「目覚めていない」人間たちへの憎悪、怒り、憤激、軽蔑、憐れみ、
自分の中にどんどん溢れてくる負の感情への畏れ、わたしはパニックになった。
絶大な恐怖。ありえない記憶への。ありえない風景への。ありえない自分自身への。
わたしは恐怖に駆られてその場で自分の記憶に強制リセットをかけた。
つまり、ぜんぶ忘れた。
そしてリセットをかけた自分の記憶にわたしは保険をかけた。
身体的にも社会的にも自由、選択肢がない今の現実領域の5歳のわたしには、
この記憶を保持し続けるのは荷が重過ぎる。
いつか、この記憶をより客観的に見て、社会的に何らかの行動を自由にとれるときがくるまで、
この記憶を封印する。
わたしが社会的自由を得る(はずの)、成人する20歳のときに、
この絶大な恐怖をもたらす記憶がわたしを迎えにくるまで封印すると。
そして20歳の誕生日を経て、わたしは記憶の訪問を受け、
ほとんど恐怖の発作に襲われて、すべてを思い出した。
最後の記憶とは、記憶を封印した過去の5歳のわたしからの、
そして、人生のすべての設計図と世界の未来の行く末を見つめた魂のわたしから託された、
過去と未来からのタイムボックスであり、手紙だった。