今まで小分けに日帰りして行ってきた淡路島!
1泊2日、集中的に!
淡路島一周してきました!😂まずは、歴史編
(古代から江戸時代まで)
宿でもらったこちらのマップ
わかりやすかったのです!
一周まわりました😂
歴史を詳しく知りたい方には
こちらがおすすめ!
#淡路市立淡路文化史料館
史料館は、洲本城のある三熊山麓にあります。
洲本城の100名城スタンプはこちら入り口にあります。
★古代★
淡路は古事記にでてきます。
端的に表現すると、国産みをするよう命じられたイザナギ イザナミが最初に降り立った島が
沼島(諸説あり)で、国産み神事をするなかで
最初に生まれた島が、淡路島ともいわれています。
日本は淡路からスタート😂説ですね!
断層の影響は昔からあったらしく、縄文時代弥生時代に大きな地震に襲われたとおもわれる地層がでてきたそうです。1995の大震災は記憶に新しいかと思いますが、2000年昔からかなり揺れていながらも家の構造や人口の少なさから、被害は最小との説はありました。(情報源 野島の震災記念館)
★平安後期には、平家方の国人衆が
平家が、京都、福原(神戸市)から都を追われ、一ノ谷の戦い(神戸市)
平家方武士がいるこの淡路へ逃げてきます。
島の南にある福良港→屋島の戦い(香川)へつながるわけです。
勝利する源氏ですが、そのご、戦いで活躍したはずの源義経は実の兄頼朝から命をねらわれます。
義経の思い女だった静御前が義経と別れ、北条政子の温情で命を救われてから、余生を過ごしたのが 淡路でした。
★淡路守細川氏が地元の国衆、淡路水軍を下す
★応仁の乱以降、三好氏に代わる
三好氏、当時 熊野水軍の流れを汲む安宅氏をはじめとする淡路水軍を配下にする。
【洲本城中心の歴史】
★三好氏の没落、羽柴秀吉による淡路攻め
本能寺の変の混乱に乗じて洲本城を占拠した 長宗我部側の菅平右衛門。直ちに秀吉に一掃され、秀吉はそのあとすぐ山崎の合戦に臨みます。
秀吉の指示で、部下の仙石秀久を洲本城へ。
間島彦太郎を岩屋城へ。秀吉による淡路島支配完了。
★秀吉の四国攻め、配置転換。洲本城の増強
空堀や土塁、三熊山の地の利を生かした洲本城も、
中世的な構造でだったことから鉄砲隊にあっさり負けてしまった反省がありました。
仙石秀久が讃岐高松へ移ったのち、賤ヶ岳七本槍で活躍した脇坂安治を洲本城城主にすえます。
洲本城の 虎口なども多く 広い城域を活かした石垣の複雑な構造へ転換したのは脇坂氏の功績といえます!
↑洲本城 搦手もなかなか!
脇坂氏は、朝鮮出兵にも 水軍の将として従軍。
東丸 西丸 に、朝鮮式の登り石垣があるのは
朝鮮出兵の影響ともいわれています。
下の写真、細く階段状になっている2本のライン
これが、登り石垣です。
下のジオラマは、城下町からみているため、
上の図と上下反対です💦すみません💦
そもそも、
登り石垣については、なぜあるのか?
展示や配布資料に詳しく書かれていないため
かにかま城知識より補足しています。
登り石垣は、山城に見られるつくりで
いつから作りはじめたのか定かではありません。
朝鮮出兵の際、進軍した日本軍が敵地で獲得した城の籠城時に補給路を断たれないよう、尾根沿いに守りを固めていたのは分かっています。
脇坂氏と同じく水軍枠で携わっていた加藤嘉明氏も松山城に同じ形式を反映させたことは、なんらかの縁を感じざるを得ませんね!
日本海側の米子城が、やはり登り石垣を採用していたのは、海に面している自然の要塞という点では洲本城に似た理由なのかもしれません。
※参考 登り石垣のある城※
彦根城
松山城 朝鮮出兵 賤ヶ岳七本槍 加藤嘉明
洲本城 朝鮮出兵 賤ヶ岳七本槍 脇坂安治
竹田城 羽柴秀長
米子城
↑ちなみに、拙者、、、これら全部踏破済みです♪
★秀吉死後、池田氏→阿波 蜂須賀氏へ
徳川は、この堅い城を脅威に感じ、
※東、南は海に面していて水軍にふさわしい城!
江戸時代には 城と呼ばせないように
廃城へ持っていく意向とも。
江戸以降は、洲本城の麓を政治の中心として栄えるよう考えを巡らしていたようです。
現在の洲本城🏯本丸には可愛らしいレプリカ笑
石垣が好き!
歴史背景も気になる!方は是非、
洲本城→史料館へ!
近代以降の淡路歴史は別の記事にてー^ ^
予告 淡路島に鉄道が?!あの有名企業カネボウ?!