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小田原のプレパに行ってきました!

ほとんどたまーにしか更新しなくなってしまったブログでございます、スミマセン(・・;)

でも、今日は震災以降の流れから、また新たなご縁があったので
久しぶりに書いてみようかな、と♪


今日お伺いしたのは、
PP@seisho
の上府中公園プレパ☆


そもそも、私とプレイパークとの出会いは気仙沼。

Youth for 3.11のプログラムで南三陸に行き、
「もうちょっと他のボランティアの形も見たい!」
と思って応募したのが、プレイパーク。

気仙沼のプレイパークに行く研修で、
当時住んでいた茨城県のつくば市にもプレイパークがあることを知り、
そこに遊びに行ったらキャンプも参加させていただけることに。

さらに、地元の神奈川県小田原市にプレイパークをつくろう、という動きがあることを聞き、
いろいろあって連絡を取らせていただいて、
やっと今回参加☆


震災からもうすぐ2年が経ちますが、
あの日をきっかけに、確実にいろいろな人との繋がりが広がっていて、
また今日もそれを体感することが出来ました。


さて、今日のプレイパークは生憎の雨模様…だったのですが、
だんだん雨があがって、少し晴れ間も。
来てた子の日頃の行いが良かったかしら!?笑


3・4か所のかまどやガスコンロを使って、青空レストラン!

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みんなで伸ばして切った手打ちうどん、
竹串に刺して火であぶってとろとろにしたマシュマロ、
棒にパン生地を巻きつけてかまどで焼く棒パン(写真)、
その他、持ち寄りのフランクフルト、リンゴ、お芋、おにぎり、バナナなどなど…

外で食べるご飯はまた格別でした☆


大人が舌鼓を打っている頃、
子ども達は頭のてっぺんから足の先まで泥んちょになって遊びまわってました(笑)

でも、全身で土の感触、水の感触を確かめられるのが、プレイパークの醍醐味!

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今日会ったばかりの子ども同士もいるのだろうけれど、
プレパに来たらみんな友達!

走り回って、笑い転げて、泥投げ合って、
本当に楽しそうでした(^^)


子どもにとっても、
大人にとっても、
いろんな人と会えて、いろんな人と話せて、いろんな経験ができるコミュニティがあるのって、
とても大切なことだと思います。

私は今回初めて参加させてもらいましたが、
小田原にも、こういうステキなコミュニティがあるんだな、と知って嬉しくなりましたし、
機会があればまた是非参加させていただきたいな、と思いました!


ステキな出会いに
感謝キラキラ

ブログを書く意味


この間、後輩に「なんでブログを書くんですか?」と聞かれた。

私自身、なんとなく思うところがあってブログを書いているわけだけど、その理由を聞かれ、改めて文字にしておこうと思った。

理由はいくつかある。


1つ目は、自分の思いを相手に伝えたいから。
ブログを始めたきっかけはこれだった。

被災地に実際に行き、私が見たこと、聞いたこと、経験したことを、誰かに伝えたいと思った。
伝えなきゃいけないと思った。

実際に、見たり、聞いたり、経験したりしていない人に、私が触れたのは全体のごく一部であれ、伝えたい、伝えなきゃ、と思った。

身近な人に直接話すのが一番だけど、ブログなら不特定多数の人に伝えられる。
正式な書籍や投書ではないから、長さや文章も自分で自由に変えられる。
多少、私の認識不足や誤解があっても、そこはブログ。許容範囲が広いかな、なんて甘えも少々。


2つ目は、自分の思いを整理したいから。

私はたぶん、話すより書いたほうが思考を整理しやすいタイプの人間。
話してると、話題があっちこっちに飛んで(書いてても話が飛ぶことは多々ありますが)、本当に伝えたかったことが何だったか、分からなくなることがある。

思いを文字にすると、伝えたかったことが何なのか、振り返れるし、自分がどんな点に疑問を持っていたり問題意識を持っていたりするのか、再確認できる。
書いて改めて「自分ってこう思ってたんだ」と気付くこともある。

だから、何か思ったことがあった時、人と話す前に文字にしておくと、自分の立場がより鮮明になったりする。
他の人に、「この点に対してどう思うか聞いてみたい」という疑問提示もしやすくなる。

逆に、人と話して、「何か食い違ってる」と思った時、その後文字に著してみると「こんな相違点があったから食い違ってたんだ」と気付けるときもある。


3つ目は、文字を書く練習。
これは、ちょっと付加的。

ブログは必然的に誰かに見られることを想定して文章を書く。
だから、分かりやすいように、読みやすいように、文章を構成する。

…のが目標だけど、だいたい自分の考えをまとめながら書き進めているから、散文になるのです。


最後は、問題意識の投げかけ。

ブログに書くことによって、読んだ人が「こういう問題意識を持つ人もいるんだ」「この問題に対して、こういう意見もあるんだ」と気付いてほしい。

その上で、それぞれ「私はこう思う」と、画面の向こうで考えてくれたら嬉しい。

“問題”は、その人自身がその事象を“問題”と認識しなければ“問題”たりえない。

たとえば、日本における結婚や育児による女性の離職率の高さ、という事象は、
ある人にとっては「男女差別だ」として“問題”だし、
ある人にとっては「少子高齢化で労働人口が減少する中で、女性も労働力として活用すべき」として“問題”だし、
またある人にとっては、特に関心のない話題(=“問題”ではない)だったりする。

そういう、“ある事象”に対するブログを書くことで、「これを“問題”と見る人がいるのか。じゃぁ、自分にとっては“問題”だろうか、それとも、看過してよい事象だろうか。」と、改めて考えるきっかけになれば良いと思っている。


ブログは、人それぞれ書く目的が違うと思うし、違って当たり前だと思う。

けれど、せっかくこれをお読みいただいた方には、
「この人は、どんな想いでブログを書いているんだろう」
「自分は、なぜブログを書いているんだろう」
と、今一度考えてみていただけたら幸いだな、と思います。

備忘録…ハートネットTV 9月24日

9月24日のハートネットTVは、
「シリーズ貧困拡大社会 行き場をなくした女性たち」の第1回。

大きく分けて2部構成。

1部は、40代の女性を取り上げていて、
彼女の状況は3人の子ども持ち、夫とは別居状態、離婚調停が出来ていないため養育費をもらえない。
パートで生活費を稼いでいたが、2年間うつ病を発症、無職期間の借金返済のため、デリバリーヘルスで働く。

生活保護を受けることも考えたが、様々な制約があり、子どもも好きなことを出来なくなると知って、少ない収入で生計を立てようとしている。
生活費のために働く時間が長く、子どもとコミュニケーションが取れていない。
せめて大学まで進学させたいと、風俗店での勤務を続けている。

生活保護というフォーマルなセーフティネット。
短時間で高額を稼げる風俗店という、インフォーマルなセーフティネット。
インフォーマルであれ、社会のセーフティネットとして機能を持ってしまっている風俗。
そこで働くことがタブー視され、そこで働いていることがフォーマルなセーフティネットを利用する妨げともなっている。
しかし、本当に必要な支援とは、インフォーマルなセーフティネットに手を出さざるを得ない状況にある人なのではないか。

…ちょっと別視点だけれど、取材を受けていた日、その女性が受けた仕事は1件だった。
その日の手取りは7,000円弱。
値段じゃない。
値段じゃないとは思うけれど、自分の身を削って、心も削って、子どものためと我慢して働いた報酬が7,000円弱。
性が消費財として見られていることへの憤りというか、虚しさというか。

風俗店が「短時間で高額を稼ぎたい」人の働き先として候補に挙がってしまう。
もっと他にも働き方があることを知らせなければならないし、
働き口を作らなければいけない。

(誤解を招くかもしれないが、)風俗店で働くこと、働いている人を否定はしない。
けれど、やむなくそこで働く人がいるのであれば、他の選択肢を用意しなければいけないと思う。


2部は、家を持たず歌舞伎町で寝泊まりする20歳の2人組の女性。
それぞれ家庭の事情で家には帰らず、ホテルやカラオケで夜を明かし、キャバクラなどで働く。

「この状況を脱したい」とは言うものの、「大卒でさえ就職が難しい時代に、高校を中退し、16歳から家に帰っておらず、職歴は飲食店や風俗店。そんな自分が定職につけるとも思わない。」と語る。
「今が楽しいからそれで良い」とは思っていない。
彼女なりに社会を分析し、(しかもそれはかなり正確でもある、)現状維持しか選択肢がないと思っている。

1人は、親から虐待を受けた経験があり、大人を信用できなくなったと言う。
「自分自身を大切にする」という感覚もない。

2人とも、「人に囲まれてないと死んじゃう」と。寂しさが怖い、とも。
「自分」が分からなくなってる。
人と居ることで、かろうじて「自分」を保っている。

20歳という若さで、社会に対して、自分に対して持つ絶望感の大きさが量りしれない。
「まだまだこれから」と言える年齢なはずなのに。

自身の責任ではなく負ってしまったレッテルを、どうしたら剥がせるのか。
剥がせなくとも、それを受け入れて更生できる道筋を、どうやったら示せるのか。



母子家庭=貧困、貧困=不幸、ではない。
父母が揃っていて、収入が潤沢であれば問題がないわけでもない。

けれど、この番組が伝えたかったのは、
こういう事実があること、
貧困を救うセーフティネットがどのように機能しているかチェックする必要があること、
就いている職種だけでその人を評価するのは不十分であること、
若者の更生に少しでも理解を深められること、
そういうことだと思う。




駄文・散文ですが、備忘録として書かせてもらいました。

表現。

今日、知り合いが出ている舞台を観てきました。
すごく久しぶりに会ったんだけど、
本当に全てがステキでした。


私はミュージカル好きだけど、お芝居も好きだし、
歌や小説や映画も好き。

どれも、「それが好き」って大きい声で言えるほど通じゃないし
何十作も観たり読んだりしてる訳ではないけれど。

その世界に、憧れもある。
…もちろん、その道で生きていこうなんぞは思ってないないけれど。

それで、
「なんでこういうのが好きなんだろうなぁ~」って電車の中で考えてた。


行きついた答えは、きっと、
“表現してる”
からだ。


私も、生きてる中で一応いろいろと思う事はある。

こういうの好きだな、ステキだと思う、
コレをいろんな人に知ってほしいな、
こういう考えを持つ人が増えたら良いな、
あの人、もっとこうしたら良いのに、
社会がもっとこうなったら良いな、
日本がもっとああなったら良いな、
世界がもっと…


だけど、それを語る術を私は持っていない。

インターネットは普及してるけど、そこで表現しきれる語彙力は持ってない。
直接会って話せる人数にも限りがある。
思いを伝えるのだって、苦手。

でも、それを
ミュージカルやお芝居や歌や小説や映画は、やってのける。

もちろん、「こう思う」っていうのを言葉で伝えた方が、
直接的で伝わりやすい時もあるかもしれない。


けど、そうやって直接的に言わないからこそ、心に刺さることってあると思う。
それが私にとっては舞台であり、小説であり、映画であり。

フィクションで、抽象的で、断片的で、時には理解困難で。
それだからこそ、自分でいろいろ考えさせられる。感動させられる。

私が「こうなったら良いな」って漠然と思ってることを、
多くの人に
感動と共に伝えられるから。

私は、舞台が好き。



こうやって思ったのは、
石田衣良さんの『約束』のあとがきを読んだから。


『約束』の中の作品のひとつは、池田小の事件を受けて弔いの気持ちを込めて書いたそう。

あんな凄惨な事件は、もう起こってほしくない。
そういう想いで小説が生まれた。


“犯罪を計画していた人が、この小説を読んで思いとどまった”
なんてオメデタイ話はさすがにないだろう。
殺人を計画している人が、この本を手に取るとは思えない。

けれど、この小説を読んでちょっとでも心が安らかになって、
その想いを胸に人と接する人が増えたら?
近くに助けを求めてる人、悲しんでいる人、怒りを抱えている人の支えになれるかもしれない。
そしたら、もしかしたら、陰ながら犯罪を防いでいるかもしれない。


そうやって考える私は、オメデタイ人間かもしれない。
ポジティブすぎるかも。
…「人生はもっと苦いぞ」って待夢磨心(タイムマシン)に乗った未来の自分に言われちゃうかも?(…コブクロ好きな人なら分かるかな?笑)

それでもやっぱり、
1人でも多くの人が
近くに居る人を1人でも多く支えられるような人になれば、
この世界も良くなっていくんじゃないかな、って思うんだ。


だから、そういうアプローチをしている人を、羨ましく思う時もある。


でも、自分は自分なりのやり方で進もう。
舞台じゃなくても、いろんなやり方があるよね。
それを探して行くのが、私の課題。

『カッコーの巣の上で』(相当散文・長文です)


一昨日、友達がツイートしてた『カッコーの巣の上で』っていう映画を観た。

素行があまり良くない男性が精神病院に入れられて、そこから脱走を計る物語。
…いや、そんな単純な話じゃないな。

で、今日の新聞に精神病院の話が載ってた。
認知症を発症したお父さんを精神病院に入れたんだけど、
そこから加速度的に目に光がなくなっていって、
半年後に病院を変えたけど、最初から別のところに入れていたらそうはならなかったんじゃないか、と後悔する方の記事。

数週間前は、スウェーデンの老人福祉の連載があった。
スウェーデンでは、日本の様な延命治療はメジャーではなく、
ケアをしながら出来るだけ在宅やそれに似た環境で死を迎えるのが主流のよう。

このスウェーデンの治療の話、記事を取っておいていなかったから、今うまく表現する言葉を選んでいたけど、
私の頭の中に浮かんだのは「人間らしく生きながら死ぬ」。
もちろん、多いな議論の余地がある言葉だと思う。
「人間らしく」って何なのか。

スウェーデンでは、胃にチューブを通して栄養を入れるなんて考えもしない人が多いらしい。
「胃に穴をあけて栄養補給までして生きるなら、ぎりぎりまで楽しんで死にたい」
そんな意見がありそうな。

一方、日本は出来るだけ命を長引かせようとする医療。
戦争で「命を粗末にした」経験が背後にあるとも言われる。

確かに命は大切にしたい。
救える命はできるだけ救えるような体制が整えば良いと思う。
植物状態と診断された人が目を覚ました事例も0じゃないはず。
死に際にあった人が救われた例や、それによって家族の絆がより一層深まった例だってあるはず。

けれど、助かったその人がその後「楽しい」「生きてて良かった」と思えないような命の救い方は、どうなんだろう?

こう書いてきて、「患者さんの年齢にもよるな」と思ったけれど、なんかそれも違う気がする。
もちろん、若い方が回復力は強いけれど個人差もあり、若いから助かる、年寄りだから助からない、とはいかない。

この間、「もし自分が余命宣告されたら、どうしようかな…」なんて考えてた。
「手記書いたりできるかな」「舞台立ったりできるかな」とあれやこれやといろいろ浮かんできたところで、「あれ?」と思った。
メディアでは“余命宣告を受けた人”“障害を持った人”の願いを叶える企画がたくさん取り上げられている。
(もちろん、それらを批判する気はないし、願いを叶えるようなサポートはどんどん進めてほしい)

けれど、ゴールが見えた途端にいろいろやりたい事が出来るようになるんじゃないか、っていう自分の発想を批判したい。
「余命宣告を受けたら願いが通る」なんていうのは(健康な私の)ただの我が儘、甘え、現実逃避だ。
本当にやりたいことなら、今、死ぬ気でやれば良い。
メディアに洗脳されてた部分が少なからずあるな、きっと。反省。

…でも、そういう状況になった人の「願いを叶える」のはとても大事だと思う。ちょっと矛盾するけど。
願いを叶えるために本人も周りも努力することで、本人も周りも大切なことに気付けると思うし、達成感もある。
その願いを訴えるのが我が儘だったり甘えだったり現実逃避だったり思えるのが今の社会で、
それはきっと、願いを訴えるのがイレギュラーだから…かな。
そういうプロジェクトが広まっていったら、もっと多くの人が願いを訴えて、周りが実現に向けて取り組んで、いろんな事に気付けるんじゃないだろうか。命の大切さ、とか。


話が散乱してきた…。
身体的に無理が生じる延命治療より、動けるうちにたくさん動き、満足な終末期を迎えられるような体制があっても良いのではないか。
そのためには、患者さんや家族の願いを叶えるサポートが充実される必要があると思う。
あとは、元気なうちに“万が一”のことを話しておくこと。
「不吉」と捉えられそうだけど、大事なことだと思う。私は出来てないけど…

頭の中が整理されないままに書き始めて、相変わらずぐちゃぐちゃ(苦笑)
メモ書きみたいな感じになってますね。
散文ですみません。。。