2-20 乗員7名、爆弾1トン
九七重(註1)の二型が南方つ”かれの様相をして格納庫の中にあった。私が見たのは堀場戦隊の一中隊大下機であった。
データを調べたら一五00馬力エンジンが二基、そのパワーによって出すスピードは四七八キロ、最高一トンの爆弾と七名の乗員を乗せて二七00キロ飛ぶといわれた。武装は七.七ミリ機銃が四丁と一三ミリが一丁あった。尾翼の付け根には遠隔操作によって撃込む機銃が一丁あったがあまり役にはたたなかった。
昭和十三年十二月から飛行六二戦隊に配属されて翌年の二月、蘭州攻撃で初めて九七式重爆撃機一型のベールを脱いだといわれる。
コレヒドール攻略には二型が主役となって一トン爆弾を要塞にぶっつけた。九七重は爆撃の外にも空挺隊のために武器投下や火力援護もやった。昭和十九年十二月には義烈空挺隊の輸送機となって、サイパンになぐり込みを計画したが延期となり、二十年沖縄戦に移るや、北飛行場に六機、中飛行場に二機が強行着陸して飛行場を混乱させた。隊長は陸軍大尉奥山道郎であった。
翌日の五月二十五日午後四時三十分大本営発表では、「敵中に強行着陸し直ちに在地敵機、軍需品集積所、飛行場施設等を相ついで爆破、敵を混乱をに陥らしめ大なる戦果を収めつつあり」とラッパを鳴らした。
九七重の生産は二0五四機といわれ、太平洋戦の主力爆撃機として呑竜(註2)や飛竜(註3)の出現まで働いたのである。 (全文)
註1) 九七重
九七式重爆撃機(キ21)
三菱重工が陸軍向けに製作した全金属製中翼(片持ち式)単葉双発爆撃機。
昭和10年(1935年)9月、陸軍は三菱、中島に九三式重爆撃機の後継機をキ19として試作を指示した。中島飛行機、三菱重工は昭和11年(1936年)に試作機が完成、比較審査が行われた。審査では両社いずれも陸軍の要求を満たしており性能的にも大差がなかった。
結局は政治的判断となり陸軍は三菱は機体を中島はエンジンをとして昭和12年(1937年)三菱にキ21として増加試作を指示した。キ21は中島キ19の機能要素(機体の流線化、銃座、爆弾倉の形状等)が盛り込まれ機体形状は中島キ19に近いものとなった。評価後、九七式重爆機として制式採用された。生産は昭和13年(1938年)から開始され、部隊配備はその年の末から始まった。
昭和15年(1940年)、エンジンを強化、1,450hpの三菱ハ101を搭載した性能向上型が 九七式重爆撃機二型(キ21-Ⅱ)として制式採用された。これに伴い中島ハ5改を搭載した九七式重爆撃機は一型(キ21-Ⅰ)となった。九七式重爆撃機二型(キ21-Ⅱ)は昭和19年(1944年)9月まで生産され 九七重の最多生産型となった。
一型の生産は三菱と中島で行われ、三菱が422機、中島が351機を生産、二型の生産は三菱で行われ、1,282機(甲1,025機 乙257機)が生産された。
支那事変、南方攻略作戦の各戦隊で使用されたが昭和18年頃には旧式化、輸送、連絡用に転用され爆撃任務は一00式重爆撃、四式重爆に移行していった。
輸送機型として九七式重爆一型をベースにした ー00式輸送機(キ57)がある。一00式輸送機の民間型が MC-20。
九七式重爆撃機一型(キ21-Ⅰ) 諸元
エンジン:中島九七式 八5改 空冷複列星型14気筒 1,080hp x2
乗員:7名 中翼単葉(片持ち式)双発爆撃機
・全幅: 22.00m ・全長: 16.00m ・全高: 4.35m ・自重: 4,691kg ・全備重量: 7,492kg
・最大速度: 432km/h ・上昇限度: 8,600m ・航続距離: 2,500km
・武装:7.7mm機銃x5(前方、胴体左右各1、後方遠隔操作 1、後上方連装 1)
爆弾 最大1,000kg
九七式重爆撃機二型乙(キ21-Ⅱ乙) 諸元
エンジン:三菱一00式 八101 空冷複列星型14気筒 1,450hp x2
乗員:7名
・全幅: 22.50m ・全長: 16.00m ・全高: 4/85m ・自重: 6,015kg ・全備重量: 9,523kg
・最大速度: 478km/h ・上昇限度: 10,000m ・航続距離: 2,700km
・武装:7.7mm機銃x5(前方、後方各1、胴体左右各1、尾部遠隔操作 1)
12.7mm機関砲x1(後上方) 爆弾 最大1,000kg
一00式輸送機(キ57)
三菱重工が陸軍向けに製作した双発輸送機。
昭和14年(1939年)、陸軍は三菱に対して九七式輸送機(キ34)の後継機として新型輸送機を キ57として開発を指示した。
陸軍からの指示は 九七式重爆撃機の胴体部分を改造、人員輸送を主目的とする、というものであった。
機体主翼は低翼となり胴体内部は新規設計され中央通路をはさんで座席は右側6席、左側5席を配置した。エンジンに ハ5を搭載した試作機が昭和15年(1940年 皇紀2600年)初飛行、一00式輸送機(キ57)として制式採用された。
昭和17年(1942年)、エンジンを ハ102に換装、主翼の強化と貨物室を増設した機体が一00式輸送機二型(キ57-Ⅱ)が制式採用されこれまでのハ5搭載の一00式輸送機が一型(キ57-Ⅰ)となった。
民間型MC-20も同時に生産され、大日本航空、満州航空や朝日新聞、読売新聞などで使用された。
昭和16年(1941年)から昭和20年(1945年)1月まで三菱において軍用型、民間型合わせて、一型101機、二型406機、の507機が生産された。
一00式輸送機一型(キ57-Ⅰ) 諸元
エンジン:中島九七式改 ハ5改 空冷複列星型14気筒950hp x2
乗員:4名 座席11 低翼単葉双発輸送機
・全幅: 22.60m ・全長: 16.10m ・全高: 4.77m ・自重: 5,522kg ・全備重量: 7,860kg
・最大速度: 430km/h ・上昇限度: 7,000m ・航続距離: 1,500km
一00式輸送機二型(キ57-Ⅱ)
エンジン:三菱ハ102 空冷複列星型14気筒1,080hp x2
乗員:4名 座席11
・全幅: 22.60m ・全長: 16.10m ・全高: 4.90m ・自重: 5,585kg ・全備重量: 9,120kg
・最大速度: 470km/h ・航続距離: 3,000km
三菱重工が製作した九七式重爆撃機(キ21)
・九七式重爆撃機一型甲(キ21-Ⅰ甲) エンジン:ハ5 空複星14気筒 950hpx2
・九七式重爆撃機一型乙(キ21-Ⅰ乙) エンジン:ハ5改 空複星14気筒 1,080hp x2
製作機数 三菱 422機 中島 351機 計 733機
・九七式重爆撃機二型甲(キ21-Ⅱ甲) エンジン:ハ101 空複星14気筒 1,450hp x2
・九七式重爆撃機二型乙(キ21-Ⅱ乙) エンジン 甲と同じ 防弾強化型
製作機数 甲 1,025機 乙 257機 計 1,282機
三菱が製作した一00式輸送機(キ57) MC20
・一00式輸送機一型(キ57-Ⅰ) MC20-Ⅰ エンジン:ハ5改 950hp x2
・一00式輸送機二型(キ57-Ⅱ) MC20-Ⅱ エンジン:ハ102 1,080hp x2
製作機数 一型 101機 二型 406機 計 507機
中島 キ19 試作重爆撃機
中島飛行機が陸軍向けに製作した全金属製中翼単葉(片持ち式)双発試作爆撃機。
昭和10年(1935年)、陸軍は九三式重爆撃機の後継機の開発を中島、三菱の二社に試作機の開発を指示した。
この指示を受けて中島はライセンス生産を行っていたダグラスDC-2の機体構造を参考にして、エンジンを自社製 ハ5 を搭載した試作機を昭和11年(1936年)に完成させた。
三菱キ19との比較審査が行われたが両社の機体も性能的には大差がなかったが、陸軍は中島キ19の機体、機能要素を取り入れ、エンジンを中島製を搭載した増加試作をキ21として三菱に製作を指示した。これにより中島キ19は不採用となった。
中島キ19は審査用に4機が製作され、審査終了後に1機が長距離通信連絡機N-19として同盟通信社に払い下げられた。
中島キ19 試作重爆撃機 諸元
エンジン:中島九七式 ハ5 空冷複列星型14気筒890hp x2
乗員:5名
・全幅: 22.00m ・全長: 15.00m ・全高: 3.65m ・自重: 4,750㎏ ・全備重量: 7,150kg
・最大速度: 350km/h ・航続距離: 4,000km
・武装:7.7mm機銃x3 爆弾 750kg
註2)呑竜(龍)
一00式重爆撃機(キ49)呑龍
中島飛行機が陸軍向けに製作した全金属製中翼単葉(片持ち式)双発爆撃機。
昭和13年(1938年)、陸軍は中島飛行機一社九七式重爆撃機の後継機試作をキ49として開発を指示した。陸軍からの指示、要求は戦闘機の援護、護衛を必要としない高速、重武装の九七式重爆の性能を上回る爆撃機を開発せよというものであった。
中島飛行機は高速化を図るため、エンジンに ハ41 を採用、昭和14年(1939年)6月に試作1号機を完成させた。その後増加試作を経て昭和16年(1941年)、一00式重爆撃機(キ49)呑龍として制式採用された。(前年の皇紀2600年を奉賀して一00式と命名された)呑龍とは中島飛行機発祥の地群馬県太田市の大光院(浄土宗)の開祖で子育て呑龍と呼ばれた僧の名前からとったもの。
最初の量産機一型搭載エンジン ハ41は信頼性に乏しく(出力不足も)、エンジンをより高出力の ハ109に換装した機体が二型として生産されたが飛躍的性能向上には至らなかった。
一型は昭和17年(1942年)8月までに 129機が生産された。引き続き二型各タイプが生産され、総生産機数は 813機となった。
大東亜戦争の前後して部隊配備が行われ、初めての実戦投入は昭和18年(1943年)6月、オーストラリア、ポートダーウイン爆撃(1回のみ)。比島戦において南方方面に派遣された部隊は戦力を消耗していった。
一00式重爆撃機一型(キ49-Ⅰ) 諸元
エンジン:中島一00式 ハ41 空複星14気筒 1,260hp x2
乗員:8名 中翼単葉(片持ち式)双発爆撃機
・全幅: 20.42m ・全長: 16.80m ・全高: 4.25m ・自重: 6,070kg ・全備重量: 10,150kg
・最大速度: 490km/h ・上昇限度: 9,000m ・航続距離: 2,000~3,400km
・武装:7.7mm機銃x5(前方、後方、後下方 各1) 胴体左右各1) 20mm機関砲x1(後上方)
爆弾 最大1,000kg
一00式重爆撃機二型(キ49-Ⅱ) 諸元
エンジン:中島二式 ハ109 空複星14気筒 1,520hp x2
乗員:8名
・全幅: 20.42m ・全長: 16.81m ・全高: 4.25m ・自重: 6,540kg ・全備重量: 10,680kg
・最大速度: 492km/h ・上昇限度: 9,500m ・航続距離: 2,000~3,000km
・武装:7.92mm機銃x5 20mm機関砲x1 爆弾 750~1,000kg
二型甲(キ49-Ⅱ甲):二型生産型 7.7mm機銃を 7.92mm機銃に
二型乙(キ49-Ⅱ乙):武装強化型 7.7mm機銃を 12.7mm機銃に
二型丙(キ49-Ⅱ丙):哨戒型
中島飛行機が製作した 一00式重爆撃機(キ49)
・一00式重爆撃機一型(キ49-Ⅰ) エンジン:ハ41 1,260hp x2 製作機数 129機
・一00式重爆撃機二型(キ49-Ⅱ) エンジン:ハ109 1,520hp x2 製作機数 689機
一型、二型合計 813機
註3) 飛竜
四式重爆撃機(キ67)飛龍
三菱重工が陸軍向けに製作した全金属製中翼単葉(片持ち式)双発爆撃機。
昭和15年(1940年)陸軍は三菱重工に一00式重爆撃機に代わる高速爆撃機をキ67として開発を指示した。三菱は九七式重爆、海軍の一式陸攻の製造経験をもとに、エンジンをハ104, 2,000hpを搭載した試作機を昭和17年(1942年)12月に完成させた。
昭和18年(1943年)後半から量産機の生産が開始されたが制式採用となったのは昭和19年(1944年 皇紀2604年)、四式重爆撃機(キ67)と命名された。(愛称は飛龍)
雷撃装備が標準型となり部隊配備は昭和19年となった。戦局から重点生産機に指定され機体は分割製造で三菱重工、川崎航空機で生産された。機体は甲と乙のタイプがある。乙は後方12.7mm機関砲が連装となった。総生産機数は707機。
四式重爆撃機(キ67甲) 諸元
エンジン:三菱 ハ104 空冷複列星型18気筒 2,000hp x2
乗員:8名
・全幅: 22.50m ・全長: 18.70m ・全高: 5.60m ・自重: 8,649kg ・全備重量: 13,765kg
・最大速度: 537km/h ・実用上昇限度: 9,470m ・航続距離: 3,800km
・武装:20mm機関砲x1 12.7mm機関砲x4(機首、胴体左右、後(尾)部)
爆弾 750kg 又は 魚雷x1
三菱重工が製作した四式重爆撃機(キ67)
・四式重爆撃機(キ67) エンジン:ハ104 空複星18気筒 2,000hp x2 製作機数 707機
八5 エンジン
中島飛行機が開発、製造した空冷複列星型14気筒エンジン。
八番号(5)は陸軍名称、陸軍制式名称は九七式八五0馬力、中島社内名称は NAL
中島は寿エンジン(単列9気筒)を複列化したNALエンジンの開発を進め、昭和8年(1933年)試作型を完成させた。陸軍は「八5」として採用した。発展型として「八41」 「八109」がある。海軍機にはこのエンジンは搭載されていない。
・ハ5 九七式八五0馬力 公称馬力 890hp 搭載機種:中島キ19試作重爆撃機
・ハ5改 九七式八五0馬力改 1,080hp 搭載機種:九七式重爆一型 九七式軽爆
・ハ41 百式一二五0馬力 1,260hp 搭載機種:一00式重爆一型(キ49-Ⅰ)
・ハ109 ニ式一四五0馬力 1,440hp 搭載機種:一00式重爆二型(キ49-Ⅱ) 二式単戦
ハ5系エンジンの生産は昭和12年(1937年)より中島と三菱で行われ、中島製 5,500基(昭和12年(1937年)~昭和19年(1944年) 三菱製 1,831基(昭和12年~昭和17年(1941年)の合わせて7,331基が生産された。
ハ5エンジン 諸元
・タイプ:空冷複列星型14気筒(シリンダー)
・内径x行程: 146mm x160mm
・排気量: 37,500cc
・過給機:遠心式スーパーチャージャー1段1速
・離昇馬力: 930hp/2,400rpm
・公称馬力: 890hp/2,200rpm
ハ41エンジン 諸元
・タイプ:空冷複列星型14気筒
・内径x行程: 146mm x160mm
・排気量: 37,500cc
・過給機:遠心式スーパーチャージャー1段1速
・離昇馬力: 1,260hp/2500rpm
・公称馬力: 1,260hp/2,450rpm
ハ109エンジン 諸元
・タイプ:空冷複列星型14気筒
・内径x行程: 146mm x160mm
・排気量: 37,500cc
・過給機:機械式 1段2速
・離昇馬力: 1,500hp/2,650rpm
・公称馬力:1速全開 1,440hp/2,600rpm
2速全開 1,220hp/2,600rpm
ハ102 (瑞星)エンジン
三菱重工が開発した空冷複列星型14気筒エンジン。
ハ番号は陸軍名称、海軍名称は 瑞星、社内名称はA14.
三菱はP&W R-1690の製造ライセンスを購入、明星エンジンとして国産化した。このエンジンを参考、改良、複列化して、金星エンジンを完成させた。この金星エンジンを基に、より高出力の小型機用エンジンと大型機用エンジンの開発を昭和13年(1938年)に着手した。
この小型機用エンジンは社内名称A14として開発され、昭和13年(1938年)海軍で 瑞星 として採用された。次いで陸軍でもこの瑞星系列エンジンは ハ26、ハ102として採用された。
・ハ26-Ⅰ 九九式九00馬力Ⅰ型 海軍名称 瑞星14型 統合名称 ハ31-14
搭載機種
・ハ26-Ⅱ 九九式九00馬力二型 海軍名称 瑞星15型 統合名称 ハ31-15 公称馬力 955hp
搭載機種
・ハ102 一式一0五0馬力 海軍名称 瑞星21型 統合名称 ハ31-21 公称馬力 1,055hp(1速)
搭載機種 一00式輸送機一型
瑞星系列のエンジンは陸、海軍共に採用、12,795基が生産された。
ハ26-Ⅱ(瑞星15型) 諸元
・タイプ:空冷複列星型14気筒
・内径x行程: 140mm x130mm
・排気量: 28,020cc
・過給機:遠心式スーパーチャージャー1段1速
・離昇馬力: 940hp/2,600rpm
・公称馬力: 955hp/2,600rpm
ハ102(瑞星21型) 諸元
・タイプ:空冷複列星型14気筒
・内径x外径:140mm x130mm
・排気量: 28,020cc
・過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速
・離昇馬力: 1,080hp/2,700rpm
・公称馬力:一速全開 1,055hp/2,600rpm
二速全開 950hp/2,600rpm
ハ101(火星11型)エンジン
三菱重工が開発した空冷複列星型14気筒エンジン.
ハ番号は陸軍名称、陸軍制式名称は一00式一五00馬力、海軍名称は火星一一型、統合名称はハ32、社内名称はA10.
三菱は金星エンジンを基に、より高出力の小型機用エンジンと大型機用エンジンの開発を昭和13年(1938年)から開始した。この大型機用エンジンは社内名称A10として開発され、昭和15年(1940年)陸軍はハ101、海軍は火星一一型として採用された。
昭和16年(1941年)性能向上型が海軍に火星二五型として採用された。陸軍ではハ111の名称が割り当てられたが陸軍機の搭載はなかった。
・ハ101 陸軍制式名称一00式一五00馬力 海軍名称 火星一一型 統合名称 ハ32
公称馬力 1,410hp 搭載機種 九七式重爆二型乙
・八111 海軍名称 火星二五型 統合名称 ハ32-25
公称馬力 1,680hp(一速全開) 1,540hp(二速全開) 搭載機種
ハ101(火星10型系)は昭和13年(1938年)~昭和19年(1944年)の間に 7,332基が生産された。火星20型系(ハ111)は昭和16年(1941年)~昭和20年(1945年)の間に 8,569基が生産された。
ハ101(火星一一型) 諸元
・タイプ:空冷複列星型14気筒
・内径x行程:150mm x170mm
・排気量: 42,100cc
・過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速
・離昇馬力: 1,530hp/2,450rpm
・公称馬力:一速全開 1,410hp/2,350rpm
二速全開 1,340hp/2,350rpm
火星二三型甲 諸元
・タイプ:空冷複列星型14気筒
・内径x行程: 150mm x170mm
・排気量: 42,100cc
・過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速
・離昇馬力: 1,800hp/2,600rpm
・公称馬力:一速全開 1,600hp/2,500rpm
二速全開 1520hp/2,500rpm
ハ111(火星二五型)
・タイプ:空冷複列星型14気筒
・内径x行程: 150mm x170mm
・排気量: 42,100cc
・過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速
・離昇馬力: 1,850hp/2,600rpm
・公称馬力:一速全開 1,680hp/2,500rpm
二速全開 1,540hp/2,500rpm
ハ104 エンジン
三菱重工が開発した空冷複列星型18気筒エンジン
ハ番号は陸軍名称、陸軍制式名称は四式ー九00馬力、統合名称 ハ42-11、社内名称はA18A。
三菱は火星エンジンを18気筒化してより高出力の大型機用エンジンの開発を昭和13年(1938年)に計画、昭和14年(1939年)8月にA18Aとして完成させた。昭和15年(1940年)にハ104として陸軍に採用された。生産基数は 基。
・ハ104 陸軍制式名称 四式一九00馬力 統合名称 ハ42-11 1900hp
搭載機種:四式重爆撃機(キ67)
ハ104 諸元
・タイプ:空冷複列星型18気筒
・内径x行程: 150mm x170mm
・排気量: 54,100cc
・過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速
・離昇馬力: 1,900hp/2,450rpm
・公称馬力:一速全開 1,810hp/2,300rpm
二速全開 1,610hp/2,300rpm
このタイトルから
陸軍航空隊の変遷
昭和15年、在支航空兵力の再編~昭和16年、関東軍特別演習(大東亜戦争開戦前) 陸軍航空隊略史より
昭和15年 在支航空兵力の再編
航空兵団司令部が満洲に移駐した大陸本土では航空兵力の再編が行われた。第一、第二飛行団が軍令で規定されたのに対して、第三飛行団の編合は北支那方面軍戦闘序列で規定された。
第三飛行集団編合 北支
・司令部
・独立飛行第一六中隊(偵察)
・飛行第六0戦隊(重爆)
・第一飛行団 ・司令部
・独立飛行第一0中隊(戦闘)
・独立飛行第八三中隊(偵察)
・飛行第九0戦隊(軽爆)
・第一五、一六、一八航空地区司令部 3個飛行場大隊、4個飛行場中隊
・第一五航空通信隊
・第一五航空情報隊
・第一五野戦航空隊
・第二野戦飛行場大隊
・第二師団第一、第二野戦高射砲隊
・兵站自動車5個中隊
・4個陸上輸卒隊
第二飛行団編成 中支
・司令部
・独立飛行第一七中隊(偵察)
・飛行第四四戦隊(偵察)
・飛行第五九戦隊(戦闘)
・飛行第七五戦隊(偵察)
・第一六航空地区司令部 3個飛行場大隊 2個飛行場中隊
・第一六航空情報隊
・第五野戦航空隊
・第三野戦飛行場設定隊
・第一師団第九第一0野戦高射砲隊
・近衛師団第六野戦航空隊
・兵站自動車3個中隊
・3個陸上輸卒隊
第二一独立飛行隊(題四飛行団に代って)編成 南支
・本部
・独立飛行第八二中隊(偵察)
・独立飛行第八四中隊(戦闘)
・3個飛行場中隊
・第一五航空通信隊
・第一独立航空隊分廠
北部仏印進駐
昭和15年6月17日のフランス降伏に伴い、大本営では援蔣ルート遮断のため北部仏印への進駐を企画した。進駐は大本営直轄となった南支那方面軍が担当し、この支援のため各地から航空部隊を抽出して南支那方面軍司令官の指揮下においた。越境事件の発生で仏印側が態度をを硬化させたこともあったがタイムリミットの9月22日に平和進駐協定が成立した。この北部仏印進駐は制裁として米、英、蘭の対日禁輸を招いた。
北部仏印進駐時、陸軍航空部隊
・第三飛行集団司令部
・独立飛行第八一中隊
・第一飛行団 ・司令部
・飛行第九0戦隊(軽爆)
・飛行第五九戦隊(戦闘)
・第四一飛行場大隊ノ一部
・第九一飛行場大隊ノ一部
・第二一独立飛行隊 ・本部
・独立飛行第八二中隊(偵察)
・独立飛行第八四中隊(戦闘)
・3個飛行場中隊
・飛行第三0戦隊(軽爆)ノ1中隊
・飛行第六四戦隊(戦闘)ノ1中隊
・飛行第六0戦隊(重爆)
・第九二飛行場大隊ノ一部 第六八飛行場中隊ノ一部
・第一五航空通信隊ノ一部 第一五航空情報隊ノ一部 第一五野戦航空隊ノ一部
航空兵団編合 昭和15年末
北部仏印進駐に派遣されていた各地の航空部隊は昭和15年11月頃には原駐地に復帰した。満州では昭和15年12月に第五飛行集団司令部および第一0飛行団司令部が昭和16年2月に第一三飛行団司令部が設置され、各飛行団隷下の航空教育隊は内地に移駐した。
航空兵団(満州)の編合
・司令部
・第二飛行集団
・第五飛行集団
・第一二飛行団 ・司令部
・飛行第一戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第一一戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第七0戦隊(戦闘3個中隊)
・第一二航空地区司令部 3個飛行場大隊
・第一三飛行団 ・司令部
・飛行第八五戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第八七戦隊(戦闘3個中隊)
・第八六、第八八飛行場大隊
・飛行第一五戦隊(司偵3個中隊)
・飛行第二00戦隊(※遠爆2個中隊)
・第三六飛行場大隊
・航空通信第一、第二聯隊
・第一、第二、第三航空情報隊
・関東軍航空下士官候補者隊
※遠爆とは四発重爆撃機の陸軍呼称、海軍の一三試大型陸攻「深山」を換装する予定であったが「深山」の開発は失敗して陸軍の四発大型爆撃機計画は中断した。
第五飛行集団 編合
・司令部 チチハル
・第九飛行団 ・司令部
・飛行第二四戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第四五戦隊(軽爆2個中隊)
・飛行第六一戦隊(重爆3個中隊)
・第九航空地区司令部 3個飛行場大隊
・第一0飛行団 ・司令部
・飛行第三一戦隊(軽爆3個中隊)
・飛行第七四戦隊(重爆3個中隊)
・飛行第七七戦隊(戦闘3個中隊)
・第四0、第七六、第九二飛行場大隊
・飛行第一0戦隊(司偵3個中隊)
・第四八飛行場大隊
第三飛行集団 編合
・司令部 南京
・第一飛行団 ・司令部 北支
・独立飛行第一0中隊(戦闘)
・独立飛行第一六中隊(司偵)
・独立飛行第八三中隊(軍偵)
・飛行第一五戦隊第三中隊(直協)
・飛行第三一戦隊(軽爆)ノ1個中隊
・第三飛行団 ・司令部
・飛行第四四戦隊(軍偵1個中隊、直協3個飛行隊)
・飛行第五九戦隊(戦闘2個中隊)
・飛行第七五戦隊(軽爆2個中隊)
南支那方面軍飛行隊 編成(飛行部隊のみ)
・本部
・独立飛行第八一中隊(司偵)
・飛行第六四戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第九0戦隊(軽爆2個中隊)
印度支那駐屯軍飛行隊 編成(飛行部隊のみ) 仏印
・第二一独立飛行隊 ・本部
・独立飛行第八二中隊(司偵)
・独立飛行第八四中隊(戦闘)
第一飛行集団 編合 内地 台湾
・第四飛行団 ・司令部
・飛行第八戦隊(司偵1個中隊 軽爆2個中隊)
・飛行第一四戦隊(重爆3個中隊)
・飛行第五0戦隊(戦闘2個中隊)
・第一0一教育飛行団 ・司令部
・第一0一教育飛行戦隊(戦闘(教育)4個中隊 飛行場大隊)
・4個航空教育隊
・第一0二教育飛行団 ・司令部
・飛行第三戦隊(司偵1個中隊 軽爆3個中隊)
・4個航空教育隊
・第一0三教育飛行団 ・司令部
・飛行第四戦隊(戦闘2個中隊 飛行場大隊)
・3個航空教育隊
・飛行第二戦隊(司偵1個中隊 直協1個中隊 飛行場大隊)
・飛行第五戦隊(戦闘2個中隊 飛行場大隊)
・飛行第一三戦隊(戦闘2個中隊 飛行場大隊)
・飛行第六二戦隊(重爆2個中隊)
第一飛行集団が人的資源供給の教育養成機関となっいることが伺える
南部仏印進駐
南部仏印進駐のため仏ウ”ィシー政府との外交交渉の結果、昭和16年7月23日に日・仏印共同防衛協定が結ばれた。大本営は第二五軍を編成し、これを大本営直轄として南部仏印の進駐を行った。南部仏印進駐はその制裁として米国の在日本資産凍結、対日石油全面禁止を呼び込み事態をより悪化させた。
第二五軍の戦闘序列は昭和16年7月5日に発令された。これによる航空部隊は以下のものである。
南部仏印進駐時航空部隊
・第二一独立飛行隊 ・本部
・独立飛行第八四中隊(戦闘)
・第九六飛行場大隊
・3個飛行場中隊
・第一六野戦航空廠二一分廠
・第一二輸送飛行中隊
・第二五野戦気象隊
・第五、第六野戦飛行場設定隊
・第七飛行団 ・司令部
・飛行第二七戦隊(軽爆)
・飛行第六四戦隊(戦闘)
・第七航空地区司令部 2個飛行場大隊
・飛行第一四戦隊(重爆)
・飛行第一五戦隊(司偵ノ一中隊)
・第一五航空通信隊ノ一部
・第一六野戦航空廠
・南支那気象部
関東軍特別演習
昭和16年6月22日の独ソ戦開戦に伴い満州への兵力集中。すなわち関東軍特別演習(関特演)が実施された。動員兵力は内地からの派遣2個師団を含む満鮮16個師団である。
飛行部隊は第一飛行集団長隷下から関東軍隷下に編入された飛行第七戦隊、第六、第七直協飛行隊のみだったが2個航空地区司令部、5個飛行場大隊、8個飛行場中隊、2個航空通信隊、4個野戦飛行場設定隊、4個気象中隊、等の充実が図られた。
また陸軍航空総監および航空兵団司令官により編成された白城子陸軍飛行学校教導飛行団司令部、白城子陸軍飛行学校教導航空地区司令部および飛行第二0八戦隊、第二0九飛行場大隊により白城子陸軍飛行学校教導飛行団が編成され航空兵団司令官の隷下に編入された。
航空兵団編合(飛行部隊のみ)
・司令官
・第二飛行集団
・第五飛行集団
・第一二飛行団 ・司令部
・飛行第一戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第一一戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第七0戦隊(戦闘2個中隊)
・第一三飛行団 ・司令部
・飛行第八五戦隊(戦闘2個中隊)
・飛行第八七戦隊(戦闘2個中隊)
・白城子陸軍飛行学校教導飛行団 ・司令部
・飛行第二0八戦隊(軽爆2個中隊)
・第二0六独立飛行隊(軍偵1個中隊 直協1個中隊)
・第一五独立飛行隊(軍偵1個中隊 直協1個中隊)
・飛行第七戦隊(重爆3個中隊)
・第六、第七直協飛行隊
第二飛行集団編合(飛行部隊のみ)
・司令部
・第二飛行団 ・司令部
・飛行第六戦隊(軽爆3個中隊)
・飛行第九戦隊(戦闘3個中隊)
・第二九独立飛行隊(軍偵1個中隊 直協1個中隊)
・第七飛行団 ・司令部
・飛行第一二戦隊(重爆3個中隊)
・飛行第二七戦隊(軽爆3個中隊)
・飛行第六四戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第九八戦隊(重爆3個中隊)
・第八飛行団 ・司令部
・飛行第一六戦隊(軽爆3個中隊)
・飛行第三二戦隊(軽爆3個中隊)
・飛行第三三戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第五八戦隊(重爆3個中隊)
・第二八独立飛行隊(司偵2個中隊)
・第八二独立飛行隊(軍偵)
第五飛行集団編合
・司令部
・第九飛行団 ・司令部
・飛行第二四戦隊(戦闘3個中隊)
・飛行第四五戦隊(軽爆3個中隊)
・飛行第六一戦隊(重爆3個中隊)
・第一0飛行団 ・司令部
・飛行第三一戦隊(軽爆3個中隊)
・飛行第七七戦隊(戦闘3個中隊)
・第一0独立飛行隊(司偵2個中隊 直協1個中隊)
九七式重爆撃機のこと
昭和10年(1935年)陸軍は九三式重爆撃機の後継機の開発をキ19として中島、三菱の2社に競争試作を指示した、とあります。中島はダグラスDC2を参考にした機体を、三菱は九六式陸攻の陸軍版の機体を(推測です。三菱の機体はネット検索上では資料、写真とも見当たりませんでした。)それぞれがキ19とした試作機を昭和11年(1936年)に完成させ、比較審査が行われたようです。中島、三菱、両社の機体は機能、性能的にも互角で陸軍の要求も満たしていたようですが中島キ19、三菱キ19とも不採用となります。ここで陸軍の事情でしょうか、改めてこの重爆の試作は引き続き増加試作キ21として三菱に続行が指示されます。陸軍の指示、要求でしょうか中島キ19を基に作られたと思わせる機体が昭和12年(1937年)キ21として出来上がります。この時期戦闘機の開発(中島キ27、三菱キ33)でも同じようなことが行われました。
この昭和11年~12年は軍を介して航空機製造技術(近代輸送機の外来技術、全金属製、モノコック構造、低翼単葉、過給機付エンジン、引込脚、等)が日本国内の航空機製造メーカーに拡散、その技術を習得して手中に収め、いずれのメーカーでも軍の要求をこなせるようになった年でもあったようです。
おおばさんの陸軍の重爆撃機ついての記述はこのタイトルで終わります。九七式重爆の後継機について記事の終わりに「呑竜」 「飛竜」とだけ書かれています。註2、註3をとってまとめてみました。
海軍でもユンカースの技術を発展させ三菱が全金属製、モノコック構造の陸上攻撃機、九六式陸攻を九七式重爆に先行して作り上げています。次のタイトルは九六式陸攻のこと「マレー沖の主役」となります。 (R1・7・1)
このタイトルの挿し絵から
九七式重爆撃機二型(キ21-Ⅱ)です。南方に向かった機体には上面濃緑色とジャングル迷彩の二つがあったようです。このタイトル記事文頭に、南方つ”かれの九七重二型を格納庫に見た、とあります。無事帰還した翼を休める九七重のどこにそれを感じたのでしょうか。再び飛び立つ時には裏方任務となっていました。やがて最後には特攻です。
義烈空挺隊のことコンパクトにまとめた記事がありました。
義烈空挺隊 (朝日新聞掲載の記事より)
米軍が沖縄の二つの飛行場(嘉手納(中)飛行場、読谷(北)飛行場に強行着陸し敵機や施設を破壊するたに(陸軍の空挺部隊員)組織された特攻(特殊)部隊(部隊長、奥山道郎大尉)。昭和20年(1945年)5月24日、九七式重爆撃機(二型)12機に136人が乗り込んで出撃したが故障などで4機が帰還し残る8機の大半も対空砲火で撃墜された。1機(数機という説もある)が読谷飛行場に胴体着陸し12人の兵士が機関銃や手投げ弾、爆薬で米軍機29機に損害を与え全員が死亡した。同飛行場は数日間使用不能になった、とされる。
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