『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』を視聴しました。

正規のアニメ版ガンダムであるのに、ファーストのパラレルワールドというトンデモ設定。
戦闘描写は、高速機動かつ一瞬の場面を切り抜いたスロー演出も多く、満足!
加えて、ファーストの登場人物と、ジークアクスで初登場の人物とで、キャラのタッチが違うという…

戦闘のカッコ良さと、視聴者の考察の余地が多いストーリー展開で、非常に面白かった。


考察の余地といえば、一番気になるのが


シュウジとは何者だったのか




11話終盤、シュウジが自らの正体を明かした瞬間、ファーストガンダムの出現とともに「BEYOND THE TIME (メビウスの宇宙を越えて)」が流れました。


言わずと知れた、アムロとシャアの宿命の対決を描いた「逆襲のシャア」のテーマソングです。


神演出過ぎる。シュウジの正体はアムロだったのか!


ところが、ネットを見ると「シュウジ=アムロ」説だけではないようで…

そこで、正体はアムロと結論付けるために暴論を振りかざすことにしました。

なお、私はガンダムガチ勢ではないし、作品を繰り返し観て研究したわけでもないので、内容は支離滅裂です。



①シュウジ=アムロについて

まず、シュウジがアムロであることは、先ほどの名曲が流れた点に加えて、


パラレルワールドの発生源は向こう側のララァであることを知っている


ララァに対して強い想いを持っている


ことから明らかです。



②なぜシュウジはアムロとして存在していないのか

向こう側とこちら側のララァ(+エルメス)は姿が同一であるのに、なぜシュウジはアムロの容貌ではないのでしょうか。


ヒントとなるのは、終盤のシュウジの姿です。ジフレドによるイオマグヌッソ起動後は、精神体で登場し、ガンダムに搭乗した際に実体化しています。


これは、シュウジとは、向こう側のアムロの思念体であるためと考えました。


目の前でシャアが死亡するという絶望がトリガーとなり、パラレルワールドを創造してしまうほどの力を発揮したララァには及びませんが、アムロのニュータイプ能力はララァへの精神干渉をも可能としました。その結果、思念のみが向こう側に届いたと考えられます。

その過程で、ゆらぎが生じ、姿形が変化してしまったのでしょう。

イオマグヌッソ起動後に精神体となったのは、向こう側とこちら側の扉が開いたことで、不確定な存在となったからだと思います。


③ジークアクス=アムロではないのか

「僕はもう見たくない。またガンダムがララァを殺す光景を」というジークアクスから発された(古谷徹氏の)声、マチュの手に重なった誰かの手、これらの演出から、ジークアクスがアムロであることは疑いようがないと思います。


ただし、ジークアクスは、


シュウジやシャリアがいう向こう側(白いガンダムにシャアが討たれた世界)のアムロ


ではなく、


"別の"向こう側、正史ファースト(白いガンダムにララァが討たれた世界)のアムロ


が変異した姿と思われます。



つまり、別世界から来訪したアムロは二人(シュウジ+ジークアクス)いるのです。


アムロ(=シュウジ)がラスボスという設定に対しては、抵抗を示すファンもいるかもしれません。

だけど、アムロvsアムロという構図にすれば、むしろファンは喜びます。妙案ですね。



シュウジ=アムロ説の考察は以上です。



それにしてもこちら側に元々存在するアムロはどうなったんでしょう。連邦のエースを象徴する赤白青のトリコロールカラー機にはセイラが搭乗していることから、戦場には現れていないんだろうな。となれば、シャアのガンダム強奪時に巻き込まれて命を落としたか、はたまた技術者としての人生を歩んだりしているのか…


いずれにしても、もし続編が発表されれば、何らかの形で登場してくれそうです。




ファーストの知識がある程度必要となりますが、パラレルワールドという設定を活かした様々な演出により、視聴者の考察欲を刺激する作品でした。面白かった!


最後に…早くキケロガをプラモ化してくれー!カッコ良すぎるんやー!









※最初からネタバレ


第3次世界大戦による放射能汚染が地球を覆い始め、人類は徐々に死滅していく。人類が生存する最後の大都市、オーストラリアのメルボルンに生きる人々を描く。


登場人物は最終的に全員命を落とす。一縷の希望は描かれるものの、人々はそれに過度な期待はせず、徐々に迫ってくる放射能の脅威を半ば受け入れている。


最期が近づくまで自分は大丈夫と思い込んでいる者や、精神的に壊れてしまっていることを自覚する者など、死への向き合い方は様々である。

ただ、全体として、人々は、自暴自棄になり破滅的な行動を取るのではなく、どのように生きていたいかを大事にする、気高い存在として描かれている。


とりわけ印象的なのが、主要人物である、妻子を亡くした軍人ドワイトと、牧場主の娘モイラとの関係だ。

序盤にモイラは奔放な女性であることを示唆する描写があったため、二人は早々に男女の仲になると予想した。だが、モイラは、ドワイトが大切にしている妻子との思い出や関係を汚したくないと、相思相愛にもかかわらず、二人は一線を越えることなく最期を迎える。


また、妻子を持つピーターは、自分と境遇が重なる。

ピーターは、家族や周囲が死に瀕する中、自分だけが快復する。同僚で科学者であるオズボーンから、快復は一時的なもので、1週間後には周囲と同じ運命をたどると告げられ、家族にその事情を隠したまま一緒に命を閉じることを選択する。


自分だったらどうだろうか。生存できる万一の可能性に賭けようとしないか。ただ、妻子を亡くした悲しみに暮れながら運命までの時を過ごすこと、また、万一生き残ったとしても一人で生きていくなど出来そうもないことを考えると、やはり自分も同じ選択をするだろう。


死のタイミングを自分で決めることだけがこの理不尽な世界で最後に与えられた自由だ。

生き甲斐に浸りながら死に進む者、家族と共に命を落閉じる者、愛する人を想いながら旅立つ者…

「どのように死を迎えたいか」と「どのように生きたいか」は同義だ。この作品は、「死」を通して、読者の「理想の生き方とは何か」を投げかけている。


理不尽な終末を押し付けられながらも、大切なものを心に抱いて自決する彼らの姿を見て、涙が溢れない人などいるのだろうか。





とある事件により心に傷を負った青年の心の機微を描いた作品。


物語の佳境で、主人公が、こじらせてしまった人間関係は切り捨ててしまった方が楽だと、他者と向き合わない選択をするシーンがある。

これは、誰しもが経験のあることではないだろうか。

亀裂が入った関係性を修復するための一歩を踏み出すには、どれだけ勇気がいるか。

そういえば、そんな心に重力がかかる状態に久しく陥ってないことに気付いた。亀裂が入る前に妥協し合えるくらい自分を含んだ周辺は大人になったということか、それとも亀裂が入る余地のないくらい浅い人間関係しか構築できていないのか。


内容としては充分面白かったのだが、話の展開にサプライズは無く、好きになった登場人物もいないため、再読はおそらくないだろう。


余談ではあるが、主人公が超イケメンという設定は必要だったのだろうか。もちろん、好奇の目を向けられて繊細さに拍車がかかったという演出効果はあるのだろう。しかし、主人公に好意を寄せる女性は、顔から入ったという印象が拭えないと思うのだが。






あらすじ(ネタバレ)

焚書を任務とした昇火士のモンターグは、本の焼却に喜びと快感を見出していた。
しかし、不思議な少女との出会いにより、無意識下に潜んだ本への興味や世への違和感が顕在化する。
自ら本と共に焼け死んだ老婆の姿を目の当たりにし、本には何らかの力があると確信。隠し持った本を読み始める。
上司のベイティーは、この世界の成り立ちを明かす。為政者は、民衆に思考の余地を与えないために、焚書を行うとともに、短絡的な娯楽を与え続けているのだと。
モンターグは、元の生活に戻るよう迫ったベイティーを焼き殺してしまい、追われる身となった。
一方その頃、モンターグが暮らす国が、戦争に突入した。
モンターグは、逃亡中、この世界を是としない知識人や逃亡した犯罪者で形成される集落の存在を知る。命からがら追跡を振り切り、集落の手前で待ち構えていたリーダー格達と出会う。
集落では、過去に読んだ本の文章を一言一句思い出せる方法が開発されており、一人一人が、読んだ本そのものとしての役割を与えられていた。自らも役割を与えられたモンターグは、集落に向かおうとする。
その刹那、上空を突っ切った敵国のジェット機から投下された爆弾により、モンターグが暮らしていた街は一瞬で瓦礫の山と化した。
自分たちの力が必要なときと、廃墟となった街を目指すリーダー格達にモンターグも同行するのであった。


本作は1953年に発表され、短絡的な娯楽に溺れ、思考を半ば放棄し始めた民衆について風刺した作品と考えられる。


「焚書」とは学問・思想を権力によって弾圧するために、書物を焼き捨てることである。歴史上では秦の始皇帝やナチス・ドイツが実行している。


以下、いくつかの項目について感想を述べていきたい。


◯コンテンツの上辺化について

上司であるベイティーは、人々がコンテンツに対して、徐々に短絡的な結末を求めるようになり、その中身が浅薄になってしまったと語る。結果として、深く思考する機会が得られなくなってしまったという。
この点で興味深いのは、政府が意図的に仕向けた訳ではなく、民衆自らが選んだ結果だということだ。

現代社会はSNSや動画配信サイトなどにより、履いて捨てるほどコンテンツが溢れている。さらに、ショート動画や「タイパ」という言葉が流行しているように、楽しいこと、知りたいことがすぐに手に入る程良いとされる価値観が重視されている。
まさに本作のような世界になりつつあると言えるのではないか。


◯ベイティーという人物について
モンターグに焼き殺されたベイティーは「死にたがっていた」と描写されている。何故か。
ベイティーはモンターグとの論戦において、多数の書の言葉を鮮やかに引用した。「隊長は立場上みなそうなる」とはぐらかしていたが、彼自身が書物の魅力に取り憑かれていた一人であり、相当数の書籍に触れていたことは間違いないだろう。
書物には価値があると知りながらも、自らの手で燃やすことしかできない自分に絶望していたに違いない。
モンターグは世界の真相を知ったとき、昇火士に戻る選択をしなかった。反対に、戻る選択をしたモンターグの姿がベイティーだったのだ。


◯作者のメッセージについて
書物を焼き払ってきたモンターグが住む街は、そのつけを払うかのように他国の爆弾によって焼き払われた。
また、集落のリーダー格が語る祖父の話には、些細なことで構わないから生産的であるべきという主張が読み取れる。
上記2つのエピソードから、娯楽を享受し続けるだけの存在に成り果ててはいけないという作者のメッセージを感じ取った。


◯思考について
本作の民衆のように、思考を停止し、娯楽を享受し続ける生活が悪いとは思わない。
他人が良し悪しを決める話じゃなく、自分が幸せならそれでいい。
要は生き方の問題なのだ。自分にとって何が是なのか。どうしたいのか。
私の場合は、苦しみがあったとしても思考する方を選ぶ。なぜなら、こうやって書籍に影響され、意味もなく考えることが好きだから。

だが、短絡的な娯楽が欲しいときもある。
それは、仕事が忙しいとき、嫌なことがあったとき、いわば現実逃避したいときだ。
ストレス社会が加速するにつれて、人々は短絡的なものを求め、漸進的にコンテンツが上辺化していくのかもしれない。





海に浮かぶ18諸島で、年に一度、冬至の夜に開かれる「煌夜祭」。

島々の物語を集めた語り部たちが夜通し語り明かす目的とはなにか。そして、人を喰らう魔物は何故存在しているのか。


今回2回目の読了。


本書との出会いは鮮明に覚えている。

10年程前、本屋の書店員おすすめコーナーに置かれている、ファンタジー心をくすぐる表紙デザインが目に留まったのだ。

試しにあらすじを読んでみると、あまりに自分好みの世界観で、これは買うしかないと即決した。

帰宅後は、ページを捲る手が止まらず、「書店員やるやん」と唸ったものだ。


さて、1回目の読了から約10年の時を経て2回目の読了となったわけだが、今回も期待通り楽しめた。


実を言うと、文庫化にあたって作者が追加した終章の「遍歴」を読む直前(単行本版の完結)までは、「面白いが、話が浅いな。最初に読んでからこれまでの10年間、様々な作品に触れてきたから自分の目も肥えたのか。」と感じていた。

しかし、語り部たちが語った物語が一筋の光となって紡がれる「遍歴」により、この作品は、作中の魔物のように、血生臭くも、儚く、美しい物語へと昇華された。


伏線が分かりやすいことや、文体が読みやすいことから、特に10代、20代の若者にオススメである。