4-14 マッハ2でする飛行 コンコード

 日航ではボーイングのSST(註2)を五機注文している。コンコード(註1)の方も三機と未来の航空輸送に前向きにある。機材は一九六九年三月二日にテスト飛行を行なったが、SSTという名には遠いものであった。しかし十月のフライト・テストには、超音速をぬけてSSTの顔をみせた。現在注文は各国あわせて七四機あるそうで、七三年までには乗客を乗せて世界を飛び回りたいと意気は高い。性能スケジュールはマッハ2.05で飛ばし乗客一二八人と乗組員七名で音速旅行をおめにかけるといわれる。(1971年おおば比呂司 記事全文)

 

 註1)コンコード

 コンコルド(Concorde)

 イギリスのBACとフランスのシュド・アビアシオ(後のアエロスパシアル)が共同で機体名をコンコルドとして民間航空会社向けに開発したオージー翼4発ターボジェット超音速旅客機(SST)。機体名コンコルド(Concorde)はフランス語で「調和」「協調」を意味する。英語ではコンコード(Concord)。英、仏の二国間で名称、読み方でもめたが最終的にはConcordeが英、仏共通の正式スペリングとなった。

 後にアエロスパシアルが母体となったエアバス・インダストリーが機体保守を引き継いだ。

 1950年代後半、イギリス(ブリストル223)、フランス(シュドシュペルカラベル)が別個、独自に超音速旅客機の開発を進めていた。しかし、この開発には莫大な費用を要し、又、両国の構想が似通っていたこともあり、又、完成後の競合を避けるため、英、仏両国は共同でコンコルド計画としてその開発を行うことになった。1962年11月、両国間で共同開発の協定書が締結された。イギリスからBAC、フランスからはシュド・アビアシオが開発に参加した。

 コンコルドの開発は進み、1965年には世界各国のフラックキャリアから160機を越える機体を受注した。1967年11月、フランス、トゥルーズで原型機を公開。1969年3月、原型機が初飛行に成功、同年10月に音速を突破、1970年11月、マッハ2.0を記録した。

 また、ソ連でもツポレフTu-144とした超音速旅客機の開発が行われており、1968年12月、その原型機が初飛行した。

 また、アメリカでも超音速旅客機の開発が進められており、1967年にコンコルドを上回る乗客250名以上の超音速旅客機の開発計画がボーイング社から機体名2707として発表された。

 コンコルドの機体、主翼はオージー翼(二重三角翼の一形態)、主翼の内側の大きな後退翼と外側にある小さな後退翼を曲線で結えた二段構造の三角翼。後退翼の大きい内側は超音速領域で効果的な揚力を生み出すが、低速ではその効果がない。そのため外側には小さな後退翼を組合わせて、亜音速時にも対応している。三角翼機は低速時には迎え角を大きくして揚力を得る。コンコルドは離着陸時には迎え角を大きくとるため機首を持ち上げる。このため着陸時にパイロットの視界を確保するため、機首が下方に折れ曲がるトループノーズを採用した。操縦装備としてフライ・バイ・ワイヤ(アナログ式)を旅客機として初めて使用した。トリム制御用の燃料移送システム(タンク間で燃料を移送)を備えている。

 1969年3月の初飛行後、テスト飛行で改良、改修を重ね開発が遅延、機体の燃費の悪さ、オイルショックによる燃料費の高騰、その後のソニックブーム(超音速飛行に伴う衝撃波)からの地上での騒音など環境問題から、1972年に入ると多くに航空会社が発注をキャンセルした。また機体の航続距離が短く、太平洋路線就航を計画したパンアメリカン航空や日本航空など多くの航空会社が発注をキャンセルした。

 それでも膨大な開発費をつぎ込んで、ようやくコンコルドは1975年に就航、1976年1月、エールフランスとブリティッシュエアウェイズの2社で定期運航が開始された。

 1976年11月、コンコルドの製造は打ち切られ、試作機、量産試作機4機を含めて20機でコンコルドの生産は終了した。運用されたコンコルドは開発国である英仏両国のフラックキャリア、エールフランスとブリティッシュエアウェイズが運航した16機。1980年代後半以降は大西洋横断航路のみに集約された。1990年代に入ると、機体の老巧化が進み、コックピットの近代化を含め改修が検討されたが行われないままとなった。

 2000年7月、エールフランス機がパリのシャルルドゴール国際空港で墜落事故を起こした。事故の原因はコンコルドが離陸滑走中にその直前に飛んだ機体が落した金属片を踏んだ結果、タイヤがパンク、その破片が翼の燃料タンクを破裂させ、飛び散った燃料に引火、炎上墜落事故となった。地上で巻き込まれた犠牲者を含め、113人の死者を出した。コンコルドの航空(滞空)証明が取り消され、コンコルドは運航を停止した。燃料タンクの補強、耐パンク性の強化など改修が行われ、2001年12月、運航が再開された。

 しかし、2000年9月11日、ニューヨークで発生した同時多発テロからの航空不況、又、燃料高等で収益性の改善が望み薄となり運航の継続が議論された。2003年4月、ブリテッシュエアウエイズとエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止すると発表、エールフランス機は5月、ブリティッシュエアウェイズ機は10月をもって営業飛行を停止した。

 コンコルドの運用終了(退役)は航空不況や燃料高騰などが影響しているが最大の原因はコンコルドの機齢が.20年以上となって老巧化、それとエアバスがサポートを打ち切ったこともあった。2003年10月運用終了後、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。

 コンコルドの各機はイギリス、フランス、アメリカなど航空関連博物館に売却、寄贈され展示されている。

 コンコルド 諸元

 エンジン:RR スネクマ オリンパス593 Mk610 ターボジェット x4

 乗員:3名 乗客100名

・全幅:25.6m ・全長:61.66m ・全高:12.19m ・自重:   ・最大離陸重量:186,800kg

・最大速度:マッハ2.2 (2,330km/h) ・巡航高度:マッハ2.04 (2,160km/h)

・航続距離:7,250km

 2010年代はじめ、超音速旅行復活の兆しが見えた。アメリカのベンチャー企業ブームテクノロジーは、2016年、乗客55人を乗せ、マッハ2.2で8,300kmの商業運航可能なコンコルドタイプの超音速旅客機「オーバーチュア」の基本構想とモックアップを作成、2025年に初号機を完成、2030年に導入開始予定と発表した。これを受けて、2017年12月までに日本航空からの20機を含め76件の受注を集めた。このため実機の1/3スケールの実証実験機「XB-1」を開発、2020年10月の公開、2023年には試験飛行を開始すると発表した。(2023年「コンコルド」ウイキペディア、ビクシブ百科事典より)

 

 協調の翼 コンコルド 未来にかける橋 (「飛行機の再発見」より)

 コンコルド(協調)はイギリスとフランスが別々に1956年から研究を始め、1962年に英仏共同作業となり、1967年12月原型一号機が完成し、1969年3月2日に初飛行したSST(超音速輸送機)である。SSTとしての初飛行はソ連のTu-144の1968年12月31日に遅れをとった。就航は1976年1月21日、エールフランスのパリ・ダカール・リオデジャネイロ線と英国航空のロンドン・バーレーン線で同時に開始された。

 現在受注は英国航空5機、エールフランス4機のほかに、中国民航3機、イラン航空2機の仮発注があるだけで生産は現在予定されている16機で打ち切られた。

 巨額の費用をかけて開発したこの機体も、一種のピラミット近代版になる運命だが道具としては極めておもしろい。

 [主翼]

 コンコルドの主翼は三角翼で、これは超音速には適当である。三角翼はなかなか失速しない。コンコルドの主翼は単純な三角形でなく、前縁は主翼付根で胴体へ接線的にとりつくが、翼端に向って後退角が減り、さらに翼端近くで再び後退角を増す複雑なものである(オージー翼)。この理由は胴体に近い主翼部分で後退角を増して高速性能と失速性をよくし、翼端では低速時に発生する頭上げ傾向を消すため、翼端における空気力の役割、すなわち、主翼後部に発生する空気力を増すためであった。

 [エンジンナセル]

 エンジンナセル(短胴)を主翼下にとりつけた理由は、これによって主翼下で風圧が増し、抗力は同じでありながら、揚力をいくらか助けるためであった。つぎに胴体下面に4台のエンジンをまとめて装備せずに、二台ずつ分けて胴体から離して左右舷主翼下面にとりつけた理由は、長い胴体から発生する厚い境界層の乱れた空気を吸い込みたくなかったからである。また主翼に重量物を下げると、揚力による主翼のたわみが減って、強度的に楽になる。欠点としては横揺れの動作を鈍くすることにだが、全体が縦に長いので、それほど心配することはないと結論された。

 [主翼構造]

 コンコルドの主翼は片舷5部に分かれる。第1は中央翼:胴体と一体な中心箱形構造。アルミニュウム合金が主体。第2は外翼:多複板骨格。第3は取外せる前部翼。第4は前縁部。第5は後縁の昇降舵兼補助翼(エレポン)。 

 [胴体]

 長いコンコルド胴体の断面は二個の円を胴体床面で接合したダルマ形である。これへ低く主翼がとりつくから縦方向の剛性は高い。.胴体はやはり5部から成り立つ。すなわち・機首、・前部、・中間、・中央、・後部である。

 窓は三重ガラスで、全体を組んだまま外せる。各ガラスは二枚のガラス板でプラスチックを挟んだもので、これを三枚使っているが、その一枚だけで客室与圧を支えられる。

 すべての出入口が外へ開くのは、内圧が高いから、内へ開いたのでは中から開けられない。

 胴体の床が壁に固定したのでは、冷たい壁(前部では熱くなる)と温かい床の温度差によって歪わむから、床だけ縦方向に伸びることができる構造になっている。

 機首胴体は与圧しない面下げ機首および引込式面部(バイザー)つきレードームから成る。

 前部胴体は乗客出入り口、サービス用ドア、機首輪収納部を持つ。

 中間胴体は床下の貨物室とその内開きドア、前部翼とりつけ横枠が設けられる部分である。

 中央胴体は中央翼と一体で、四部分から成る。すなわち、床下の容積には燃料タンク、主脚格納部、システム格納部があって与圧していない。

 後部胴体は与圧せず、後部与圧隔壁から後の部分で、後部燃料移動タンクがある。

 [垂直尾翼]

 垂直安定板は多区画捩り箱構造で方向舵軸と平行に10本の垂直桁がある。これらの桁は補強した胴体横枠に固定する。方向舵は上下二枚で、垂直安定板へテフロンの軸受を経てとりつける。

 [エンジンまわり]

 エンジンは二台ずつ主翼両舷下面のナセルに装備するが、固定した耳金と結合材でとりつけるため、前後運動を許しながら、垂直および横方向の負荷を受け持つ。

 排気システムはアフターバーナー、短いジェットパイプ(排気管)、その延長として断面積を変えられる発散形二次ノズル(吹き出し口)からなる。

 多板型一次ノズルは空気圧ジャッキによって面積を変えて排気タービンの排気膨張比を調整し、低圧圧縮機の速度と流量を変更する。

 二次ノズルは完全浮動式ですべての状態で最適位置をとるように、適度な減衰だけ与えて放置される。

 各エンジンはそれぞれ長方形断面の空気取り入れ口を持ち、そこに入る前に衝撃波が発生して、超音速圧縮を受け、入った後は衝撃波の後面の特性として流れは亜音速(マッハ1以下)に下がり、さらに通路面積が増すため、圧縮かつ減速してエンジンが受け入れられる低速となる。

 コンコルドの動力(エンジン全体)システムは機能的につぎの2個のサブシステムから成る。

(1)エンジン、排気管(ジェットパイプ)、可変二次ノズル

(2)空気取り入れ口、可変ノズル

 [燃料システム]

 コンコルドの燃料システムはエンジンへ燃料を供給する当然の任務のほか、還音速(亜音速から超音速への移行)飛行中に空気力の作動中心(風圧中心)が後方へ移動するためと発生する機体重心との不一致を調整する重要な任務と、他のシステムで発生した余分の熱を吸収する。

 コンコルドの燃料は17個のタンクに収容され、主翼容積の60%、胴体床下容積の約半分を占める。

 燃料タンクは三群に分かれ、その一は左舷主タンク群、.その二は右舷主タンク群、その三はトリム(釣合い)タンク群である。

 トリムタンクの目的は、つぎの飛行状態に応じて燃料を前後に移動させることである。

(1)還音速加速時には後方移動で、前部トリムタンクから主タンクと尾部トリムタンクへ燃料を移す。

(2)緊急減速移動は尾部トリムタンクから前部トリムタンクへ燃料を移す。

(3)巡航(超音速)末期には前方移動で、尾部トリムタンクから前部トリムタンクと主タンクへ燃料を移す。

(4)長時間亜音速飛行後の着陸時には再トリムが必要で前部トリムタンクから主タンクへ燃料を移す。

 [可動機首部]

 コンコルドには操縦席風防を空気力学的加熱から保護し、かつ段部のある風防を覆って空気抵抗を減らすため透明バイザー(面部)を、着陸のときに主翼わ大仰角となって機体を低速に保つので、機首が上がって前方が見えなくなるから、機首折曲げ装置がある。

 超音速巡航中はバイザーが操縦席風防の前を覆い、機首は水平位置になる。.離陸、上昇、亜音速飛行中はバイザーは下がるが、機首は水平のままで、着陸時にはバイザー、機首とも下がった状態となる。これらの作動は油圧による。

 [脚]

 脚は左右二組あり、鍛造鋼管内に空気オレオ(油圧)緩衝装置を持ち、上端は縦梁にとりつけられ、全体はその後部で頑丈な斜材により支持される。脚の下端には前後二車輪で装置したボギー(台車)梁が前後に傾くように支点にとりつけられる。脚は油圧のジャッキ1個で引き込まれるが、運動補償副支点と脚縮め結合棒があって、巧妙に.収納部内へ収まるようになっている。

 機首脚は二車輪つきで、空気オレオ緩衝装置を持ち。左右からは二個の軽金属支柱で支え、後方から伸縮できる支柱で脚下げ後に固定する。引き下げ引き上げは二個の平行油圧ジャッキによる。

 [胴体内空気調和装置]

 空調に必要なエンジンからとる。この空気は高圧縮機の出口からとるので、約580°Cとなっているが、空気対空気の熱交換器と空気対燃料の熱交換器で冷却する。超音速巡航後でも-25°Cの冷空気が保たれる。

 [防氷装置]

 通常の上昇および下降において、コンコルドは着氷が増大する暇がないうちに危険区域を通過し、また、亜音速飛行中でも異常な結氷はないものと考えられたので、防氷装置はエンジンに氷片が飛び込むことを防ぐ目的だけに設計された。そのためエンジン前方の主翼前縁と、エンジン空気取り入れ口前後、内部可動面、補助ドアなどにはすべて電熱被膜を施す。

 総説

 コンコルド設計者の苦心は、音の壁の突破、すなわち、音速(マッハ数1、成層圏で1,060km/h)を超えると、熱の壁、すなわち、コンコルドの最高巡航速度マッハ2(高度15,600m)で発生する高温(主翼前縁および機首で130℃)に対して材料が耐えることである。

 音の壁は三角翼と大推力エンジンで突破し、熱の壁は現在アルミニュウム合金で耐えられるマッハ2で十分な試験を重ねて突破した。

 ジェット機はプロペラ機の約2倍の速度で飛び、超音速輸送機SSTはさらにジェット機の約2倍で飛ぶ。このバイバイゲームを構造的にやはり従来のジェット機より強固だが、依然としてドイツ人が開発したアルミニュウム合金応力外皮主翼とモノコック胴体で乗り切った。ドイツの技術もここまで使われれば本望であろう。コンコルドから先の超音速飛行あるいは極超音速飛行はもはやロケットの技術を使わなければならない。ところがロケットはこれまたドイツ人の開発である。われわれがどこまでいっても、メカニズムに関する限り、ドイツ人の世話にならなければならないことは、やはり宿命であろう。(1977年佐貫亦男 複葉機からSSTまで)

 

 コンコルド (日本大百科事典(ニッポニカ)より)

 イギリス、フランス共同開発の超音速旅客機(いわゆるSST)。1956年ごろから両国(英・仏)でそれぞれ別個に計画を始められたが、構想が似通っていることと、新しい技術の開発のため莫大な費用を要することから、1962年に共同開発に踏み切った。その後、長い開発期間を経て、試作機が1969年3月に初飛行を行い、1970年11月にマッハ2.0を記録した。1976年1月より英国航空(ブリティッシュエアウェイズ)がロンドン-バーレーン、エールフランスがパリ-リオデジャネイロ線を就航させた。

 全幅25.6m、全長62.1m、翼面積358.3㎡、最大重量185.1t、最大乗客数128人、最大速度マッハ2.02(時速2,180km)、巡航高度2万メートル、といったでーたをもち、細く長い三角翼が特徴であり、翼の下に2基ずつまとめて2つのエンジンクラスターを備えている。胴体はきわめて細く、客席は3~4列配置となっている。2003年10月、商業運航を終了。

 就航前から騒音や排気ガスによる大気汚染が問題となり、また、速度や飛行高度の関係から交通管制がむずかしいなどの理由で、乗り入れ、および通過国からの反対が多く、就航路線はごく限られてしまった。このため量産機となってかなり改善が加えられ、乗客数も少なくはないが、稼働率が低く、さらに燃料費の高騰などから、膨大な開発費を国家の補助に仰いだにしても採算性は悪かった。

 両社とも巨額の欠損を抱えながら運航を続けていたというのが実情である。数々の新機軸を生み出し、航空技術の発展に大きく寄与した点は高く評価されているが。設計の古さが目立ち、今後の発展を望めなくなったことから、1979年6月、第16号機で生産が打ち切られた。その後も無事故で運航が続けられたが、機体の老巧化問題がささやかれたやさき、2003年7月25日、パリ発ニューヨーク行きエールフランス便が離陸直後に墜落事故を起こし、113人の死者を出した。この事故以降、エールフランス、英国航空両社は一時コンコルドの運航を停止、その後再開したものの、エールフランスは2003年5月に運航を終了、英国航空も同年10月24日の便で最後の商業運航を終了した。(2023年「コンコルド」ニッポニカ全文転記)

 

 註2)ボーイングのSST

 ボーイング2707(733)

 アメリカ、ボーイング社が民間航空会社向けに開発を計画したデルタ翼4発ターボジェット超音速旅客機(SST)。モデルナンバーは公式には「733」だが「2707」とも呼ばれていた。その「2707」が一般に普及した。

 ボーイング社では1952年から超音速旅客機の設計に取り組んでいた。1958年にはいくつかの設計案が提示された。1960年、社内で競争試作設計が行われ基本形体として可変翼バージョンが有利だと判明していた。

 1962年1月、ソ連が超音速旅客機Tu-144の開発開始を発表。1962年11月、イギリスとフランスで超音速旅客機コンコルドの共同開発が発表された。

 アメリカではこれに対抗するためアメリカ連邦航空局(FAA)が中心となり、1963年5月、国産超音速機計画を作成した。その計画とは250人の乗客を乗せ、マッハ2.7~3.0の速度で大西洋横断可能な超音速旅客機というものであった。

 FAAでその要求仕様書が作成され、機体メーカー3社、ボーイング、ロッキード、ノースアメリカン、エンジンメーカー3社、カーチス・ライト、ジェネラルエレクトリック(GE)、プラットアンドホイットニー(P&W)、に送られた。

 FAAからの要求仕様に対し、ノースアメリカン社からはXB-70を参考にした「NAC-60」、ロッキード社からはSB-71の経験を取り入れた「L-2000」、ボーイング社からは自社で研究していた可変翼モデル「733(2707)」、を提示した。

 1964年、機体が小型という理由でノースアメリカン案のNAC-60が却下され、機体メーカーはボーイング社とロッキード社の2社の案にエンジンはGEとP&Wの2社が選ばれ、より詳細な設計案の提示が求められた。

 1966年9月にはボーイング案、733-300(2707-100/200)とロッキード案、L-2000の実物大モックアップが提示された。一連の審査が続き、審査の結果、1966年12月、ロッキード案は製造が容易でリスクも少ないが性能がやや劣り、騒音レベルもやや大きいと判断され、GEエンジンを搭載したボーイング案モデル733(2707)が選定された。

 1967年、ボーイング社では原型機の製作が開始されたが、可変翼の機構に起因する重量の増加で要求仕様を達成することが困難とわかり、1968年10月、可変翼案を放棄、デルタ翼に変更、モデル2707‐300として開発することになった。

 1970年に入り、ソニックブームなどの環境問題から超音速旅客機への反対運動が起こり、1971年3月、アメリカ上院議会は資金援助の停止を決定、同年5月、計画は中止された。

 モックアップは解隊されたが、その後、再組立されカルフォルニア州にあるヒラー航空博物館に展示されている。

 2707 バリエーション

・2707-100:可変翼 座席数277席

・2707-100:-100にカナートを取付け

・2707-300:デルタ翼(固定翼) 座席数274席

 ボーイング2707-100 諸元(計画値)

 エンジン:GE GE4/J-5Bターボジェット 推力28,670kg x4

 乗員:   乗客261~277名

・全幅:32.60~53.11m(可変) ・全長:93.26m ・全高:14.70m

・最大離陸重量:306,170kg ・巡航速度:マッハ2.7 ・巡航高度:20,000m

・航続距離:6,850km

 ロッキードL-2000 

 ロッキード社がFAAの国産超音速機計画に提出したデルタ翼4発ターボジェット超音速旅客機(SST)設計案。

 諸元(計画値)

 エンジン:GE GE4 又はP&W JTF17ターボジェット x4

 乗員:   乗客230名

・全幅:35.4m ・全長:83.2m ・全高:   ・最大離陸重量:267,000kg

・巡航高度:マッハ3 ・巡航高度:21380~23,300m ・航続距離:6,400~7,400km

 ノースアメリカンNAC-60

 ノースアメリカン社がFAAの国産超音速機計画に提出したデルタ翼4発ターボジェット超音速機(SST)設計案。

 諸元(設計値)

 エンジン:アフターバーナー付ターボジェットエンジン x4

 乗員:4名(最大) 乗客187名 ペイロード15,276kg(35,000lb)

・全幅:37m ・全長:59m ・全高:14.6m ・最大離陸重量:220,000kg

・最大速度:マッハ2.65(2,820km/h) ・航続距離:6,500km

 (以上、ウイキペディア「ボーイング2707、「ロッキードL-2000」、「ノースアメリカンNAC-60」より

 

 ボーイング2707 (ビクシブ百科事典より)

 アメリカ合衆国の航空機メーカー、ボーイング社が開発を計画していた超音速旅客機。

 1950年代の貨物専用超音速輸送機の設計に起源を持つ。英仏共同開発の超音速旅客機「コンコルド」やソ連開発の同機「Tu-144」に対抗する形で1960年代に開発を計画。しかし、ソニックブームに代表される環境への悪影響の懸念などで開発反対の動きがアメリカ国内で相次ぎ、1970年代に入り事実上開発を断念、機体製作もモックアップ止まりで終えた。仮に実用化されていても、コンコルドやTu-144と同様に燃費が非常に悪くなり、経済的にも宜しくなかったかもしれない。(2023年全文転記)

 

 挿絵:Tu-144

 ツポレフ Tu-144

 ソ連のツポレフ設計局がソ連政府の指示で国営航空会社(アエロフロート)向けに開発したデルタ翼4発ターボファン超音速輸送機(旅客機)SST。

 1950年代末、ソ連はスプートニク計画など先進技術の成果を西側諸国に誇示していた。そうした中、イギリス、フランス、アメリカで先進航空機でもある超音速旅客機がその実用化に向けて開発が進んでいることを知った。ソ連でもこの超音速輸送機(旅客機)の分野でも実用化を先行すべく、その開発に着手、超音速機と偵察機の設計に実績のあるツポレフ設計局にその開発を指示した。1962年に超音速輸送機をTu-144としてその概要を発表、1963年7月、Tu-144の開発をスタートさせた。

 実証実験のためMiG-21Sの胴体を利用して無尾翼、オージー翼の試験機、MiG-21Iアナローク(A-144)2機が製作された。この試験機により、オージー翼の特性、無尾翼機の操縦性が試験されTu-144の開発に活用した。

 Tu-144原型機は1968年12月31日に初飛行した。この原型機の主翼はオージー翼、4基のエンジンは胴体下中央にまとめられて、その外側に主脚が出入りした。

 Tu-144原型機で一連の飛行試験が行われた後、量産型Tu-144Sが製造され、1971年7月に初飛行した。Tu-144Sでは主翼がダブルデルタ翼に変更、機首に引込式のカナートが装備された。エンジンは左右2基ずつに分離、より外側に移された。主脚は小径のタイヤ8輪としてエンジンダクトの間に引き込まれた。

 Tu-144の運航はアエロフロートのみで、1975年12月に初就航した。しかし、燃費性能の悪さ、乗り心地、経済性と信頼性の低さ、などの問題により、1978年6月、運航を停止した。

 生産機数は原型機1機、量産型のTu-144Sが10機、性能向上型のTu-144Dが5機、計16機の製造にとどまった。

 事故として、1973年5月、パリ航空ショーで墜落事故、乗員6名と地上の住民7名が死亡。1978年5月、試験飛行中のTu-144Dが機内火災で不時着事故。がある。

 運航停止後は一部の機体が航空関連博物館に展示されている。又、Tu-144Dのうち1機が次世代超音速旅客機のためデータ収集を目的とする、ロシアとアメリカ共同プロジェクトで使用された。この機体はTu-144LLと呼ばれ、1996年11月初飛行、1999年4月までロシアで飛行試験と地上試験に使用された。

 Tu-144 各型

・Tu-144

 エンジン:クズネツォフNk-144 ターボファン 4基

 原型 初飛行1968年12月 生産機数 1機

・Tu-144S

 エンジン:クズネツォフNk-144A ターボファン4基

 量産型 初飛行1971年7月 生産機数10機

・Tu-144D

 エンジン:コレゾフRD-36-51 ターボジェット 4基

 性能向上型 生産機数 5機

・Tu-144LL

 エンジン:クズネツォフNk-321 ターボファン 4基

 -144Dを改造 初飛行1996年11月 改造機数 1機

 Tu-144S 諸元

 エンジン:クズネツォフNk-144 ターボファン x4

 乗員:3名 乗客 120名

・全幅:28.8m ・全長:65.7m ・全高:14.4m ・自重:91.8t ・最大離陸重量:195t

・最大速度:マッハ2.35 (2,560km/h) ・巡航速度:マッハ2.07 (2,200km/h)

・航続距離:3,080km      (2023年ウイキペディア「Tu-144」より抜粋)

 

 Tu-144 (航空軍事用語事典より)

 ソ連のツポレフ設計局が開発した世界初の超音速旅客機(SST)。1963年に開発が始まり、1968年12月、初飛行した。

 機体は主にアルミ合金を使用し、主翼にはTsAGIの研究成果を取り入れた「オージー翼」が採用され、前縁後退角が外翼部に移るにしたがって緩やかに変化し、翼端部では丸みを帯びた形状になっている。エンジンはクズネツォフ設計局のNk-144ターボファン4基を機体中央に備えていた。(原型機)

 改良量産型のTu-144Sでは主翼をオージー翼からダブルデルタ翼に変更し、機首に引込式の先尾翼(カナート)が装備され、着陸時の安定性が改善している。エンジンもより推力の大きいNk-144Aターボファンに換装され、エンジン排気による機体後部の過熱や振動などの改善のためそれぞれ2基1組に分けて配置された。また機体には高い圧力と熱、金属腐食に対処するためチタニュム合金が広い範囲に渡って用いられた。

 さらにその後作られた性能向上型のTu-144DはエンジンをNk-144からコレゾフ設計局のRD-36-51ターボジェットに換装して性能を向上している。

 しかし、コンコルドと違い超音速飛行時にもアフターバーナーを焚き続けなければならなかったため、燃費が劣悪であった。アエロフロートでは貨物機として運航させたが、程なくして中止され、最終時に16機が製造されるにとどまった。(2023年「コンコルド」全文転記)

 

 このタイトルから

 タイトル「マッハ2でする飛行 コンコード」、記事は超音速旅客機コンコルドのこと、1970年に書かれたものです。その中で、「ボーイングのSST」とはボーイング2707のこと、コンコルドは当時、「コンコード」とも呼ばれていました。1970年代、超音速旅客機、コンコルド、ツポレフTu-144、ボーイング2707が出揃いました。

 超音速旅客機 年表

1960年:フランス、「シュド・シュペル・カラベル(オージー翼機)」開発を開始

1961年:イギリス、「ブリストル223(デルタ翼機)」開発を開始

1962年11月:シュド案(仏)とブリストル案(英)が統合

         コンコルド計画として英仏共同を発表

1962年:ソ連、ツポレフ「Tu-144」の概要を発表

1963年6月:アメリカ、FAAから国産超音速機計画の要求仕様書

        ボーイング社、ロッキード社、ノースアメリカン社の3社に送られる

1963年7月:ソ連、「Tu-144」の開発を開始

1965年:アメリカ、国産超音速機計画

      ノースアメリカン案、「NAC-60(デルタ翼機)」

      ロッキード案、「L-2000(ダブルデルタ翼機)」

      ボーイング案、「2707(可変翼機)」 をFAAに提出

1966年12月:アメリカ、国産超音速機計画にボーイング案、「2707」が採用される

1967年11月:コンコルド計画、「コンコルド(原型機)」を公開

1968年10月:アメリカ、「ボーイング2707」可変翼計画からデルタ翼(固定翼)計画に変更

1968年12月:ソ連、「Tu-144(原型機)」初飛行

1969年3月:英仏共同開発機、「コンコルド(原型機)」初飛行

1969年9月:アメリカ、「B 2707」実物大モックアップとプロトタイプ製作を開始

1971年:ソ連、「Tu-144S(量産機)」初飛行

1971年5月:アメリカ、国産超音速機計画を中止 「ボーイング2707」は製作を中止

1971年7月:「コンコルド量産型」初飛行

1975年:「コンコルド」、エールフランスと英国航空で就航開始

1975年12月:ソ連、「Tu-144S」、アエロフロートで初就航

1976年1月:「コンコルド」、エールフランスと英国航空で定期運航開始

1976年11月:「コンコルド」、16号機をもって製造を終了

         生産機は試作機4機、量産機16機

1978年6月:ソ連、「Tu-144」の運航を停止

1996年11月:ソ連、「Tu-144LL」初飛行 1999年4月までテストに使用

2000年7月:「コンコルド」墜落事故

2003年4月:「コンコルド」の商用運航、停止を発表

        エールフランス機は5月、英国航空機は10月をもって飛行を終了

 

 「コンコルド」のことを佐貫先生は著書「飛行機の再発見 複葉機からSST」の中で「協調の翼コンコルド 未来にかける橋」と題して、コンコルドの機体構造を構造図を添えて分かり易く解説されています。そのまとめの総説の終わりに、コンコルドもドイツ人が開発したアルミニュウム合金、応力外皮主翼とモノコック胴体により作り上げられたとし、「メカニズムに関する限り、ドイツ人の世話にならなければならない。やはり宿命であろう。」と、ドイツ人を礼賛してこの本を結んでいます。コンコルドが運航した22年間、その機体のメンテナンスを続け運航を支えたのはエアバス社。エアバス社は西ドイツ、エアバス社とフランス、アエロスパシアル社が共同出資して設立した会社です。

 

 次のタイトルに進めます。最終タイトル4-15「明日の顔 バルキリー」、バルキリーとは試作戦略爆撃機XB-70の愛称です。コンコルド初飛行の1969年3月の5年前、1964年7月に初飛行、1966年1月にマッハ3の飛行に成功しています。(R5・12・3)

 

 このタイトルの挿し絵から

 絵は、ツポレフTu-144(原型機)です。一時、コンコルドスキーなどと呼ばれたこともありました。絵に見る4基のエンジンの配置、主脚取付位置、コンコルドとの相違点がよく解ります。当時、発表された写真をもとに描かれたものと思います。Tu-144の画像で検索してみましたが、これに相当する写真は見当たりませんでした。ただ、画像集の中にプラモの箱絵として描かれたTu-144原型機の画が見つかりました。垂直尾翼側面上部にソ連国境、その下にTy-144、胴体後部にブルーのラインを挟んでCCCP-68001、主翼左翼上面にCCCP,右翼上面に68001と大きく書かれています。

 タイトル記事にはTu-144のことは書かれていません。記事が書かれたのは1970年、東西冷戦の最中、ベトナム戦争中でもあり、世界で最初に飛行したSST、とソ連機を称賛することを書くことを控え、記事に替えてそれと分かる絵を載せたように思われます。

 挿し絵にある「Ty-114」は書体からみて後に書き加えられたように見えます。故意に114としたのか、写真にある144が114に見えたのかは分かりません。今も大変”キ”になっています。(ロシア語のyは、英語のu)

 コンコルドスキー (ビクシブ百科事典より)

 コンコルドにソ連が対抗して開発したTy-144に西側が付けられた蔑称。NATOはこの機体に対して「チャージャー」というコードネームを付けていたが外見がコンコルドに非常に酷似していた。そのためソ連のスパイ活動によるコピー説が広がり西側の人々はこの飛行機を「ロシア人には「○○スキーという姓の人が多い」というステレオタイプから「コンコルドスキー」と呼ぶようになったという。但しロシア語では名詞にスキーが付くと「~の」という意味の形容詞になる、そのため「コンコルドスキー」はただ単に「コンコルドの」という意味になる。(一部省略)

 

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