私が早大第二文学部で表現芸術専修を選択した理由
大学でレポートや論文を書いていて、いつもおかしいと思いました。
自分の考えを書くのに、既に書かれて出版された本になり、権威として認められた文献を根拠としなければ、それはただの恣意的な“感想文”としか認められない。
つまり、“オリジナル”とか“独創性”ということは、始めから否定されている。
でも、“文系”というのは、そもそも“証明”とか“立証”とかとは無縁の学問のはず。
歴史的に“文系的権威”というものをつきつめると、命題を立証する根拠は、最初期の哲学であるギリシャ哲学に依拠していることになる。
でも私は、客観的に証明できるような正しい考えなどそもそも存在しない、すべては恣意的だと思ったので、文系の中で “ギリシャ哲学”や“インド哲学”ではなく、“表現芸術”を選択しました。
私が一番好きな映画
この映画がなぜか一番好きです。
私はなぜカリフォルニアで行方不明にならなかったのだろうかと、この映画を見るたびに後悔します。
この映画の主人公の男のように、自分では普通に生きているつもりでも、周りからしたら、いつもトラブルメーカーにしかならない人間がいます。
とても軽くて、すこし可笑しくて、人畜無害な男に見えるけど、本当はとっても異常で、誰とも交わることができない孤独な放浪者。
自分で自分のことを理解していると思い込んでいるけど、自分が何者か、本当はなにもわかっていない。
自分の人生をコントロールすることもできずにカリフォルニアの外れに吹き溜まりのように流れてきて、まるで夢のような人生を終えてしまう。
関わった人たちを巻き込んで、何が善で何が悪だったのかも分からなくさせて、最後にはみんな自分自身に戻っていくための触媒となって通り過ぎていく。
エドワード・ノートン主演の
Down in the valley
宇宙からのメッセージと統合失調症(ニーチェ先生は幻聴者幻視者としてのアーティストだった)
「宇宙からのメッセージを受けた」
「今、人類に伝えなければいけないことを高次元から受信した」
「あなたのハイヤーセルフが言っていることを私が取次ぎします」
などという、スピ系のチャネリングが流行っていますが、
“まともな人”(それをどう定義するのかは分かりませんが)からすると、そういう人は“統合失調”(一昔前の分裂病)だと言われます。
聞こえもしない声が聞こえる。
見えもしないものが見える。
確かに異常ですよね。
ところで、私はニーチェのことを連想してしまいます。
私は彼は哲学者というより、アーティストだったのではないかと思っています。
そして、社会心理学者だったのではないかと思います。
社会心理学とは、社会を一人の人間に見立てて、その人間の行動、言動に潜む、無意識の心理を分析することです。
そんな“無意識”なんて始めから存在しないという立場の人からは、無意識の心理なんてただのその人の勝手な解釈であって科学ではなく、ただの主観だということになるのでしょう。
でもニーチェには社会が発する“無意識の声”が聞こえていたのかもしれません。
そういう意味では彼は思想家ではなくて、幻聴者、幻視者です。
そして、幻聴を聞く者や幻視を見る者は、現代では“統合失調症”という心の病気だと定義されます。
ところが、この“心の病気”に対して、ケミカルな薬が処方されます。
“心の病気”は“脳神経の病気”であると、現代の科学では精神が物質に還元されるからです。
したがって、そのような現代の精神医学のパラダイムによれば、ニーチェの哲学は、ただの脳内ホルモンの異常によって生起されたテキストだと定義され、その内容は考える価値のない言葉の羅列であり、無意味だと判断されるのでしょう。
でも、いくら無意味であっても、読んで面白かったらそれはアートとしての価値はあります。
しかも、ニーチェ先生はピアノ弾きでした。
私はニーチェ先生は、言葉よりも鍵盤を叩いて表現する方が、彼には合っていたのかもしれないと思っています。
つまり、哲学者ではなく、アーティストとしてピアノを弾いたり詩を書いたりしていたら、彼はもっと幸せだったのではないかと、私は思っています。
宇宙船の鼓動
最近、
宇宙人のYouTubeをずっと何本も見ていた。
解きたい謎があったから、取り憑かれていた。
そうしたら、謎が解けた。
宇宙船は生きていて鼓動しているのだという。
その“鼓動”の音が最近開示された。
この鼓動音だ!
私が聞いたのは!
もっと高音だったけど。
あの音と映像の謎を解きたかった。
あれはなんだったのか?
UFOを見たときに聞いたあの音と光。
真っ赤な光だった。
赤は血の色。心臓の色。
あれは宇宙船の“鼓動”だったのかもしれない。
“鼓動”とは“心臓音”のことだ。
それが自分の心臓の鼓動とシンクロして部屋が揺れた。
不思議と謎が解けた。
スマナサーラ長老にお会いして、質問することができました。
2024年8月26日、スマナサーラ長老とお話しさせていただきました。
仏教はもともと、インドでさまざまな修行がある中で、お釈迦様は、それらの修行をすべてされた中で、最終的にヨギの道ではない悟りを開かれたと理解しています。
そのお釈迦様の悟りを受け継いでいくうちに、だんだんと、奇跡とか神秘体験とか現世利益のまじないとかの、もともとあったインドの宗教に先祖帰りしてしまったのが、大乗仏教だと私は理解しています。
つまり、お釈迦様が悟りを開かれた最初の仏教を今でも受け継がれているのが、上座仏教のスマナサーラ長老だと私は理解しているので、
ヨガの瞑想によって得られるとされるサマーディと、お釈迦様が悟られた境地と、どこがどう違うのか、スマナサーラ長老に伺いました。
—
頭で考えた疑問ではなくて、実体験からくる疑問を長老に投げかけました。
私の個人的な体験から、ちょうど、会うべくして会うことができたスマナサーラ長老でしたので、率直に勇気を出して質問させていただきました。
思っていることを正直にしゃべることは、とても勇気がいります。
それが、こと宗教のこととなると、シンプルな疑問でも、質問すること自体が躊躇されたり、ブレーキがかかってしまいます。
無意識のうちに…
でも勇気を出して、スマナサーラ長老に質問させていただきました。
—
ちょうど、パイロット・ババジが亡くなって少しショックを受けていたときでした。
それから数日も経たないうちにスマナサーラ長老にお会いすることができました。
パイロット・ババジは、インドのシバ派のヨギの最高峰といわれている方です。
私はラジニーシの本を読んで、ヨガの道とタントラの道があるという話しは知識で知っていました。
タントラも仏教の密教という考えもありますが、
ラジニーシ先生のいうタントラは、ヨガと対峙する道です。
ではヨガとタントラは、何がどう違うのか?
ラジニーシ先生が言うには、ヨガは努力の道であり、階梯があり、ピラミッド状のカーストがあります。
頂点はたったの一つです。
底辺はその他大勢の烏合の衆で無限大です。
ヨガの道は、このピラミッドの階梯を、一段一段、頂点を目指して登っていく、“努力”して登っていく“苦行の道”です。
頂点はたったの一つです。
インドには様々な苦行者がいます。
片手をずっと上げたままのサドゥー、爪を切らないサドゥー。
みんな頂点に向かって永遠とも言える苦行をしています。
一方で、タントラには段階がありません。
ピラミッド状の役職や、地位も名誉ありません。
苦行して達成する、“最高の境地”もありません。
一瞬で達成でき、その達成した境地は、“最高峰”でもなんでもなく、そこら辺に転がっているただの“日常”です。
私のような人間には、ヨガの道よりも、タントラの道が合っているのだと、この歳になって改めて気づきました。
仏陀もある意味、タントラだったのかもしれません。
スマナサーラ長老とお話しができて、とてもありがたかったです。
https://youtu.be/NlssiMLekDc?si=HndzouT_6-diVJG4
自転車で転んで、自重で怪我をした
自転車で転んで右膝と右肘を打って、5日くらい経ったのに、右手が痺れているし、膝もあざになり、右足も腫れてきた。
路地で自転車で直進していたら、右から急に自転車がカーブして直進路に入ってきた。
そのまま相手にぶつかる選択肢もあったが、ぶつけていたら、相手が吹っ飛んでいただろう。
なにせ私はかなり体重があり、相手は小柄なおばさんだった。
ぶつからないようにするためには、私が倒れて止まるしかなかった。
私は柔道をしているから、咄嗟のときでも受け身がとれる。でも、ハンドルを握っており、自転車もそれなりのスピードがでていた。
ひっくり返った瞬間に膝と肩をアスファルトの地面にぶつけた。
おばさんは自転車を止めて、「大丈夫ですか?」と言ったが、「大丈夫です」と言ったら、そのまま走り去った。
なかなか起き上がれなかった。
ぶつかったら、おばさんが吹っ飛んでいたかもしれない。
そんなことがあって、史上最大級の台風と言われていた期間は、だんだん腫れたり痺れたりしてくる身体を養生するしかなかった。
どおせ雨が降ったり止んだりで、外出もままならないから、ちょうどよかったのかもしれないが。
そんなこんなで、もうすぐ11月になればアメリカ大統領選挙で、世の中がガラッと変わるかもしれない予感。
ロバート・ケネディ・ジュニアもイーロン・マスクもトランプ陣営についたし。
豪華な役者が揃って、これから始まるクライマックスが楽しみ。
この世界も今まさに、歴史的大転換点を迎えているのだと思う。
どうなるのか、楽しみに見ていようと思う。
鏡に映った反転像となって、歴史は繰り返されているように感じる今日この頃
歴史は繰り返すというけれど、今になって第二次世界大戦の歴史が、鏡に映った反転像となって、そっくりそのまま繰り返されているような気がする。
ナチスによって強制収容所に送られて民族浄化されそうになったユダヤ人が、反転して、居住地に追い込んだ パレスチナ人を女子供を含めて虐殺し始めた。
ナチスドイツが侵攻してきてロシアから解放されて喜んだウクライナが、ユダヤ人の役者大統領を選出してアメリカの属国となり、ネオナチの言いなりになってロシアから殲滅されようとしている。
ナチスとかユダヤとか、未だに語ったらいけないタブーで、SNSで言ってはいけない言葉。
YouTubeでもバンされる。
つまり、考えることを禁止されている概念。(誰によって?)
誰も考えなければ、あることがないことになったまま、悲劇の歴史は繰り返される。
—
日本では、朝鮮人、中国人は未だに敵だと言われている。
近親憎悪。
ちょっと引いた目で見れば、日本人も朝鮮人も中国人も黄色人種で同じなんだけどね。
近親憎悪してアジアがまとまらないままだと、喜ぶ勢力がいる。
北東アジアがまとまると、けっこうすごい力のある経済圏になるはずなのに、第二次世界大戦終戦以来、分断されたままだ。
—
終戦記念日に、NHKで特攻隊の番組を放送して、みんな感動して反戦平和の誓いを新たにしたようだ。
私は見てないから分からないが。
神風特攻隊を美化してはならならい。というテーゼは理解できるし、その裏で何があったのか、誰が計画して実行したのか、解明されていない事実もあるだろう。
ただ、美化するもしないも、特攻隊というのは現実にあった事実だということ。その事実は誰も否定できない。
今、パレスチナでは、イスラエルによる民間人の虐殺が行われている。
なんの罪もないパレスチナ人は、自分の土地をある日突然“入植者”のユダヤ人に奪われて、ガザとウエストバンクに追い込まれた。
生きていても希望がない。
そんなとき、絶望した若者は何をするだろうか?
想像したことがありますか?
カミカゼ特攻して自爆する。
それが自らの命が最後にできるたった一つの望みになる。
そんな悲劇が現実にあることも事実なのです。
つまり、美化しているとか、戦争を賛美しているわけではなく、現実的に、それしか希望がなくなる現実があったし、今でもあるということです。
団塊の世代、Z世代、そして今の若者たち
団塊の世代ではパレスチナに行って赤軍になり、ハイジャックしたり浅間山荘に立て籠ったりして世間を騒がせた。
団塊の世代の次の新人類世代とかZ世代では、インドに行ってサドゥーを見たりして日本でオウム信者になり、地下鉄にサリンを撒いたりして世間に迷惑をかけた。
その後の世代はどうなのだろう?
SNSに投稿して秋葉原でトラックを暴走させた少年。
個人の犯行で、群れなくなった。
ネット時代になって、赤軍とかオウムとかのカルトに群れる時代は終わったのか?
今の時代の若者がハマる過激な思想って、あるのだろうか?
どんなものなのだろう?
—
今の世代には既になんでもある。
世界に繋がるワールドウェッブネットワークも既にあるし、大容量データ通信のWi-Fiもある。
動画編集から音楽作成アプリから、ドキュメント作成ツール、AIもある。
コンピュータを使ってなんでもできる時代。
若者たちは今何をしようとしているのだろうか?
かつて赤軍とかオウムにハマった日本の高学歴の若者たち。
日本では今、若者たちは何を考えているのだろうか?
西側のプロパガンダ
これから、万が一にもイランが極超音速ミサイルをイスラエルに打ち込んだとする。
すると一斉に西側マスゴミは、イランがイスラエルに宣戦布告をした。けしからん!と報道するでしょう。
しないでしょうか?
少なくとも、今まではそうでした。
イスラエルは、イランを挑発し続けていますが、それらは“宣戦布告”だと報道されません。
ハマスがイスラエルを攻撃したから、その“報復”であって、“一方的な”宣戦布告ではないというロジックです。
今までずっとこのロジック、レトリックが使われてきました。
湾岸戦争のときのイラクによるクウェート侵攻から始まり、ロシアによるウクライナ侵攻も同じレトリックによるプロパガンダ報道です。
一斉に騒ぎ出します。
「イラクが戦争を一方的に始めたぞ!」
「ロシアが一方的に戦争を始めたぞ!」
「イランが一方的に戦争を始めたぞ!」
日本が真珠湾攻撃したときから、このプロパガンダは変わらず続いています。
バカですね。
それに踊らされるのは。
さんざん挑発して、挑発して、殺して、虐殺して、戦争するように誘き出しているときは、マスゴミでは何も報道しません。
堪忍袋の尾が切れて仕返しを始めたとたんに、
「ほら、イラクが、ロシアが、イランが戦争を始めたぞ! 戦争は平和に対する罪だ! 戦争反対!」
とマスゴミで騒ぎ出します。
このような戦争屋と、それとグルになったマスゴミの方が、戦争を作り出して各国の国民を兵器を消費するオペレーターとして戦争に駆り出している経済に、既に目覚める人は目覚め始めています。
詩集の夢
面白い夢
いろいろなお金を回収している。
かなり沢山の額になった。
場面がかわって、私の作った歌を若い女性に歌ってもらっている。
かなりの傑作だが、自分では満足していない。
でも、歌ってくれた女性と並んで歩きながら話していると、女性が歌った歌をすごく褒めてくれる。
まず、歌詞がたしか3番まであるが、1番、2番、3番と、それぞれ構造的な意味がちゃんと考えられていること。
さらに、1番なら1番で、初めの部分から中間部、そして終盤と、起承転結があるばかりか、最後の一言にむけて意外なトリック的な仕掛けがしてあって、誰も最後の一言がそうなるとは予測できない歌詞だという。
「歌っていて、歌っている自分が感動してしまいました。歌詞の一つひとつの言葉とメロディーがピッタリで、歌っているとワクワクしてしまいます。本当に天才ですね。」
やっぱり歌ってくれた本人だから、この歌の意味がちゃんとわかってくれたんだろうな。と思って、彼女に感謝している。
場面が変わって、本の編集者と打ち合わせをしている。
校正をしているのだが、もうすでに一冊の本になっている。
どうやら、詩集のような本だ。
詩集といっても、何かの放浪記みたいになっていて、彷徨い歩いている情景が、すべて詩のようになっている。
いってみれば、抽象的な言葉の一つひとつが、想像世界の概念のように散りばめられた、未知の世界の放浪記なのだ。
とても贅沢な作りで、紙は絵を描くときに使うような高級な厚紙で、本の大きさもかなり大きく、ページ数もあってかなり分厚い。
ことばは、広い1ページの中に点在しているという感じで、ほとんどが余白のページが前半に続き、中盤はたくさん文字が並んでいる。
最初から、
抽象的な言葉が空中に浮かぶ砂漠をひたすら歩いているイメージ。
言葉の一つひとつが、空中に浮かぶ見たこともないオブジェ作品だ。
それらのオブジェ作品(複数)を空中に見ながら、誰もいない過酷な砂漠をひとりでひたすら歩いていく。
すると向こうから誰かがやってくる。
初老の男だが、注目すべき人だというのがわかる。
普通の人ではないということ。
この出会いの場面で、本の原稿を校正している。
なぜか編集者と私の他にもう一人が加わっている。
その男が、この場面は三つの可能性があると言う。
つまり、注目すべき男と砂漠の中で出逢う場面では、すでにその瞬間に三つの未来が想定されることを、その場面で暗示しなければならないと男は言う。
次のページをめくってみると、
なんと、絵が描いてある。
それも、まるでそこに絵の具で描いたかのような素晴らしい印刷で。
抽象的な絵。
紫とピンクが銀の粉で光っている絵の具。
銀ラメの絵の具というのか?
まるで絵の具が盛り上がっているように印刷されている。
こんな印刷ができるのですね。すごいですね。と私が編集者に言うと。
お金はかかるけど、予算はいくらでもあるから、最高の印刷技術を使って、最高のインクを使って、最高の紙を使って作っている本なのだ。という。
あとは、ほぼ忘れてしまった。
(というか、思い出すのが面倒だ。)