紫源二の啓示版 -15ページ目

「でも、もう」って歌をつくった

なんだか“死”に取り憑かれている。


ギターで、弾き語りの歌を作った。


もう逢えない、お終いだ、という歌詞。


「でも、もう」という題の歌。


「どうか、忘れないで、ぼくが、あなたのそばに、いた、ことを」


とても単純な歌詞。


でも、単純な繰り返しの歌だけど、ギターを弾いてこの曲を歌うのは難しい。


単純な歌ほど、難しいんじゃないかな。


それにしても、この曲は、もう逢えないってこと。


たぶん僕が死ぬから。


だから、死に取り憑かれているんじゃないかと思ったりする。


この歌のリンクを貼っておく。






自己満足

関係ない独り言。歌の楽曲は言葉と音とリズム。私のはとても単純な歌詞。でも、単純な言葉の一言でも、メロディーをつけて歌にするとすごい感情を表現できる。たとえば「Yes」の一言とか「でも」の一言とか。だから面白い。でも、歌ができたら、一応ちゃんと聞こえるような音にしなきゃならなくなるから面倒だ。ギターを弾いて、歌を歌って、マイクで録音して、ちゃんとテンポを一定にして、チューニングして、できるだけいい音で弾いて、いい声で歌って、ギターがハウリングしたりしないように、その他いろいろ、ちゃんといい音で聞こえるように、いろいろなことをしなくればならないから面倒くさい。それをやるのが時間がかかる。でもそれをやらないと私が作った歌はこの世に存在しないのと同じことになってしまう。歌ができたと言っても、聞こえるようにしないと存在しないのも同じこと。絵の場合もそう。ちゃんと見えるように描かないと、できた絵が存在すらしないことになる。でも、絵にしても歌にしても、それを見たり聞いたりしない限りは、苦労して作ったとしても存在しないのと同じこと。どうせ自分しか見たり聞いたりしないのなら、それも数回しか今後見たり聞いたりしないのなら、わざわざ面倒なことをして、完成させなくてもいいのではないかと思ってしまう。でも、自分の完成させた歌や絵を見たり聞いたりしたいから、自分の歌とか絵を作ったりする。ほぼ100%自己満足の世界。


料理もそうだな。ただ栄養のために食べるなら、別に美味しく作る必要はない。苦労して料理しても食べるのは自分だけ。なんでわざわざそこまで美味しく作る必要があるのか自問自答しながら、自己満足のために自分の食べる料理を作る。


眠るのもそう。

なぜわざわざ眠らなければならないのか? 健康のためか? 眠いからか? 眠いという自己の欲求を満足させるために、わざわざ眠る必要があるのか? 眠るのも、自己満足を充すため。


すべてがそう。

自分が生きているということは、すべて自分の欲望を満足させるため。すなわち自己満足。

 

 

 


予期せぬこと

今日は、急に雷がなって冷たい雨(雪?)が降ってきて、外食してたら、鼻水🤧が垂れてきた。

ローストビーフを食べながら、ポケットティッシュをジーンズの後ろポケットから出して鼻水を何度も拭いながら、やっとローストビーフを平らげた。

なんだかおかしいな、なんでこんなに鼻水が垂れてくるのだろうと思いながら買い物をして帰ると、しばらくしてたぶん風邪をひいたのではないかと気づいた。

頭もボーとして、そのまま、最近手に入れた背もたれが後ろに倒れるリクライニングの椅子に座って椅子を揺らしていた。

なぜかこの椅子は揺らすといくらでも前後に揺れるのだ。

あんまり揺らすと、いつかこの椅子はバランスを崩して後ろにひっくり返るに違いないと思いながら、どのくらいまで揺らしていたら、倒れるのだろうと思いながら、限界に挑戦してみたい気持ちにもなってきて、かなり後ろまで揺らしていた。

すると、急に「バキッ」といって、背もたれを支えていた両脇の部品が折れて、後ろにひっくり返った。笑

やっぱりな、と思いつつ、実は部品が折れて背もたれが外れるとは思っていなかったので、しばらくひっくり返ったまま起き上がれず、どうなったのか考えていた。笑

やっとなんとか起き上がって、折れた(割れた?)部品を見て、なんだこれは、メーカーにクレームをつけてやるかと考えていたが、やめた。

実は、背もたれと座るところを繋いでいる肘掛けの部品が太腿にあたるので、私がノコギリを使って苦労して前日、切断したのだった。
そのために、座部と背もたれを繋いでいる肘掛けの構造の強度が落ちて、結局、私の体重を支えきることができなくなって、バキっと両方とも折れたのだった。

いつか後ろにもんどり打って倒れるな、と思っていた私の予感は別の意味で的中したわけだ。笑

いくら揺らしても椅子が後ろに倒れる構造にはなっていなかったが、プラスチックの部品が折れて、背もたれが外れて後ろにひっくり返ったのだ。笑

まぁ、“予期せぬこと”が起こることは、私にとっては愉快なことではある。笑
 
 
 
 
 

大阪万博も東京オリンピックの二の舞になるのか?

今セクハラで問題になっているなんとかというお笑い芸能人(私はまったく興味ないから知らないけど、すごい人気があるらしい)が大阪万博のアンバサダー(何それ?)になっているらしい。

大阪万博、すべてが裏目に出ている。

こういうイベントは、強行するとろくな結果にならない。
場合によっては悲劇的結果になる場合があるから、あらかじめ言っておく。

東京オリンピックを思い出してもらいたい。
召地が決まったとき、阿部元首相などが狂乱して喜んだ。
福島はアンダーコントロールだと言って…。(その割には、処理水(汚染水?)を海上投棄することになったし、阿部さんは殺された。)

東京オリンピックでインバウンド需要が増え、日本は好景気になるはずだった。(高度成長期の夢を見てたんだな。冷静になって考えもせずに…。)
外国人観光客が押し寄せるので、ホテルが足りなくなると言って、お金を借りて旅館や宿泊所を新築した人たちはその後どうなったのだろうか?

それよりもあの国立競技場。
結局、あの競技場に観客が入ることはなかった。

そして、コロナで外国人は誰も来なかった。

目論見は見事に裏目に出た。
誰も未来を予想できなかったわけだ。

大阪万博も強行したら、必ず東京オリンピックの二の舞になることをあらかじめ言っておく。

大阪がとても悲惨なことになるかもしれない。
これ以上詳しいことは言えない。
風評被害を流していると言われかねないから。
(でも、冷静になって現状を見れば、今日本は万博などのお祭り騒ぎをやって浮かれ騒いでいる場合ではないことは誰の目にも分かるはずだ。)

能登半島で地震があった。

これを教訓として、日本は南海トラフ地震(その他)に備えるべきだろう。
そうなったとき、日本の財政は持ち堪えられるのか?
救援体制を強化するために今のうちに予算を増額する必要があるのではないか?
なんでも予備費で処理して、
なんでも、後手後手の対応では、いくら無能な政府だとはいえ、許せなくなる限界というものがあるということを言っておく。

2024年正月早々、一億総白痴化の予兆?

2024年、正月。

NHKがニュースで、デマに気をつけてください、今回の地震が人工地震だとネットで流している人がいますが、人工地震ではありません、と言っていました。

このような時代になって、逆の意味でも気をつけたいと思います。

「長いものには巻かれろ」という諺が日本にはあります。
「欲しがりません勝つまでは」とか「和をもって尊しとなす」とか。

NHKニュースで言っていることだけが真実だということがまかり通るようになると、逆に危険ではないでしょうか?

権威が市民の情報を検閲するようになると、逆に何が真実なのか分からなくなります。
ただお上の流す“大本営発表”のニュースだけが真実だとなると、暗黒の中世に逆戻りです。

正月早々、テレビだけを見て「一億総白痴化」される日本人の未来が危ぶまれます。

70年代のアコギを手に入れた

ネットで見つけたアコギが郵送されてきた。

この手に入れた70年代ギター。出品していた人がギターの手入れ好きだったようで、フレットもきれいに磨いてあるし、ギター内部にもホコリなどないようにクリーニングしてある。それが気にいった。

ギターも工芸品みたいなものだよね。

弦は弾きやすいもっと柔らかい弦にしたいし、サドルを牛骨に替えたい。

でもなにせギター初心者。
ギターの手入れなどには、やっぱりそれなりの工具が必要になってくる。
自分でなんでもやるためには、それなりの工具が必要。
工具がないから、職人さんに頼む方が簡単。なんでもそう。工具を一から買うと、たとえばギターだったら、ギター買うよりお金がかかる。

ギターの手入れや改造だけでなく、私はギターの演奏も初心者。
コードが弾けるくらいだが、コードが弾けると歌が作れる。
コードって和音だから、和音を一音一音弾くだけでもメロディーになる。
ギターという楽器はよくできているのだな、と感心してしまう。

“和音”というのは、私のオリジナルでは当然ない。
代々の歴史によって積み重ねられてきた人間の知恵の集大成だ。音楽の。
だから、オリジナルの和音なんて作れない。作る必要もないのかも。作ったとしても“不協和音”になるだけだ。
それこそプラトンの時代から、周波数の法則があって、共振し合う周波数が“和音”となって、人間の耳に心地よく聴こえる。
この“共振”が、弦の長さや太さの振動によって数学的に決定されている“宇宙法則”でもあるのだが、その“宇宙法則”が、人間の感情にも“美しいもの”として、どくとくの幸福感を発生させる。
人間といえども宇宙の被造物であり、人間の精神や感情ですら、宇宙法則の内に存在しているのだから、当然といえば当然のことなのかもしれない。

ところで私は、この“宇宙法則”を体現した素晴らしい弦楽器であるギターを使って、初心者ながら“作曲”しているのだが、当然できあいのコードを使って、できあいのリズムを使って、、でも、すべてが“できあい”かというとそうではなくて、私のオリジナル曲であると私は思っている。なぜなら、始めの一つのコードから、次から次にどう展開させるのか、そしてそのコードに合わせて、どんな歌詞にして何を歌うのか、それはすべて“私”にかかっていることだから。

音楽は文字通り“音”を“楽しむ”こと。
私にはあまり快楽というものがないから、音楽を作ることは、唯一といっていいくらい、私には“楽しい”ことだし、どおせ作るなら楽しい歌を作りたいと思っている。たとえそれが悲しい曲でも、音楽として歌うときには楽しいから歌うのだ。

絵画は、想像(イマジネーションしたイメージ)をキャンバスに、何故表現しなければならないのか、と疑問に思ってしまう今日この頃の私にとっては、あまり楽しいことではなくなってしまった。

イメージを私の頭の中で持っていれば私は満足であって、なぜわざわざキャンバスの上に表現して他人に見せる必要があるのか?
私だけの快楽でいいものを、他人様にまで見えるように労力を使うことは、私にとってはさほど楽しくもない。

だから、音楽の方が、視覚的な“芸術”より、作る歓びがある。
でも、作り始めるときりがなくなって時間がなくなるから、気をつけないといけない。
 
 
 
 
 

とっても恐ろしいこと

とっても恐ろしいのは、世の中には天使が実際にいるということ。

でも、なかなか出会えない。とてもとても目立たないところにいるから。

普通の生活を送っている人は、出会う必要がない。天使が身近にいたら、それはあなたは大変なことになっているということ。

それから、不思議なことに、天使は天使自ら、自分が天使であることに気づいていない。不思議でしょ? 天使は、その天使が仕えているたいへん不幸な人そのものだと思っている。

とっても不幸な人の傍らに天使がいる人がいる。

でもその人は、それが天使だとは思わない。

だから天使に向かって文句を言う。

天使はとてもかわいそうだ。

でも天使は決して仕えている人を憎まない。

だから、とても恐ろしい。

世間の常識では考えられないことだから。

天使が仕えているとっても不幸な人は幸せな人だ。

でもその人は、自分が幸せだとは1ミリも思わない。

かわいそうだ。

 

 

 

 

 


私が体験した夜

私が体験した夜は

すべてが最悪だった


ベンゾジアゼピン系の

セロトニン再吸収阻害薬を飲み

それも効かなくなって

第一世代の原始的抗うつ剤まで退化していき

発汗と心臓の鼓動はまるで

昔体験したバセドウのときと同じか

更に酷く


母の認知症は進んで

徘徊し

警察に保護され

かつての母親の友人からは苦情

同窓会で無銭飲食代を払ったと…

立て替えていただいたお金と菓子折りをもって訪ねるが

ポストに入れておいてくれればいいと高笑い


そんな母親が哀れで


実家の何もない離れに

週末には泊まり込み


コンビニで

菓子パンとヨーグルトを買って


平日は超ストレスフルな仕事の帰りに

必ず寄った安いもつ焼き屋

キンミヤを限界まで飲んで

記憶を失い


自転車で帰った

実家の寒くて凍える離れ


翌日には認知症の母親を起こして

リハパンを替えて

服を着せて

外出


エンジンが壊れた

オンボロの外車に乗せて

散歩できる公園に行って

寒空の下

散歩をした


何もかもが最悪


私は裏切られ

身内から中傷され


信頼してしていた人はアル中で

脳内出血


仕事でみている人たちは

首を吊ったり

ガンで死んだり

早朝路上を横断して

オートバイに轢かれたり

私に電話してきた翌日に

あてつけのように自殺したり


私もしだいにストレスが

限界を越えて


自殺した


なんであのとき死ななかったのか?


もし死んでいたら

私の周りの身内は

すべて全滅したのだろう


だから

私が生きててよかった?

誰のために?

誰かのために?


私のためではなく

私は誰かのために生きているのだろうか?

 

 

 

 


コロナ禍で絶たれた2つの夢

コロナ禍で絶たれた2つの夢。

それは2つの国にいくこと。

それは、ノヴォ・ロシアとヌーヴェル・フランス。

✨⭐️✨⭐️


メイド・イン・アイルランドのコートを着て。

財布を2つ持って。

誰もいない裏ぶれたストリートをアドレスを探して歩く。


誰かチンピラに囲まれたら、一つの財布を渡して逃げる。


そこまでの計画は万全だった。笑


ところが、うかうかしているうちに、コロナで国境が閉ざされた。


戦争が始まった。


恐怖が世界を支配して、街はゴーストタウン化した。


皆がマスコミの嘘に洗脳された。


まるで暗黒の閉ざされた世界の中で、


この歳になって憧れたことは、フランス語を話せるようになること。

それから、プロペラの戦闘機に乗って爆撃できるようになることだった。笑


(今でも、もしかしたら、夢から醒めていない。)


ベンジンのように空気に触れたら揮発するのが夢なら、気体になって拡散した夢を回収して元に戻すことは不可能だろう。


そしていつのまにかコロナ禍が開けて、窓から陽が差し込んできた。


渡航制限は解除され、まるで昨日のことが嘘のよう。


皆が窓を開け放して、太陽の光を浴びて、新鮮な空気を吸う。


昨日見た夢は悪夢だったのだ。


もしかしたら、そうじゃなかったのかもしれないのに


起きてから、夢を頭の中で再構築して結論づける。


頭の中で解釈する前の夢は、本当は何だったのだろうか?

どこから来たのだろうか?

何のために来たのだろうか?


頭の中で言葉によって解釈されてしまった本当の真正な夢そのものは、いたたまれなくなって、脳の中から逃げ出す。

揮発して空中に拡散する。


でも私だけは知っている。


私だけが体験した事実。


それは夢ではなかった。


だから、

それは現実だったから、

記憶に残っている。


だから、そのことを文章にして書こうと思えば書ける。


あたかも“客観的事実”のように。


でも本当はその“事実”は、私の、私だけの“主観的事実”なのだが…。


でも、定義なんて、どちらでもいい。


自分自身に証明することが必要なだけ。

でも、自ら証明するためには、未来を必要とする。


つまりは、二つのまだ見ぬ国に行くこと。


その二つの国とは、もしかしたらまだ存在しないのかもしれない。


私が行って、初めて、存在するようになるのかもしれない。


ノヴォ・ロシアとヌーヴェル・フランス。

 

 

 

 

 


 

 


今日はクリスマス

ものごごろがついたばかりの頃から私が通っていた近くのキリスト教会では、クリスマスになると特別な礼拝があり、子供たちは皆、クリスマスの劇に参加したのを思い出す。

東方の三博士が黄金、乳香、没薬を携えて、イエス様が生まれた馬小屋にお祝いに行く劇。

子供たちは、布切れを体に巻き付けて、それぞれが台詞を覚えさせられて、礼拝堂の前の舞台で演技をした。

礼拝堂の左にはピアノ、右にはエレクトーンがあり、女の先生が弾くクリスマスの讃美歌の伴奏は、いつもとは違った音色に聴こえて、クリスマスの飾りつけに反射する光は神聖に輝いているように見え、なにかとても晴れ晴れしく、荘厳な、特別な一日なのだと幼心ながら感じた。

あの頃のような神聖な感覚を忘れてしまってから、もう、何年、何十年になるのだろうか?

はっきり覚えている。

中学生になった途端に、教会が「愚者の楽園」に見えてきて、学校では悪友ができた。

悪友がある日、とても奇妙なことを言った。
「お前は何を信じている?」

「俺はキリスト教を信じている」と言うと、そいつは
「神様なんてこの世にいないんだ。頼れるのは自分だけだ。その自分が何者なのか、じっと座って考えるんだ。俺が信じているのは自分だけだ」
そんなことを言った。

私はこの悪友の言葉に強い衝撃を受けた。

それから、その頃流行っていたインドの瞑想の本を本屋で買って読んだ。
最初から最後まで、全部理解した。
そして、瞑想を伝授してもらうために、出かけていった。

目がクリスタルみたいに透明に輝いているアメリカ人から瞑想の手解きを受けた。

すぐに上達した。

それから、いろいろと…
遍歴がはじまった…