マリリン・モンロー A-Z -7ページ目

マリリンモンロー P - PRESS CONFERENCES(記者会見)(2)

 1956年2月9日の正午、ニューヨーク、プラザ・ホテルのテラス・ルームでマリリン・モンローとローレンス・オリヴィエはテレンス・ラティガンの『スリーピング・プリンス』を共同制作すると発表した。これはマリリン・モンロー・プロダクション設立後、初めての制作で、二人の共演に加え、オリヴィエが監督、マリリンがプロデューサーを兼ねるものだった。200人もの記者やカメラマンが集まった。
 おそらく、20世紀フォックスから圧力をかけられたものと思われる批判的な記者もいて、マリリンに辛らつな言葉を浴びせる場面もあった。マリリンのプロデューサーという新しい挑戦にも好意的な関心を示さなかった。
 この日のマリリンは黒いベルベットの、体にぴったりとしたドレス。
 記者会見の最中に、偶然か、あるいはデザインのためか、ドレスの片方のストラップが切れてしまった。当然のことながら、会見の場はちょっとした騒ぎになった。
『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』の映画批評家、ジュディス・クリストがマリリンに安全ピンを渡して、急場をとりつくろった。ローレンス・オリヴィエへの注目をそらすために、マリリンが故意に仕組んだものではないのかと、記者のひとりが大胆にも言った。
 マリリンは激しく言い返した。
「こんなに大勢の見知らぬ人たちの前で、あなたがもしそういう立場になったら、どんな気持ちになるでしょうか?」
 マリリンはさっさと部屋を出ていき、記者会見は終わりとなった。
「最初のあいさつで、ストラップが切れるようにしてあったのだ」と、後にオリヴィエは主張した。
 いずれにしても、マリリンの切れたストラップは、この日のハイライトであった。

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マリリンモンロー P - PRESS CONFERENCES(記者会見)(1)

 マリリン・モンローの記者会見でのコメントを年代順に追ってみた。

* 1954年2月末に羽田空港に降り立ったマリリンは日本の記者団に語った。
記者:下着を着ていますか?

MM:キモノを買おうと思っています。

記者:いつからそういう歩き方をしているのですか?

MM:生まれて半年からずっとよ。

記者:毛皮は何を着ているのですか?

MM:フォックス、でも、20世紀フォックスではないわ。

* 1955年1月7日、マンハッタン東64丁目59にあるフランク・デラニー弁護士の家でのカクテル・パーティで記者会見をした。この会見の目的はマリリン・モンロー・プロダクション設立の発表で、洗練された「新生」マリリンの姿を披露することでもあった。
6時からの予定であったが、「新生」マリリンは依然としてあの悪い習慣から抜け切れず、姿を現わしたのは7時だった。これが記者たちの不評を買い、「相変わらずのマリリン」と陰口を言う者もいた。それでも、ぴちぴちの白いシルクのドレス、白テンのコート、ラインストーンのイヤリングというマリリンの装いはみんなの注目を浴びた。このときの同席者は、リチャード・ロジャース、ジャネット・リー、トニー・カーチス、それに、マレーネ・ディートリッヒ。

記者:何か新しくなったことがあると聞きましたが・・・

MM:そうね、髪の色、前はプラチナだったけれど、染めました。プラチナのトーンを押さえたの。派手にならないように。
   仕事が変わってきているの。役の幅を広げるつもり。チャンスってものがあるでしょ、誰にでも。
・・・・自分の会社を作って、もっといい役、やりたい役を演じてみたいのです。これまでの映画の多くはあまり納得いくものではありませんでした。
セックス・シンボルはうんざり。もう二度とやりたくありません。

記者:どんな役をやりたいのですか?

MM:よくわからないけど、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の
ようなもの。

記者:『カラマーゾフの兄弟』を演じたいのですか?

MM:兄弟を演じるのではないわ。私がやりたいのは、グルーシェンカ、娘役。
・・・・・プロデュースをやってみたい、テレビとかそういったものの。

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マリリンモンロー P - PLAYBOY MAGAZINE(「プレイボーイ」誌)

 マリリン・モンローは「プレイボーイ」の初代プレイメイトである。1953年12月の創刊号の表紙を飾った。創刊号の特集はマリリンのヌード・カレンダー。「プレイボーイ」の主幹ヒュー・ヘフナーがわずか500ドルで手に入れたものだった。比類なく美しいMMのヌードで、「プレイボーイ」は即、売り切れた。ヘフナーのバニー帝国の歴史が始まることになる。

 1962年のマリリンの死後まもなく、「プレイボーイ」は『女房は生きていた』のプールでのヌード写真をカメラマンのローレンス・シラーから25000ドルで買い取った。当時としては破格の値段だった。このヌード写真は1962年12月号に掲載される予定だった。それだけではなく、雑誌の表、裏のカバーにもマリリンは写真を載せることを承諾していた。表のカバーは、白のストールだけをまとったMM、裏はその後ろ姿という企画だった。

 ところが、撮影予定の前の木曜日に、パット・ニューカムからヘフナーにキャンセルの電話があった。マリリンの気がかわったというのだった。

 そして、日曜日、MMはブレントウッドの自宅で死体となって発見される。
 「プレイボーイ」はシラーのヌードを公表するのを慎重に待った。1964年1月号で、14ページにわたるMMの特集を組んだ。

 あれから何年もたった今でも、「プレイボーイ」の初恋はMM。
 1987年1月号の「プレイボーイ」には、MMの1946年頃のヌードが載った。撮影はイラストレーターのアール・モラン、40年もの間、封印され
ていたものだ。

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マリリンモンロー P - POETRY(詩)

  助けて 助けて
  死にたいとしか思えなくなると
  ほんとうに第一線を
  越えてしまいそうになるの
                      マリリン・モンロー


プロの詩人ではなかったかも知れないが、マリリン・モンローは心の詩人であった。
 何年にもわたって、マリリンは詩を書き続けてきた。
40年代に、アナ・ロウアーおばさんに捧げた『I Miss Her』(『I Love Her』として知られる)から、友人でもある詩人のノーマン・ロステンと共に詩作を始めた。

ロステンはMMの非凡な詩心を次のように語っている。
「マリリンは詩が好きだった。自己表現の手身近な手段だった。生まれながらにして詩の才能があり、心の体験にそれがそのまま表れた」
マリリンの詩には次のようなものもある。


 命・・・私の命はあなたの意のまま
 なぜだかしがみついているの
 風に揺れる蜘蛛の糸のように
 精一杯の力を込めて・・・


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マリリンモンロー - P - PETS(ペット)

「私、動物が好き。イヌやネコは話を黙って聞いてくれるわ」
                          マリリン・モンロー

 マリリン・モンローは動物が大好きだった。一生の間、さまざまな動物をかっていた。

(1) ティピー:ノーマ・ジーンの頃、養父のアルバート・ウェイン・ボレンダーにもらった黒と白のイヌ。ティピーはノーマ・ジーンが毎日学校へ行くとき一緒についてきた。遊んでくれるまで待っているのだった。ティピーは1932年頃、庭を荒らして困ると言う隣人によって射殺された。

(2) スパニエル:ノーマ・ジーンがゴダード家で暮らしていた1940年頃、、マリリンと義妹のビービーの二人で一匹のスパニエルを飼っていた。

(3) マグジー:ジム・ドアティからもらったコリー。モデルの仕事を始めるようになるとノーマ・ジーンにはイヌを世話する時間がなくなってきた。それがもとで、マグジーは「傷心」のあまり死んでしまった。

(4) チャウチャウ:1948年にコロムビア映画と契約したとき、マリリン・モンローはチャウチャウを飼っていた。

(5) ミッツー:1950年代、ニューヨークで暮らしていた頃、飼っていた白いペルシャネコ。

(6) ヒューゴ:ニューヨーク東57丁目のアパートメントで、アーサー・ミラーと暮らしていた頃、飼っていたバセット・ハウンド。元気をつけてやろうと、スコッチのストレートをスプーンでなめさせたことがあった。マリリンとアーサーが別れたのちは、アーサーが所有することになった。

(7) バッチ:ミラー夫妻が飼っていたインコ。バッチも東57丁目のアパートメントに住んでいた。

(8) エボニー:ミラー夫妻がフランクとナンのテイラー夫妻から購入した乗馬用の馬。
MMは2,3回しか乗らなかった。

(9) マフ:フランク・シナトラからもらった白いフレンチ・プードル。シナトラはこのイヌをナタリー・ウッドの母親から購入した。マリリンが"マフ"と名づけたのは、フランク・シナトラがマフィアと関わりがあるからだったというのは有名な話。アーサー・ミラーへのあてつけで、ミラーからプレゼントされた高価な白のビーバーのコートの上に、マリリンはマフを寝かせていた。マリリンがミラーと別れてハリウッドに戻ったとき、マフもお伴をしてきた。マリリンの死後はフランク・シナトラの秘書、グロリア・ロヴェルのもとに引き取られた。

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マリリンモンロー P - LOUELLA PARSONS(コラムニスト)

「貴女とスケンク氏はハリウッドでの初めてのお友だちよ、けっして忘れないわ」
              マリリン・モンロー、ルエラ・パーソンズに。

 ハリウッドの女家長、ルエラ・パーソンズは、1881年8月6日、イリノイ州フリーポートにルエラ・アーティンガーとして生まれる。好敵手のヘッダ・ホッパーとともに、ハリウッドの映画史において、絶大な権力を握るコラムニスト、オブザーバーとなった。

 ルエラ・パーソンズはマリリン・モンローの成功と名声に少なからず起因したコラムニストでもあった。パーソンズ女史はMMを常に気遣い、何年にもわたって『ヘラルド・エグザミナー』紙のゴシップ欄でマリリンを評価してきた。

『紳士は金髪がお好き』(1953)以前にすでに、マリリンを「映画界でナンバーワンのセクシーガール」と太鼓判を押していた。これには誰も反発できなかった。

 それ以来、マリリンは問題が持ち上がると、ルエラ・パーソンズのもとへ駆け込んだ。1953年に、リトゥル・ミス・モラリティのジョーン・クロフォードから攻撃を受けたとき、MMは、パーソンズのコラムを借りてこれに応じた。

 2年後、フォックス社との契約問題でもめたときも、マリリンはルエラ・パーソンズに援助を求めている。

 人々の共感を得、支持してもらおうと、MMは謙虚に自分の気持ちを示した。
「20世紀フォックス社の映画に出たくないと言ったことはありません。『七年目の浮気』は私のこれまでの映画の中で最高のものだと思っています。ビリー・ワイルダー監督との仕事は楽しかったし、いろいろなことを学びました。私には支えてくれる人が必要、監督にはとても助けてもらいました。私はミュージカル、コメディやドラマをやってみたいのです・・・・・いわゆる重苦しいドラマというのではなく」
 ルエラ・パーソンズは1972年12月9日に亡くなった。彼女の死とともに、ハリウッドのひとつの時代が終わりを告げた。

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マリリンモンロー O - LAURENCE OLIVIER(ローレンス・オリヴィエ 俳優)

「黒と白の最高のコンビ」
        ジョシュア・ローガン監督、オリヴィエとモンローのこを。

「いいよ、マリリン、セクシーになるんだ」
                オリヴィエ、『王子と踊子』の撮影で。

「シーンの説明をするときにはこうしたほうがいいと教えてくれなかったから、マリリンは話の途中で行ってしまったよ」
               オリヴィエ、ジョシュア・ローガンに。

 サー・ローレンス・オリヴィエは我々の時代の、舞台、映画における最高の俳優として広く知られている。1907年生まれ。40歳でナイトの爵位を授かる。
『嵐が丘』(1939)、『レベッカ』(1940)、『ヘンリー五世』(1944年主演アカデミー特別賞)、『ハムレット』(1948年アカデミー主演男優賞)、『リチャード三世』(1956)、『探偵スルース』(1972)、『マラソン・マン』(1976)など数多くの作品に出演。

 1956年に、マリリン・モンローが『王子と踊子』でローレンス・オリヴィエと共演すると発表したとき、世間は冗談としか受け取らなかった。それでも、マリリンは映画を撮った。さらに、宣伝用ビラにはマリリンの名前はオリヴィエ卿よりも上に出ていた。ちなみに、オリヴィエはこの作品では監督も兼ねていた。

 1956年の制作発表のあとで、イギリスに戻ったオリヴィエは、マリリンから電報を受け取った。「早くお会いしたいわ」とだけあった。アメリカの女王とイギリスのナイトの間で交わされた、まれに見る、愛の言葉だった。

 撮影最初のころのラッシュを見たオリヴィエは、「あなたの歯は黄色すぎる」とマリリンに言った。レモンとベーキング・ソーダで磨くといい、と助言した。オリヴィアよりもえらいマリリンは、侮辱されたと、腹をたてた。オリヴィエにしてみれば、マリリンの採用している演技のメソッドが大嫌いで、撮影現場でマリリンの指導にあたるポーラ・ストラスバーグの存在をうとましく思っていた。そして、相変わらず遅刻を繰り返すマリリンのプロ意識の欠如にうんざりしていたのだ。

 オリヴィエはマリリンを「プロの素人」と言ったことがあった。マリリンも陰では「サー・オリヴィエ」とか「サーさん」とか馬鹿にして言っていた。

 マリリン・モンローをよく思っていなかったのは傍目にも明らかだったが、それでも、ローレンス・オリヴィエは『王子と踊子』の完成に際してこう語った。
「私は申し分なくできた。そして、マリリン! マリリンはとてもよかった、最高だった。それがどうした?」

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マリリンモンロー O - THE OSCARS(オスカー賞)

「今年の(マリリンの)演技はこれまでの彼女のどの作品よりも秀でたものだった。正統的な映画の演技を見せてくれた」
                       ジョシュア・ローガン監督
1956年のオスカー賞に『バス停留所』のMM(モンロー)がノミネートされなかったことを受けて。

 マリリン・モンローは一度もオスカーを受賞したことがない。ノミネートすらされたことがなかった。

 1951年の授賞式に姿を見せたのはプレゼンテーターとしてだ。まだ駈け出しのMMは、『イヴの総て』のトーマス・モウルトンに「最優秀録音賞」を授与する役を務めた。

 1956年から1957年にかけて、マリリンは『バス停留所』で「最優秀主演女優賞」
にノミネートされると思われていた。が、その年のオスカーは『追想』のイン
グリッド・バーグマンが手にした。

 1959年から1960年、『お熱いのがお好き』の大ヒットで、マリリンは再びオスカー有力候補となったが、皮肉にも受賞者は『年上の女』のシモーヌ・シニョレ、イヴ・モンタンの妻だった。

 1963年3月8日、コラムニストのシーラ・グラハムはその年のアカデミー賞の「特別功労賞」にマリリンを推薦した。しかし、映画芸術科学アカデミーはこれを認めなかった。
さらに10年後、コラムニストのドロシー・マナーズが再び推薦。前年、アカデミーがチャーリー・チャップリンに「名誉賞」を授与したからだ。

 1973年、ミス・マナーズはMMの功績が評価されるべきだと主張したが、アカデミーはその申し出をすげなく拒否した。

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マリリンモンロー N - THOMAS NOGUCHI(トーマス野口)

トーマス野口は、おそらく我々の時代でもっとも有名な検死官であろう。
 マリリン・モンローが亡くなった1962年当時、ロサンゼルス郡の検死医であった。1962年8月5日の午前9時30分、トーマス野口はマリリン・モンローの死体解剖にあたった。検死3時間におよんだ。

 野口の解剖では、胃や消化器官にバルビタールの残留は見つからなかった。注射針の痕跡があったとも報告されていない(マリリンの主治医、エンゲルバーグ医師が8月1日と3日に注射をしていたという事実にもかかわらず)。

 検死で明らかになったのは、野口自身、説明不可能だったのだが、マリリンの背中の下部に最近のものと思われる打撲の痕があったということ。

 野口の検死のあり方については何年にもわたって中傷誹謗を浴びることになる。
 とりわけ攻撃を受けたのは、マリリンの小腸にバルビタールが残されているかを検証しなかった点であった。

 マリリン・モンローの検死後、トーマス野口は、シャロン・テート、ウイリアム・ホールデン、ナタリー・ウッド、ジョン・ベルーシなどのスターやロバート・ケネディの死体解剖もとりおこなった。

 マリリンの死から23年後の1985年11月、トーマス野口は彼女の事例は再検証すべきであるという声明を出した。

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マリリンモンロー N - NUDITY ヌード(2)

マリリンがヌードで登場するのは(ベッドシーツとかの類で体を覆ってはいるが)次の映画。

*『ナイアガラ』(1953)

初めてのヌードを披露した映画。ベッドと、シャワーのシーン。
当時、マリリンは自分のヌードを「リアリズム」と言った。

*『バス停留所』(1956)
チェリーの役。朝のベッドシーンでのヌード。

*『荒馬と女』(1961)

 朝、クラーク・ゲーブルとのベッドシーンのあとで、裸のままベッドに 横たわっているマリリンのまわりをゲーブルが歩き回る。
このシーンは7回撮り直され、体を包んでいるシーツがはずれ、片方の乳房が露わになった。マリリンが激しく抵抗したのにもかかわらず、ジョン・ヒューストン監督はそれを採用した。

*『女房は生きていた』(1962)
 1962年5月28日、20世紀フォックスのステージ14で、マリリンは最後のヌードとなるシーンを撮った。プールの彼女は肌色の水着を着ていた。
水着を脱ぎ捨てて、犬かきをするマリリン。ローレンス・スチラーと他の二人のカメラマン。モノクロ40枚とカラー12枚を撮る。それらの写真は32ヵ国で発表された。マリリン・モンロー最後の輝きとなった。この写真で一儲けしたのはローレンス・スチラーだった。


*ロバート・スラッツアーによると、MMはナルシスト、全身用の鏡の前に何時間も、裸のままで立っていた。

* レナ・ペピトーン(家政婦)によると、ニューヨーク、東57丁目のアパートメントでのマリリンは洋服を着ていることはめったになかった・・・客がいるときでさえも。

* ユーニス・マレーや他の人々の証言によると、マリリンは寝るときは裸だった。
ブラジャーはつけていたとノーマン・メイラーは言っているが。

* 1946年から1950年の間、ノーマ・ジーン・ドアティはイラストレーターのアール・モランのヌードモデルとなったことがあった。作品は1987年になって、『プレイボーイ』誌1月号でようやく日の目を見ることとなった。

* 1949年、カメラマン、トム・ケリーのモデルとなり、紅いベルベットの上でポーズをとった。

* 1960、1961年、カメラマン、イヴ・アーノルドのモデルで、セミヌードとなる。

* 1962年、カメラマン、バート・スタインのモデルとしてヌード、セミヌードとなる。

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