マリリン・モンロー A-Z -13ページ目
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B - THE BEVERLY HILLS HOTEL  ビヴァリー・ヒルズ・ホテル

THE BEVERLY HILLS HOTEL  ビヴァリー・ヒルズ・ホテル


西サンセット大通りにあるこのホテルとマリリンとの縁は深い。ロサンゼルスでお気に入りのホテルだった。

1950年、ジョニー・ハイドに連れられて、クリスタル・ルームで開かれたパーティに出席したのが初めてだった。

’52年の感謝祭の日には、マリリンは3階の一室で暮らすようになっていた。だが、ジョー・ディマジオとの仲がこじれてくると、このホテルを引き揚げて、ニューヨークで暮らすようになった。
’58年の夏、「お熱いのがお好き」の撮影のために、ロサンゼルスに戻ってきたとき、ここにまた滞在している。

’60年2月から始まった「恋をしましょう」の長い撮影の間、マリリンとアーサー・ミラー夫妻が滞在していたのも、このホテルである。

マリリンと共演者のイヴ・モンタンとの不倫もまた、このホテルが舞台だった。モンタン夫妻とマリリン&ミラー夫妻は、それぞれホテルのバンガロー21&22を借りていた。

さらに、ミラーと離婚後、神経症で入院したが、そのあともビヴァリー・ホテルに舞い戻った。

1961年4月から数ヶ月間、ひとりきりでここに滞在する。
最後にここを訪れたのは1962年、作家のアラン・レヴィのインタビューを受けたとき、記事は8月の「レッドブック」誌に掲載された。

このビヴァリー・ヒルズ・ホテルは、イーグルスの”ホテルカリフォルニア”のモデルとなったことでも知られている。


A - AUTOPSY(2)  検死

■■■ A ■■■

マリリン・モンローは、ほんとうに自殺したのだろうか?

トーマス野口博士のおこなった検死結果の続きをみてみよう。

「血液・リンパ液」
膵臓は190グラム。表面は暗紅色で、なめらか。

「内分泌腺」
副腎は一般的な皮質、髄質の構成、甲状腺は大きさ、色、密度ともに正常。

「泌尿器」
腎臓全体で350グラム。外皮表面はなめらか。膀胱には150ccの澄んだ液体が残っていた。

「生殖器」
外的には異常なし。陰毛の分布は女性特有のもの。子宮の大きさも普通。
子宮壁には瘤腫なく、厚さは通常。子どもを産んだ形跡はない。

「消化器官」
胃袋内にはほぼ完全に何もなし。胃液の量は20cc以下。錠剤の残留物なし。
結腸に鬱血、紫色に変色。

「骨格・筋肉組織」
鎖骨、肋骨、骨盤ともに損傷なし。

「頭部・神経系統」
脳は1440グラム。出血の痕跡なし。表皮の血管にかすかな鬱血。

「標本」
防腐処理をしていない血液をアルコールおよびバルビツール(睡眠剤)検査のために採血。肝臓、腎臓さらに胃および内容物、尿、腸を毒物検査のために保存する。

元米大リーグの名選手、ジョー・ディマジオは一度離婚した妻、マリリン・モ
ンローと再婚するつもりでいた。
再婚の日取りまで決まっていた。1962年8月8日である。
モンローが謎の死を遂げたのは、その3日前。
いったいどんな「自殺」をする理由があったというのだろうか?

「おそらく自殺」
トーマス野口博士の検死結果は、大きな謎を残したままである。

A - AUTOPSY(1)検死

■■■ A ■■■ 

「亡くなっても、モンローはとても奇麗でした。いつになく私は緊張していました」

マリリン・モンローの検死は、1962年8月5日(日)、午前10時30分に行われた。

ロス郡裁判所にある死体解剖室の1号解剖台の上にマリリンは置かれていた。
執刀は日本人のトーマス野口博士である。

「これをしくじったら、たいへんなことになる」

野口は検死局に入って2年目の副監察医である。
エディ・デイが野口の補佐に当たった。以下は野口の解剖所見である。

「外景所見」

防腐未処置の遺体は年齢36歳。体格・良、栄養状態・良好、白人女性。
体重53キロ、身長162・5センチ。頭髪は脱色したブロンド、眼はブルー。

顔、首、胸、上腕部、右腹部は濃い鉛色に変色。背中、腕および脚の裏側は圧迫によるかすかな鉛色の消滅のあとが見られる。

左の臀部および、背部下部の左側にかけてわずかな斑状出血を認む。胸にはとくに損傷は見られない。

恥骨上部に5インチの外科的傷痕。

結膜の充血は際立て著しいが、点状出血は見られない。
鼻は損傷なし。

頭部、額、頬、唇、顎には外傷なし。手、爪ともに外傷なし。
下肢に外傷なし。

「体腔」

通常のY形のへこみ。内臓は正常の位置。

「循環器」
心臓は300グラム。冠状動脈は位置、分布ともに正常。

「呼吸器」
右肺465グラム、左肺420グラム。

「肝・胆臓器」
肝臓は1890グラム。表面は黒みがかった茶色。
肝臓の多重部に、小葉状組織がわずかに認められるが、出血の痕跡はない。


A - THE ACTORS STUDIO

■■■ A ■■■ 

1950年代のアクターズ・スタジオは、アメリカ第1の演技の学校であった。
リー・ストラスバーグの指導のもと、画期的な演技方法の「メソッド」と数多くの著名な俳優・女優を輩出した。マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロそしてマリリン・モンロー。

1955年、マリリンはハリウッド女優から演技派女優になろうと決めた。
20世紀フォックスと契約をかわし、ニューヨークにやってきた。知識人の仲間入りをし、のちに夫となる劇作家アーサー・ミラーとも親しくなった。自分のプロダクションを作り、火曜日と金曜日にはアクターズ・スタジオに通った。

彼女は正式なメンバーではなかったが、誰よりも熱心だった。
1950年代の半ば、1000人がオーディションを受けて、毎年選ばれるのは10人程度だった。マリリンは有名だったとはいえ、一人の生徒にすぎなかった。教室の後ろの席で、ぽつんと一人座っていることがよくあった。

他の生徒に混じって、戯曲「アンナ・クリスティー」にも参加し、主役を演じた。マリリンのアンナの人物描写はすばらしかった。スタジオのメンバーは賞賛することは禁じられていたが、このときばかりは例外だった。
また、あるときは子猫の役を演じることになった。彼女は子猫を借りてきて、数日間、じっと観察した。結果は完璧なものだった。

アクターズ・スタジオがマリリンの演技にどんな影響をもたらしたか。1955年以降の彼女の映画に目をやれば一目瞭然。「王子と踊り子」(1957)
「お熱いのがお好き」(1959)
「荒馬と女」(1961)と演技力をつけてきているのが分かる。「バス停留所」(1956)の演技は最高のものとなった。「女優であることを証明した」(ニューヨーク・タイムズ紙)

マリリンは1962年に亡くなるまで、スタジオに通いつづけた。その年のうちには正式メンバーになる予定だったが、それを待たずして逝って
しまった。

1963年3月、アクターズ・スタジオはマリリン・モンロー基金を創設し、2500ドル以上の寄付を募った。基金はリハーサル・ホールの新設とスターを夢見る若き俳優たちの奨学金に当てられた。
マリリン・モンロー・シアターはカリフォルニアのウエスト・ハリウッド、ストラスバーグ・インスティチュートにある。


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