見た夢の話し
朝4時のホームレスのおじいさん
今朝、朝の4時過ぎ、幹線道路沿いのゴミ集積所に出されているゴミを漁っているおじいさんがいました。
自転車で通り過ぎましたが、なんとなくそのまま進むことができなくなって、引き返しておじいさんに千円札を手渡しました。
「お金?」
ときくので
「そう。少ないけど」
と私が言うと
「ありがとう」と言って手渡した札を受取りました。
おじいさん、かなり年寄りで寒そうでした。
ゴミを漁って何か食べようとしていたようです。腹が減っていたのでしょう。
私も年をとったらあのようになるかもしれません。
今の世の中は、貧乏人と年寄りには冷たい社会です。
そうなると、貧乏な年寄りは死ぬしかないということです。
本人には人間の尊厳もなくなり、あとはただ、早く死にたいと思うだけでしょう。
でも、肉体がある以上、腹が空いたり、冬になれば寒かったりします。
自殺する勇気もなかったら、ゴミを漁るしかなくなります。
死ぬまで生きるためには。
じいさんになると、もう何の欲望もなくなります。あとは死ぬのを待つだけですが、なかなかそう簡単に死ねないのも生きている生物のさがです。
これから、年寄りの自殺者が増える社会になるでしょう。
そして、誰も見てみぬふりをする社会になるでしょう。
生きることは自己責任だから。
年をとってホームレスになるのは、その人が成功できなかったから。
努力が足りなかったから。
そのような弱者や劣った者に寛容にしていると、努力する者がいなくなり、社会がますます劣化していく。
努力し、競争して自分を高め、たくさんの収入を得るようにしなくてはなりません。それが社会の中で生きるということだからです。
お金持ちとは、成功した者。
成功するように努力した人。
病気をしない人は自己管理ができた人。
成功する努力もしないで、自己管理もできない人間なんて、病気になって苦しんでのたれ死んで当たり前です。
人間は動物ではなく、社会的な生物だから。当然ですよね。?
—
私は自らの乏しい経験から知っているのですが、最底辺の人たちの中で、公的な福祉を受けたがらない人もたくさんいます。
だから、最底辺の中の最底辺の人の中には、自殺する人が大勢いるでしょう。
でも、たぶんそういう人が自殺しても、ただの数字上の統計データーになるだけで、社会が変わる何のきっかけにもならないのです。
でも、私はこれからそういう人に共感していきたいと思います。
私自身がたぶんそうなるからです。
そして、私はこれから(これまでも?)一匹狼になります。
かっこつけて言ってるのではなく、一匹狼とは最後にはたった一人で野垂れ死ぬもののことです。
母の介護をしていた頃が懐かしい。今はなんの欲望もなくなってしまった。
職場の事務所では常時3,4本くらいの電話が同時に鳴り響いていて鳴り止まず、まるで野戦病院のよう。
病院の付き添いやら、借金の取り立て屋からの脅しやら、家賃滞納の知らせや、急に発生したトラブルの対応など、一つ一つ解決していたら時間がいくらあっても足りないものばかり、しかも相手は殺気立ってしつこくクレームつけてくるものばかり、幾つも抱えたまま、とりあえずできるだけのことをする。逆に言えば、そのときに、できるだけのことしかできない。根本的な解決はすぐにはできないことばかりだ。根本的解決には時間が掛かる。当事者同士の話し合いをして、お互いに納得できるようにネゴシエーションしなければならない。それまでは、とりあえず対処はするが、いつ解決するともわからない問題の数々。
メチャクチャ時間がない。当時の基準で一人のワーカーが担当する人数は80人が上限と定められていたにもかかわらず実際は130人以上の人を抱えていて、電話が鳴ると、病院から一人で移動できないから付き添いに来てほしいとか、これ以上入院できないから転院先を探して欲しいだとか、家賃滞納している不動産屋から滞納した家賃を払えとか、さまざまなトラブルの電話が鳴り止まない。その一つ一つに対応していくとなると、一度に2、3個の案件を抱えながら、走り回らなければならない。移動する時間でも何かを考えている。病人を送り届けたからといってそれで終わりではない。すべてをありのままに報告書に書いて記録を残しておく。
そんな忙しい仕事をして、さんざん残業してから、仕事が終わると、実家の母の家に行き、介護をしていた。ときには泊まり込んで。
だんだんと自分が鬱になり、薬を大量に処方されるようになり、とても気持ち悪くなった。
そして、朝は仕事ができるように薬を大量に飲んで精神をガチガチに固めて、戦場のような職場で働き、仕事が終わった途端に一人呑みの安い呑み屋に行ってアルコールを飲んで、鬱の薬SSRIを溶かしてしまわなければならなかった。
でもその後はだいたいが二日酔い。
そして次の日曜日の朝は、認知症の母の介護だ。
トイレに行かせ、リハパンを履かせて、服を着せて外に連れ出す。
散歩がてら、お気に入りの蕎麦屋で朝食兼昼食を食べさせて、近くのコーヒー屋でコーヒーを飲む。それから、医者に行ったり、薬を取りに行ったり。
いろいろやって母が寝ると、私は何もない離れの部屋に一人で泊まる。
カップラーメンとかなら自分の部屋で作れるから食べて、テレビもなにもないから、AMラジオの昔のFENいまのAFNを聴く。
その頃のことがなつかしいから思い出して書いている。
乗っていたオペルのエンジンが壊れて、母を乗せて病院に行ったときにエンストしたりした。
今思えば詐欺でしかない修理屋に頼んで、エンジンを修理したと言われたが直らず、その都度、100万単位の修理代を請求された。
あまりにも忙しすぎて、(母の介護、病院の付き添い、薬の管理、薬の種分け、自分のメンタルの通院、服薬、超忙しい職場での仕事、残業。向精神薬を洗い流すための一人呑み。などなどで、新車を選んでいる暇がなく、インチキ修理会社のいいなりになって、その都度支払いをしても直らず、エンストし、黒煙を巻き上げ、悪臭と異音がする車に母を乗せて通院などをし続けなければならなかった。
でも逆に今、その頃のことが懐かしい。
今ならもっと上手くできたはずだ。
認知症だった母にも、もっと優しくできたはずだ。
鬱の苦しみは変わらなかったかもしれないが、もう少しアルコールを控えられたかもしれない。
今なら、もっとうまくできた。
今では服薬もやめたし、鬱も回復した。
今は病的ではないが、逆に根本的な問題に直面している、
生きてる意味は何かあるのか?
欲望にただただ突き動かされているだけの行動を続けている自分の生に、どんな意味があるのか?
食わなければならない。
でもうまいものが食いたいとも思わない。
死なないから生きているが、生きてあれがしたいこれがしたいという欲望がない。
私には何もできない気がする。
ただ何をするわけでもなく、生きるだけはできる。というか、私の意志とは無関係に私は生かされている。私が何もしなくても、生命は生き続ける。
特にうまいものを食べるわけでもないが、最低限の食べ物をできるだけ簡単に自分で調理して食べる。
着飾ったりせず、ただ必要なものを着るだけでいい。
寝たり、座ったりできればいいだけの、とくにインテリアなどは必要ないありふれた部屋があれば、その中にいることができる。風雨が凌げればいいだけのプライベートなスペース。
母を介護していた頃は、母を外に連れ出して食べるときは、けっこう美味いものを食べさせていた。そして私もお相伴させてもらった。
最近では、私一人になったら、食べ物も特にうまくなくてもいい。そこそこの味で、そこそこ栄養があれば、それが食えれば満足だ。
母を介護していた頃が懐かしい。
今はもう母はいない。
私が自分のことを自分でやらなければいけないが、自分のこととなると、どうでもいい気がしてくる。
死なないから生きている。
死なない程度に生きている。
とくにこれといった欲望がなくなってしまったから。
ただそこそこ、死なないから生きているというだけ。
コロナから始まったこの4年間の終了
こんな歌をつくりました
こんな歌をつくりました。
(ほぼ24時間以上寝ないで作ってたら、できたら眠っていた。笑😆)
ハマスの戦士は死ぬことを恐れていないという。
確かに残虐なテロリストなのかもしれない。
でも、パレスチナの地で自分の家を追われ、家族を虫けらのように皆殺しにされた少年がいたとしたら、生きる意味は戦士として死ぬことしかなくなったとしても理解できる。
生きる意味とは何なのか?
死ぬことの意味は何なのか?
そんなことを考えながら、また歌を作ってしまった。
それとも、この歌は、自分のことを歌ったものかもしれない。
Shine on me
歌中の「Silvia」は、silverつまり銀です。銀色の光のメタファーです。
—
銀色の光がいつまでも私に降り注いでくれますように
私は行かなければなりません
なぜなら私にはやらなければならないことがあるから
私が死んだら
あなたは私のことを思い出してくれますか?
今が危険に命を賭けるときなら
あなたを助けるためなら
私は死にます
—
この歌を、パレスチナの戦士に捧げます。🙏✨
https://youtu.be/Oa5tOj4x1tg?si=nKMcScq6JewzJOa4
コロナ禍が明けて
コロナ禍のときは逆に平気で外出していたが、まったく感染することもなかった。
逆に5類になった今、コロナに感染した。
(コロナが存在するのかしないのか分からないけど、すくなくとも、病院の検査で陽性の結果が出た。)
その影響でもないけど、これから私はコロナが明けた世間とは逆に、引きこもってなるべく外界に出ないようにしようと思っている。
この3年間、私自身は、内面も外的環境も含めてすべてがすっかり変わってしまった。
(新時代になる前の暗黒の3日間とは、この3年のことを暗喩していたのかもしれない。)
私個人のことを別にしても、コロナ禍が開けて、世界中で、今まで溜まっていた抑圧されていたトラウマが噴出し始めたように見える。
(パレスチナの地での戦争は、その始まりなのかもしれない。)
占星術的には水瓶座の時代に既になったと言われているが、新時代は一朝一夕にはやって来ない。
人間と同じで、生まれ変わるためには今まで抑圧していた心的外傷やもつれた運命の糸の絡まりをほどかなければならない。
からまった糸をほぐして真っ直ぐ な糸にしないければ、新しい織物は織れないから。
未来生の自分に 過去生の自分が 出口のポインターをメッセージするジョブ
ねえ、なにが見える?
オジブア族の青年が見えるよ
オジブア族の青年と僕
僕はその青年を知っている
なぜなら
彼はその頃は
僕の敵だった
その青年は
大人になって戦士になった
そういえばあなたは白いインディアンと呼ばれていたわよね
そう、霊能者の先生から
今とまったく違う
日本人の、この狭い価値観の中で僕が日頃考えていることは
とってもスケールが小さくて
くだらないことばかり
白いインディアンだった頃
スー族の青年だった頃
僕は今とはぜんぜん違うことを考えていた
その頃は今よりももっと
勇気と正義があった
シャーマニックな直感があった
死ぬことに誇りがあった
だから生きていることは死を掛けた挑戦だった
だからクレイジーな馬みたいに
戦士になって
死ぬこともできた
今のように
ぬるま湯に浸かっていると
感覚が麻痺してくる
昨日と今日が同じで
明日も明後日も変わらない
変化しないことに保険を掛けて
同じ日常の繰り返しに安心している
そうやって
だんだんと感覚が麻痺していく
同じ毎日を
明日も明後日も送って
一年が十年になり
歳をとることに
なんの意味がある?
永遠にループするタスクに
成し遂げられることは
同じ品質の歯車を生産し続けることだけ
同じ歯車を組み合わせて
同じ時計の回転をコピーするだけ
同じ時間がループするだけの人生
ときどき
過去を思い出している
永久ループにはまり込む前に
過ごしていた過去生
タスクをキルするか
タスクにメッセージを送って
永久ループからイグジットする
ポインタを渡すしかない
かつてのインディアンのメディスンマンなら
そんなこともできるのかもしれない
未来生の自分に
過去生の自分が
出口のポインターをメッセージするジョブ
今日、雨の新宿でひっくり返った
今日、雨の新宿でひっくり返る前に考えていたこと。
スピ系でよく言われている「エゴを捨てろ! そうすれば悟れる!」っていうのは、笑止千万だということ。
死んだらこの世のエゴはなくなる。
逆に言えば、生きているということはエゴがあるということ。
生きている間に、死の予行演習ばかりしていて何の意味がある?
誰でも必ず100%死ぬ。
99%でもなければ、120%でもない。
ピッタリ100%だ。
それまでは、私は私のエゴと常に共にある。
生きている間に自分を否定する必要はない。
最後には必ず、嫌でも、自分とお別れするしかなくなる。
だとしたら、何のために生きているうちに悟りなど求めるのか?
間違った洗脳に騙されてはいけない。
エゴを否定することは、そんなに崇高なものでもないし、偉いことでもなんでもない。
辛気臭い死に損ないの坊主にはちょうどいいかもしれないが…
—
そんなこと考えて歩いていたら、今日、
新宿の世界堂に行った帰りに、足を滑らせてひっくり返りました。
雨でタイルのような歩道が濡れていたのと、鬼○タ○ガーのスニーカーの靴底が滑りやすかったのが原因です。
もちろん私が悪いのですが…
足を滑らせた瞬間にはもう空中からもんどり打って地面に倒れていました。
体重が重いので、ひっくり返ったあとしばらく起き上がれませんでした。
帰ってきてしばらくしたら、風邪気味になり、寒気がして、右脚が固まって動かなくなりました。動かそうとすると痛くて釣りそうになるので、今じっと横になってます。笑笑
今日予定していた飲み会に行かれなくなってしまいました。
残念。
天才ヴァイオリニストのヒマリさんの音楽を聴いて
天才ヴァイオリニストYoshimura Himari さんのヴァイオリン、今日は一日ずっと聴いてました。
(私的にはあの世に通じているような純粋な音楽に聞こえました。)
YouTube で紹介されていたエピソードで、ヒマリさんは読書が好きで、作曲家の伝記を読むそうですが、作曲家の生涯を理解できますか?という質問にヒマリさんは、私は作曲家の生涯を上手く表現できます。と応えたそうです。
作曲家が譜面に音楽を書いて、演奏家が演奏する。
作曲家はどんな音を想像していたのでしょうか?
どんな音楽を作りたいと願っていたのでしょうか?
その作曲家の願いは、彼の命を懸けた生涯の表現です。
でもその楽譜🎼を音にしてくれる演奏家がいなければ、誰にも聴かれることがないただの“絵に描いた餅”になってしまいます。
ヒマリさんのような純粋な演奏家がいて初めて、作曲家が表現したかった生涯を懸けて追求した美の理想が現実になるなのです。
演奏家には、演奏家の個性など必要ないのかもしれません。
ヒマリさんのような純粋な演奏家は、無垢であるが故に、 誰とも比較できない唯一無二の、感動の演奏が可能になるのかもしれません。

