マリリンモンロー N-PATRICIA NEWCOMB パトリシア・ニューカム(2) | マリリン・モンロー A-Z

マリリンモンロー N-PATRICIA NEWCOMB パトリシア・ニューカム(2)

 1962年8月3日の晩、ビヴァリー・ヒルズのレストラン"ラ・スカラ"でパット・ニューカムはMM、ピーター・ローフォードらと会食をした。その夜、ニューカムはブレントウッドのマリリンの家に泊まる。翌日の土曜日、気管支炎にかかったニューカムは、その治療のためマリリンの家のプールで日光浴をして過ごす。

 その日の午後になって、ラルフ・グリーンスン医師がマリリンの家を訪れた。
グリーンスンはパット・ニューカムにお引き取り願いたい旨を伝えた。マリリンはパットのことで精神的にまいっていたようだったと言われている。

 アンソニー・サマーズは『女神』の中で、パットはロバート・ケネディに必要以上の関心を持っていたためだと記している。『バス停留所』時代のライバル意識が再燃したとも思われる。

 いずれにしても、マリリンの家を去ったニューカムは二度と生きているマリリンに会うことはなかった。8月5日の早朝、パットはマリリンの弁護士、ミッキー・ルーディンからの電話で起こされた。彼女はただちにブレントウッドのマリリンの家に駆けつけた。

 ユーニス・マレー夫人によると、パット・ニューカムはヒステリックな精神状態だったという。泣き喚き、大声をあげ、マリリンの家から出るのを激しく拒んでいた。マリリンの死体が運び出されたのち、マレー夫人はようやくパットを家から連れ出すことができた。待ちかまえていた記者たちの質問に対し、パットはこう言い返した。

「あなたの親友が自殺したとしたら、あなたはどんな気持ちになる? あなたならいったいどうします?」

「親友」の死のあと、パット・ニューカムは飛行機でハイアニスポートのケネディ一族の住宅群に向かった。ニューカムはそれから半年、ヨーロッパに滞在する。帰国した彼女は合衆国政府の職を得、ロバート・ケネディ司法長官の部屋に隣接するオフィスで勤務するようになった。

その後、ケネディがニューヨーク州の上院議員選に出馬すると、パット・ニューカムは彼の選挙スタッフとなった。

 1982年、パトリシア・ニューカムはニューヨーク市のロジャーズ&カウアン・パブリック・リレーションズ・エージェンシーに戻る。3年後、カリフォルニア、カルヴァー・シティにあるMGMスタジオで副社長の座に就いた。

井上篤夫の眼 http://www.ainoue.com