「仏陀になるために瞑想をする」ことについて
先日、上座部仏教のスマナサーラ長老にお会いして質問したことについて、私が仏陀になりたくて瞑想をしている、そしてそのことをスマナサーラ長老に質問した。つまり、「私が仏陀になるためにはどう瞑想すればいいですか?」とスマナサーラ長老に私が質問したように誤解されているようなので、ここで私があのときに長老に質問した真意を書いておこうと思います。
「仏陀になりたくて瞑想する」というのは、私が仏陀になりたいということではなくて、大乗仏教ではそういう思想ですよね、それって上座部仏教のスマ長老からするとどうなのでしょうか? ということを伺う質問でした。ということです。
つまり、大乗仏教になると“仏陀”になることが悟りを開くということ、になってしまったような気がします。
逆に言うと、“仏性”という本質があって、それが開花した存在が“仏陀”だという思想です。
タターガタガルパ、如来蔵という、将来的に如来になる種が人間は誰でも持っていて、何回も輪廻転生して修行して、ついに人間も如来になれる。
この思想って、お釈迦様以前からあったインドのヴェーダンタ思想ですよね。
お釈迦様自身は死後の世界も輪廻転生も説かなかったはずです。
それがいつの間にか大乗仏教になってから、輪廻転生して最後に悟って、解脱して、如来や仏陀になるという思想になってしまった。
つまり仏教は、お釈迦以前からあったインドのヴェーダンタやヨーガの思想に回帰してしまった。
そして、小乗仏教は、衆生全員が最終的には“仏陀”になれるという衆生済度の思想以前の、“個人”に焦点を当てることに留まっている原始的な仏教だという“偏見”が今でも日本にはあります。
つまり、誰でも“仏陀”になれるという大乗の思想、そのために瞑想をするという教えをスマナサーラ長老はどのように考えられますか?
という質問だったのです。
“私自身”が仏陀になりたいから、どうしたらいいでしょうか?
という質問をスマ長老にしたわけではないのですが、そこのところがあまりよく伝わらなかったのかもしれません。
逆にちゃんと伝わって、その上での回答だったのかもしれません。
長老のお答えは
「あなたおかしいでしょ。仏陀が何か分からないで、なんでその分からないものになりたいの?」
ということでした。
そして、
「あなたの瞑想についての考えを全部改良しなきゃアカンです」
と言われました。
つまり、大乗仏教で言うところの、いわゆる“悟り”を開くために瞑想する、坐禅を組むということは、180°改良しなきゃアカン思想だということです。
その上で、私は長老に
「ではなぜ瞑想するのですか?」
「何かのために瞑想するのは誤りだとするなら、ではなぜ瞑想する必要があるのですか?」
と質問しました。
その続きは、またの機会に…
ワリエワのドキュメンタリーを見て
ワリエワのドキュメンタリーを見て。
ワリエワが4回転ジャンプを飛ぶ必要はない。
競技としてのスケートではなく、アートとしてのスケートであなたはずば抜けて美しいから。
アートの分野ではドーピングは関係ない。
政治的な思惑によって、美しさは標的にされ、排除される。
口実はいくらでも作れる。
ドーピングだの国家だの、権力だのなんだの。
でも、美しいということは誰からも何からも否定できない。
圧倒的な美というのは、競争社会からは排除される宿命なのだ。
なぜなら、美の前では競争とか競技は成り立たなくなるから。
4回転ジャンプに何の価値もなくなるから。
天性の美の前では、テクニックは無価値になる。
政治とか駆け引き、審査とか順位付けに意味がなくなる世界、それが美の世界だ。
ドーピングも意味を持たなくなる世界。残念ながら、そこに生きることは今の世の中ではとても難しい。
だから、この世で美しいものを見ることは、とても少なくなっていく。
ワリエワに会えたら、あなたはアーティストなんだと伝えたい。そして、アーティストとして自分を表現することは、競技者としてオリンピックで金メダルを獲ることよりも難しいのだということを伝えたい。残念ながら、今の社会では…
「 Tell me who you are 」という哲学的な歌をつくりました
「汝自身を知れ」という問いを最初に賢者に投げかけたのは神だという話しがあります。
つまり、賢者が最初に問うのは
「私は誰か?」
「 Who am I ? 」
でなければならないということです。
それは一人称の疑問文ですが、この疑問文を二人称に“私”が投げかけるとしたら、
「 Tell me who you are 」となるでしょう。
あなたが誰だか知りたい。
なぜなら、あなたに興味を持ったから。
つまり、私はあなたが好きだから。
私はあなたを愛しているから。
でも、私はあなたが誰だか知らない。
いや、あなたが誰だか私は本当に知っているのだろうか?
いや、本当はあなたは誰なのか、私は知らない。
あなたを好きになればなるほど、
あなたを愛すれば愛するほど、
あなたが誰だか知りたくなる。
あなたを好きになればなるほど、
あなたを愛すれば愛するほど、
あなたが誰だかわからなくなる。
それなのに何故、私はあなたが好きなのだろうか?
あなたを愛すれば愛するほど、何故あなたが誰なのか知りたくなるのだろうか?
という哲学的な問いを歌にしてみました。
あなたは、あなたが誰だか知っていますか?
また、あなたが愛する人は、いったい誰だか知っていますか?
あなたの目の前にその人がいたとしても、その人が本当は誰なのか、知っていますか?
あなたが誰かを愛すれば愛するほど、その人はいったい誰なのか知りたくなりませんか?
「私は誰か?」と賢者が自分自身に問うたように、あなたの愛する人は、いったい誰なのか知りたくなりませんか?
あなたにあなたの愛する人が、自分は誰かという秘密を明かしてくれたら、どんなに嬉しいでしょうか。
そう思いませんか?
仏陀の最高の境地、涅槃に到達したというすごい日本人がいる⁈
私の周りで、究極の涅槃に到達したというすごい人が二人もいる!
最近fbで、その人たちが盛んに自らの“境地”をシェアしているから、興味を持って見ている。
すごいと思うけど、、
仏陀と同じ境地、それ以上の境地だと言うけど、
僕は仏陀を知りません。
キリストも会ったことがありません。
すごく人気がありますよね。
仏陀もキリストも。
中学生の頃、ヘルマン・ヘッセの小説を読みました。
『シッダルータ』
仏陀に会ってみたいと思いました。
インドのグル・ラジネーシは、とても魅力的でした。
仏陀みたいでした。
でも、
残念ながら、仏陀の境地に到達したという日本人は、
そんなに魅力的に感じられません。
残念です。
すごい日本人がいるのに。
あまり魅力的ではないから、
仏陀以上の境地に至ったとしても、
あまり人気にはならないようです。
残念。
せっかく世界最高峰の精神的境地を体験されたのに。
それが何の意味があるのだろう?
それで何の影響力があるんだろう?
すごい! すごい! すごい!
無だ
空だ
無心だ
いや
ノーマインドだ
いや
それ以前だ
いや
それ以上だ
最高峰だ
量子力学だ
真我だ
空だ
井筒哲学だ
いや言葉じゃない
シュレディンガーだ
ハイゼンベルグだ
いや物理学ではない
境地だ
体験だ
いや仏教理論だ
サンキャ哲学だ
いや博士号ではない
精神的境地だ
意識だ
意思だ
意志だ
なるほどね
すごいと思いますが、
あまり魅力がない。
そう言ってる人の。
仏陀もその程度の人だったのだろうか?
キリストも人間的に魅力のないチンケな人だったのだろうか?
ただその境地がすごいと、
私は最高峰に達したと“自慢”していたのだろうか?
「私は覚者だ!」と言っていたのだろうか?
ご存知の方、
教えてください。
ビートルズのジョンとポールの二人の偉大なコンポーザーの宗教観の違いを感じる曲について
私は大のビートルズフリークですが、ビートルズには言わずと知れた二人の天才コンポーザーがいます。
ジョンとポールです。
長年、繰り返し繰り返しビートルズの曲を聞いていると、いろいろと感じることがあります。
それは、ジョンとポールの宗教観の違いについてです。
あえて結論を先に言えば、ポールはキリスト教的、ジョンは仏教的(東洋的)だということです。
そのことをもっともよく感じられる曲は、ビートルズ最晩年の美しいバラード、ポールの『 The Long and Winding Road 』とジョンの『 Across the Universe 』の 歌詞です。
ポールの『 The Long and Winding Road 』は、女性にふられた(?)男が、長く曲がりくねった道の前で途方に暮れている歌詞ですが、
『 Read me to your door ! 』と男が懇願している相手は、もしかしたらふられた女性ではないかもしれないと私は思うのです。
「あなたの扉の前に私を導いてください!」と言っている相手は、もしかしたら、救い主としてのジーザス、あるいはマリア様なのではないでしょうか?
そう思ってこの歌詞を今一度聞いてみると、この曲は実にキリスト教的な歌に聞こえてきます。
救い主としての“あなた”が、私を再び導いてくださることを私はこんなにも苦しく涙を流しながら待ち続けているのです。
どうかあなたの扉の中に、私を導いてください!
そんなキリスト教的な救済を待ち望む、ポール独特の“宗教歌”のように聞こえてきます。
一方で、ジョンの『 Across the Universe 』の歌詞の中には、救済してくれる“誰か”、第三者的な“救世主”はいません。
そのかわり、自分がたった一人で宇宙という二人称に向き合っています。
Jai Guru Deva OM
Nothing’s gonna change my world
って、ヨーガの瞑想の境地ですよね。
そのヨーガ発祥のインドの地で、お釈迦様は生まれて、仏教を布教されました。
ジョンのこの『 Across the Universe 』の歌詞を聞いていると、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の世界を思い出します。
そこには、キリスト教的な「私を救ってくれる誰か、第三者」は存在しません。
あくまでも“私”が、たった一人で、個人として、宇宙に向き合うのです。広大無辺で、神秘に満ちた宇宙に、小さな無力でひ弱い個人がたった一人で向き合うのです。
とても東洋的だと思います。
ビートルズの偉大な二人の作曲家の歌詞はこのように、キリスト教的西洋的宗教観と仏教的東洋的宗教観を表現しているように私には感じられるのです。
『 color 』という曲ができました。
やっとできました。
1日で。
『 color 』という曲。
聴きどころは、3拍子の前半から、そのリズムの余韻を頭に感じながら、後半、4拍子になっていること。
3 ✖️ 4で12拍子ということか??
それと、最近はまっているフレーズ
「 Where are you now ? 」を使っていること。
それから、
「 What color do you like the best ? 」という問いは、私にとって
「Who am I ? 」と同じくらい重要な問い。
「 汝自身を知れ! 」
そして「 color 」は、肌の色でもあるし、民族の色でもあるし。
そんないろいろな意味や感情を込めた歌です。
それから、私のヴォーカルもおすすめです。
(自己宣伝)
九月の終わりに見た宇宙人の夢
宇宙人が家に訪ねてくる夢
知り合いの男性(夢の中では知っているが、実際には見たこともない男性)に私が話しかけている。
「今から宇宙人が家に来るから、一緒に行きませんか?」
宇宙人が我々をどこかに連れて行ってくれるということ。
私一人だと、あとから誰かに話しても信用されないから、その男性も一緒に行けばエビデンスになると思っている。
男性は「いいですよ」と簡単に返事をする。
しばらくして玄関に誰かが来る。
ドアを開けると宇宙人だった。
背が低くて(130〜140cmくらい)銀色の宇宙服を着ている。
顔だけ宇宙服から出ている。
人間のおじさんのような顔。
私は「この人も一緒に行ってもいいですか?」と宇宙人に訊くと、宇宙人は一瞬彼を見て、同意したようだ。
2人に銀色のピル💊を差し出す。
たぶん、車の酔い止めのようなものだろうと勝手に察して、銀色のピルを飲み込む。
それから、宇宙に行くには、女性が子供を生むときの苦しみほどの苦痛を体験しなければならないことを知る。
でも銀色のピルは、たぶんその苦痛を和らげるものなのだろう。
連れの男性も、軽いのりでそのピルを飲み込んだようだった。
これからどうなるのか期待していたが、そこで目が覚めた。
お終い。
女の人を助ける夢に現れた女の子
夢の話し
歩けなくなった女の人の肩を抱いて、歩いている。
でもなぜか靴がない。
これでは歩けない。
とっても遠いところまで歩いて行かなければならない。
途中に豪邸がある
中に入ってみた
何十メートルもある玄関に靴がたくさん並んでいる。
中でなにかやっているみたいだ。
大勢の人が集まっている。
玄関で靴を脱いで中に入ったのだろう。
置かれているのは、みんな高級な革靴ばかりだ。
革靴なら丈夫だから、これから遠くまで歩いていっても大丈夫だろう。
どれか、私の足に合う革靴はないかな?
でも、なぜかみんな女の靴ばかりだ。
かかとの短い、大きめの履きやすい靴はないかな?
一個一個履いていくと、ちょうどいいのがあった。
「これにしよう!」
かかとが低い、茶色い不恰好な靴だ。
すると、中から小さい女の子が出てきた。
「なにしてるの?」
私は事情を説明した。
女の人が死にそうだから、歩いて連れて行かなければならない。そのためには靴がいる。見るとみんなお金持ちそうだ。一足なくなっても、お金持ちだから困らないだろう?
「これを借りていくからね」
と私が言うと、
その女の子は興味深々に聞いてきた。
「助けてあげる女の人って田舎の人?」
私は応えた。
「そう。田舎の人だよ」
すると女の子は満足したように言った。
「いいわよ。その靴を履いていっても。田舎の女の人なのね。だったらいいわ。誰にも言わないから、大丈夫よ」
女の子は都会のお嬢さんで、田舎の人なんて知らないようだった。
田舎の女の人を助けるのだと言うと、とても満足して、ニコニコ嬉しそうだった。
私は茶色い女物の革靴を履いて、豪邸の玄関を出た。
女の子は好奇心旺盛に私を見送ってくれた。
玄関の先に待たせている、足が悪くて歩けない女の人のところに革靴を履いて歩いて行った。
お終い。
—
豪邸の中から出てきた女の子は、とても洗練された都会の女の子で、田舎なんかまったく知らないようすだった。
「田舎の女の人を助ける」と言うと、女の子は自分もその“救助”の一旦を担っているような気になったのだろう、とても満足した様子だった。
その都会の女の子にとっては “田舎”なんて、頭の中で想像したことしかないものだったはずだ。
でもとても興味があるみたいだった。
“田舎の女の人”にもとても興味あるみたいだったが、
この子にあの女の人を見せるわけにはいかないと思った。
なぜそう思ったのか理由はわからないのだけれど…
(あの小さな女の子は座敷童だったのかもしれない。そして、歩けない女の人は、私が助けたあの女の人だったのかも。誰も知らない。座敷童ちゃんしか知らない人。いや、座敷童ちゃんすらも見ていないから、誰も知らない人。)
私が早大第二文学部で表現芸術専修を選択した理由
大学でレポートや論文を書いていて、いつもおかしいと思いました。
自分の考えを書くのに、既に書かれて出版された本になり、権威として認められた文献を根拠としなければ、それはただの恣意的な“感想文”としか認められない。
つまり、“オリジナル”とか“独創性”ということは、始めから否定されている。
でも、“文系”というのは、そもそも“証明”とか“立証”とかとは無縁の学問のはず。
歴史的に“文系的権威”というものをつきつめると、命題を立証する根拠は、最初期の哲学であるギリシャ哲学に依拠していることになる。
でも私は、客観的に証明できるような正しい考えなどそもそも存在しない、すべては恣意的だと思ったので、文系の中で “ギリシャ哲学”や“インド哲学”ではなく、“表現芸術”を選択しました。
私が一番好きな映画
この映画がなぜか一番好きです。
私はなぜカリフォルニアで行方不明にならなかったのだろうかと、この映画を見るたびに後悔します。
この映画の主人公の男のように、自分では普通に生きているつもりでも、周りからしたら、いつもトラブルメーカーにしかならない人間がいます。
とても軽くて、すこし可笑しくて、人畜無害な男に見えるけど、本当はとっても異常で、誰とも交わることができない孤独な放浪者。
自分で自分のことを理解していると思い込んでいるけど、自分が何者か、本当はなにもわかっていない。
自分の人生をコントロールすることもできずにカリフォルニアの外れに吹き溜まりのように流れてきて、まるで夢のような人生を終えてしまう。
関わった人たちを巻き込んで、何が善で何が悪だったのかも分からなくさせて、最後にはみんな自分自身に戻っていくための触媒となって通り過ぎていく。
エドワード・ノートン主演の
Down in the valley