マリリン・モンロー A-Z -11ページ目

G - CLARK GABLE クラーク・ゲーブル

「かれの顔を見ただけで、ぞくぞくしちゃうわ」
マリリンは実際には会ったことがない、実の父の面影をゲーブルに求めていた。

クラーク・ゲーブルは30年間、誰もが認めるハリウッドの「キング」だった。
1901年2月1日、オハイオ州生まれ。数多くの作品に出演した。オスカーを受賞した『或る夜の出来事』(34年)『戦艦バウンティ号の叛乱』(35年)名作『風と共に去りぬ』(39年)マリリンと共演した『荒馬と女』(61年)などの代表作がある。

若き日のノーマ・ジーンは寝室の壁にゲーブルの写真を貼っていた。
母と娘を捨てた父スタンリー・ギフォードがゲーブルに似ていると聞かされていたからだ。

マリリンは21歳のときに、ジョン・キャロルというクラーク・ゲーブルにどことなく雰囲気が似ている青年に恋をした。その恋は実らなかった。

ある日マリリンは、実の父にどうしても会いたいと、思い切って電話をかけた。
だが、父からはそっけない答えしかかえってこなかった。

1960年、ついにマリリンはゲーブルとの共演が実現した。
『荒馬と女』のロケは過酷な条件のものとでおこなわれた。リノの砂漠という自然環境だけでなく、マリリンは精神の安定を欠き、ゲーブルに大きな負担を
かけた。
「セリフをととちったり、遅刻をしても、一度もかれは私を怒らなかった」

撮影時間に遅れたり、満足な演技ができないマリリンをゲーブルはいつもやさしく見守っていた。

撮影が終わって10日後に1960年11月16日、ゲーブルは心臓発作に見舞われて急死した。
「私のせいでクラークが亡くなったんだわ」
マリリンは自分をせめ、苦しむ日々が続いた。

「このことは私にとって、大きな打撃です。私は深い悲しみに沈んでいます。
クラークは私がいままで会った中でもっともすばらしい男性の一人でした」

クラーク・ゲーブルはマリリンについて言っていた。
「彼女は男にプライドを持たせてくれる」

マリリンはゲーブルについて言った。
「女が命を捨てられるものがあるとしたら、クラークみたいな男性ね」

F - FUNERAL 葬儀

”そして、もし神が選ぶのなら、死してなお汝を愛するだろう”
                 エリザベス・バレット・ブラウニング

 マリリンの葬儀はいっさいを元夫ジョー・ディマジオがとりしきった。
葬儀はマリリンが亡くなった3日後の1962年8月8日、ウエストウッド・メモリアル・パークで施行された。

ルーテル派のA・J・ソルダン司祭によって執り行われた。
 彼は讃美歌23番、ヨハネの福音者14章を読み、それから讃美歌の46番と139番を引用した。そして主祷文を朗読した。

 マリリンが演技指導を受けた演出家のリー・ストラスバーグが弔辞を読んだ。
 
 ・・・・ただーーひとりの心やさしい人
 おのれの感情にしたがい
 しかも 含羞 感受性にとみ
 拒まれることをおそれながら
 なおも あくまでわるびれず生き
 自己完成にむかった
 マリリンを知っている(中田耕治訳)

 ストラスバーグの声は涙でくもっていた。

 葬儀はごく内輪だけでおこなわれた。
 出席者は30名ほどだったが、ハリウッドからの出席者はディマジオによって除外された。
 ピーター・ローフォード(ケネディの義理の弟)や俳優のディーン・マーティン、シナトラ一家はみな排除された。
 ディマジオはほんとうのマリリンの友人を呼ばなかったと非難された。

 マリリンの遺体はシヤンパン色のサテンのラインの入った濃いブロンズの棺に入れられ、美しい顔が見えるようになっていた。
 グリーンのミニドレスを着て、グリーンのシフォンのスカーフ。髪はページボーイ風にセットされていた。

 葬儀に参列したヘアスタイリストのシドニー・ギラロフがマリリンの髪を整えて、その両頬にそっとキスをした。
「マリリン、静かにお休み」
 礼拝堂にはジュディ・ガーランドの『オーバー・ザ・レインボー』が静かに流れていた。
 マリリンは安らかな微笑みを見せた。

F - FOOD 食べ物

食を知ればその人をうかがい知ることができる。
マリリンはどんなものを食べてきたか。
年代順に見てみよう。
食を通してみたパーソナルヒストリーだ。

*朝食にはグレープフルーツとコーヒーを。昼食にはカッテージチーズを食べる。たまに、1ドルちょっとで1日を切り抜けることもある。 
    (1948年頃、スタジオの音声トレーナー、フレッド・カーガーに)。
*仕事のない頃、ハンバーガー、ピーナッツバター、ホットドッグ、チリ、クラッカー。
*1951年夕食。ステーキ、ラムチョプまたはレバー、生のにんじん。
*ディマジオとの初めてのデートで。ピーマンのアンチョビのせ、スパゲティアルデンテ、子牛のスカロッピニ。
*ディマジオとの2度目のデート。ドライブインでハンバーガー。
*ディマジオとのデート期間。スパゲティ、ステーキ。
 イタリア料理にはガーリックは欠かせない。イタリア系アメリカ人のディマジオはガーリックが嫌いだったが、マリリンは大好きだった。
*1952年、ベル・エア・ホテルで26歳の誕生祝いのディナーで。ステーキを。
*1952年頃、マリリンの好きな前菜、クリームチーズとキャビアをつめたミニトマト。
*マリリンの特に嫌いなもの。オリーブ。
*『帰らざる河』を撮影している間、ロブスター。
*ディマジオとの結婚パーティで。ミディアム・ウエルに焼いたステーキ。
*韓国にいる間、チーズサンド。
*ロマノフ家のパーティで。シャトーブリアン・ステーキ。
*『バス停留所』の撮影中に。レアステーキ。
*1957年の朝食。ポーチドエッグ3つ。トースト、ブラディマリー。
*ロックスベリー農場での昼食。サラミとチーズのサンドイッチ。
*1957年の夕食。ステーキ、ラムティップ、カッテージチーズ。
*マリリンのために、レナ・ペピトーンが料理したもの。スパゲティ、ラザニア、ソーセージ&ソーセージ&ペパー。
*歌手のイブ・モンタンとの別離のあと。ラザニア、ハンバーガー、チョコレートプディング。
*1960年大晦日にイタリアン・ソーセージ添えスパゲティ。
*『荒馬と女』撮影の間、バターミルクとボルシチ。
*1961年朝食。紅花オイルで揚げた卵の白身。
*1962年の朝食。カタヤキたまご。トースト。
*1962年のマリリンの好きなイタリアの夕食。フットチーネ・レオン。小牛のピカタ。
*同年、ピクニックの後部座席には、ピザのキェデラック野後部座席にはコールド・ステーキ・サンド。
*1962年8月3日の最後の朝食、グレープフルーツひとつ。

F - FASHIONS ファッション (2)

マリリンのドレスはセクシーさを強調するものと、かわいらしさをポイントにしたものの2つに大別できる。

セックス・シンボルを強調するもの。
『紳士は金髪がお好き』(1953年)
スパンコールの”リトル・ロック”ドレス。タイトで赤いスパンコールのドレス。『ダイヤモンドは女の子のベストフレンド』を歌うマリリンは肩からバストまですべて露出したドレスで、ピップには大きなボウをあしらっていた。
『帰えらざる河』(1954年)
酒場女のウエストのあたりからスリットの入ったドレス。
『七年目の浮気』(1955年)
胸の谷間がはっきりと分かるローカットのゼブラ柄のイブニング・ドレス。
そして地下鉄の通風孔から吹き上がる風に舞い上がるフルスカート。

マリリンは自分のボディをよく知っていた。理想的な体型ではない。
ちょっと太めで、いつも体重を気にかけていたし、ピップも目立ちすぎで、脚も長くはなかった。それを逆手にとって、自分の魅力を出した。
『ナイアガラ』(1953年)
世界中の男をぞくぞくさせたモンロー・ウォーク。
片方のヒールを4分の1カットした。アンバランスなため、あの有名なモンロー・ウォークが生まれたのだ。
当時流行だった”ツイスト”のリズムも加えた。
赤いドレスのモンローはスターになるきっかけを掴んだ。

かわいいモンローを強調したもの。
『百万長者と結婚する方法』(1953年)
ミラーでワインカラーのサテン。背中のサッシュ・ベルトとワン・ショルダーのストラップが特徴。
ド近眼で、男がいると見栄をはっているかわいい女の子をみごとに演じていた。
『七年目の浮気』
水玉のホルター・ネックのサマー・ドレスやキュロットと七分丈のキュロット。

マリリンの魅力はセクシーさとかわいらしさ。そのことを一番良く知ってたのは、マリリン自身である。

F - FASHIONS ファッション (1)

(1)初めてのデート
ノーマ・ジーンは、ビービー・ゴダード(義理の妹)から借りた赤いシルクのドレスを着た。

(2)カタリナ島
ノーマ・ジーンはぴったりしたセーター、タイトなスカート。白いショートパンツ、白いブラウス、そして髪にリボンを飾って毎日街を練り歩き軍人たちを誘惑した。

(3)エメリン・スニベリーと初めて会う
1945年、ノーマ・ジーンはブルー・ブッククラブで、彼女とのインタビューに一番良いドレスを着た。オレンジ色のヨークのついたシャーク・スキンのドレスである。それに白いスウェードの靴を履いていた。

(4)最初の広告の仕事
透けて見えるほど薄い黒のネグリジェ。

(5)ナターシャ・ライティスと初めて会う
白いマニッシュのパンツと腰のところで結んだ白いシャツ。

(6)最初の広告ツアー
1949年にマリリンは映画『ラブ・ハッピー』広告のツアーの間に着るために3着のウールのスーツを買った。ニューヨークのグランドセントラル駅に着くと、マリリンはブルーのブラウスとネイビーブルーのスーツを着て、ベレー帽、パールのチョーカー、白い蘭の花を3つつけていた。

(7)野球の宣伝広告
1951年にマリリンはシカゴ・ホワイトソックスの2人の選手と宣伝写真のモデルをした。
その写真がジョー・ディマジオの関心を引いた。マリリンはぴったりした白いショートパンツ、タイトなジャージのブラウスを着て、野球帽をかぶていた。

(8)映画『クラッシュ・バイ・ナイト』のプロデューサー、ジェリー・ウォルトと会う。
マリリンは襟ぐりの深いブラウスとタイトなチェックのスラックスとローファーで昼食を兼ねた面談をし、結果的に『クラシュ・バイ・ナイト』に出演するようになった。
服装を際立たせるために、マリリンは胸の谷間に赤いバラを飾っていた。

(9)ジョー・ディマジオとの最初のデート
マリリンは襟ぐりの深い白い山東絹(シャンタンンシルク)のブラウスとブルーのマニシュのスーツを着ていた。

(10)ミス・アメリカのパレード
1952年、襟ぐりの深い黒のドレスでミス・アメリカのパレードに現れ、スキャンダルな話題となった。

E - HYMAN ENGELBERG ハイマン・エンゲルバーグ

エンゲルバーグ医師は、1962年にマリリン・モンローが死亡したときの主治医だった。

1960年、『荒馬と女』の撮影の間、情緒不安定なマリリンに入院をすすめたのはエンゲルバーグである。
その翌年の61年、ニューヨークで胆のう手術の準備をしたのも医師である。
エンゲルバーグは、あらゆるマリリンのクスリの処方をしてきたのだった。

1962年8月3日、エンゲルバーグ医師ロサンゼルス・ブレントウッドのサンヴィンセント薬局で、マリリンのためにネンブタルの錠剤を25個処方した。
少なくとも2日後に、そのドラッグがマリリンを死に導いたといわれる。

1962年8月5日,午前8時40分にマリリン・モンローの死を伝えたのもエンゲルバーグ医師であった。

その年の6月28日から8月3日の間に、マリリンは20回、ほぼ毎日エンゲルバーグに会っている。

いまだ、疑惑がもたれている点を明確にしておこう。1962年の8月1日と3日にエンゲルバーグはマリリンに注射した事実である。
だが、公式発表には一切含まれていない。なぜか?

1962年9月24日、テレビのトーク番組『オープンライン』でエンゲルバーグはマリリンについてや疑惑をもたれている注射の件について、一切質問に答えなかった。

エンゲルバーグ医師は、1986年までベバリーヒルズのオフィスで開業していた。

D - DRUGS(ドラッグ)

 「あの頃、ドラッグはスターに仕事をさせるための手段だった。医者たちは仲介になっていた。ドラッグを処方しない医者もいれば、処方する医者もいた。
私が初めてマリリンの治療にあたった50年代初頭には、誰もがドラッグを用いていた」
 リー・シーゲル医師が作家アンソニー・サマーズに

 「ドラッグを常用しているとマリリンは私に言った。飲みだしたのは17か18のまだ、ほんの子どものころだった」
 カメランでマリリンの親友ミルトン・グリーンの妻、エイミー・グリーンがアンソニー・サマーズに


 「彼女はプラスティックのバッグをもって、よく控え室にやってきたわ。そんなにたくさんのドラッグは入っていなかった。覚せい剤や鎮静剤やヴィタミンもあったわ」
  バーニー・ガーデル(メーキャップ・アーティスト)がアンソニー・サマーズに

「マリリンをドラッグから遠さけなければならない。きみは彼女の夫なんだ。
それができる唯一の人間だ。そうしなければきみは一生、罪の意識にとらわれることになるだろう。いま、ドラッグをやめなければ、2、3年のうちに病院行きかあるいは死だ」
  ジョン・ヒューストン監督が劇作家のアーサー・ミラーに

マリリン・モンローの寝室では、検視官のガイ・ホケットによって、15のドラッグのビンが発見されている。ホケットはそれらすべて検視官のオフィスに持っていった。しかし、奇妙なことに毒物報告書には8種類しか記載されていなかった。

マリリンの体内から見つかったドラッグ
①バルビツレート4・5mgパーセント
②クロラール・ハイドレート8mgパーセント
③ペントバルビタールmgパーセント

ドラッグ過剰摂取で死亡した映画スター
ジョン・ベルーシ
ジュディ・ガーランド
アラン・ラッド
キャロル・ランディス
ジョージ・サンダース
ジーン・セバーグ
マーガレット・サリヴァン

D - JIM DOUGHERTY ジム・ドアティ(2)

ジム・ドアティが船員になったことが誤りだった。
夫が戦地にいるあいだ、ノーマ・ジーンはモデルになった。
カメラマン、エージェント、エージェント気取りの人間、広告会社の重役などに会った。

これまでジム・ドアティの妻として会っていた人々とはまったく異なるハリウッドタイプの人間ばかりだった。わくわくする新しい世界が彼女を待っていた。
賽は投げられたのだ。

1950年には、悲しい、胸を刺すような運命のいたずらがあった。ジム・ドアティ(当時警察官)はロサンゼルスの市警察本部から『アスファルト・ジャングル』のプリミエに参加するスターたちを待ち受ける群集警察の任務を受けた。ドアティの仕事はグラウアンズ・エジプシャン・シアターに群がるファンをバリケードで阻止することだった。幸いなことにマリリンは姿を現さなかった。

1953年、ドアティは『フォトプレイ』誌に記事を載せた。タイトルは「マリリン・モンローは私の妻だった」という低俗なものだった。

「マリリン・モンローと私は4年間の結婚生活を送った。、もし、そのまま続いていたら、いまの私はミスター・モンローになっていただろう。私は現在の状態のほうが気にいっている。再婚して、3人の亜麻色の髪の娘たちにも恵ま
れた。ヴァンアイズ警察隊の警備の職に就いている。4人の女性たちは我が家という船の暮らしに満足しており、私はその舵取りの役目を果たしているのだ。
私が船長で、妻は一等航海士。私には自慢できる仲間がいる」

1972年になると、ドアティの一等航海士は、その船から降りることになる。

1976年、ノーマ・ジーンとの破局から3年後、ドアティは『マリリン・モンローとの秘密の幸せ』という本を出版した。
その年、ドアティはアリゾナにわたり、そこで3人目の妻リタと暮らすことになる。

1984年、ドアティは退職後、メーン州に住んでいる。

ジム・ドアティはマリリンの死を友人のジャック・クレモンズ巡査部長から聞いた。
1962年8月5日の早朝、マリリン・モンローのブレントウッドの家からクレモンズはジムに電話をかけた。

知らせを受けたドアティは、受話器を置くと妻にこう言った。

「ノーマ・ジーンのために祈ってくれ」

D - JIM DOUGHERTY ジム・ドアティ(1)

「もしも、私が第2次世界大戦で国家商業船員になっていなかったら、マリリンはミセス・ドアティのままだったろう」
   ジム・ドアティ『ピープル』誌 ’76年5月31号

 1942年、若きジム・ドアティはマリリンの最初の夫となった。21年前、ロサンゼルスのトーランスで生まれたドアティは5フィート10インチ(175センチ)、ブルーの眼とライトブラウンの髪の若者だった。
 ロッキード社に勤める数年前はヴァン・ナイズ高校でめざましい活躍をしていた。生徒会会長を務めただけでなく、フットボールのスターであり、マスカーズ・ドラマ・クラブのメンバーでもあった。その上、彼は自分の車を持っていた・・・ブルーのフォード・クーペ。
 
 彼はどんな女の子でも選べることができた。1941年から42年の間、デートの相手はサンタ・バーバラのビューティ・クィーン、ドリス・イングラムだった。
 だが、1941年の秋、ジムは隣に住むビービー・ゴダードとノーマ・ジーン・ベイカーをヴァン・ナイズ高校の行き帰りに車に乗せてあげるようになった。
 二人ともジムに夢中になった。1941年12月、グレース・ゴダードはノーマ・ジーンをある会社のクリスマス・パーティに連れていくようにジムに頼んだ。

 1942年の3月には、ジムとノーマ・ジーンはステディになった。
 5月には婚約。

「私たちの結婚はすばらしかった・・・マリリンのような女の子を花嫁にできる男はめったにいない・・・あの頃、あんなに愛し合ったことなんて、彼女はもう忘れてしまっているだろうけれど」 
                  ジム・ドアティ『フォト・プレー』誌1953年

 のちにマリリンはジムとの結婚は愛のないもので、便宜上のもの(結婚すれば孤児院に戻らなくてすむ)だったと言っていたが、ジム・ドアティはこれに繰り返し反論している。

 マリリンは若い頃、レイプされたとしばしば言っていたことについても、彼は否定している。ドアティによれば、二人が出会ったとき、ノーマ・ジーンは処女だったという。
(筆者にもドアティはこのことを語った)

 料理の腕前は別にして、ジム・ドアティはまちがいなく幸せな夫だった。彼は若く美しい妻とシャーウッド湖に釣りに出かけた。ビッグ・ベア・ロッジに行った。グラウマン・チャイニーズ・シアターに映画を観に行ったこともある。

サン・フェルナンド・ヴァレーの脇道や奥の道で二人は激しく愛し合った。

D - JOE DIMAGGIO ジョー・ディマジオ(3)

マリリンとディマジオの言葉

「騒がしいスポーツ選手に会うんだと思ってた。でも、グレーのスーツにグレーのネクタイ。髪もグレーがかった無口な男の人だったので、嬉しくなっちゃった。ネクタイは水玉模様。野球選手だと聞いてなかったら、鉄鋼王か国会議員かと思ったわ」
(ディマジオとの最初の印象について、マリリン)

「本物の愛は眼には見えない、心で見るもの。眼はだまされるから」
(マリリンがプレゼントした『幸福の王子』からの引用)
「いったいそういう意味だい?」
(それに対してディマジオの言葉)

「最高に幸せよ。早く主婦になりたいわ・・・赤ちゃんは6人ほしい」
(結婚式のとき、マリリン)

「第二ヴァイオリンを弾くのも悪くないね。彼女は私の妻さ」
(ディマジオ。東京で)

「彼は一家の主、私は彼の決めるまま」
(1954年3月6日。マリリン)

「私は本当に幸せな妻よ。料理だって好き」
(1954年4月15日。マリリン)

「夫は一家の長、そして妻はいつも女であることを忘れてはいけないわ。私には何の権限もないけど、どうやって夫を支えるかって聞かれたら、こう答えるの。しっかりしなさい、くじけちゃダメって」
(1954年6月6日。マリリン)

「私たち、すべてうまくいってる。生活は仕事よりもたいせつよ。すべては幸せな結婚しだい」
(1954年9月)

「彼のこと、ジョーとかジョセッペとか他にも愛称で呼ぶの、内緒の。でも、彼のことを話すときは・・・私の夫って言う」
(1954年9月)

「いったい、ここで何が起こっているんだい?」
(1954年9月、スカート事件のとき)

「私に話しかけてくれなかった。冷たかった。人間としても、女優としても、私のことなんかどうでもよかったの。私が友だちをもつことを嫌がった。仕事をすることを嫌がった。話しもしないでテレビを観ていたわ」
(1954年10月裁判所で、マリリン)

「ジョーは悪くない。ホームランを打てた。そうなっていたら、私たちはまだ結婚を続けていたわ。私は彼をまだ愛しているもの。彼は誠実よ」
(作家のトルーマン・カポーティに。(1)ディマジオのセックスについて(1)
ディマジオとの別れについて、マリリン)

「ジョーを有り難う、神様、有り難う」
(1961-62年頃、マリリン)

「彼女を破滅させたのはハリウッドだ・・・友だちの犠牲になったのだ」
(・・・ディマジオ)