natsuhoのブログ -11ページ目

おもしろくて、カワイくて、深い話。

今日、おもしろカワイイ…けど考えたら深い…ことがあったのでメモメモ。


3歳児の遠足に行きました。
すると、この生き物のオリがありました。





Aくんが「あっニホンザルだ!!」と言いました。
すると、Bちゃんは「ちがうよ!!」と。

Aくん「ニホンザル!!」
Bちゃん「ちがう!!」

…子どものケンカはしばらく成り行きを見守ることが多いので、今回も見守ってました。


Aくん「ニホンザルなの!!」
Bちゃん「ちがう!!!」
Aくん "パシッ"

…あー、ぶっちゃった(^_^;)
Bちゃん半ベソ。

こうなったら、私登場。


まずは、AくんがBちゃんをぶっちゃったのはダメなことだよね…ってお話をして
Aくん「ごめんね」
Bちゃん「いいよ」
で、第一段階 仲直り。


さて。
私「Aくんは、この生き物なんだと思ったの?」
Aくん「ニホンザル。」
私「Bちゃんは違うと思ったんだよね。何だと思ったの?」


ここで、「ニワトリ!」とか言われたら、「ニワトリ見たことある?」って話になったんだけど、Bちゃんの答えが秀逸だった。


Bちゃん「………セカイザル」


世界ザル?!?!?!


えーっと……。
ニホンに住んでるからニホンザル。
じゃぁ、セカイに住んでたらセカイザル?
ニホンはセカイの一部だから、ニホンザルはセカイザルの仲間!?


間違ってない。
いや、むしろ、正しいかもしれない。


だって、ニホンザルって名前を付けたのは日本人で、別の地域にいたら別の名前だったかもしれないし。

そもそも、物の名前って人間が便宜上付けているだけで、ニホンザルと呼ばれている彼らは、自分が"ニホンザル"と呼ばれていることを知らないわけで。

だとすると、Bちゃんの言ってることの方が正しいかもしれない。

うむ。


…ここから先の大人側の対応には 正解がないわけだけど
今日のところはAくんに
「このお猿さんたちをニホンザルって呼んでる人が多いから、Aくんも間違ってない。
でも、このお猿さんはこの世界に住んでるから、Bちゃんのセカイザルっていうのも、先生は間違ってないと思うな。」
ってお話したら、ここは3歳児。

よく分かんないけど「なら、このオリの中に居るのの半分がニホンザルで、半分がセカイザルなんじゃない?」って納得してた。


子どもが自分で考えて、自分で納得してくれたらそれで良いのです。

学校に行ったら✕付けられそうな答えでも、幼稚園の間はそれで良いのです。

私はそう思うから今日のところはそれで話をおしまいにしました。


Bちゃんの発想力にカワイイなって思いながら、
でも実は物の名前に正解なんてないんだよな、って考えちゃって、深いな〜って思った出来事でした。


おしまい♪

悲しいこと、残念なこと

http://news.yahoo.co.jp/pickup/6208994


「平成以降、殺人事件で最悪の死者数」


ものすごく痛ましい事件で、これについてはきっといろんな方面から議論が既にされているし、いろんな人が意見を表明してるし、これからも検証が進むんだろう。


個人的にもすごくショッキングだったし、悲しい事件だし、残念だな、と思う。


私にとって、何が悲しいのかと思ったとき、多くの命が失われたこともあるけれど、この事件によってたくさんの人が心を痛めているのが何より悲しい。


そして、多くの人がいろんな方向に怒りを感じているのも、また悲しいことなんじゃないか。




残念だと感じるひとつに「ああ、ワイドショーの格好のネタができてしまった」と感じたのがある。


自分がアンチ・ワイドショーの人間であるのが大きいんだけど、私にとって欲しい情報は事実であって感情ではない。


でもワイドショーは、事実(と思われるもの)を伝えながら、制作側の感情がいつの間にか刷り込まれ、それが正しいものであるかのように報じられる。


きっと世の中にはいろいろな視点があって然るべきなのに、気付かないうちにひとつの方向に集約されていく。


そのことに気付かない人が多いことに危機感を感じるし、ワイドショーを見ちゃうと、私だって「この意見が正しいのかな?」と思わされてしまう。



今回の事件は、犯人の心理、障がい者への視線、施設の在り方…いろいろな視点から議論が進むだけに、この一事件をもって偏った怒りを抱くのは違うと思う。

一方で、こういう事件が起こると、施設職員の待遇など今まで潜在化していた問題が浮上してくることもあるから、そういった議論が一時的な盛り上がりにならないでほしい、とも思う。





もうひとつ。


見出しに「平成以降、殺人事件で最悪の死者数」とあること。


もちろん、ある意味で事実だけど、ある意味で全く意味のない見出し…メディア的な見出し。


何が言いたいかって、この事件は…


“平成以降”

元号と事件を結びつける必要ある?天皇が変わっただけの時期の区切りと、事件の重要性は関係ない。

平成以降だろうが、ここ10年だろうが、凶悪事件であることは変わりない。

“最悪の死者数”

死者数が多いと最悪なの?じゃぁ、1人殺された犯罪は最悪じゃないの?

もっと言えば、命は失われなかったけど、心に大きな傷を残された犯罪は最悪じゃないの?


要は、「こんな事件が起きました!とってもひどい事件でしょ?さぁみんな、悲しみましょう、怒りましょう!」

…は言い過ぎだけど、そういうメッセージを感じる見出しな訳ですよ。


もちろん、痛ましいし事件だし、起きてはならないし、悲しいんだけど、それをメディアが助長してるのが、嫌。



だって、強姦事件とか命奪われなくたってずっと傷が残って苦しいはずじゃん。


通り魔で1人が殺されたって、その家族は1人の大切な人を亡くした悲しみでいっぱいのはずじゃん。

なのに、20人近い命が亡くなったら「最悪」…他は「最悪」じゃないの?って、きっと思う人がいる。




だから何?って話なんだけど、他の事件で心を痛めていた人が、またこの事件によって悲しみや怒りを感じていることが、やりきれない。




生きてれば絶対悲しみや怒りに出会うんだけど、立ち直れないくらい大きな悲しみや怒りには、出会う人が一人でも少なくなってほしいと思う。

『For Good』WICKDより

気が向かないと更新しない気まぐれブログ…
気が向いたので更新します(笑)


さて、私は知識も経験もない、ただのミュージカル好き。
でもミュージカルの「その場の人に感動を与えたり、考えるきっかけを作ったり」っていう要素が好き。

ただ「自分の周りの人を大切にしましょう」って言われても、いまいち響かない。
それがなぜか、ストーリーと絡めて、歌やダンスに乗せて運ばれてくると、感動と一緒にメッセージが響いてくる。

と、私は思う。
趣味や嗜好の問題はあると思うけどね。


だから、ミュージカルのナンバーを演者さんが歌うときって、その歌詞ひとつひとつをとても大切にしてると思う。
言葉の意味や言葉のイメージを捉えて、それが伝わるように大切に歌ってる気がする。

そういうミュージカルナンバーの歌い方が好きな中で、この動画を見つけた。

https://youtu.be/TZ0pXUb5jVU

私の大好きな『ウィキッド』より『For Good』。
元グリンダのクリスティン・チェノウェスと
元エルファヴァのイディナ・メンゼル。


芝居のワークショップで教えてもらったことがいくつかマッチして、何度も見た動画なのにまた泣きそうになったからメモしておく。


1つ目は、役と自分をハイブリッドさせて役を作っていく、ということ。

演じる時に、そのキャラクターになりきるのは当然とも言えるけど、全くの別人格を演じるのは不可能に近い。
自分とかけ離れすぎたキャラクターを演じても、リアリティがなくて、感情の動きが伝わっていかない。

そこで、「自分ならどうする?」って自分のキャラクターを入れ込むと、感情がリアルに近くなって観客も引き込まれる…


2つ目は、声にその人の人生が、その人そのものが、現れるということ。

張りがあってハキハキしてて大きな声だけがいい声じゃない。…もっと言えば、人を感動させる声じゃない。

苦労をして、挫折をして、辛い思いもたくさん乗り越えてきた人の声は、その人にしか出せない、感動を生む声になり得る…


さて、クリスティンもイディナも、イベントにそれぞれクリスティンとイディナとして呼ばれただろうけど、このナンバーを歌っている時の顔って、本人のままじゃない。
かと言って、完全にグリンダとエルファヴァになってる訳じゃない。

クリスティンとグリンダの感情が合わさって、クリスティンのグリンダ…グリンダのクリスティンになってる。
イディナも、イディナのエルファヴァ…エルファヴァのイディナに。

そして、役を演じてきた過程での山のような葛藤や苦労を乗り越えて、今の二人がいる。

そういった諸々の心の動きが全部、声に、表情に、動きに現れているから感動するし、2人が自然に手を取り合った時に2人の間に流れるものが感じられるから見ていて涙が流れる。

この短い映像なのに、見る者をこんなに感動させられるって、本当にプロ中のプロだ、って思った動画でした。

make your choice

ブログ更新、気まぐれなのでまただいぶ経っていました。

意外とブログを見てくれてる人がいると知り、「家のパソコンで出来る仕事を持って帰って、それを終わらせてから久々に更新しようかな~」と思っていたら、見事にその仕事ファイルを職場に忘れてきました(^_^;)

さて、先週の日曜日くらいにテレビで夫婦別姓を認めるかどうか…っていうのをバラエティで取り上げていました。
個人的には別姓賛成派。
ただ、私個人は一緒が良いな、と思ってる。

夫婦別姓賛成派だけど、個人的には夫婦同姓派。

だって、いろいろ選べる社会の方が良いじゃない?
同姓派の人たちは、今の法律のままで不都合はないし、別姓が認められたとしても同姓を選択すれば良いだけのことなんだから、何ら問題はない。

別姓派の人たちは、それぞれいろんな理由があるんだろう。
自分の姓に愛着があったり、姓を変えることで仕事に支障があったり。

…自分には無縁だけど、営業やってる人とかはいちいち「苗字変わりました」「あら、結婚したの?」っていうやりとりを日常業務に加えてしなきゃいけないんだから、大変だろうな。
そのくだりで、みんながみんなお祝い言をくれるとも限らないって考えると、いやな思いをすることもあるだろうし。

男性は命名するときに苗字とのバランスを考えるけど、女性の場合はそのバランスが崩れることもあるだろう。有名人と同姓同名になっちゃって、困ることもありそう。

そうやって考えると、拭えるコンプレックスは自分の意思で拭える社会になっていったら良いんじゃないか、その一端として別姓を認めても良いんじゃないかって思う。

選択肢が多い社会。

自分がリベラル(というにはあまりにも政治知識がなさすぎるけど)っていうこともあって、選択肢が多い方が良いな、と思うことが多い。

既存の制度を選択したい人は今のままで良いけれど、人の意識が変わってきた中で新しい選択肢を求める人もたくさんいる。

そういう人が、それぞれ自分に合ったchoiceをできる、周りがそれを認めてあげられる、そういう環境が整っていったら、いろんな人が生きやすい社会に近づくんじゃないかなぁ。

なんて、久しぶりのブログのネタを考えていたら、また長々と書いてしまいました(^_^;)
見たい人だけ見るのがブログだから良いよね!?お許しください(苦笑)

村山由佳

「読書家」と自称できるほどの読書量はないのだけれど、書を読むのは好きな方。

ジャンルは小説onlyというかなりの偏食っぷりで、実用書の類は読み始めても途中で飽きてしまうのだが、趣味の範囲なので偏食を自分で認めることにしている。

小説の中では、本屋や古本屋に行った時に“ビビッ‼︎”っときた作品を選んで読んでいるのだけれど、直感は自然と私の好きなジャンルを形成しているようで。
日常を切り取ったほっこり系、ライトなミステリー、過去の話題作、そしてラブストーリー。
自分の性格的に「ラブストーリー好きです」と言っているのが気持ち悪いのだけれど、趣味の範囲、趣味の範囲。

最近、村山由佳さんの『キスまでの距離』を読んだのだが、そのあとがきが印象的だった…というのが今回の本題。(ここまでは前置き。長くなりすぎたな。)

勝手に意訳させていただくと…
小説を書く時には、頭の中の引き出しにある、自分が経験してきたことを元にキャラクターを作っていく。
しかし、自分が経験してきたことだけではキャラクター設定に限界がある。
だから、意識的にいろいろな人に会って話を聞くことにしている。
その人の経験、その人のキャラクター、その人が出会った人のキャラクターを自分の引き出しに入れて、また新たな小説の中の人間を紡いでいく。
…のだと。

すごく納得しながら、小説家に限らずどんな仕事、どんな職業にも当てはまるんじゃないかと思った。

どれだけ多様な価値観に触れられるか、どれだけ多様な考え方に触れられるか。
触れれば触れるだけ、人として大切なものを獲得できるんじゃないか。

自分と価値観の違う人がこれだけいる、自分と考え方の違う人がこれだけいる、と知ると、それだけいろいろな人を受け入れられる懐が作られていくんじゃないか。

自分だけの狭い世界から、人と出会い、その経験を聞くことによって、新しい世界を知ることができる。

こんな人もいるんだ、居ていいんだ、
こんな時にはこんな考え方ができるんだ、
こんな風にすると、自分が楽にいられるんだ、
こういうことをするとマズイんだ…

「世界」というと大袈裟だけれど、人の経験を自分のものにすることで自分の経験が増えて、いろんな視点で物事を考えられるようになる気がする。


まどろっこしくなってきたが、要はいろんな人と会うのが大切なんだ、と村山由佳さんのあとがきを読んで感じたのでした。