マリリンモンロー N - NUDITY ヌード(1)
「ボッティチェルリのビーナスに異議を唱える人はいないでしょ。それなら、私のヌードにどうして文句を言うのかしら」
マリリン・モンロー
「注目を浴びたいという願望には意味があったのだと思うの、教会でのミサのときのことよ。オルガンに合わせてみんなが讃美歌を歌っていた。私は礼拝堂のイスにすわったとたん、服をすっかり脱いじゃいたいという衝動にかられてしまったの。イスから立ち上がって、裸の私を神さまとみんなにどうしても見てもらいたくなった。私は歯をくいしばって、この手が服を脱ごうとするのを必死でこらえなくてはならなかった・・・そんな夢を見たこともあった。夢の中で、フープスカート(昔の張り骨入りスカート)の下に何もつけていない私が教会の中に入っていく。みんな、通路に仰向けになって横たわっている。その上を歩いていくと、みんな私を見上げたの」
MM、ノーマ・ジーンについて
「ヌードっていうと、人々は妙な感じを抱くのね、セックスに対する感じのように。ヌードとセックスは世間ではあたりまえのことなのに、火星にだけしか存在しないかのような態度をとるのよ」
マリリン・モンロー
「生まれたときの姿で誕生日を祝っているみたい」
MM、裸で泳いでいることについて、 1962
「マリリンのような完璧な肢体のヌードは綺麗だ、美とは低俗なものではない」
アグネス・フラナガン
「裸になりたいとか、そういう夢を見ることとか、恥ずかしいとも、罪深いとも思ってなかった。みんなが私を見てくれると思うと、淋しくなくなってくる。
裸の私を見てほしかったのは着ている服にひけ目を感じていたから・・・いつも同じ、色褪せた粗末なブルーのドレス。裸だったら、孤児院の制服を着た娘でなく、他の女の子たちと同じになれるのだもの」
マリリン・モンロー
「マリリンは若い女の子の体の輪郭を失っていたが、自分では成熟したことを受け入れようとはしなかった。『プレイボーイ』などの雑誌でも通用するようなヌード、セミヌードなんだって言い張っていた。自分の肉体の変化をまったく認めることができないなんて、悲劇的なことだ」
カメラマンのイヴ・アーノルド、MMについて、1961
「マリリンはバスタオルに体を包み、くつろいでいることが多かった。タオルが落ちてもかまわない。下に何かを着ていようがいまいがマリリンは気にならなかった。それはまだヌードになる以前のこと。マリリンは自分の時代を先取りしていたのだ」
ジョージ・マスターズ
「『女房は生きていた』で泳ぐシーンのマリリンはとても可愛かった。ジョージ・キューカー監督は『ヌードにならないか?』と訊いた。夫役のディーン・マーチンがそっとのぞいているのに気づきながら真夜中のプールで楽しそうに泳ぐシーンを撮ることになっていた。マリリンは恥ずかしがるようすもなく、『いいわ』と答えた。撮影のあと、ラッシュを見たマリリンは大笑いでこう言った。『まるですごい水泳選手みたい。犬かきしかできないなんて誰も思わないでしょ?』」
マージョリー・プレッチャー
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マリリン・モンロー
「注目を浴びたいという願望には意味があったのだと思うの、教会でのミサのときのことよ。オルガンに合わせてみんなが讃美歌を歌っていた。私は礼拝堂のイスにすわったとたん、服をすっかり脱いじゃいたいという衝動にかられてしまったの。イスから立ち上がって、裸の私を神さまとみんなにどうしても見てもらいたくなった。私は歯をくいしばって、この手が服を脱ごうとするのを必死でこらえなくてはならなかった・・・そんな夢を見たこともあった。夢の中で、フープスカート(昔の張り骨入りスカート)の下に何もつけていない私が教会の中に入っていく。みんな、通路に仰向けになって横たわっている。その上を歩いていくと、みんな私を見上げたの」
MM、ノーマ・ジーンについて
「ヌードっていうと、人々は妙な感じを抱くのね、セックスに対する感じのように。ヌードとセックスは世間ではあたりまえのことなのに、火星にだけしか存在しないかのような態度をとるのよ」
マリリン・モンロー
「生まれたときの姿で誕生日を祝っているみたい」
MM、裸で泳いでいることについて、 1962
「マリリンのような完璧な肢体のヌードは綺麗だ、美とは低俗なものではない」
アグネス・フラナガン
「裸になりたいとか、そういう夢を見ることとか、恥ずかしいとも、罪深いとも思ってなかった。みんなが私を見てくれると思うと、淋しくなくなってくる。
裸の私を見てほしかったのは着ている服にひけ目を感じていたから・・・いつも同じ、色褪せた粗末なブルーのドレス。裸だったら、孤児院の制服を着た娘でなく、他の女の子たちと同じになれるのだもの」
マリリン・モンロー
「マリリンは若い女の子の体の輪郭を失っていたが、自分では成熟したことを受け入れようとはしなかった。『プレイボーイ』などの雑誌でも通用するようなヌード、セミヌードなんだって言い張っていた。自分の肉体の変化をまったく認めることができないなんて、悲劇的なことだ」
カメラマンのイヴ・アーノルド、MMについて、1961
「マリリンはバスタオルに体を包み、くつろいでいることが多かった。タオルが落ちてもかまわない。下に何かを着ていようがいまいがマリリンは気にならなかった。それはまだヌードになる以前のこと。マリリンは自分の時代を先取りしていたのだ」
ジョージ・マスターズ
「『女房は生きていた』で泳ぐシーンのマリリンはとても可愛かった。ジョージ・キューカー監督は『ヌードにならないか?』と訊いた。夫役のディーン・マーチンがそっとのぞいているのに気づきながら真夜中のプールで楽しそうに泳ぐシーンを撮ることになっていた。マリリンは恥ずかしがるようすもなく、『いいわ』と答えた。撮影のあと、ラッシュを見たマリリンは大笑いでこう言った。『まるですごい水泳選手みたい。犬かきしかできないなんて誰も思わないでしょ?』」
マージョリー・プレッチャー
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マリリンモンロー N-PATRICIA NEWCOMB パトリシア・ニューカム(2)
1962年8月3日の晩、ビヴァリー・ヒルズのレストラン"ラ・スカラ"でパット・ニューカムはMM、ピーター・ローフォードらと会食をした。その夜、ニューカムはブレントウッドのマリリンの家に泊まる。翌日の土曜日、気管支炎にかかったニューカムは、その治療のためマリリンの家のプールで日光浴をして過ごす。
その日の午後になって、ラルフ・グリーンスン医師がマリリンの家を訪れた。
グリーンスンはパット・ニューカムにお引き取り願いたい旨を伝えた。マリリンはパットのことで精神的にまいっていたようだったと言われている。
アンソニー・サマーズは『女神』の中で、パットはロバート・ケネディに必要以上の関心を持っていたためだと記している。『バス停留所』時代のライバル意識が再燃したとも思われる。
いずれにしても、マリリンの家を去ったニューカムは二度と生きているマリリンに会うことはなかった。8月5日の早朝、パットはマリリンの弁護士、ミッキー・ルーディンからの電話で起こされた。彼女はただちにブレントウッドのマリリンの家に駆けつけた。
ユーニス・マレー夫人によると、パット・ニューカムはヒステリックな精神状態だったという。泣き喚き、大声をあげ、マリリンの家から出るのを激しく拒んでいた。マリリンの死体が運び出されたのち、マレー夫人はようやくパットを家から連れ出すことができた。待ちかまえていた記者たちの質問に対し、パットはこう言い返した。
「あなたの親友が自殺したとしたら、あなたはどんな気持ちになる? あなたならいったいどうします?」
「親友」の死のあと、パット・ニューカムは飛行機でハイアニスポートのケネディ一族の住宅群に向かった。ニューカムはそれから半年、ヨーロッパに滞在する。帰国した彼女は合衆国政府の職を得、ロバート・ケネディ司法長官の部屋に隣接するオフィスで勤務するようになった。
その後、ケネディがニューヨーク州の上院議員選に出馬すると、パット・ニューカムは彼の選挙スタッフとなった。
1982年、パトリシア・ニューカムはニューヨーク市のロジャーズ&カウアン・パブリック・リレーションズ・エージェンシーに戻る。3年後、カリフォルニア、カルヴァー・シティにあるMGMスタジオで副社長の座に就いた。
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その日の午後になって、ラルフ・グリーンスン医師がマリリンの家を訪れた。
グリーンスンはパット・ニューカムにお引き取り願いたい旨を伝えた。マリリンはパットのことで精神的にまいっていたようだったと言われている。
アンソニー・サマーズは『女神』の中で、パットはロバート・ケネディに必要以上の関心を持っていたためだと記している。『バス停留所』時代のライバル意識が再燃したとも思われる。
いずれにしても、マリリンの家を去ったニューカムは二度と生きているマリリンに会うことはなかった。8月5日の早朝、パットはマリリンの弁護士、ミッキー・ルーディンからの電話で起こされた。彼女はただちにブレントウッドのマリリンの家に駆けつけた。
ユーニス・マレー夫人によると、パット・ニューカムはヒステリックな精神状態だったという。泣き喚き、大声をあげ、マリリンの家から出るのを激しく拒んでいた。マリリンの死体が運び出されたのち、マレー夫人はようやくパットを家から連れ出すことができた。待ちかまえていた記者たちの質問に対し、パットはこう言い返した。
「あなたの親友が自殺したとしたら、あなたはどんな気持ちになる? あなたならいったいどうします?」
「親友」の死のあと、パット・ニューカムは飛行機でハイアニスポートのケネディ一族の住宅群に向かった。ニューカムはそれから半年、ヨーロッパに滞在する。帰国した彼女は合衆国政府の職を得、ロバート・ケネディ司法長官の部屋に隣接するオフィスで勤務するようになった。
その後、ケネディがニューヨーク州の上院議員選に出馬すると、パット・ニューカムは彼の選挙スタッフとなった。
1982年、パトリシア・ニューカムはニューヨーク市のロジャーズ&カウアン・パブリック・リレーションズ・エージェンシーに戻る。3年後、カリフォルニア、カルヴァー・シティにあるMGMスタジオで副社長の座に就いた。
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マリリンモンロー N - PATRICIA NEWCOMB パトリシア・ニューカム
「マリリン・モンローを誰よりも知っている人間は誰かって? パット・ニューカムよ。でもダメ、何も聞き出せないわよ」
ジーン・マーティン、アンソニー・サマーズに。
『女神 マリリン・モンロー』(マクミラン社 1985)
マーゴット・パトリシア・ニューカムは1930年7月9日、ワシントンDC生まれ。ミルズ・カレッジを卒業すると、ニューヨークのアーサー・ジェイコブズ・パブリック・リレーションズ・エージェンシーに勤務。MMのエージェンシーである。
1956年、マリリンが『バス停留所』の撮影のためにハリウッドに戻ってくると、パットはMMの担当を任されることになった。だが、撮影の間、この二人の女は互いに譲らず、セックスの上でもライバルの関係にあった。マリリンはニューカムを解雇した。
4年あまりのち、『荒馬と女』の撮影が最悪の状態で終わったとき、ルパート・アランはマリリンの広報担当を降りた。ここでまた、パット・ニューカムがマリリンの個人的なエージェントとして返り咲くことになる。
今度は、二人の女はそれなりの関係を保つことができた。アーサー・ミラーとの離婚の手続きのためにメキシコのフアレスまでマリリンのお伴をしたのはパット・ニューカムだった。2、3ヶ月後、マリリンがコロムビア・プレスビテリアン・ホスピタルを退院するときに付き添っていたのはパット・ニューカムだった。
1962年にマリリンが家具調度品を買うため、メキシコシティーまでの旅に同行したのはパット・ニューカムだった。二人の女はかなり親密になっていたようだ。ニューカムはマリリンを守ってあげなければという気持ちになっていた。マリリンにかかってくる電話すべてをパットが対応した。彼女の役割は従来のエージェントの職分をはるかに超えるものとなっていた。
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ジーン・マーティン、アンソニー・サマーズに。
『女神 マリリン・モンロー』(マクミラン社 1985)
マーゴット・パトリシア・ニューカムは1930年7月9日、ワシントンDC生まれ。ミルズ・カレッジを卒業すると、ニューヨークのアーサー・ジェイコブズ・パブリック・リレーションズ・エージェンシーに勤務。MMのエージェンシーである。
1956年、マリリンが『バス停留所』の撮影のためにハリウッドに戻ってくると、パットはMMの担当を任されることになった。だが、撮影の間、この二人の女は互いに譲らず、セックスの上でもライバルの関係にあった。マリリンはニューカムを解雇した。
4年あまりのち、『荒馬と女』の撮影が最悪の状態で終わったとき、ルパート・アランはマリリンの広報担当を降りた。ここでまた、パット・ニューカムがマリリンの個人的なエージェントとして返り咲くことになる。
今度は、二人の女はそれなりの関係を保つことができた。アーサー・ミラーとの離婚の手続きのためにメキシコのフアレスまでマリリンのお伴をしたのはパット・ニューカムだった。2、3ヶ月後、マリリンがコロムビア・プレスビテリアン・ホスピタルを退院するときに付き添っていたのはパット・ニューカムだった。
1962年にマリリンが家具調度品を買うため、メキシコシティーまでの旅に同行したのはパット・ニューカムだった。二人の女はかなり親密になっていたようだ。ニューカムはマリリンを守ってあげなければという気持ちになっていた。マリリンにかかってくる電話すべてをパットが対応した。彼女の役割は従来のエージェントの職分をはるかに超えるものとなっていた。
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マリリンモンロー N - SHEREE NORTH (シェリー・ノース 女優)
「プライベートの時間を持ちたいときは、何とかなるものよ。ファンを煙に巻
いちゃうの。『あら、マリリン・モンロー?』と訊かれたら、『いいえ、マミ
ー・ヴァン・ドーレンよ』とか、『シェリー・ノースよ』とか言うの、急いで
るときはね」
マリリン・モンロー、アール・ウィルソンに。10・6'55
「(シェリーは)モンローのテクニックを模倣しなかった。セリフはなかっ
たが、完璧にその役を演じた」
ナナリー・ジョンソン(1955)
『How to Be Very , Very Popular』でのシェリー・ノースに
ついて
シェリー・ノースは1933年にドーン・ベサルで生まれた。1950年
代にはマリリン・モンローの後釜になるのを拒否する女優として評判になった。
20世紀フォックス首脳部がわがままなドル箱スター、MMに圧力をかける手段と
してシェリーを起用したのは事実である。
1954年、マリリンが『ショーほど素敵な商売はない』の出演に難色を見せ
たとき、フォックス社はマリリンの鼻先に若きシェリーの存在をちらつかせた。
マリリンは映画出演に同意した・・・後にこの決断をマリリンは後悔すること
になる。
その後まもなく、マリリンは映画『The Girl in Pink Tights』と『How
to Be Very,Very Popular』の出演を拒否した。これを予想していたフォ
ックスは、この2作品でシェリー・ノースがマリリン・モンローにとって代わ
ると発表した。このときは、マリリンは会社に反撃しなかった。
『How to Be Very,Very Popular』(1955)の封切りに際してはかなり
の期待が寄せられた。おそらく、フォックス社からの働きかけがあったのか、
無名の新人シェリーが『ライフ』誌の表紙を飾った。『ロサンゼルス・タイム
ズ』紙もシェリーを歓迎して「シェリー・イン、マリリン・アウト」と大きく
取り上げ、「二人の女優の違いはただひとつ、『シェリーは仕事をする』とい
う点だ」と評した。
『How to Be Very,Very Popular』の制作は1955年の2月に始まっ
た。
その年のうちに公開されたが、評判はよくなかった。『The Girl in Pin
k Tights』の制作は棚上げにされてしまった。シェリーがマリリンにとって代
わるという会社の思惑は失敗に終わった。1956年にマリリンが勝ち誇って
フォックス社に戻ると、シェリーの存在はかすんでしまった。
1980年、テレビ映画『マリリン・・・語られざる物語』の中でシェリ
ーはマリリンの母親役を演じることになった。また、シェリーはこの映画のセ
リフのコーチも務めている。
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いちゃうの。『あら、マリリン・モンロー?』と訊かれたら、『いいえ、マミ
ー・ヴァン・ドーレンよ』とか、『シェリー・ノースよ』とか言うの、急いで
るときはね」
マリリン・モンロー、アール・ウィルソンに。10・6'55
「(シェリーは)モンローのテクニックを模倣しなかった。セリフはなかっ
たが、完璧にその役を演じた」
ナナリー・ジョンソン(1955)
『How to Be Very , Very Popular』でのシェリー・ノースに
ついて
シェリー・ノースは1933年にドーン・ベサルで生まれた。1950年
代にはマリリン・モンローの後釜になるのを拒否する女優として評判になった。
20世紀フォックス首脳部がわがままなドル箱スター、MMに圧力をかける手段と
してシェリーを起用したのは事実である。
1954年、マリリンが『ショーほど素敵な商売はない』の出演に難色を見せ
たとき、フォックス社はマリリンの鼻先に若きシェリーの存在をちらつかせた。
マリリンは映画出演に同意した・・・後にこの決断をマリリンは後悔すること
になる。
その後まもなく、マリリンは映画『The Girl in Pink Tights』と『How
to Be Very,Very Popular』の出演を拒否した。これを予想していたフォ
ックスは、この2作品でシェリー・ノースがマリリン・モンローにとって代わ
ると発表した。このときは、マリリンは会社に反撃しなかった。
『How to Be Very,Very Popular』(1955)の封切りに際してはかなり
の期待が寄せられた。おそらく、フォックス社からの働きかけがあったのか、
無名の新人シェリーが『ライフ』誌の表紙を飾った。『ロサンゼルス・タイム
ズ』紙もシェリーを歓迎して「シェリー・イン、マリリン・アウト」と大きく
取り上げ、「二人の女優の違いはただひとつ、『シェリーは仕事をする』とい
う点だ」と評した。
『How to Be Very,Very Popular』の制作は1955年の2月に始まっ
た。
その年のうちに公開されたが、評判はよくなかった。『The Girl in Pin
k Tights』の制作は棚上げにされてしまった。シェリーがマリリンにとって代
わるという会社の思惑は失敗に終わった。1956年にマリリンが勝ち誇って
フォックス社に戻ると、シェリーの存在はかすんでしまった。
1980年、テレビ映画『マリリン・・・語られざる物語』の中でシェリ
ーはマリリンの母親役を演じることになった。また、シェリーはこの映画のセ
リフのコーチも務めている。
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マリリンモンロー N - NAME 名前
[名前]
「マリリンという名前は嫌いだった。いつかはジーン・モンローという名前にしたいと何度か考えた。でも、今となってはもう遅いわね」
マリリン・モンロー 1952
出生時の名前:ノーマ・ジーン・モーテンセン
洗礼名:ノーマ・ジーン・ベイカー
学校での名前:ノーマ・ジーン(Jeane)・ベイカー、ノーマ・ジーン(Jean)・ベイカー、ノーマ・ベイカー
結婚証明書記載名(1946):ノーマ・ジーン・モーテンセン
婚姻届記載名(1946):ノーマ・ジーン・ドアティ
モデル時代の名前:ノーマ・ジーン・ドアティ、ノーマ・ドアティ、ジーン・ノーマン
ヘッダ・ホッパーのコラムに初めて載ったときの名前(1946):ノーマ・ジーン・ドアティ
スタジオでの最初の名前:キャロル・リンド
スタジオで認証された名前:マリリン・ミラー、ジーン・モンロー
結婚証明書記載名(1954):ノーマ・ジーン・ドアティ
婚姻届記載名(1954):マリリン・ディマジオ
結婚証明書記載名(1956):マリリン・モンロー
婚姻届記載名(1956):マリリン・ミラー
死亡届記載名(1962):マリリン・モンロー
[別名]
* ヌードカレンダー契約名:モナ・モンロー
* ウエストウッドのモーテルにチェックインしたときの名前(1954):ノーマ・ベイカー
* ニューヨークへ発ったときの名前(1954):ゼルダ・ゾンク
* シドニー・スコルスキーの記事に載ったときの名前:ミス・キャスウェル
* アーサー・ミラーに電話をかけたときの名前(ミラーの離婚前):ミセズ・レスリー
* ペイン・ホウィットニー・クリニックに入院したときの名前(1961):
ミス・フェイ・ミラー
* パーム・ストリングスへの旅行したときの名前(1962):トニー・ロバーツ
NICKNAMES
クラスメイトたちから:ノーマ・ジーン、ヒューマン・ビーン(Bean、豆)、ストリング・ビーン(さやいんげん)
養母グレース・ゴダードから:マウス
カーガー家の人から:マリル
コラムニストのアール・ウィルソンから:Mmmmmmm・Girl
『ラブ・ハピー』のプレス・エージェントから:Woo・Woo・Girl(wooは求愛
するの意)
兵隊たちから:ミス・火炎放射器、ミス・チーズケーキ、ミス・モラル、我々と我々のの妻の間にいてほしい女の子
ジェーン・ラッセルから:ベビー・ドール、まんまるい子
サタデー・イヴニング・ポストの記者ピート・マーティンから:水平歩きの女の子ヘッダ・ホッパーから:トーチランプ(小型発炎装置)・ブロンド
アーサー・ミラーから:ペニー・ドゥレッドフル、シュガー・フィニー、グラマシー5
その他:アトミック・ブロンド、ミス・バウンティフル(気前のよい)、国一番のセックス・スリル
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「マリリンという名前は嫌いだった。いつかはジーン・モンローという名前にしたいと何度か考えた。でも、今となってはもう遅いわね」
マリリン・モンロー 1952
出生時の名前:ノーマ・ジーン・モーテンセン
洗礼名:ノーマ・ジーン・ベイカー
学校での名前:ノーマ・ジーン(Jeane)・ベイカー、ノーマ・ジーン(Jean)・ベイカー、ノーマ・ベイカー
結婚証明書記載名(1946):ノーマ・ジーン・モーテンセン
婚姻届記載名(1946):ノーマ・ジーン・ドアティ
モデル時代の名前:ノーマ・ジーン・ドアティ、ノーマ・ドアティ、ジーン・ノーマン
ヘッダ・ホッパーのコラムに初めて載ったときの名前(1946):ノーマ・ジーン・ドアティ
スタジオでの最初の名前:キャロル・リンド
スタジオで認証された名前:マリリン・ミラー、ジーン・モンロー
結婚証明書記載名(1954):ノーマ・ジーン・ドアティ
婚姻届記載名(1954):マリリン・ディマジオ
結婚証明書記載名(1956):マリリン・モンロー
婚姻届記載名(1956):マリリン・ミラー
死亡届記載名(1962):マリリン・モンロー
[別名]
* ヌードカレンダー契約名:モナ・モンロー
* ウエストウッドのモーテルにチェックインしたときの名前(1954):ノーマ・ベイカー
* ニューヨークへ発ったときの名前(1954):ゼルダ・ゾンク
* シドニー・スコルスキーの記事に載ったときの名前:ミス・キャスウェル
* アーサー・ミラーに電話をかけたときの名前(ミラーの離婚前):ミセズ・レスリー
* ペイン・ホウィットニー・クリニックに入院したときの名前(1961):
ミス・フェイ・ミラー
* パーム・ストリングスへの旅行したときの名前(1962):トニー・ロバーツ
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クラスメイトたちから:ノーマ・ジーン、ヒューマン・ビーン(Bean、豆)、ストリング・ビーン(さやいんげん)
養母グレース・ゴダードから:マウス
カーガー家の人から:マリル
コラムニストのアール・ウィルソンから:Mmmmmmm・Girl
『ラブ・ハピー』のプレス・エージェントから:Woo・Woo・Girl(wooは求愛
するの意)
兵隊たちから:ミス・火炎放射器、ミス・チーズケーキ、ミス・モラル、我々と我々のの妻の間にいてほしい女の子
ジェーン・ラッセルから:ベビー・ドール、まんまるい子
サタデー・イヴニング・ポストの記者ピート・マーティンから:水平歩きの女の子ヘッダ・ホッパーから:トーチランプ(小型発炎装置)・ブロンド
アーサー・ミラーから:ペニー・ドゥレッドフル、シュガー・フィニー、グラマシー5
その他:アトミック・ブロンド、ミス・バウンティフル(気前のよい)、国一番のセックス・スリル
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マリリンモンロー A-Z M - EUNICE MURRAY ユーニス・マレー( 2 )
マリリンの死後、ユーニス・マレーはヨーロッパに発った。滞在は6カ月だったといわれているが、マレー自身はほんの6週間だったと言う。
何年もの間、あるひとつの疑問がくりかえし持ち出されてきた。マリリン寝室のドアとカーペットの間には明かりがもれる隙間がないのに、ユーニス・
マレーはどうして明かりがただごとではないと思ったのか? 1975年に著した彼女の本で、まっさきにおかしいと思ったのは明かりではなく、ドアの下を這っている電話コードだったとして、この疑問に初めて答えている。
そして1985年には、ユーニス・マレーは再び供述を翻し、論議をかもし出した。その時点まで、マレー夫人は、8月4日にはロバート・ケネディはマリリンのブレントウッドの家の近くにはいなかったと断言していた。1985年、BBCのドキュメンタリー番組『マリリン・モンローの最後の日々』で、マレー夫人はカメラに向かい、マリリンが亡くなった日の午後、ケネディは確かにマリリンの家にいたと告白した。
しかし、マレー夫人はその後、この話に関してはいっさい語ろうとはしなかった。
「私は82歳なんです。ときどき、何もかもわからなくなるんです」
こうして、マレー夫人のつじつまの合わない話のために、マリリン・モンローの死は謎に包まれたままだ。もちろん、マレー夫人は現実に証言台に立ったわけではない。マリリン・モンローの死因が審問にかけられることはなかったのだから。
フレッド・ローレンス・ガイルズはその著書『マリリン・モンローの生涯』の補遺で次のように述べている。
「7月の終わりには、マリリンはマレー夫人に暇を出してみようかと考えていた。以前に家政婦をしていた黒人のフローレンス・トーマスに戻ってこないかと頼んだ。マレー夫人と交替するのだとフローレンスは信じた」
1962年にはロバート・E・バイロン巡査部長が興味深い報告をしている。
「マレー夫人が、この時期のミス・モンローの行動に関係ある質問にあいまいな、言い逃れのような答えかたをしていたというのは、この警察官の考えである。故意によるものか、そうでないかは誰にもわからない」
井上篤夫の眼 http://www.ainoue.com
何年もの間、あるひとつの疑問がくりかえし持ち出されてきた。マリリン寝室のドアとカーペットの間には明かりがもれる隙間がないのに、ユーニス・
マレーはどうして明かりがただごとではないと思ったのか? 1975年に著した彼女の本で、まっさきにおかしいと思ったのは明かりではなく、ドアの下を這っている電話コードだったとして、この疑問に初めて答えている。
そして1985年には、ユーニス・マレーは再び供述を翻し、論議をかもし出した。その時点まで、マレー夫人は、8月4日にはロバート・ケネディはマリリンのブレントウッドの家の近くにはいなかったと断言していた。1985年、BBCのドキュメンタリー番組『マリリン・モンローの最後の日々』で、マレー夫人はカメラに向かい、マリリンが亡くなった日の午後、ケネディは確かにマリリンの家にいたと告白した。
しかし、マレー夫人はその後、この話に関してはいっさい語ろうとはしなかった。
「私は82歳なんです。ときどき、何もかもわからなくなるんです」
こうして、マレー夫人のつじつまの合わない話のために、マリリン・モンローの死は謎に包まれたままだ。もちろん、マレー夫人は現実に証言台に立ったわけではない。マリリン・モンローの死因が審問にかけられることはなかったのだから。
フレッド・ローレンス・ガイルズはその著書『マリリン・モンローの生涯』の補遺で次のように述べている。
「7月の終わりには、マリリンはマレー夫人に暇を出してみようかと考えていた。以前に家政婦をしていた黒人のフローレンス・トーマスに戻ってこないかと頼んだ。マレー夫人と交替するのだとフローレンスは信じた」
1962年にはロバート・E・バイロン巡査部長が興味深い報告をしている。
「マレー夫人が、この時期のミス・モンローの行動に関係ある質問にあいまいな、言い逃れのような答えかたをしていたというのは、この警察官の考えである。故意によるものか、そうでないかは誰にもわからない」
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マリリンモンロー M - EUNICE MURRAY ユーニス・マレー( 1 )
「ユーニスは心理学に関心があり、心の病をもつ人々のために仕事をしたいと考えていたわ。本を読み、勉強していた。ケアの依頼があると、患者についての予備知識、主治医の目的となるガイダンスを十分に理解したうえで、指示された治療の手助けをした。さまざまなタイプの患者の面倒をみてきた」
ローズ・シェイド、ユーニス・マレーについて。
"Marilyn:The Last Months"(1975、ピラミッド社)より
「ドライヴには行かないことになると思うわ、ミセズ・マレー」
MM、ユーニス・マレーに、1962年8月4日
ユーニス・マレー夫人の言動には矛盾が多い。ユーニスは1961年11月から1962年8月5日までマリリン・モンローの「家政婦」をしていた。当初は、家政婦本来の務めをするものではなかった。おかかえ運転手、助言者、インテリアの装飾、公的秘書を任され、そして友だちでもあった。
彼女の著作"Marilyn:The Last Months"(ローズ・シェイドとの共著)で、MMのもとにくる前、神経を病んでいる患者たちの世話を10年間務めたと述べている。
マリリンが亡くなってからちょうど1週間後、彼女特有のあいまいな表現で、『ロサンゼルス・ヘラルド・イグザミナー』に次のように語った。
「グリーンスン先生(マリリンの精神科医)から、マリリンのことで、いくつか指示を受けていました。でもそのことは申し上げられません」
ユーニスについて知られているのは、結婚前の名前はイレーヌ・ジョーント、1902年2月2日、シカゴ生まれということ。1948年にメキシカンスタイルの持ち家をラルフ・グリーンスン医師に売却した。13年後、グリーンスンは患者のマリリン・モンローにマレー夫人を友だち、看護師、家政婦として雇うように勧めた。マレー夫人には奇しくもマリリンという名の成人した娘がいた。はじめの頃の報酬は週60ドル。だが、仕事にしばられる時間が増えてきたので、まもなく週200ドルになった。
1962年2月、ユーニス・マレーの尽力で、マリリンは夢に描いてきた家をみつけた。ブレントウッドにあるプライベートの地味な平屋の一軒家。その後の5ヶ月間、この奇妙な組み合わせの女たちは、新居に設える本物のメキシコの家具調度品のことで大忙しだった。
1962年8月4日の朝8時に、ユーニスはブレントウッドのマリリンの家にやってきた。その晩は、グリーンスン医師の要請で、その家にとどまることになった。それ以後のことは、何年にも渡り、たびたび、さまざまな形で語られてきているので、どれを信じてよいのかむずかしい。
最初の、「さらに第2回目の」警察の発表によると、真夜中にマリリンの部屋に明かりがついているので、マレー夫人は不審に思った。その後、午前3時30分に、まだ明かりがついていた。そこで、マレー夫人は外に回って、寝室の窓から見たところ、マリリンの体はベッドの上に「不自然な」かたちで横たわっていた。マレー夫人はグリーンスン医師に電話をかけた。グリーンスンはすぐさまやってきた。
ところが、現場に最初にやってきた警察官のジャック・クレモンズによると、マレー夫人のはじめの証言ではマリリンの死体を発見したのは真夜中すぎで、グリーンスン医師とエンゲルバーグ医師(マリリンの内科医)は深夜12時30分からブレントウッドの家にいたというのだ! このことは、警察への通報が4時25分であったという事実と考え合わせると、さらに興味深い。
何年もたってから、マレー夫人はボブ・スラッツアーにきっぱりとこう言っている。
マリリンの死体を発見したのは真夜中ごろ、つまり、マリリンが亡くなったのは8月4日の深夜で8月5日の未明ではない。そして、これがマリリンが死亡した日と考えられているのだ。さらに、状況を不可解なものとしているのは、前出の警察官ジャック・クレモンズによると、4時40分に現場に到着したとき、マレー夫人は洗濯をし、冷蔵庫を掃除して中のものを取り出していたというのだ。
翌日の6日、サンタモニカの彼女のアパートで記者会見に臨んだ。4日の夜、マリリンにわけのわからない不穏な電話がかかってきたのだと言った。
そして、「・・・・この何週間、マリリンがしてきたことはすべてが生きていくためのことだった。私たちはすてきな計画をあれこれと考えていた」とも言った。
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ローズ・シェイド、ユーニス・マレーについて。
"Marilyn:The Last Months"(1975、ピラミッド社)より
「ドライヴには行かないことになると思うわ、ミセズ・マレー」
MM、ユーニス・マレーに、1962年8月4日
ユーニス・マレー夫人の言動には矛盾が多い。ユーニスは1961年11月から1962年8月5日までマリリン・モンローの「家政婦」をしていた。当初は、家政婦本来の務めをするものではなかった。おかかえ運転手、助言者、インテリアの装飾、公的秘書を任され、そして友だちでもあった。
彼女の著作"Marilyn:The Last Months"(ローズ・シェイドとの共著)で、MMのもとにくる前、神経を病んでいる患者たちの世話を10年間務めたと述べている。
マリリンが亡くなってからちょうど1週間後、彼女特有のあいまいな表現で、『ロサンゼルス・ヘラルド・イグザミナー』に次のように語った。
「グリーンスン先生(マリリンの精神科医)から、マリリンのことで、いくつか指示を受けていました。でもそのことは申し上げられません」
ユーニスについて知られているのは、結婚前の名前はイレーヌ・ジョーント、1902年2月2日、シカゴ生まれということ。1948年にメキシカンスタイルの持ち家をラルフ・グリーンスン医師に売却した。13年後、グリーンスンは患者のマリリン・モンローにマレー夫人を友だち、看護師、家政婦として雇うように勧めた。マレー夫人には奇しくもマリリンという名の成人した娘がいた。はじめの頃の報酬は週60ドル。だが、仕事にしばられる時間が増えてきたので、まもなく週200ドルになった。
1962年2月、ユーニス・マレーの尽力で、マリリンは夢に描いてきた家をみつけた。ブレントウッドにあるプライベートの地味な平屋の一軒家。その後の5ヶ月間、この奇妙な組み合わせの女たちは、新居に設える本物のメキシコの家具調度品のことで大忙しだった。
1962年8月4日の朝8時に、ユーニスはブレントウッドのマリリンの家にやってきた。その晩は、グリーンスン医師の要請で、その家にとどまることになった。それ以後のことは、何年にも渡り、たびたび、さまざまな形で語られてきているので、どれを信じてよいのかむずかしい。
最初の、「さらに第2回目の」警察の発表によると、真夜中にマリリンの部屋に明かりがついているので、マレー夫人は不審に思った。その後、午前3時30分に、まだ明かりがついていた。そこで、マレー夫人は外に回って、寝室の窓から見たところ、マリリンの体はベッドの上に「不自然な」かたちで横たわっていた。マレー夫人はグリーンスン医師に電話をかけた。グリーンスンはすぐさまやってきた。
ところが、現場に最初にやってきた警察官のジャック・クレモンズによると、マレー夫人のはじめの証言ではマリリンの死体を発見したのは真夜中すぎで、グリーンスン医師とエンゲルバーグ医師(マリリンの内科医)は深夜12時30分からブレントウッドの家にいたというのだ! このことは、警察への通報が4時25分であったという事実と考え合わせると、さらに興味深い。
何年もたってから、マレー夫人はボブ・スラッツアーにきっぱりとこう言っている。
マリリンの死体を発見したのは真夜中ごろ、つまり、マリリンが亡くなったのは8月4日の深夜で8月5日の未明ではない。そして、これがマリリンが死亡した日と考えられているのだ。さらに、状況を不可解なものとしているのは、前出の警察官ジャック・クレモンズによると、4時40分に現場に到着したとき、マレー夫人は洗濯をし、冷蔵庫を掃除して中のものを取り出していたというのだ。
翌日の6日、サンタモニカの彼女のアパートで記者会見に臨んだ。4日の夜、マリリンにわけのわからない不穏な電話がかかってきたのだと言った。
そして、「・・・・この何週間、マリリンがしてきたことはすべてが生きていくためのことだった。私たちはすてきな計画をあれこれと考えていた」とも言った。
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M - DON MURRAY (ドン・マレー)俳優
ドン・マレー:(MM=マリリンに)ねえ、何をそんなに怯えて、嫌なものでも見るような顔をしているんだい?
ジョシュア・ローガン(監督):カット! ドン、scalyじゃない、whiteだ。
ドン・マレー:あ、すみません。
MM:ドン、あなた、自分で言ったこと、わかっているの? フロイト的に言うとね、セクシャルなシーンだからすっかり感情移入しちゃって、ヘビと結びつけてscaly(ヘビの鱗の)が口で出ちゃったというわけね。ヘビって男性のシンボルですものね。男性のシンボルってわかる?
ドン・マレー:わかるかって? わかってますよ!
マリリン・モンローとドン・マレーの関係は、1956年の『バス停留所』の撮影の間、ぎくしゃくしたものだった。20世紀フォックスに対しゴダをこね、自分の思いどおりになった今、マリリンは活き活きとして、スタジオ内では誰からも支配されることなく、新たな権力を振るい始めているところだった。
一方、ドン・マレーは新人で、『バス停留所』が初めての映画。
1929年生まれのドンは、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オヴ・ドラマティック・アーツで学び、舞台デビューは1948年の"An Ant the Insect Comedy"。『危機をのがれて』(ソーントン・ワイルダー作)に出ていたドン
を見て、ジョシュア・ローガン監督が『バス停留所』の役に抜擢した。マリリンはこの相手役にあまり、関心を持たなかったようだ。
新人であり、まだ27歳、MMより3つ年下だ。マリリンのこれまでの相手役は年上で、自分の影が薄くなるような人物ではなかった。男でも女でも、自分をかすませるような人間はほしくなかった。さらに、撮影の間に、共演していたホープ・ラングと親しくなり、のちに結婚することになる。ドンが自分より若い
(25歳)ラングに惹かれたことがMMにはおもしろくなかったようだ。
マレーとモンローとの間の張り詰めた緊張感はあるシーンで爆発した。マリリンは衣装の裾でマレーに一撃をくらわせ、顔を傷つけた。それでも「新生」マリリンは謝罪しようとはしなかった。
『バス停留所』のあと、ドン・マレーは"The Bachelor Party"(1957)、"A Hatful Rain"(1957)、『野望の系列』(1962)などに出演。皮肉にも、『ザ・セックス・シンボル』(1974)というタイトルのテレビ映画もある。
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ジョシュア・ローガン(監督):カット! ドン、scalyじゃない、whiteだ。
ドン・マレー:あ、すみません。
MM:ドン、あなた、自分で言ったこと、わかっているの? フロイト的に言うとね、セクシャルなシーンだからすっかり感情移入しちゃって、ヘビと結びつけてscaly(ヘビの鱗の)が口で出ちゃったというわけね。ヘビって男性のシンボルですものね。男性のシンボルってわかる?
ドン・マレー:わかるかって? わかってますよ!
マリリン・モンローとドン・マレーの関係は、1956年の『バス停留所』の撮影の間、ぎくしゃくしたものだった。20世紀フォックスに対しゴダをこね、自分の思いどおりになった今、マリリンは活き活きとして、スタジオ内では誰からも支配されることなく、新たな権力を振るい始めているところだった。
一方、ドン・マレーは新人で、『バス停留所』が初めての映画。
1929年生まれのドンは、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オヴ・ドラマティック・アーツで学び、舞台デビューは1948年の"An Ant the Insect Comedy"。『危機をのがれて』(ソーントン・ワイルダー作)に出ていたドン
を見て、ジョシュア・ローガン監督が『バス停留所』の役に抜擢した。マリリンはこの相手役にあまり、関心を持たなかったようだ。
新人であり、まだ27歳、MMより3つ年下だ。マリリンのこれまでの相手役は年上で、自分の影が薄くなるような人物ではなかった。男でも女でも、自分をかすませるような人間はほしくなかった。さらに、撮影の間に、共演していたホープ・ラングと親しくなり、のちに結婚することになる。ドンが自分より若い
(25歳)ラングに惹かれたことがMMにはおもしろくなかったようだ。
マレーとモンローとの間の張り詰めた緊張感はあるシーンで爆発した。マリリンは衣装の裾でマレーに一撃をくらわせ、顔を傷つけた。それでも「新生」マリリンは謝罪しようとはしなかった。
『バス停留所』のあと、ドン・マレーは"The Bachelor Party"(1957)、"A Hatful Rain"(1957)、『野望の系列』(1962)などに出演。皮肉にも、『ザ・セックス・シンボル』(1974)というタイトルのテレビ映画もある。
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M - Evelyn Moriarty(エヴェリン・モリアーティ)
エヴェリンはマリリンのスタンドイン(ある特定のパートだけを代役で演る)
だった。やはり、どこかマリリンと雰囲気が似ている。
「私が彼女のためにしてあげるどんな些細なことにも、とても感謝してくた。
スタジオでの仲間というより、友だちのように私を受け入れてくれたわ。スタンドインの仕事に入ろうとすると、彼女は私のところにやってきて、髪や服をチェックしてくれたり、役作りのアドバイスを与えてくれた。だから、私には自分のすべきことがわかった。マリリンは私のポーラ・ストラスバーグだった」
エヴェリン・モリアーティ、MMについて。
ポーラ・ストラスバーグは、マリリンの演技コーチを務めた女性である。
エヴェリン・モリアーティは『荒馬と女』でマリリンのスタンドインを務めた。
マリリンの死後、テレビ番組『ザ・ニュー・インターン』で、バーバラ・イードゥンのスタンドインを務めた。のちに、アン・マーグレットにもスタンドインを依頼された。
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だった。やはり、どこかマリリンと雰囲気が似ている。
「私が彼女のためにしてあげるどんな些細なことにも、とても感謝してくた。
スタジオでの仲間というより、友だちのように私を受け入れてくれたわ。スタンドインの仕事に入ろうとすると、彼女は私のところにやってきて、髪や服をチェックしてくれたり、役作りのアドバイスを与えてくれた。だから、私には自分のすべきことがわかった。マリリンは私のポーラ・ストラスバーグだった」
エヴェリン・モリアーティ、MMについて。
ポーラ・ストラスバーグは、マリリンの演技コーチを務めた女性である。
エヴェリン・モリアーティは『荒馬と女』でマリリンのスタンドインを務めた。
マリリンの死後、テレビ番組『ザ・ニュー・インターン』で、バーバラ・イードゥンのスタンドインを務めた。のちに、アン・マーグレットにもスタンドインを依頼された。
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M - YVES MONTAND(イヴ・モンタン)
「結婚している男の人とは簡単なことよ。思いきった行動に出ることはなわ」
マリリンがトム・イーウェルに(『七年目の浮気』の中で。(1955年)「夫の次に、そしてマーロン・ブランドと並んでイヴ・モンタンは最高に魅力的な男の人よ」
マリリン・モンロー
イヴ・モンタンは1921年10月13日、イタリアのモンスマーノにあるイヴォ・リヴィに生まれた。18歳のとき伝説的な歌手、エディット・ピアフに見出され、やがて彼女と関係をもつようになった。
1949年、モンタンは女優のシモーヌ・シニョレと結婚。6年後、モンタンはアーサー・ミラー作の『るつぼ』のフランス版映画に出演。『セーラムの魔女』というたいうタイトルだった。1959年になると、モンタンはブロードウェイに進出してワンマンショーに出演。
1959年、アーサー・ミラーとマリリン・モンローは次のコメディ映画『恋をしましょう』の相手役の男性キャスティングをめぐって行き詰まっていた。グレゴリー・ペック、ケーリー・グラント、チールストン・ヘストン、ロック・ハドソン、ジェームズ・スチュワート、ユル・ブリンナーはすでに辞退していた。マリリンはブロードウェイに出かけていってイヴ・モンタンのワンマンシーを観た。
当時のモンタンはフランスでは名前が売れていたが、アメリカではまだ無名で、仕事の足がかりを探していた。マリリン・モンローに相手役で、しかもジョージ・キューカーのロマンティック・コメディ、未来は約束されたも同然だった。
『恋をしましょう』の撮影の間、モンタン夫妻はベヴァリー・ヒルズ・ホテルに滞在。ミラー夫妻のスウィーツ・ルームの隣の部屋だった。運悪く、アーサー・ミラーもシモーヌ・シニョレも外出し、モンタンとモンローは二人きりになった。モンタンはもちろん、マリリンのほうから秋波を送ってきたのだと主張した。
「マリリンはとってもやさしくしてくれた。邪気のない天真爛漫な娘だ。これまで会った他の女性たちのように男と女の関係というものを割り切って考えてくれると、私は思っていたのだ。マリリンがそういうタイプの女だったら、何の問題はなかった。・・・たぶん、女学生のように夢中になってしまうだう。
そうだとしたら、すまないことをしたと思う。だが、これで私たちの結婚生活が破綻することはないだろう」
翌1960年の11月『荒馬と女』の撮影が終わったとき、マリリンとモンタンはニューヨークのアイドルワイルド空港で逢う。マリリンのリムジンの後部座席で、二人はシャンペンを飲んで、別れを告げた。世間を驚かせた二人の関係は終わった。そしてモンタンのアメリカでの仕事も終わった。
『恋をしましょう』の映画でモンタンは評価されることはなかった。スキャンダルに傷ついただけだった。
マリリンがトム・イーウェルに(『七年目の浮気』の中で。(1955年)「夫の次に、そしてマーロン・ブランドと並んでイヴ・モンタンは最高に魅力的な男の人よ」
マリリン・モンロー
イヴ・モンタンは1921年10月13日、イタリアのモンスマーノにあるイヴォ・リヴィに生まれた。18歳のとき伝説的な歌手、エディット・ピアフに見出され、やがて彼女と関係をもつようになった。
1949年、モンタンは女優のシモーヌ・シニョレと結婚。6年後、モンタンはアーサー・ミラー作の『るつぼ』のフランス版映画に出演。『セーラムの魔女』というたいうタイトルだった。1959年になると、モンタンはブロードウェイに進出してワンマンショーに出演。
1959年、アーサー・ミラーとマリリン・モンローは次のコメディ映画『恋をしましょう』の相手役の男性キャスティングをめぐって行き詰まっていた。グレゴリー・ペック、ケーリー・グラント、チールストン・ヘストン、ロック・ハドソン、ジェームズ・スチュワート、ユル・ブリンナーはすでに辞退していた。マリリンはブロードウェイに出かけていってイヴ・モンタンのワンマンシーを観た。
当時のモンタンはフランスでは名前が売れていたが、アメリカではまだ無名で、仕事の足がかりを探していた。マリリン・モンローに相手役で、しかもジョージ・キューカーのロマンティック・コメディ、未来は約束されたも同然だった。
『恋をしましょう』の撮影の間、モンタン夫妻はベヴァリー・ヒルズ・ホテルに滞在。ミラー夫妻のスウィーツ・ルームの隣の部屋だった。運悪く、アーサー・ミラーもシモーヌ・シニョレも外出し、モンタンとモンローは二人きりになった。モンタンはもちろん、マリリンのほうから秋波を送ってきたのだと主張した。
「マリリンはとってもやさしくしてくれた。邪気のない天真爛漫な娘だ。これまで会った他の女性たちのように男と女の関係というものを割り切って考えてくれると、私は思っていたのだ。マリリンがそういうタイプの女だったら、何の問題はなかった。・・・たぶん、女学生のように夢中になってしまうだう。
そうだとしたら、すまないことをしたと思う。だが、これで私たちの結婚生活が破綻することはないだろう」
翌1960年の11月『荒馬と女』の撮影が終わったとき、マリリンとモンタンはニューヨークのアイドルワイルド空港で逢う。マリリンのリムジンの後部座席で、二人はシャンペンを飲んで、別れを告げた。世間を驚かせた二人の関係は終わった。そしてモンタンのアメリカでの仕事も終わった。
『恋をしましょう』の映画でモンタンは評価されることはなかった。スキャンダルに傷ついただけだった。