マリリン・モンロー A-Z -9ページ目

M - ARTHUR MILLER(アーサー・ミラー)(4)

 映画スターと知識人の亀裂が決定的になったのは1960年、『恋をしましょう』の撮影中のことだった。マリリンは、まだ夫のことを愛情をこめて”Art””Arturo””Papa””Popsie”などと呼んではいたが、うわべだけの言葉だった。

 その時代の最高の芸術家だあったミラーが作品だけでなく、自分の存在そのものをブロンドの美しい妻に、犠牲的なまでに捧げてしまったことが、取り返しのつかない失策だった。

 夫がただの男で、救い主ではなかったと、マリリンが確信したときに、ミラーは彼女を失うことになった。

 新たな夢と安らぎを与えてくれる人間は『恋をしましょう』の共演者、イヴ・モンタンだった。
1960年7月、『荒馬と女』の撮影が始まろうとするころには、ミラーとマリリンの結婚は形だけのものでしかなかった。撮影が泥沼化した状態で終了したとき、2人はニューヨークへ発った。別々の飛行機で。

 1960年11月11日、マリリンはミラーとの離婚を発表した。その年のうちにミラーは写真家のインジ・モラスと結婚。その1年後にマリリンは亡くなる。
アーサー・ミラーは葬儀に参列しなかった。

 そのかわり、”After the Fall”(1964年)を書いた。この中に出てくるマリリン・モンローは『荒馬と女』で描いたマリリンの側面、ふしだらな一面である。
 ハリウッドの愛すべき女神の暗く、醜い、絶望的なポートレート。あからさまな自伝的叙述で非難を浴びた。

 だが、2人をよく知るポーラ・ストラウバーグは次のように語っている。
「アーサーとマリリンほど、やさしさと愛に満ちたカップルを見たことがない。
彼はマリリンをどんなに尊重していたことか。マリリンほど男に高く評価された女性を私は知らない」

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M - ARTHUR MILLER(アーサー・ミラー)(3)

 妻がカメラの被写体になることに、とやかく口を出す権限はミラーにはまだなかった。自分の悪口を書いているミラーの日記をマリリンが見つけたのもちょうど、その頃だった。
日記によるとミラーは新妻に失望していたようだ。マリリンはおそらくたいへんなショックを受け、ミラーの言葉に裏切られたような気がしたことだろう。

 何年もののち、マリリリンは家政婦で友だちでもあるユーニス・マレー夫人に打ち明けている。
「ある日、私のことが書かれてある日記を見つけたの。2人の私生活がなんでもかんでも書かれていた。愛していると言ってくれる男の人に、どうしてそんなことができるのかしら」

 ストラスバーグ・ファミリーを含めるマリリンの何人かの友だちは、この日記の一件がミラー夫妻の新婚生活が破綻していく始まりだったと振り返る。

 その後、まもなく2人はアメリカに戻り、マリリンは妊娠していることを知った。ロングアイランドのアマガンセットにあるレンタルの隠れ家の滞在している間、マリリンは併発症にかかり、ニューヨーク市の病院に駆け込んだ。そして流産。

 この悲しい出来事からアーサー・ミラーは『荒馬と女』を愛する妻のために書き始めた。
これ以前にミラーはマリリンを主人公にした”Please Don't kill Anything”を書いていた。
また、この頃著した戯曲集の扉には”MMに捧ぐ”とだけある。

 その後の何ヶ月かは夫妻はニューヨーク東57丁目のアパートメントとコネティカット州ロックスベリーの避暑地で暮らした。

 1958年、そして1960年とミラー夫妻はハリウッドに飛んだ。『お熱いのがお好き』と『恋をしましょう』の撮影のためだった。

 ピューリッツア賞受賞者のミラーが脚本の改訂版を書くことを余儀なくされたのは、”愛”のためだった。マリリンの要請だったのだ。

「マリリン・モンローという存在が、アーサー・ミラー夫妻の妨げにならないようにと私は自分に誓っていた」
                        (マリリン・モンロー)
(この項続く)

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M - ARTHUR MILLER(アーサー・ミラー)(2)

 1956年2月、マリリンはハリウッドに戻った。スタジオとの新しい契約、そして新たな結婚のために。
長距離電話をかけていたといわれる。

 マリリンはアーサーのことを”Mr.A”と言っていた。2,3ヶ月後の4月、”Mr.A”は離婚の手続きのためにリノに発った。

 妻と別れたあとで、ミラーは公式に次のように述べた。
「1951年、ハリウッドで私はマリリンに会った。友人の家でしばしば彼女を目にした。だが、2人きりで会ったことはなかった。だから、ロマンス(ロマンティックな恋物語)では断じてない」

 1956年6月11日、アーサー・ミラーは妻メアリー・スラッタリーとの離婚が認められた。ニューヨークに戻って、マリリンと合流した。『バス停留所』の撮影は終わっていた。
 数日後の6月20日、『ニューヨーク・ポスト』紙はマリリンとアーサーが7月16日までには結婚するだろうという記事を報道した。その日はマリリンの予定では『王子と踊り子』の撮影のためにロンドンに発つことになっていた。

 翌日(6月21日)ワシントンDCではミラーはマリリンと夫婦になることを認めた。

 ミラーは言った。
「マリリンはロンドンにミラー夫人として行くことになる」

 予想どおり、このニュースは世界中を沸き立たせた。人々はこの思いもよらぬカップルを「インテリとグラマー」と呼んだ。

 ミラーとモンローはマスコミの攻勢を受けた。
 ミラーはある記者にこう言った。
「きみたちの仕事対私のプライバシー。情け容赦ない利害の衝突である」

 2人を追い回している間に事故で、ある女性記者が亡くなった。2人はこうした騒ぎに終止符を打つことを決めた。
 6月29日に(宗教儀式によらず公吏の執行による)役所結婚を7月1日にユダヤ教による結婚式を行った。

「私がただお頭の弱いブロンドだったら、彼は私と結婚しようと思わなかったでしょう」
(マリリン)

 そして舞台はイギリスへと。アーサー・ミラーがマリリンの仕事を管理し始めたのは『王子と踊り子』の撮影中のことだった。これが当時マリリン・プロダクションの副社長のミルトン・グリーンと真っ向から対立するきっかけとなった。
(この項続く)

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M - ARTHUR MILLER(アーサー・ミラー)(1)

「私たち、とても気があうの。初めて本当に人を愛したという感じ。アーサーはまじめな人だけど、ユーモアのセンスはすばらしいわ。私たち、おかしなことをたくさん言って笑うの。彼に夢中よ」
                   マリリン・モンロー 1956年頃

「彼は作家としてすばらしいし、聡明な人。夫としてよりも作家として有名ね」
                   マリリン・モンロー 1962年頃

 マリリン・モンローが出会う前に、劇作家アーサー・ミラーはすでに1947年に”All My Suns”でニューヨーク劇批評家賞、1949年には『セールスマンの死』でピューリッツア賞を受賞していた。当時、アメリカの(現役としての)劇作家のトップの地位にあり、テネシー・ウィリアムズと名声を二分していた。

 ミラーは35歳にして、才能・成功・尊敬そして輝ける将来を手にしていた・・・それはマリリン自身がほしくてたまらないものだった。

 1950年12月のことだった。20世紀フォックス社の”All Young as You Feel”の撮影現場でマリリンは端役の秘書を演じていた。ジョニー・ハイドは亡くなったばかりだった。マリリンは頼る者もなく、ひとりぼっちで途方にくれていた。マリリンがスタジオの食堂を歩いていくと、二人の男がいた。

 仲間の俳優、キャメロン・ミッチェルが男たちをマリリンに引き合わせた。一人は監督のエリア・カザン、もう一人の「背の高い男」がアーサー・ミラーだった。そのとき、マリリンはミラーに一目ぼれしたといわれる。

「美と頭脳」(ビューティー&ブレイン)の奇妙な組み合わせはその週のうちに再び顔を合わせることになる。ファイマス・アーティストのエージェント、チャーリー・フェルドマン主催のパーティでのことだった。「ミラーはニューヨークに戻るとすぐにマリリンに手紙を書いた。

「大衆が求めるイメージで人々で魅了しているが、このゲームであなたが傷つくこともなく、このまま終わらないでいてほしいと私は望んでいます」

 出会いの初めの頃の口調からすると、ミラーは最初からマリリンに対して情け深いサマリア人のように守ってやろうという姿勢でいたのだった。

「彼(ミラー)は私の人生をちがったものに・・・よいものにしようとしていた」(マリリン)
                           (この項続く)

M - MEN(男たち)

マリリン・モンローはいわゆる典型的な二枚目の男たちに心を奪われたのではなかった。

たとえば、(前夫、元夫の)劇作家のアーサー・ミラーや大リーガーのジョー・ディマジオは、当時の人気俳優ロック・ハドソンやロバート・ワグナーといった 二枚目タイプではない。

マリリンが好む男性のタイプは年上でメガネをかけている。歯が完璧でなくてもいいのだ(たとえば総入れ歯だったといわれる俳優のクラーク・ゲール)。

完璧な歯の持ち主は身体の他の部分が完璧でないとマリリンは信じていたのだ。

マリリンは率直な男が好きだった。ストレートに何でも言ってくれるが、自分自身のことはあまり話さない男が好きだった。

1954年当時、もっとも「ステキな男性は」と聞かれて、マリリンの口から出たのはこんな男性の名前だった。マーロン・ブランド(俳優)ジョン・ヒューストン(映画監督)アーサー・ミラー(劇作家)ジェリー・ルイス(俳優)など。

女優のシェリー・ウィンターによるとマリリンは「寝たい」男のリストを作ったことがある。
リストにはーーーこんな名がある。
リー・ストラスバーグ(演出家)ジョン・ヒューストン(映画監督)エリア・カザン(映画監督)ハリー・ベラフォンテ(歌手)イヴ・モンタン(歌手)アーネスト・ヘミングウェイ(作家)アルバート・アインシュタイン(科学者)そしてアーサーミラーなど。このうち実際に実現したのは何人か?

リンカーン大統領が「好き」と言ったこともある。そのことについてケネディ兄弟はなんらコメントはしていない。

マリリンがほんとうに好きだったのは、一度も会うことがなかった「父」だったのかもしれない。口ひげをたくわえていて、どこか面影がクラーク・ゲーブルに似ている。

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M - MAKEUP (メイクアップ)

 マリリン・モンローは自分自身のメイクアップに関してはデビューする前から、「プロ」の腕前をもっていた。事実、1946年のスクリーンテストで、ノーマ・ジーン・ドアティは、メイクのプロがついていたにもかかわらず、自分でメイクした。

 しかし、ノーマ・ジーンがセットに入っていくと、カメラマンのレオン・シャイムは不満を示し、やり直すように言った。

 ノーマ・ジーンに同情したアラン・ホワイティ・スナイダーは、このとき初めて彼女のメイクを担当した。このときからスナイダーはマリリン・モンローのメイクアップ・アーティストとしての長い付き合いが始まった。

 マリリンのメイクの技法は誰もしたことがないもので、誰にもわからない・・・アイラインとシャドウの手法は他の誰もまねのできないものだ。口紅は特殊な塗り方をする。3種類の色合いのものをブレンドしたという秘密ののだ。

 セクシーな場面では濡れたような感じにするために、最初の口紅を塗ったうえに、グロス(ワセリンとワックスをまぜたもの)を重ねている・・・。マリリンのセクシーなイメージーをよりいっそう引き立たせる。

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M - MADONNA(マドンナ)

 伝説的人物は生きている。新しい人物として戻ってくるのだ。
(『エスクワイア』誌1986年3月号)
 
 60年代そして70年代初頭のマリリン・モンローにもっとも近い存在がアン・マーグレットだとすれば、80年代のマリリン・モンローはマドンナである。

「(二人を比較することは)マリリンのファンである私たちには、バカバカしく、腹立たしいことです・・・マリリンは真に美しい女性、ところがマドンナはビューティ・コンテストで優勝するためならソビエト以外のどんなところへでも押しかけていく、たぶん」(『ロサンゼルス・タイムズ』1986年7月)

 この投稿欄にマリリンの伝記作家であるモーリス・ゾロトフが自身の見解としてこう答えている。
「・・・モンローの伝記作家として最初の、そしておそらく最高の、また個人的にもモンローをよく知る人間として、二人を比較することはそれほど間違っているとは思わない。スクリーン上のモンローに、マドンナはある種、類似しており、女優という点では、マドンナはモンローをしのぐところもある」

 マドンナ・ルイーズ・チッコーネは1980年代の類まれなポップアーティストである。音楽ヴィデオで、またデビュー映画『マドンナのスーザンを探して』(1985)で、マドンナはカメラの前でセクシーで、滑稽な嬌態を演じ、信じられないほどの目だった存在としてスクリーンに登場した。それは1960年代初頭以来、私たちが口にすることのなかったものだ。

 卓越してユーモアのセンスを併せ持った『マテリアル・ガール』のヴィデオのマドンナは『紳士がお好き』のマリリンを彷彿とさせた。マドンナはみごとにやってのけた。咲き乱れんばかりのステージ、そしてスクリーンでのマリリンを踏襲しようとした女優たちの中で、人をひきつけてやまないモンローの魅力にもっとも近づいていたのはマドンナである。

 マリリンとマドンナの類似点は他にもたくさんある。ともにモデル出身である”トップ”になるために男たちを利用したのだという非難を浴びてきた。それぞれの分野で偉大なる男と結婚した(野球のディマジオ、劇作家のアーサー・ミラー、映画のペン)。

 無名で貧しい時代、ヌードになった。のちにその写真が世に出たときには一大センセーションを巻き起こした。二人ともカメラの前に立つことが大好で、自信たっぷりで被写体となる。あらゆる分野で非凡なる才能を発揮した。

 マドンナがマリリン・モンローを崇拝しつつ成長してきたことは驚くことではない。マドンナを見れば分かる。マリリンのキャリアをしっかりと学びとってきた。マリリンはさぞかし誇りに思っていることだろう。

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L - NATASHA LYTESS ナターシャ・ライテス

ナターシャ:あなた、すてきよ。愛しているわ。
マリリン:愛してくれないくていい、教えてほしいの。

「彼女(ナターシャ)はすばらしい先生だったけど、私が男の人に会うとヤキモチを焼くの。私の夫のつもりでいるのよ!」
(マリリン・モンロー)

「私は彼女に歩き方、呼吸の仕方を教えた」
(ナターシャ・ライティス)

 マリリン・モンローはナターシャ・ライテスに初めて会うときに、25分遅刻した。1948年の4月のことだった。マリリンはコロムビア映画と6ヶ月の契約を交わしたばかりだった。当時、ナターシャはコロムビアの演技のヘッド・コーチだった。
 コロムビアの人材部長マックス・アーノウと『レディース・オヴ・コース』
(1948)のプロデューサー、ハリー・ロムがナターシャにマリリンとの仕事を依頼した。

 ナターシャとマリリンの固い絆は『七年目の浮気』(1955)の撮影終了まで7年間続いた。ナターシャは他の誰も相手にしなかったとき、真剣に女優として扱った。
「マリリンには外見以上のものがある。みんなマリリンを見ただけで、典型的なハリウッドのブロンドだと思ってしまうのが問題なの。それはしかたがないことだけど。マリリンの内面は肉体には合っていないのよ」

 弟子に寄せるナターシャの信頼は強いものだったので、1950年にマリリンが『アスファルト・ジャングル』の契約を交わしたとき、それまで仕事をやて、マリリンの演技コーチとなった、
 1951年のあと、『クラシュ・バイ・ナイト』の撮影が始まると、ナターシャがいないと仕事をしないと言うようになった。
「毎日のラッシュ(未編集のフィルム)にはマリリンのシーンがたくさんあって、セリフ合わせが終わるたびに、マリリンの目は私をさがした。うまくいったかしらと私を見るのだった」
(ナターシャ・ライテス)

『ノックは無用』(1952)撮影の準備のために、マリリンはナターシャとともに、ハーバー・アヴェニューのウエスト・ハリウッドの家に引っ越してきた。関係者たちはマリリンに対するナターシャの影響力を尋ねるようになった。マリリンはナターシャに車と毛皮のコートを買ってあげた。また、ナターシャを20世紀フォックスの社員にしてもらった。

 ハリウッドでは、マリリンとナターシャがレズビアンではないかという噂が広まった。これはニューヨークでのマリリンのメイド、レナ・ペピトーンやコラムニストのフローラベル・ムールによる証言もある。

 真偽のほどはともかく、ナターシャはマリリンが男と関係をもつことを快く思っていなかった。ジョー・ディマジオとの関係は真っ向から反対していし、ディマジオのほうもナターシャをよく思っていなかった。
ディマジオとの関係が深まるにつれて、ナターシャとの仲が悪くなっていったのは間違いないだろう。

 1956年、『バス停留所』の撮影でハリウッドに戻ってきたとき、まだ20世紀フォックスで仕事をしていたナターシャと対決しなければならなくなった。「もう、あなた必要ないのよ」と言わなければならなかった。
 ニューヨークで、マリリンは新進気鋭の優秀な演技コーチ、ポーラ・ストラスバーグの存在を知ったからである。

 ナターシャは1964年にがんで亡くなる前に、自伝的な記事『マリリンとの日々』を書いている。
マリリンがナターシャを利用した(そして無残にも縁を切った)の事実なば、ナターシャもマリリンを利用したということは否めない。マリリンを通じてナターシャは喝采を浴び、名誉を手にし、経済的な報酬を得たのだ。

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L - LOVERS(愛人たち)

マリリンはジョニー・ハイド(プロデューサー)の愛人だった。20世紀フォックスの会長、ジョセフ・スケンクの愛人でもあった。他の大勢の人間とも関係があり、多くの男たちとこともなげにベッドをともにしたのだった。一般的な道徳の規準からすると、マリリンのふるまいは欲望のままにしたがう不道徳なものだったのかもしれない。

シャンペンの勢いで私はクラーク・ゲーブルになった。マリリンと私はカウチの上で熱く口づけを交わし、互いに求め合った。天にも昇る気持ちだった。やがて、私たちは裸になってベッドへ・・・ドン・ペリニオンはいつも媚薬となる。
(ジェームス・ベーコン、コラムニスト)

彼女はふいに笑い出し、私のベッドに腰を下ろした。「あなたって、写真にしか興味がないの?
おかしいわ。ふたりの男女が毎晩いっしょにいると、どっちかが相手にお願いだからっていうものよ」
彼女は胸にあてていた白いビーチタオルを落とし、私に腕をまわしてキスた。
そして囁いた。
「自然にまかせましょうよ」私たちはそのとおりになった。
(デヴィッド・コノーヴァー、カメラマン)

数えきれないほどの男たち・・・そして何人かの女も(ナターシャ・ライティスなど)マリリンと関係を持ったといわれる。

マーロン・ブランド(俳優)、ハワード・ヒューズ(新聞王)エリア・カザン(映画監督)イヴ・モンタン(歌手)フランク・シナトラ。そしてケネディ兄弟も。

L - LATENESS(遅刻)(2)

「9時に集まるように言われたときは、やってくるのは11時さ。それは調子のいいときのこと。みんながランチをとって戻ってきても、まだやってこないこともあるさ。3時まで姿を見せないこともあった」
(トニー・カーチス『お熱いのがお好き』の撮影で)

「いま、こうして誰かを待たせているって、おかしな満足感があるわ。でも、ほんとうに罰したいのは違う人たちよ。遠い昔、ノーマ・ジーンを必要としなかった人たち・・・遅れれば遅れるほど、ノーマ・ジーンは愉快になっていく
の」
(マリリン・モンロー)

「彼女に言ってやることは、『スクリーンでは貴方だけなのよ。映画を作っているの他の人ではないの、貴方がスターなのよ!制作費のことが気になるのは素人よ!』」
(演技コーチと務めたポーラ・ストラスバーグ『エンクワイアー』誌1961年3月号)

「私が遅れたり、姿を見せなかったりすると、スタジオは何千ドルものお金がかかってしまう・・・私にはどんな手立てがあって?組合に入っていないのだもの」
(マリリン・モンロー)

「悪い癖だとはわかっているわ。でもね、支度ができていないというのに、どうすればいいの?一生のうちに心が痛むということの半分はあわてて何かを決断をすることが原因よ。のんびりと急ぎましょう」
(マリリン・モンロー)

「もし、彼女が朝の9時にやってくる予定のときは、私は手帳に夜の7時と書いておく・・・それからその日1日の計画を立てるのだ」
(カメラマン、リチャード・アヴェドン)

「他の女優が1時間やってくるよりは、2時間遅刻して現れるマリリンをとる。
・・・そうすると、こういう疑問がわいてくる。6時間遅れてくるときは、どう感じたらいいのだろう?」
(ビリー・ワイルダー監督)

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