マリリン・モンロー A-Z -10ページ目

L - LATENESS(遅刻)(1)

マリリン・モンローはいつも、そう、ほとんどいつも、時間に遅れてやってきた。
いつも遅刻して現れる彼女に仕事仲間、友人、そして他の誰もが憤慨してた。
自分の虫垂炎の手術のときでさえ、2時間遅れてやってきたのだった。

「カレンダーには載っているけど、時間どおりだったことはないの」
マリリンが、カメラマンのダグラス・カークランドに言った。このときは30分の遅刻だった。

「彼女はけっして時間どおりにはやってこなかった。共演者、監督、カメラマンにとってはたいへんなことだった。ただすわって待っているのだ。彼女がいなければ始まらない。何千ドルもの赤字だ。彼女が遅れれば何百ドルもの余分
な金がかかる。みんながやる気をなくしてしまう。塹壕の中の戦争のようだ・・・マリリンはわざと遅れてくるのではない。時間の観念が違う。ただ、それだけのこと。スイスのチューリッヒにいるちっぽけな時計屋なら、マリリンのための特製時計をこしらえることができるだろう」
ビリー・ワイルダー監督

「私が遅れるのではないわ。みんなが急いでいるのよ」
マリリン・モンロー

「マリリンに約束の時間を守らせるように責任を問われていたフォックス社の人間に言わせると、1日が30時間あるのなら、マリリンはまちがいなくその時間すべてをかけて間にあわせることができるだろう。どんな前向きな忠告を受けようとも、彼女は遅れる。彼女の『すぐ行くわ』の範囲は20分以上2時間以内というものなのだ」
            『コリアー』誌1951年

「ねえ、あなたごめんなさいね。でもね、お化粧をしっかりしたあとで、まつ毛とか口紅とかそういったもの、つけたらいけないんじゃないかしらと考えたのよ。それで、お化粧を全部落としたのだけれど、今度は何を着ていったらいいかわからなくなっちゃって・・・」
マリリンが作家のトルーマン・カポーティに。
コンスタンス・コリアーの葬儀に遅れて。
『ミュージック・フォア・カメレオン』(ランアダムハウス 1979年)

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K - ROBERT F・KENNEDY ロバート・F・ケネディ(2)

マリリンとケネディ司法長官との出逢いは、1961年にサンタモニカでのピーター・ローフォードのディナーパーティだった。1962年5月のマディソン・スクエア・ガーデンでのケネディ大統領の誕生パーティで二人は知り合ったという説もある。いずれにしても、マリリンとロバートの関係は1962年、マリリンの死の何ヶ月か前のことだった。

1962年6月26日、マリリンはロバート・ケネディのために開かれたローフォード家でのパーティに顔を出している。彼女はそのとき、2時間半遅れてやってきた。翌日、ケネディはマリリンのブレントウッドの家を訪れている。

1962年6月、ロバート・ケネディ司法長官が所属するワシントンDCの法務省にマリリンはたびたび電話をかけた(電話番号:RE7-8200)
「ボビー(ロバート)が電話にも出てくれないし、かけてもくれないの」とマリリンは作家で元恋人のボブ・スラッツアーに打ち明けている。

1962年8月3日、ロバート・ケネディは飛行機でサンフランシスコに向かった。
マリリンはやっと彼と連絡がとれたようだった。8月4日にはケネディはロサンゼルスに向けて発っている。ロサンゼルス前市長サム・ヨーティによると、「ボビーはどこか他の場所にいたと思われている・・・ビバリー・ヒルトトンホテルにいたことになっている」

1985年に、マリリンの家政婦だったユーニス・マレー夫人が、マリリンが亡くなった日の午後、ボビーがブレントウッドのマリリンの家にいたことを認めた。

その後のことは、今日でもまだ明らかになっていない。わかっているのは、8月4日の日の遅く、マリリンがローフォードの家に電話をかけたこと。そしてその何時間後に彼女が亡くなったということだ。

マリリンを「殺害」したのはケネディだという者もいれば、マリリンの死にまつわる状況を隠蔽したのだという者もいる。ピーター・ローフォードの前妻、デボラ・グールドによると、マリリンの死の発表が遅れたのは、ケネディ家の名を守るためにケネディが町から姿をくらます時間かせぎだったからだという。
ケネディはヘリコプターでローフォードの別荘からサンタモニカ空港まで飛び、さらにサンフランシスコまで飛んだとデボラは語っている。

1965年、ジョー・ディマジオがヤンキーススタジアムで行われたミッキー・マントルの引退試合に姿を見せたとき、同じく招待されたロバート・ケネディの握手を拒んだ。ディマジオはマリリンの死は、ロバートが関係していると思っていた。

マリリンの死からほぼ6年後の1968年6月5日、ロバート・ケネディはアンバサダー・ホテルのエンバシー・ルームで暗殺された。

K - ROBERT F・KENNEDY ロバート・F・ケネディ(1)

「ボビー・ケネディは私と結婚するって約束してくれたわ」(マリリン)

「あれほど綺麗な人を見たことがなかった・・・私が彼女と会ったのは明かりの周りを巧みに飛び交う蛾のようなロバート・ケネディにとうとう身をまかせてしまったすぐあとのことだった」
(アドレー・スティーブンソン。1962年のジョン・F・ケネディ大統領の誕生パーティで)

「マリリンが亡くなる前日のことだった。ボビー・ケネディをとっても愛しているの。結婚するの、と言っていた。でも、その声には元気がなかったわ」
(フレッド・カーガーの2度目の妻、エリザベス・カーガー)

「1961年のある晩、マリリンの家にいたとき、ドアのベルが鳴ったの。彼女は入浴中だったので、私に出てちょうだいと言った。ドアを開けると、ボビーがいた・・・私は邪魔にならないようにどいたの。マリリンはバスルームからあわてて出てきてボビーの胸に飛び込んだわ。私がいることなど忘れて彼女にキスしたの。そんなこと、彼女らしくないことだった」

「ケネディ兄弟、ボブ、ジャックのどちらも慎重さが欠いていた。高校生のように未熟なことがあった。
あのビーチハウスで起きたことは度肝を抜くようなものだった。エセル(ボビーの妻)がある部屋にいると、ボビーは別の部屋で女と一緒だった」
(俳優ディーン・マーティンの前妻、ジーン・マーティン)

K - JOHN F.KENNEDY(ジョン・F・ケネディ)(2)


マリリンとケネディ大統領の関係がどのように破局を迎えたかは、ほとんど知られていない。
大統領の弟、ロバートが兄からマリリンを引き離す役目をした。腰痛に悩む兄のことを思ったためともいわれる。
 
マリリンとケネディ大統領の行為がFBIによってひそかに録音されていたという。そのテープがケネディ家を脅迫するために使われたのかどうかは定かではないが。

死の直前、マリリンはケネディの子どもを身ごもっていたともいわれる(これは本当だと私は思う)。いずれにしても、ケネディの名を汚すものとして、マリリン・モンローの存在は危険なものとなり、大統領の生活から排斥されることとなった。

しかし、マリリン・モンローとケネディ大統領が亡くなってしまったいま、大統領の扉の向こう側で何があったか、真実を知ることは不可能なことになってしまった。

わかっていることは、1962年5月19日、マディソン・スクエア・ガーデンで、ひとりの有名人がもうひとりの有名人のために『ハピー・バースデー』を歌ったことだ、こんなふうに。

ピーター・ローフォード(司会):ミスター・プレジデント、レイト・マリリン・モンローです!

マリリン・モンロー:ハピー・・・バース・・・デー・・・トゥー・・ユー、
         ハピー・バースデー・・・トゥー・ユー
         ハピー・バースデー・ミスター・プレ・・・ジ・・・デント、
         ハピー・バースデー・トゥー・ユー。

歓声に応えて、マリリンは『サンクス・フォー・ザ・メモリー』を歌った。

マリリン・モンロー:ありがとう、ミスター・プレジデント、
         あなたがしてくれたことすべてに
         戦いにも勝った
         景気もいいし、
         やまほどの問題も
         みんな、あなたに感謝してるわ

         エヴリバディ、ハピー・バースデー!

マリリンにつられて観衆は『ハピー・バースデー』を歌った。それから・・・

ピーター・ローフォード:みなさん、大統領です!
ケネディ大統領:こんなに甘く、気持ちのいい『ハピー・バースデー』を歌ってもらっては、もう大統領をやめてもいいくらいだ。

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K - JOHN F.KENNEDY(ジョン・F・ケネディ)(1)

「彼の腰の痛みを治してあげるの」
「大統領と寝たの」(マリリン)

スパングルのドレスを身につけ、シャンパンを何杯も飲んだブロンドのマリリン・モンローがセクシーな声でささやくように『ハピー・バースデイ』と『サンクス・フォー・メモリー』を歌う姿は人々の注目を浴びた。
1962年5月、マディソン・スクエア・ガーデンでのジョン・F・ケネディ大統領の誕生パーティ。

ほとんど知られていないが、マリリンとケネディとの関係は1950年代の初め、ケネディが上院議員のころからで、関係は大統領になってからも続いていたのだといわれている。

1954年10月、ケネディが入院していたとき、マリリンのポスターがベッドの頭の側に飾られていた。
ポスターのマリリンはブルーのショートパンツで脚を広げていた。脚が宙に突き出るように、ケネディはそのポスターを逆さに貼っていたという。

1963年11月12日の暗殺から40年を経た今日では、ケネディの独身時代、さらに結婚してから、大統領就任以前から任期中の女性関係がかなり明らかになっている。

「若いうちにできるだけ女を知っておけ」と父は言っていた、とケネディはクレア・ブース・ルイス(米の女流劇作家・政治家)に語っている。

「ケネディとデートをした女性記者のナンシー・ディカーソンは『彼に夢中にならない女なんていないわ。でも、彼にとってセックスはコーヒーのおかわりやデザートと言ったものなの。ケネディにとってセックスは愛がなくても成り立つものだった」
(アンソニー・サマーズ著『女神 マリリン・モンロー』)

1960年の大統領のキャンペーンの間(偶然にもマリリンとアーサー・ミラーとの結婚が破綻した時期と一致)、マリリンはケネディと関係をもっていた。
同じ年の6月、ロマノフでのパーティで、次期大統領に伴うマリリンの姿があった。ニューヨークのカーライル・ホテルにあるケネディのペントハウスに足繁くかようのも目撃されている。

1962年3月24日、ビング・クロスビーのパームスプリング・ホームにケネディと現れているところも目撃されている。
サンタモニカにあるピーター・ローフォードの別荘にもマリリンはしばしば訪れている。ここは1960年代の初め、ケネディ家のロサンゼルスでの根拠地ともいうべき場所だった。

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I - ILLNESSES(病気)

「重役たちは風邪をひいても電話ひとつで休むと言うことができるとけど、ねえ、女優は風邪をひいたりウイルス性の病気にかかっていたって・・・なんの言い訳にもならないわ」
(マリリンが『ライフ』のインタビューに答えて)

「眠りは彼女の守護神である」
夫アーサー・ミラーがマリリンについて

マリリンは、生涯さまざまな病気に悩まされた。

1、百日咳
子ども時代、ボーレンダー家にいたころ、ノーマ・ジーンは百日咳にかかった。

2、メニエール症候群
1949年、マリリンは軽いメニエール症候群を患った。めまいがして、右の耳がときどき聞こえなくなる程度のものだった。この症状は生涯を通じて彼女を苦しめた。

3、子宮内膜炎
40年代の終わりに、子宮内膜に異常な痛みを訴え、じょじょに進行していった。

4、不眠症
成人してから、不眠症で苦しむ。

5、虫垂炎
1952年春、マリリンは虫垂炎の手術をした。

6、インフルエンザ
1953年2月、『紳士は金髪がお好き』の撮影中に。

7、気管支炎
1953年4月、気管支炎にかかる。

8、気管支肺炎
’54年2月、韓国への旅行のあとに気管支肺炎にかかる。

9、喉頭炎
’56年2月、アクターズ・スタジオでの『アンナ・クリスティー』の公演後、喉頭炎にかかる。

10、ウイルス性疾患と気管支炎
’56年4月の『バス停留所』撮影中、ウイルス性疾患と気管支炎を患う。

11、急性の衰弱
’60年8月、『荒馬と女』の撮影中に。

12、衰弱
’61年2月、アーサー・ミラーとの離婚後、ふたたび衰弱。

13、ウイルス性疾患
1962年4月ウイルス性疾患を患う。

マリリンが亡くなったのは、その4ヶ月後のことだった。

H - JOHNNY HYDE ジョニー・ハイド

マリリン・モンローを世に出した男。マリリン自身もそのことを認めている。
ジョニー・ハイドがいなかったら、マリリン・モンローは存在しなかっただろう。ロシア人軽業師の息子として生まれる。1949年、パームスプリングのラケットクラブでマリリンに出会ったとき、53歳のハイドには家族があった。
長年連れ添った妻、モーゼル・クラヴェンス・ハイドと4人の息子たち。

ハイドはハリウッドで最高のエージェントだった。手がけた大物は、リタ・ヘイワース、ベティ・ハットン、ボブ・ホープ、エスター・ウィリアムズ、ラナ・ターナなど。ハリウッド最大のウィリアム・モリス・エイジェンシーで副社長の地位にあった。ハイドは”心臓”に持病をもっていて、たびたび発作を起こしていた。

マリリンは22歳、女優のタマゴでいつもひもじい思いをして、住むところさえなかった。
マリリンがハイドの愛人になったことは誰の目にも明らかだった。彼ののめりこみようは尋常ではなかった。
エージェント、マネジャー、アドヴァイザー、親友、教師、人生の先輩そして愛人として、どんなときでもマリリンといっしょだった。
マリリンのご機嫌をとり、結婚を迫った。マリリンはイエスとは言わなかった。
愛してはいたが、恋してはいなかったから。

ハイドは妻を残して、ビヴァリーヒルズのノース・パームドライヴに家を用意した。この家で暮らすようになるが、マリリンは結婚は考えてはいなかった。
結婚してくれれば、財産を相続させるとハイドは迫ったが、マリリンは受け入れなかた。

ハイドはジョン・ヒューストン監督の『アスファルト・ジャングル』(1950)の役をマリリンのために手に入れた。
この作品で成功を収めたのち、ジョー・マンキーウィッツ監督の『イヴの総て』
(1050)も獲得。この2作品のヒットで、ハイドは20世紀フォックスとの契約に乗り込んだ。

「きみはものすごい女優になるんだよ」と予言した結末を見ることはなかったが、ハイドは愛する女のために生きた。

H - HONEYMOON ハネムーン

マリリンは3度結婚している。
「かわいい奥さんになるのが夢なの」


●ジム・ドアティ(警察官)

ハネムーンはなし。
戦時中ということもあって、ハネムーンには出かけられなかった。
「もし、戦争がなかったら、私たちはハネムーンにも出かけられただろうし、別れることもなかった。私は大学の教授になっていただろうからね」(ジム・ドアティ)


●ジョー・ディマジオ(元ニューヨーク・ヤンキースの大打者)

パームスプリング郊外のアイドゥルワイルド近くの山荘で2週間過ごした。
ふたりでビリヤードを楽しんだ。テレビは観なかった。
マリリンとディマジオはひと月後、改めてハネムーンに発つ。
日本を訪れ、東京、富士山を見て大阪、横浜を回った。
このハネムーンの間、よく喧嘩をした。
人気絶頂にマリリンは各地で大歓迎を受けた。
このハネムーンでふたりの仲に亀裂が起きた。
マリリンは真珠のネックレスを買った。お金は自分で払っている。
「自分自身へのプレゼントとして」


●アーサー・ミラー(劇作家)

夫妻はすぐにはハネムーンには行かなかった。
が、結婚後まもなく、『王子と踊り子』の撮影でロンドンに向かった。
1957年1月、延期になっていたハネムーンで、ジャマイカ半島の海辺の別荘ムーンポイントに行き、1月3日から16日までそこで過ごした。

「かわいい奥さんになって、赤ちゃんがほしい」
マリリンの夢はかなわなかった。

G - MILTON H. GREENE ミルトン・グリーン(2)

カメラマンのミルトン・グリーンは、生活だけでなく女優としてのマリリンのすべてをささえてきた。
20世紀フォックスとの契約にもグリーンはすべて立ちあった。

1956年、マリリンがハリウッドに戻ると、グリーンはいつも彼女の傍らにいた。
「ミルトン・グリーンって誰だ?」
映画監督のビリー・ワイルダーは言った。
「エリア・カザン、スタラスバーグなら知っているけど、ミルトンって知らないなあー」

グリーンはマリリンの恋人なのだ、と誰もが思った。
事実、2人は深く理解しあっていた。仕事のパートナーとしても、男女の仲でも。

グリーンの存在は、マリリン復帰第1作となった『バス停留所』(1956年)を成功させたことで高く評価された。メイクや照明も担当した。次いで、マリリン・モンロー・プロダクション第1作『王子と踊り子』(1957年)を企画した。

だが、皮肉なことにこの映画によって、マリリンとグリーンの関係に亀裂が生じるのである。監督と主演をつとめたサー・ローレンス・オリヴィエとマリンの仲が深まったことで、グリーンがオリヴィエを「敵」と考えるようになった。
さらに、グリーンがモンロー・プロダクションの支社をロンドンに作ることに夫アーサー・ミラーが激怒した。

「私はマリリンとも、ミラーともうまくいっている。会社の株を売るようなことはしません」
だが、グリーンはプロダクションの株をわずか8万5千ドルで売却してしまったのだ。

「この7年間、ミスター・グリーンに収入の49・6%を分配するために、がんばってきたわけじゃないのよ」

友情も愛も終わった。
「マリリンは傷つきやすく、ときに私には理解できない言動や行動があった。道端でイヌが亡くなったいるのをみて、泣き崩れる彼女についていけなくなった」

ミルトン・グリーンが撮った膨大なマリリンの写真だけが残った。どのマリリンも輝いている。

G - MILTON H. GREENE ミルトン・グリーン(1)

「あなたは、まさに男ね!」(マリリン)
「そして、きみはまさに女だね」(グリーン)

カメラマンのミルトン・グリーンとマリリン・モンローはすぐに意気投合した。
1953年の後半、グリーンはハリウッドにいて、『ルック』誌でマリリンのカヴァー・ストーリーを撮っていた。
マリリンは『帰らざる河』のロケが終わったばかりで、グリーンとはジーン・ケリーのパーティで出会った。2人は一緒に仕事をしたいと思った。

翌年、マリリンはジョー・ディマジオと結婚して別れたが、ミルトン・グリーンはマリリンをハリウッドから”救出”しようとした。
1954年11月16日、ロマノフ家でのマリリンのための盛大なパーティから10日後、グリーンはマリリンをハリウッドからニューヨークに連れ戻し、話し合った。

その年の終わリには、マリリンとグリーンはマリリン・モンロー・プロダクションを作った。マリリンはしばらくはニューヨークのホテルに隠れるようにしていたが、やがてコネティカット州ウエストンにあるミルトン&エミー・グリーン夫妻の家に身を寄せた。

1955年の初め、マリリン・モンロー・プロダクションは公になった。
「わたしはミルトン(グリーン)のことをほんとうに信頼してるわ。彼にはとっても才能があるの。彼は天才よ」

グリーンは『ルック』誌での年俸5万ドルの仕事を辞めて、マリリンとの新しい仕事に専念することに決めた。
自宅を抵当に入れ、限度いっぱいの借金をした。すべて、仕事のないマリリンの生活を支えるためだった。

マリリンの支出のおもなものは以下のとおり。
①宿泊先のウォルドーフ・アステリア・タワーの部屋代が週1000ドル。
②母グラディスの介護費用に週100ドル
③精神分析医に週125ドル
④美容のための費用に週500ドル
⑤香水に週50ドル
⑥私的秘書の給与
⑦広報係の給与

グリーンはスポーツカー、黒のサンダーバードの新車をマリリンのために購入し、さらに2か月ごとに洋服代が3000ドルかかった。
マリリン・モンローというスターには、最低でも年5万ドルが必要だった。グリーンはすべてをマリリンのために整えた。

なぜ、グリーンはそこまでマリリンに入れ込んだのだろう。
自分は破滅してもいいとさえ思っていたのである。